page2「夢」
伊勢陽子は教室の中にいた。
今は昼の休憩時間。クラスメイト達は机を突き合わせて弁当を食べたり、席に座って最近のプロ野球について盛り上がったりしている。
陽子も、その例に漏れなかった。
「でね、今度駅前に新しいカフェができる予定なの。しかもコーヒー豆も買うことができるんだって!」
陽子の前に椅子を置き、一人の少女が嬉々とした表情で話していた。長いストレートヘアがかすかに揺れ、シャンプーの香りが漂ってくる。大きな目に丸っこい鼻先が可愛らしいと、陽子はいつも思っていた。
「今度さ、一緒に行こうね」
少女が身を乗り出して提案してきた。陽子もまた胸が躍り、頷こうとする。
しかし次の瞬間には、状況が大きく一変した。
先ほどまで賑わっていた教室が、一瞬にしてシンと静まり返った。周りを見渡すと、陽子と少女以外は誰もいなくなっている。
一体、これはどういうことなのか――恐怖と焦りで混乱しながら、陽子は答えを求めて目の前の少女を見た。
少女の顔に、先ほどまでの笑みは消えていた。能面のような無表情で、こちらを見つめてくる。その瞳からは、涙がこぼれ落ちた。
「本当に、行きたかった」
そう言うなり、少女は一瞬にして姿を消した。まるで最初からそこにいなかったかのように。
かと思うと、周囲がオレンジ色に照らし出された。その光はゆらゆらと揺れ、机も、黒板も、何もかもを焦がしていく。
炎に囲まれたのだと気が付いた時、陽子は叫ぼうとした。
その時、陽子の視界が再び切り替わった。辺りは真っ暗だが、側に机や本棚代わりのカラーボックスが置かれているのは把握できる。そして自分は今、布団にくるまれていた。
そこでようやく、陽子は自分が今まで見ていたものが夢だったのだと認識できた。寝汗をかいているのは、夏の蒸し暑さによるものだけではないだろう。
ひどい夢だった、と切り捨てるのは簡単だ。しかし陽子にはそれができない。
夢の場面は、間違いなく中学二年生の頃の教室だ。目の前にいたのは、決して忘れてはいけない親友。
――どうして今になって。
陽子は布団を強く握りしめた。もう五年も前の記憶によるものだ。ここ最近は、見ることがなかった。どうにも不吉な予感がしてならない。
気分を切り替えるためにも、陽子は側で充電ケーブルに繋がっているスマートフォンを手にした。現在は午前五時二十二分。かなり早い目覚めではあるが、カーテンの隙間からは青白い光がさしている。何よりこれ以上ベッドにいても、眠れる気がしなかった。
陽子は起き上がると、両親を起こさないよう注意を払いながら一階へと降りた。浴室へと向かい、気分転換のためにシャワーを浴びる。
浴室から出て髪をドライヤーで乾かしながら鏡を見た。左の眉尻には、相も変わらず斜めに走った傷がある。昔、自転車で転んでできたものだ。この傷とも小学生の頃からの付き合いなので、気になることもない。しかしこの傷を見ると、あることを思い出してしまう。
四か月前、今年の三月で巻き込まれた事件のことだ。そこで陽子は、アルバイトをしている喫茶店「私生活」の店長の息子であり、探偵活動を生業としている、愛流と行動を共にした。
最初の出会いは、ロマンチックとも残念とも言えるものだった。陽子をナンパから助けたと思ったら、今度はその愛流がナンパしてきたのだ。あれほど呆れたことは、今も昔も思いつかない。
その事件の中で、陽子はある人物に襲われそうになった。しかし愛流が身を挺して守ってくれたため、無傷で済んだ。その時に見てしまったのだ。
愛流の腕にある、数えきれないほどの傷痕を。
愛流は店長である天馬茂の実の息子ではない。とある事情で養子となったのだが、その身体には無数とも言える傷跡が残っていた。
なぜそれほどの傷が愛流に刻まれているのか。陽子はもちろん、茂にもわからない。愛流も天馬家に来る前の記憶がないということなので、結局のところ真相は不明のままだ。
だが、その傷跡を見、愛流の過去を知ったことで、陽子は決意したのだ。自分もまた愛流に寄り添い、支えていきたいと。
しかし現実は何事も都合よくは動いてくれないものだ。
あの事件以来、愛流には一度も会っていない。
愛流は現在、バイクで気の向くままに旅をしている。物価高が続くこのご時世で、どうやったらそれだけの資金を稼ぐことができるのだろうかと陽子は常に疑問に感じているのだが、ともかく愛流はこの四か月間、一度も戻っては来ていないのだ。
茂から、愛流の連絡先も教えてもらった。勇気を出してかけてみたことは何度かある。しかし彼が出たことはなかった。留守番電話にもメッセージは残したのだが、折り返しの電話すらない。
考えたくはないが、どうしても避けられているように思えてならなかった。
愛流と話したい。その思いは日を追うごとに強くなっていった。しかし――
「あんたって、そんなにナルシストだったっけ?」
急に声をかけられ、陽子は肩を飛び上がらせた。口からは「ヒャアッ」という奇声まで漏れてしまう。
バクバクと暴れる心臓のまま、陽子は恐る恐る振り返った。母の歩美が、ドアに手を突きながら呆れたと言わんばかりの表情で立っていた。
「い、いつからいたの?」
「五分ぐらい前かな。真っ裸で鏡に映る自分を見ているんだから、お母さん、ちょっと憂鬱になっちゃった。私はそこまで自惚れるおバカに育てた覚えはないって。いや、でもその方が人生を楽しめるのかな」
「自惚れてない! というか、声ぐらいかけてよ」
陽子は勢いに任せてドアを閉め、母親の姿を遮断する。洗面所に置いたデジタル時計に目をやると、もう六時半を過ぎていた。
一体自分は、どれくらいの時間ボーッとしていたのだろう。しかも下着すら着ていない状態で。そう思うと急に羞恥心が腹の底から湧いてきて、顔面に熱が集中する。
――これも全部、愛流さんのせいだ!
理不尽とは思いつつも全く自分に会いに来てくれない男に責任をなすりつけ、ようやく陽子は下着と服を身にまとった。軽く化粧をし、洗面所を出る。
リビングに入ると、歩美が昨日の残りの白米を盛り付けてくれていた。陽子は礼を言いつつ、お椀にインスタント味噌汁の具材と味噌を入れていく。
「そう言えば、父さんはまだ寝ているの?」
「今日は珍しく有給なんだって。寝かせてあげましょう」
父は生活協同組合の配送員を勤めていた。いつもならもう起きていてもおかしくない時間なのでどうしたのだろうと疑問に思ったが、休みなら納得だ。
朝食を済ませ、今日の講義の準備を整える。午前七時半。起床してから、既に二時間半が経過していた。紺色のブラウスと白のスラックスを穿き、リュックサックを背負う。
「じゃあ、行ってきます」
「早いわね。講義の時間って九時半からじゃなかった?」
玄関でスニーカーを履く陽子に、歩美は疑問を投げかけてきた。
確かに今から出ても朝の講義まで一時間近くの余裕ができる。しかし――
「ちょっと寄るところがあるの」
玄関のドアを閉めると、陽子はガレージに置いてある、赤いフレームのクロスバイクを車道へと出す。
この自転車は、アルバイト代を貯めて購入した。大学には隣町の夢野市駅前から通学用バスが出ているので、そちらで行くことも可能だ。しかし陽子はこの自転車に乗ることに決めていた。
愛流の助手として今後活動していくのなら、小回りが利く移動手段はあった方が良い。それに電車とバスを乗り継いで大学に行くより、自転車に乗る方が早かった。
陽子はスポーツタイプのヘルメットを被ると、ぺダルをこぎ出した。通常の自転車より軽い分、スピードも出やすい。
クロスバイクを購入してから三か月。愛流が帰ってこないので、これを探偵活動に役立てたことはまだない。通学や買い物、そうした日常で使用する程度だ。
――もしかして私は、ただ一人で浮かれているだけなのだろうか。
毎日のように陽子はそう思う。
以前の事件でも、陽子は大して役に立つことはできなかった。全部愛流が行動して解決したことだ。何の実績も残せていない自分が、果たして愛流の助手として今後やっていけるのだろうか。そもそも愛流は、本当に陽子を助手として受け入れてくれているのか。最後に会った時はそのように思える発言を陽子にくれたが、あれを言葉の通りに信じていいのか、それとも言葉の裏にある真意を陽子が察しなくてはいけなかったのか。
考えても考えてもキリがないのはわかっている。しかし元々の性分である問題上、陽子はどうしてもその不安を拭い去ることができずにいる。
陽子は自分が決して頭の良い方ではないと考えていた。人の気持ちを理解しようとしても、それを百パーセントわかることはできない。当然そんなことは誰にだって不可能なのだが、もし九割理解できたとして、残りの一割がわからなかったことで、相手に何か不利益があったらどうしようと、考えずにはいられないのだ。
――本当に、私って不器用。
陽子はため息を吐きつつ、自転車のギアを上げる。ペダルの重さが却ってストレスを和らげた。そういう意味では、自転車を購入したのは十分正解と言えるだろう。
大して信号に引っ掛かることはなく、陽子は地元の七女市から夢見市に入り、無事に目的地に到着することができた。普段なら三十分はかかる距離だが、五分も短縮できたのはかなり大きい。陽子は自転車のサドルから木造の建物を見上げる。
陽子がアルバイトをしている、喫茶「私生活」だ。その前には夢見市警察署があり、警察官がよく休憩にやってくる。店長の茂が元刑事というのも大きな理由だ。
陽子はヘルメットを腕にかけ、ドアを開けた。鈴の音と共にエアコンの冷風が陽子の肌に流れてくる。汗を掻いた身体には心地よかった。
「おや、陽子ちゃん。今日も来たのかい」
調理場に立つ茂が顔を上げた。六十代とは思えぬ屈強な身体つきがワイシャツの上からでもハッキリとわかる。最初はその身体のごつさに恐怖を覚えたが、今となっては見慣れたものだ。
「ええ。ご迷惑をおかけしているかもしれませんが」
陽子は舌を出しつつ誤魔化したような笑みを浮かべる。
冗談っぽく言ったが、今の言葉は本心でもあった。
陽子は先月から通学の途中、例えシフトが入っていない日でも、喫茶「私生活」に立ち寄ることが日課となっていた。理由は単純、愛流だ。
もしかしたら愛流が既に帰ってきているかもしれない。そのための確認に、喫茶「私生活」に立ち寄っていた。陽子が通う私立北東学園大学へのルートの途中にあるというのも、顔を出しやすくさせた。
しかし茂はゆっくりと首を横に振る。
「残念だけど、まだだよ」
「そう、ですか。一応ですけど、連絡も」
「あぁ」
当然茂が悪いわけではないのだが、陽子はため息を吐かずにはいられなかった。
愛流のことだから大丈夫だとは思うのだが、連絡がないと何かあったのだろうかと思わずにはいられない。せめて家族には、メッセージの一つでも送ってほしい。
茂は陽子が頻繁に店に顔を出すことを、決して嫌がったり迷惑だという雰囲気を醸し出したりはしなかった。彼のことは信頼しているのだが、それでも自分の勝手で本当は鬱陶しく思うこともあるのではないだろうかと、不安になる。
しかし愛流の帰還確認を、辞めることはできそうにない。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「そう思っていたら、とっくに注意しているさ。以前にも言ったけど、あのバカ息子が帰ってきたら真っ先に君に会うように伝えるよ」
茂の言葉は温かく、陽子は頬を緩ませた。しかし――
「いえ、店長の言葉は嬉しいんですけど、不愉快でなければこうして直接確認していたいんです」
「そうかい」
「あの人のことですから、照れるだのなんだのと理由を作って、帰ってきても自分のことは黙っておくよう、店長に言うかもしれません。だから、許してもらえる範囲でこういう風に突撃させてもらっているんです。まぁ愛流さんのことだから、今帰ってきてもどこかに隠れそうですけど」
陽子はため息を吐いて周囲を見回した。少しだけだが、店内も愛流と出会った時と比べて変わった。店員の休憩スペースと利用客のスペースを分け隔てていた観葉植物はなくなり、代わりにコーヒー豆を入れた樽が三つ並べられている。だからなのか、店内にはコーヒー独特の匂いが充満していた。
ふと、店の壁に掛けられた時計が目に映った。そこで陽子は自分が今通学中であったことを思い出す。
「じゃあ私、これから大学行ってきます!」
「気を付けてね」
茂の言葉を身に受けながら、陽子は店を出て再び自転車をこぎ出した。
陽子は最後まで、店の駐車スペースにある、黒いカバーをかけられた何かに気が付くことはなかった。
(続)




