page28「加藤夫妻」
「昨晩、大平理香さんの死体が発見されたわ」
店に入るなりそう発した里奈を、陽子はただあ然とした表情で見つめるしかなかった。思考が追い付かず、手に持っていたトレーを落としてしまう。割れたカップからコーヒーがこぼれ落ち、陽子の白いスニーカーを茶色く染めた。
今朝のことだ。里奈が話があるということで、さきほど喫茶「私生活」に呼び出された。開店したばかりの時間帯ではあったのだが茂が気を利かせ、今この店内にいるのは陽子と茂、愛流と九十九、そして里奈の五人だった。
九十九と里奈は、さきほど来たばかりだった。その表情は非常に暗く、決して良い報告でないことは察することができた。特に九十九など、入店してからずっと舌打ちばかりしている。
茂が用意したカフェオレとコーヒーを陽子が運んでいる時に、さきほどの里奈の発言があったというわけだ。
二人の表情から、そうではないかと覚悟をしているつもりだった。しかしそれを実際に訊くと、ショックは相当でかかった。
視界が歪み、足元がふらついた。その時、陽子の腕を誰かがつかむ。
「大丈夫かい?」
すぐ側には愛流が立っていた。陽子を支えながら、心配そうに眉間に皺を寄せてこちらを覗き込んでくる。そのおかげで、陽子の視界は何とか正常に戻ることができた。
「ごめんなさい。あの、カップは今すぐ片付けますから」
「いいや、僕がやるから大丈夫だ。陽子ちゃんは、少し休むといい」
そう言って茂はキッチンから出てきて、ほうきとちりとりを手に取る。陽子は自分がしでかしたことだからと引こうとしなかったが、茂が「いいから」と念を押したことで諦める。そのまま愛流に身をゆだねるような形で、近くの席に座った。
「それで、その死体は確かに大平理香ちゃんなのかい?」
愛流が鋭い目つきで里奈に訊ねた。苛立たし気に髪を掻きまわしている。答えたのは、同じく怒りを隠せていない九十九だった。
「大平の両親や彼氏にも確認を取った。まず間違いない」
「見つかったのは具体的にどこ?」
「泉市にある大井公園っていう公園よ。七女市からだと六駅も離れている。見つけたのは都内の証券会社に勤務している、岡島直樹さん、三十七歳。帰宅途中に休もうと公園に立ち寄ったら、茂みに隠された大平理香さんを発見したって言うわけ。大平理香さんの死因だけど、やっぱり七海さん達と同じく、肺を刺されたことによる窒息死。死亡推定時刻は、昨夜の十八時から二十二時の間と言うことよ」
「警察のことだ。まさかそれだけの情報で満足して、ボーッとしていた訳じゃないだろ」
「当然だ。現状、わかっている範囲で沢良木七海達の中学二年の頃のクラスメイトを辺り、アリバイを調べた。もちろん、担任だった黒子学も含めてな。そこの伊勢陽子に関しては、連絡先も知っているし、お前と一緒に行動をしているだろ。いつでも話を聞けるということで、後回しにした。」
九十九が腕を組みながら答えた。愛流は顎に手を当て「続けて」と促す。九十九はまた舌打ちするが手帳を開く。
「佐々木葵に関しては、微妙なところだな。十八時から二十二時の間は実家にいたということだ」
「それって、アリバイにはならないんですか?」
陽子は率直に疑問を訊いた。アリバイはその人がその時間帯にどこにいたのかを証明することだと認識している。実家にいたのなら、両親も一緒にいたはずだ。
陽子はそのことを口にした。すると里奈が静かに首を振り「それだけじゃダメなの」と答える。
「アリバイに関する証言は、第三者によって証明されなくちゃいけないの。身内の場合、その人に逮捕されたくないからってことで、庇って嘘を吐く可能性があるから」
「そう、なんですか」
「だから佐々木に関しては、アリバイはないに等しいと言っても良いと言う訳だ――いいか、続けるぞ」
九十九が咳払いをし、再び手帳に目を落とした。
「矢尾涼平は七時から七時半の間、近所をジョギングしていたと言うことだ。これに関しては聞き出したジョギングコースから該当する防犯カメラを検出し、映像で確認済だ。ただし矢尾の家から発見現場までは車で四十五分から一時間程度。死亡推定時刻内に移動できない距離じゃない。それと、担任の黒子学は死亡推定時刻の間、倉庫の軽作業バイトに行っていた。これに関しても倉庫内の防犯カメラでアリバイを確認している。バイト先から現場まで車で四十分はかかるから犯行は不可能だ。それから――」
九十九はわかっている範囲で調べ上げた、陽子が中学二年の頃のクラスメイトを挙げていった。およそ十人の名前と死亡推定時刻の行動を聞いたが、誰もが家にいたかバイトに行っていたか、あるいは友達や恋人とご飯を食べていたかの三パターンだった。
「それで、伊勢陽子。お前は昨晩の十八時から二十二時の間、どこで何をしていた?」
確認できたアリバイを全て述べた後、九十九が蛇のように睨みを利かせて訊ねてきた。その目に反射的に陽子は身を強張らせてしまう。
九十九の目には、どこか暗いものが感じられた。汚物を見るように顔を歪め、遠慮と言うものが感じられない。愛流の時とは大違いで、言い知れぬ圧力を感じてしまう。
それでも負けじと、陽子は九十九の目を真っ直ぐに見返した。さきほどまでの立ち眩みはまだ残っていたが、今はここでまごついてなどいられない。
愛流も里奈も何も言ってこないということは、これは致し方のない状況なのだということが理解できた。自分が答えなければ、捜査は前に進まない。
ならば望み通り答えてやるまでだ。
「その時間帯はずっと家にいました。母と一緒に過ごしていましたが、それだけです。アリバイを証明することはできません」
九十九は値踏みするように、陽子を睨み続けていた。それに負けまいと、陽子は視線を逸らさずに真っ直ぐ見つめる。
先に視線を逸らしたのは、九十九だった。大きくため息を吐き「わかった」と言う。その言葉を聞いた瞬間、自然と肩の力が抜けた。里奈もなぜだか、安堵のため息を漏らしている。
「ちょっと、強くなったね」
後ろから愛流の声が飛んできて、軽く肩を叩かれた。その言葉が非常に嬉しくて、陽子は口元を緩めたが、すぐに大平の死を思い出して、また気分が沈んでしまう。
「つうかさ、なんで大平理香ちゃんはそんなところにいたんだ? 逃げるにしても近所に隠れるかいっそのこと東京から離れるかしそうだけど」
愛流がテーブルに手を突いて訊ねた。
それは陽子も気になっていた。七女市から離れてはいるが、遠すぎるという距離ではない。いささか中途半端な場所に思えた。
その疑問に答えたのは、里奈だった。
「その公園の前には、ワンルームマンションが建っているの。そして大平理香さんの彼氏が、そのマンションに住んでいる」
「つまり警察から逃げた後、彼氏に助けを求めて泉市のその公園まで来たって言う訳か」
「おそらくね。ただ、その彼氏に事情聴取を行ったところ、昨日は大平さんは部屋に来ることはなかったって言うの。実際、マンション内のカメラ映像にも、大平さんはどこにも映っていなかった」
「つまり、彼氏の部屋に行く直前、その大井公園で殺されたって言う訳だ」
里奈の言葉を、九十九が引き継いだ。その後に「それと」と言葉を続ける。
「現在考えられる容疑者の中で、アリバイが一切ハッキリしていない人物がいる」
「舞優ちゃんの両親か」
愛流が顎を擦って呟くように言った。陽子はまた腹が重くなるのを感じた。
七海達が殺されたタイミングで、加藤夫妻が行方不明であることも発覚した。これを偶然と片付けるには都合が良すぎるであろうことぐらい、陽子にも理解できる。そして九十九の言い方によって、それは確信へと変わった。
警察は加藤夫妻を容疑者の第一候補として疑っているのだ。
しかし陽子にとって、それを認めることはあまりにもつらいことだった。
加藤夫妻のことなら、少しはわかっているつもりだ。舞優の家に遊びに行く度に話をした。
あの穏やかだった舞優の両親が殺人に手を染めたなどと、やはり陽子としては受け入れられないことだった。
「それ以降、舞優ちゃんの両親の所在は?」
「依然として不明のままよ。家も捜索したけれど、手がかりになりそうな物は何も見当たらなかったわ。それに、二人が隠れそうな場所がわからないのよ」
里奈は髪をかき上げて大きくため息を吐いた。苛立たし気に指をテーブルに何度も打ち付ける。
「加藤夫妻の両親は、双方既に他界している。親戚についても近しい者はいない。加藤夫妻が何らかの理由で行方をくらませたにしても、頼れる人間がいたとは思えないの」
「それに、失踪のタイミングも謎だ。一体いつから家を出たのか」
九十九が声に怒りを滲ませながら言った時、店内に電話のコール音が鳴り響いた。最初は店の固定電話かと思ったが、デジタル画面は特に発行していない。やがて里奈がズボンのポケットからスマートフォンを取りだし「ちょっとごめん」と席を立つ。そして電話相手と何やら話をしながら店を出た。
「連続殺人に行方不明者、そして宗教団体――わからないことだらけだな、こりゃ」
愛流がお手上げと言わんばかりに両手を挙げた。すると茂が「本当にそうか?」と目を細める。
「愛流。君のことだから、大まかなところはつかめているんじゃないか?」
「そうなんですか?」
陽子は声を上げて愛流を見た。しかし愛流は前髪をいじりながら椅子にもたれかかっている。
「親父さ、何を根拠にそう言っている訳?」
「君は自分で思っている以上に、感情を隠すのが下手だ。もし愛流が本当に何もわからないのなら、もっと苛立ちを露わにしている。それなのに君にはまだ冷静さが残っている」
「親父の目が耄碌しているだけだろ。俺はこれでも、結構動揺している。ただこの事態にどう対処すれば良いのか、今は考えを巡らせているってだけだよ。もちろん感情に流されず、クールにね」
そう言った愛流の言葉は落ち着いているように見えて、僅かに声が震えているように陽子には聞こえた。それは単なる気のせいなのか、それとも図星だからなのかは、わからない。
陽子がさらに考えを巡らせようとした時だった。ドアを荒々しく開けて里奈が入ってきた。顔は真っ青で、何度も瞬きをして壁にもたれ掛かる。
何かが起こったのは明らかだった。陽子は心配になり「大丈夫ですか?」と立ち上がって里奈に近寄る。里奈を近くの席に座らせると、彼女は「大丈夫よ」と返してきた。
「一体、何の電話だったんだ?」
九十九が目を細めて訊ねた。里奈は呼吸を整えてからスマートフォンを掲げた。
「安田課長からです。警視庁のサイバー課が、SNS上で加藤夫妻と名乗るアカウントを発見したと」
「マジか!」
そう言って叫んだのは愛流だった。目を大きく見開いて椅子から立ち上がる。
「そのアカウント名は?」
「さっき検索したわ。問題は、その投稿内容よ」
そう言って里奈はスマートフォンをテーブルに置き、画面を上に向けた。陽子と愛流、それに九十九と、茂までもがキッチンから出てきて里奈のスマートフォンを上から覗き見た。
アメリカに本社を置く有名なSNSのサイトが表示されており、そこには「@KATOU」と言うアカウント名のプロフィールが表示されていた。自己紹介文もプロフィール写真もない、至ってシンプルなものだ。
それを下にスクロールしていくと、たった一つだけ投稿されたコメントがあった。そこには次のように書かれていた。
〈我々夫婦は、沢良木七海、吉田咲、大平理香の三人を粛清した。あの三人は、許されることのない大きな罪を背負っていたのだ。
奴らは私の娘、舞優を殺した。舞優を虐めて精神的に弱らせ、自殺へと追いやったのだ。その虐めの内容は、ここに書くのも耐え難いおぞましいものだった。
そして罪を背負っているのは、我々も同じだ。我々は今から、娘の元へと向かう。しかしこの恨みは決して消えることはない。この世に残り続けるだろう。
貴様らの罪を自覚しろ〉
このコメントを見て、誰も言葉を発することはできなかった。ただ沈痛な面持ちで、里奈のスマートフォンを見つめ続けている。
「――これが投稿されたのは、一時間前か」
長い沈黙の後、愛流が呟くように言った。そして顔を上げ、周囲を見回す。
「この投稿が事実だとして、今急がなくちゃいけない点は、舞優ちゃんの両親がどこで自殺しようとしているかってことだ。こんな風にSNSに自殺宣言をしている以上、舞優ちゃんに大きく関わる場所の可能性が高い。一応聞いておくけどさ、姉貴。舞優ちゃんの家に警官は?」
「見張りとして制服警官を二人配備しているって、七女警察署から聞いているわ。今のところ、何か異常があったという報告は聞いていない」
「そうなると、舞優ちゃんの家は選択肢から外しても良いだろう。じゃあ第三中学校? いや、そこも教員の目をかいくぐってとなると、少なからずリスクがある。となると、残るは――」
そこまで言って愛流は言葉を止めた。目を吊り上げ、周囲を見回す。
「舞優ちゃんが自殺した場所。確か七女市内の河原沿いってことだったよね?」
愛流が陽子を見て訊ねてきた。陽子は小さく頷く。
「はい。ブルーシートで作ったテントの中に灯油を撒いて焼身自殺を――」
そこまで言って、陽子の身体から血の気が引いた。嫌な考えが頭を過り、それが陽子の身体を震わせる。
「まさか、舞優の両親は――」
「そこでこれから自殺しようって言うの?」
陽子の言葉を、里奈が引き継いだ。愛流は沈痛な面持ちで首を縦に振る。
「ただし、このコメントを投稿してから、一時間以上も経っている。正直、もう手遅れかも――」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ! とにかく、そこに向かわなきゃ」
里奈が血相を変えて舞優が自殺した場所を訊ねてきた。陽子はその河原の名前と、どのあたりで舞優の死体が見つかったのかを伝える。里奈と九十九は黙って店を後にした。
「あの、愛流さん」
陽子は愛流に目を向けた。しかし愛流は言わなくてもわかると言わんばかりに立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。
「俺達も行こう。ここでじっと報告を待っているよりはマシだろう」
その言葉が今この状況では何よりも頼もしく聞こえ、陽子は大きく頷いた。そしてバイクに乗り、公道を猛スピードで走る。
愛流にしてはやや荒い運転だったが、不思議と陽子は怖さを感じなかった。むしろこの先の未来の方が、不安で仕方がない。
そう感じていたのも束の間、目的地である河原が見えてきた。それと同時に、陽子の中で絶望が生まれる。
河原からは、煙が上がっていた。舞優が自殺した辺りの場所で。そして陽子達の近くを、小型の消防車が通り抜ける。
――お願い。間に合って!
陽子は心の中でそう願った。もうこれ以上、知っている人間が死ぬことには、耐えられなかった。
バイクのスピードが徐々に落ち、やがて止まった。それを認識すると、陽子は愛流の制止も聞かずにタンデムシートから飛び降りた。
邪魔なヘルメットを脱ぎ、河原に続く坂を下りる。背後から愛流が呼び止める声が聞こえたような気がしたが、今は振り向く余裕すら陽子には失われている。
河原の草むらに足を踏み入れた時、そこにあったのは絶望という言葉しか出てこない光景だった。
線路が通っている鉄橋の下。川のすぐ側の石場から、煙が上がっていた。橋脚の側には火が上がっており、周囲に先ほど見かけた消防車とパトカーが数台停まっていた。既に何人もの野次馬が集まっている。ランニング中の老人や子犬を抱きかかえている中年の女性など、様々だ。それらの人々を押しのけ、陽子は前へと出る。
目の前では大きな火柱が立っていた。消防士が消火活動を始め、火に水がかけられる。
炎の中で二人の人間が倒れているのが認識できた。嗅いだことのない肉が焼ける臭いが周囲に充満している。
炎の中の人影は一切動く気配がなかった。もはや助からないであろうことは、陽子にもわかった。
陽子はその場に崩れ落ち、感情に身を任せて叫んだ。周囲の野次馬が奇異の目で自分を見る気配を感じ取ったが、そのようなことは今はどうだっていい。
結局自分は、知っている人間を、誰一人として助けることはできなかった。
愛流が側で膝をつき、陽子の身体を抱きしめた。しかしこの絶望は、愛流の不器用な優しさをもってしても、失くすことはできそうにない。
それでも陽子は、愛流に縋った。縋って泣き叫ぶことしか、自分にはできなかった。
(続)




