page1「男」
一人の男が、山の中を歩いていた。その足取りはおぼつかず、まるで夢遊病者のようだ。
左手にロープを、右手に脚立を抱えている。途中で右に重心が傾き、転んでしまいそうになるが、何とか持ちこたえた。
男は、とある大木の前で立ち止まった。何に納得してなのか一度首を縦に振ると、持ってきた脚立を広げてそこに乗り、枝にロープを引っ掛ける。
「もうすぐ、会えるな」
男が呟いた。しかしそこに悲観はない。むしろ死ぬことを楽しみにしているかのような嬉しさすら滲ませている。その証拠に、男の口元には笑みが浮かんでいた。
「やっとだ、やっとだ、やっとだ――」
何度も何度も、男はそう口にした。顔には満面の笑みを貼り付けたまま。
「本当に、それで良いのですか?」
突然飛んできた声に男は驚き、反射的に振り返った。その時に身体のバランスを崩してしまい、脚立が倒れ、男の身体も地面へと転がり落ちる。
男の身体に鈍い痛みが走った。石でも落ちていたのか、手の甲には先ほどまでにはなかった切り傷があり、そこから血が滲み出ている。
「あぁ、すみません。驚かせるつもりはなかったんです」
声の主に、特に焦った様子はない。感情がこもっていないと言い換えても良かった。
男はこの声を知っていた。振り返り、その姿を確認する。
鹿人間が、そこに立っていた。
日本の角を生やし、茶色い毛並みをそろえ、黒い瞳はどこを見ているのか、定かではない。しかし首から下は人間で、気温も高くなりつつあるというのに黒のスーツを着込み、手にはビジネスバッグを持っている。
サラリーマンの鹿人間。端から見れば、滑稽とも恐怖とも取れる姿だ。しかし男には何の感情も湧いてこない。
男は、この鹿人間を知っていた。自分が苦しんでいた時、救いを求めた。しかし結局のところ、それは幻想に過ぎなかった。
もう五年も前の話だ。一体なぜ、今になって再び現れたのか。
「あなたの気持ちがわかる、などと軽々しくは言えません。ですが、あなたがこのまま何も成し遂げずに死んで、それで何になると言うのです?」
鹿人間はハスキーな声音で語りかけてくる。男は反射的に目をつぶった。
やめろ、やめろ。小さな声で何度もそう呟く。
かつてはこの鹿人間を魅力的に感じた。しかしそれが同時に怖くもあった。
全身の細胞が警告した。言葉を聞くな。心を許すな。こいつはやばい、と。
「あなたが私のことを信じられないのは知っています。実際、胡散臭いとも私自身思いますし、声を大きくしては言えないことも裏でしてきました」
鹿人間は悪びれない。ただ淡々と語る。機械的とも言えるはずなのに、なぜだろう。気を緩めれば耳を傾けてしまう甘美が確かにある。
「ですが、今のあなたにはそのことすらどうでも良いことなのでは?」
この時、男の中で、何かが折れた。
「自分の命すらどうでも良いと思えるまで自分を追い込んだのなら、一度私に預けてはくれませんか。大丈夫、悪いようにはしません。ただあなたの道連れを作る手助けをするだけです」
声はあくまでも優しく、穏やかな調子で語りかけてくる。
鹿人間はわかっているのだ。自分には、人を惹きつける魅力があることを。だからそれを武器にすることをいとわないし、自らの奇妙な姿すらも利用する。
惑わされてはいけない――男は自分に強く言い聞かせたつもりだった。しかし自分の足元を見て愕然とする。
さっきまで脚立に足を載せていたはずなのに、いつの間にか降りていた。そして徐々に鹿人間へと近づいていく。
――あぁ、ダメだ。自分は何をしているんだ。
男は足を止めたいと願った。しかし頭で思い浮かべた指令を、身体は一切受け付けない。完全に鹿人間の操り人形と化してしまっている。
ついに、鹿人間の真正面に立った。そして跪き、その手を強く握る。
「どうか、どうかお願いします」
この時、男は抗う力の一切を放棄した。
(続)




