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愛流録2――過去からの種――  作者: 夢見歩人


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page20「舞優」

 愛流と陽子を乗せたバイクは、七女市内の住宅街で停車した。

 バイクの側には木造建築の古びた家が建っており、周囲が新築のワンルームマンションや一軒家が並んでいる中、そこだけ異彩を放っていた。ここが陽子の中学二年の頃の担任教師、黒子学が住んでいる家だ。

 今朝、里奈との電話を切った直後に、今度は愛流が連絡を取ってきたのだ。そして黒子の住所が判明したことを告げてきた。

 警察が、陽子が当時通っていた中学に連絡したところ、赴任してきた頃の住所を教えてくれたそうだ。その情報が、今度は愛流のところに流れてきた。

 それを聞いた陽子は急いで身支度を済ませると七女市の駅前で愛流と合流して、現在に至る。今日の講義は午後からなので、黒子の家を訪れるぐらいの余裕はあった。

 家の前に立った瞬間、陽子の身体は一気に固まった。心臓の鼓動が早くなり、軽い眩暈を覚える。

 一昨日の矢尾の話が耳に蘇った。

 ――正直、先生だとは全く気付かなかった。声をかけられた後も。やつれていて、髪も真っ白になってさ。

 その話を聞くと、黒子に再会するのは怖かった。変わり果てた先生を見て、果たして自分は彼を受け入れられるのだろうか、と。

「陽子ちゃん?」

 背後から愛流の声が飛んできた。そのおかげで、陽子は我に返ることができた。

 今はビビっている時ではない。優先すべきは、沢良木達を殺した犯人の手がかりを探ることなのだ。

 目をつぶって深呼吸した後、陽子は意を決っしてインターホンを押した。数秒の間を置いて〈はい〉というくぐもった声がスピーカーから流れてくる。

〈警察の方ですか?〉

「え?」

 声に驚くも、改めてインターホンを見て納得する。

 よく見るとインターホンにはカメラがついていない。音声だけでやり取りするタイプなのだろう。

「あの、先生、私です。伊勢陽子です。五年前、第三中学の二年三組でお世話になった」

 スピーカーからは、もう声は流れてこなかった。代わりに開き戸がスライドし、一人の男が出てくる。

 その姿を見て、陽子は絶句した。

 頬はこけていて皺が深く刻まれており、目は垂れている。顔のあちこちにはシミができており、髪は真っ白に染まっていた。シャツの袖から見える二の腕は本当に肉がついているのだろうかと疑いたくなるほど細く、肘の骨が突き出ていた。

 しかしその顔は、確かに五年前の、陽子が知る黒子のものだった。

 矢尾の話からある程度は覚悟していたつもりだったが、実際に会うと想像以上にひどい状態だった。

 黒子は現在、四十代前半のはずだ。しかし今の姿は、実年齢より十歳以上は老けて見える。六十代と言われても信じてしまいかねない。

 人は大きなショックを受けると、ここまで変わるものなのかと、改めて思い知らされた。

「やぁ、伊勢。久しぶりだな。二年の頃はごめん。僕は、結局最後まで君達のことを見ることができなかった」

 黒子の口角が上がる。しかし痩せこけた顔のせいか、無理に笑っているようにしか見えない。

「いえ、そんなことは」

 陽子も何とか笑って見せたが、上手く笑顔を作れなかったことが自分でもわかる。こんなかつての担任の姿を見て、矢尾がどのような感情を抱いたのか、何となくだがわかったような気がした。

「でも警察が来たわけじゃなかったんだな」

 黒子が腕を組み、陽子と愛流にそれぞれ視線を配る。

「いやな、さっき第三中学から電話がかかってきてさ。何でも警察が僕の住所を聞いたり、伊勢が中二だった頃の名簿を要求してきたりしたって言うじゃないか。だからてっきり警察が来るもんだと思っていたけど、まさか伊勢だったなんてな」

 昔を懐かしむように黒子は何度も頷いた。「それで」と言ってから愛流を指さす。

「こちらの方は? 二年三組のメンバーでも、他のクラスの生徒だったって訳でもなさそうだけど」

「陽子ちゃんの彼氏の天馬愛流です」

 突然の言葉に、陽子は目を大きく見開いて横を見た。愛流は済まし顔で黒子を見つめている。

「昨日のニュースは見ましたか? 夢見市と七女市で、それぞれ殺人事件が起きたっていう」

「あぁ、沢良木と吉田のあの事件か」

「陽子ちゃんのクラスメイトが、立て続けに殺された。それで陽子ちゃんはその時のクラスのメンバーやあなたのことが心配になった。だから黒子先生に直接会いに来たんです」

 いつもの砕けた口調と違い、愛流のこのような畏まった言葉遣いは初めてだった。しかし、何となくだが愛流の意図は読めた。

 自分が探偵で、警察と協力して調査を行っている、などと話してもすんなり信じられる人間はそうそういない。それよりは、心配した陽子に付いて来たというシナリオの方が自然に見えるだろう。

 ――でもわざわざ彼氏設定にする必要ある?

 おかげで別の緊張が生まれてしまった。陽子は冷や汗をかきそうな気分になりながら、黒子に目をやった。

「そういうことだったのか。確かに僕としても非常に痛ましい事件だ」

 どうやら愛流の話を信じてくれたらしい。黒子が沈痛といった表情で目を伏せた。

「まぁ、立ち話もなんだ。二人とも上がりなさい」

 そう言って黒子は手招きし、玄関の中に入って行った。少し躊躇いを見せながらも、陽子と愛流は中に入って行く。

 家の中は、思っていたよりも広かった。廊下を通り過ぎてキッチンへと案内される。壁と床はきれいに掃除されており、黒子の真面目さが変わっていないように思えて陽子には嬉しかった。隣は居間のようだが、戸で閉ざされている。

「今、お茶を入れるね」

「あぁ、お構いなく。俺らこの後、用事があるから長居できなくて」

「そうか。それはちょっと残念だ」

 そう言って俯く黒子の姿は、本当に寂しそうに見えた。

「先生、この前矢尾君に会ったんですよね?」

「え? あぁ、そうだね。近くの河原で偶然ね」

「その話を聞いて、先生が今も七女市に住んでいるって知って、それで私、先生の様子も気になって」

「ありがとう。そうか、そうだよな。心配をかけてすまなかった」

 黒子が申し訳なさそうに頭を下げる。「でも」と言葉を続けて、頭を上げた。

「それでも、よくこの家の場所がわかったね」

「連絡を取れる、五年前のクラスのメンバーに虱潰しに訊いていたんですよ、この子。それで大まかな場所はわかったので、後は先生の苗字が書かれた表札を探してみて回ったり、表札のない家に片っ端からインターホンを鳴らして訊ねたりしました」

 黒子の疑問には愛流が答えた。まったくの出鱈目ではあるが、愛流が言うと不思議とそれっぽく聞こえてしまう。

 黒子が第三中学校を辞めたことについては、道中で愛流に話していた。五年前――舞優の自殺が原因で、体調を崩して一年近く休職していたことも含めて。

 その時点で愛流は、ある程度の嘘を考えていたのだろう。

「ちなみに先生は、今はお仕事は? 少なくとも教師ではないようですが」

 愛流が部屋の中を見回した。遠慮のない愛流の言い方に、陽子は「ちょっと」と肩を軽く叩く。

「そんな言い方」

「いや、いいんだ。確かに今日は平日の日中。学校の先生なら、普通は出勤しているよな」

 頭を掻きながら黒子は照れ臭そうに笑った。その時、口から黄ばんだ歯が見える。陽子の記憶にある黒子の歯は、うらやましいぐらい真っ白だった。

「第三中学を退職した後、他の中学校に異動したんだ。だけど上手くいかなくてね」

「上手くいかなかったっていうのは?」

「恥ずかしいことに、まともに授業を行うことすらできなかったんだ。生徒を前にすると、どうしても思い出してしまう。舞優の自殺を、どうして止められなかったのか。もっと気付くべきことがあったんじゃないか、と」

 陽子の心の奥底が、軋むように痛んだ。拳を作って強く握る。

 黒子の言葉は、同時に陽子が自分自身に向け続けた言葉でもあったのだ。

「考えたってキリがない。それはわかっている。でも、どうしてもそのことが頭に付きまとう。そんな時、考えていることは身体に出てしまうものなんだね。授業中に急に足に力が入らなくなってその場でうずくまったり、嘔吐したり。そのことが何度も繰り返された。結局、自分はもう教師を続けられないと判断して、そこも退職。今はバイトで何とか命を食いつないでいる、というところさ――ごめんな、伊勢。もっとカッコいい姿を見せられれば良かったんだけど」

 また黒子が弱々しく笑った。そんなことはないと陽子は思ったが、それを言葉に出すことはできなかった。

「カウンセリングは、受けなかったんですか?」

「受けたさ。自分じゃどうしようもないと判断して、精神科に行った。でも、ああいうのは人によって違うんだろうな。僕にはあまり効果はなかった。今でも夢に見る。暗闇の中で、舞優は助けを求めているんだ。苦しいって、お願いだから気付いてって。僕はあの五年前の事件から、抜け出せずにいる。その上、ここに来てまた――」

 黒子の言葉は、そこで途切れた。腕を震わせ、唇を噛んでいる。その姿があまりにも痛々しくて、陽子は目を伏せた。

 陽子もまた同じ気持ちだった。

 一昨日のように、たまに舞優の夢を見る。そこに出てくる彼女は、いつも悲しそうだった。

 舞優の死の影響は、黒子や陽子だけにはとどまらなかった。彼女の自殺の後、ショックを受けて不登校になるものや教室にいてもずっと呆然としている生徒もいた。教師たちもどのように対処したら良いのかわからなかったのか、あたふたとした姿を今でも思い出すことができる。

 一人の自殺というのは、それほどまでに影響を及ぼすものなのだ。

「すまないね。取り乱してしまって」

 冷静さを取り戻したらしい。黒子がゆっくりと顔を上げた。目の下にはまだ涙の痕が残っているが、そこに触れることはできない。

「いえ、私たちこそすみません。急に押しかけてきてしまって」

「そんなことはないさ。今日は、伊勢に会えて良かったよ。もし何かあったら、いつでもいい。今から書く番号にかけてきなさい」

 そう言って黒子は立ちあがると棚の上に置いているメモ用紙を一枚切った。そしてボールペンで十一桁の番号を書き、陽子に渡す。

「あの、今日はありがとうございました」

 言いながら陽子はチラリと横に目をやった。愛流は柔和な笑みを浮かべて黒子を見つめている。やがて「ありがとうございました」と頭を下げた。

 黒子の家を後にして、バイクに近づく。ボディに手を突いた愛流は、大きく息を吐いた。

「やっぱあんなかったい喋り方は疲れるわ」

「愛流さん、敬語を話すことができたんですね」

「陽子ちゃん、俺のことを何だと思ってんの?」

 ジト目で愛流が睨んでくる。しかしいつも年上相手でも砕けた話し方をする愛流が、畏まった口調をしたのだ。珍しいと思うのは当然のはずだ。

「でもなんで、黒子先生の前では敬語だったんですか?」

「シンプルにそっちの方が自然と話を引き出しやすいって思ったんだよ。考えてもみなよ。久しぶりに会ったかつての生徒が、彼氏と一緒にやってきた。しかもそいつは敬語を話せないヤバい奴。そんなのを相手に、一体どこまで頭の中にあることを口に出してくれる?」

 ――だから、彼氏彼女の設定にする必要がある?

 さきほどと同じ疑問が頭を過ったが、口に出すのは辞めておくことにした。何だか言っているこっちが恥ずかしくなりそうだ。

「つうかさ、気になっていたんだけど。あの黒子って先生、舞優ちゃんのことは下の名前で呼ぶんだね」

 そう言って愛流は背後に建つ黒子の家を見上げた。

「そうですね」

「でも陽子ちゃんのことは苗字の方で呼んでいたけど――人によって苗字で呼んだり下の名前で呼んだりするタイプなの?」

「いいえ、基本的には苗字ですよ。でも舞優に関しては黒子先生、下の名前で呼んでいるんです」

 陽子としては当時からそうだったのでもう慣れたようなものだったが、確かに端から聞けば違和感があるだろう。

 そこでふと、陽子の頭にあることが閃く。

「もしかして愛流さん、舞優と先生が恋人関係だったとか、そんなことを考えているんですか?」

「もしくは黒子先生が舞優ちゃんに何らかの執着を抱いているか。まぁどちらにせよ、可能性はゼロじゃないなっていう程度のものだけど」

 半ば呆れる気持ちもあったが、愛流の言っていることも理解できた。

 確かに黒子と舞優の様子を見ていなければ、そう思うのも無理はない。

「私が見た限り、二人にそんな様子はありませんでした。確かに無茶苦茶仲が良かったですけど、あれは恋人というよりは――親子? ですかね」

 当時の状況を振り返りながら陽子は口にする。ゴールデンウィークにどこに旅行に行って来たかとか、日常であったこととかを、笑顔を浮かべて黒子に話す舞優。そんな彼女の話を、黒子もまた柔和な笑みを浮かべて訊いていた。

 不思議とどちらも、普段よりリラックスした表情を浮かべていたように陽子には見えた。先生と生徒というにはやや近すぎる気もするが、恋人というには二人からそのような甘ったるい雰囲気は感じ取れない。

 それ以外に例えるなら、親子、と言う他にはなかった。

「まぁ先生と舞優は、結構波長が合ったんでしょうね。だからこそ、舞優が死んだ時、先生の落ち込みようはひどくて」

 舞優の葬儀の時だ。加藤家とその親族の他に、陽子達クラスメイトや学校関係者も出席した。その一人に、黒子の姿もあった。

 黒子は魂が抜けたかのように終始呆然としていた。マネキンなのではないだろうかと疑いたくなるほど呆然と立ち尽くす姿に、今までの担任教師としての面影はどこにもなかった。

 ただ、そんな黒子の姿に、一体何人気付けたのかはわからない。皆が涙を浮かべ、嗚咽を漏らしていた。陽子もまた悲しい気持ちなのは同じなのだが、変なところで冷静に周囲を見れてしまう自分が、本当に嫌だった。

「だから先生が休職したって話を聞いても、正直驚きはしなかったんです。むしろやっぱりって言うか、そうだよねって気持ちの方が強くて」

「君から見て、黒子先生の印象はどんなものだったんだい?」

「そうですねぇ。温厚で話しやすくて、怒った姿は見たことがありません。生徒のことも子供だからって見下すようなこともなく、むしろ意見を聞いて尊重してくれる、すごく良い先生でした」

そんな黒子だからこそ、あの変わりようには驚いたのだ。

「じゃあ、舞優ちゃんの印象は? 陽子ちゃんの親友って言うことだけど」

「ええ。すごく真面目な性格で、黒板に書かれたことだけじゃなくて先生が話したこともメモしたり、教室がうるさくなっても静かにしようって自ら率先して注意したりする子でした。後は、いつも笑顔を浮かべていましたね」

 陽子の頭の中で、舞優の顔が蘇る。記憶の中にある彼女は、常に笑っていた。

「ただ、人に頼ることが苦手なんだろうなっていう印象はありました」

「それってつまり、自分で抱え込んじゃうタイプだったってこと?」

 愛流の問いかけに、陽子は静かに頷いた。

「勉強でもわからないところがあったら人に訊いたり先生に質問したりするんじゃなくて、参考書を開けて自分で探すっていうこともしょっちゅうでした。誰かに訊いてみたらって私が提案した時も、こう言ったんです。私のことで相手の貴重な時間を奪いたくないって」

「なるほどね。となると、やっぱり舞優ちゃんが何か悩みを抱えていたとしても、それを他者に打ち明けた可能性は――」

 そこまで言って愛流は言葉を止めた。しまったというように口を半開きにし「ごめん」と小さい声で謝る。

 陽子は胸に小さな痛みを感じつつも、首を横に振った。

 実際、愛流の言う通りだ。何か抱えている悩みがあったからこそ、舞優は自らの命を絶つ選択をしたのだろう。

 きっと誰かに打ち明けていたならば、彼女は今も生きているはずだ。もちろん、打ち明けた相手が誰で、どのような慰めの言葉を受けたかにもよるだろうが。

 そう考えると、どうしてもやるせない気持ちが強くなる。自分のことを力不足だと、責めずにはいられない。

 ――いけない。また思考の渦に飲み込まれる。

 顔を上げ、陽子は青空を見つめた。雲一つない、清々しい晴天。自分の心も一瞬にしてこの空のようになれればと、思わずにはいられない。

「あのさ、無神経な質問を、もう一つしてもいいかな?」

 愛流が指を立てた。気遣わしげに視線を送っているが、その細められた目は自分の目的を優先する冷徹さも兼ね備えているような気がする。

 しかし今は、陽子としても腫れ物に触るような扱いを受けたくはなかった。だからこそ、愛流のストレートさが逆に嬉しい。

「はい」

「舞優ちゃんが、イジメられていたっていう可能性はないかな?」

「舞優が?」

「そう。例えば今回の事件で死んだ、七海ちゃんや咲ちゃんから」

 夏だと言うのに、背筋に悪寒が走った。身を震わせ、腕を擦る。

「まさか、そんな――」

「あくまで可能性の話だ。答えられる範囲でいい。次に狙われるかもしれない大平理香ちゃんを含め、三人はそういうことをしそうなキャラだったかい?」

 愛流の質問に、しかし陽子は答えることができなかった。それがとても歯がゆくて、自分自身に腹が立つ。

 一体自分は、何様のつもりなのだ、と。

「――少なくとも陽子ちゃんから見ると、否定はしきれないって訳か」

 黙っていることを肯定と受け取ったのか、愛流が考え込むように唇を擦る。やはり愛流の前では、どんな誤魔化しも通用しない。

 それに陽子自身、彼にはあまり隠し事はしたくなかった。それが自分の醜い部分だったとしても。

「愛流さんの言う通り、私は七海さん達のことが苦手でした。ただ、具体的に彼女達とトラブルがあったって言う訳ではないんです」

「というと?」

「こういうの、本当は良くないんですけどね。直感的に苦手意識を持っちゃったんですよね」

 言いながら陽子は中学時代の自分を振り返る。

 あの頃の陽子は、今以上に引っ込み思案だった。クラスメイトと積極的に関わろうとはせず、いつも席に座ってボーッと休憩時間を過ごす日々。

 対して七海と吉田、そして大平の三人は、クラスの中でも特に目立つグループだった。

 七海を筆頭に、三人は常にクラスの前に立っていた。席替えに関しても通常はくじ引きで決めるのに、七海の発言で任意性、つまり席替えをしたいという希望者だけが行うような仕様となった。

 また学校側が主催の勉強合宿におけるオリエンテーションも、彼女らの発案でバレーボール大会が施設の体育館で開催されることとなったのだ。

 別に七海達が率先して動くことが悪いとは思わない。自分にはできないことなのですごいと当時の陽子は思っていたし、黒子もまた生徒の自主性を重んじるタイプだったので、横から口を出すようなこともしなかった。

 しかし友達になりたいと思ったことは一度もない。

 七海達からは、一種の傲慢さを感じられた。他者を見下すような雰囲気も言葉の節々から感じ取れたし、普段の態度もまるで自分達こそが正しいと言わんばかりに価値観を押し付けようとする、高圧的なものだった。七海のことも苗字ではなく下の名前で呼ぶのは、別に好意の現れではなく、そうするように彼女が周囲に強要したからだ。七海ら三人とクラス内の誰かが揉めたことも、一度や二度ではない。確か矢尾とも揉めたことがあったような気がする。

 そういう人間が嫌いだからこそ、陽子は無意識の内に七海らと距離を取っていたのかもしれない。

「あっ」

 そこまで考えたところで、ふと陽子の頭に思い出される出来事があった。それを敏感に感じ取った愛流は「どうしたの?」と言って目を細める。

「実は、思い出したことがあるんです」

「中学時代のことでかい?」

「はい。今回の事件に関係あるかどうかはわからないんですけど、舞優が一度、七海さん達と揉めたことがあって」

 あれは確か五月の上旬だっただろうか。教室内で陽子と舞優が席に座りながら最近行ったカフェのことを話していた。

舞優と仲良くなったきっかけも、コーヒーに関連したことだった。始業式から一週間後、七女市の端っこにある山中の施設で、勉強合宿が行われた。その時、一緒の部屋に泊まることとなったのが、舞優だった。

陽子はクラスメイトと認識しながらもあまり話したことがなかったので緊張し、自分から話しかけることはなかった。また舞優も人見知りな性格だったので、気まずい沈黙が部屋の中に流れていた。

耐えられなくなった陽子は「近くの自販機でコーヒーを買おうと思うけれど、何かいる?」と訊ねてみた。すると舞優は「同じく、コーヒーで」と答えた。

自販機で缶コーヒーを二本買って戻ってきた後、真っ先に舞優が「コーヒー、好きなの?」と訊いて来た。そこからお互いにコーヒー好きであることが発覚し、一瞬にして打ち解けた。クラスの中に、ブラックコーヒーが好きだという人物がいなかったことも大きい。それから皆が集まる時間になるまで、ずっと好きなコーヒー豆のことを話し続けていた。

それ以降、休憩時間や弁当を食べる時になると、決まって最近行ったカフェの話をするようになった。しかしその時は、なぜか急に七海らが話しかけてきたのだ。

「ねぇ、伊勢と加藤」

 吉田と大平の前に毅然とした態度で七海が立っていた。そして見下すような視線で、上から陽子達に言葉を発してくる。

「今度、クラスの皆でここのアミューズメント施設に行こうって話をしているの。もちろん、あなた達も来るわよね?」

 七海が言うアミューズメント施設とは、全国でも幅広く展開している人気の施設だった。陽子は小学校時代に何度か両親に連れられて行ったことがある。そのことを前に舞優に話したら「いいな、私まだ行ったことないから、行ってみたい」と羨ましがっていたのを、今でも覚えている。

 舞優のことを考えると絶好のチャンスではあるが、七海らと行くのは嫌だった。

「ごめん。その日は家族の方で用事があるから無理なの」

 陽子が迷っている間に、舞優が答えた。それから意味あり気に陽子に目をやる。

「陽子はどう?」

「え? えっと――」

「別に強制じゃないんだし、予定があるなら仕方ないと思うよ」

 いつもの舞優にしては、やや積極的に発言していた。普段ならここでは黙り込んでいる場面だ。

 陽子を気遣ってくれているのだと、直感的に感じた。

「私も、その日は難しいかな」

「二人揃って? 珍しいこともあるのね」

 七海が目を細めながら険のある声で言った。自分の提案に乗らなかったことが、気に食わないのは間違いない。

 どうして怒りを安易に表に出せるのか。陽子は今でも不思議でならない。

「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」

「別に気にしてないし。あなた達がクラスの皆と仲良くなれなかったとしても、私にはどうでもいいことだし」

 露骨に嫌みを含ませた言葉に、陽子は怒りを覚えた。しかしここでも何も言うことはできない。

「それにしても羨ましいわね、家族との用事なんて」

 明らかに羨ましいとは思っていない、今にも舌打ちしそうな七海の低い声。苛立っているということが、鈍感な陽子にも伝わってきた。

「そんなことないよ。どこにでもいる普通の家。むしろ私は、七海さんの家の方が羨ましいかな」

 その途端、七海の顔から表情が消えた。頬は引きつり、先ほどまでの自信満々な笑みは今は浮かんでいない。

「だって沢良木さんは美人だし、リーダーシップもあるもん。私からすると、すごく羨ましい。そんな風に育ててくれた両親に、感謝しないとだよね」

 舞優は嫌みを言っているわけではない。ただ純粋に、自分の感じたことを口にしていたはずだ。隣にいた陽子も、なじっているようには思えなかった。

 しかし七海は違ったらしい。

「黙れ」

 七海から出たとは思えないようなドスの利いた声が教室に響き渡った。

 特に大声を出したわけでもない、喧騒の中だと掻き消えてしまう程度の声。だがその一瞬、教室は時間がとまってしまったのではないかというような静寂に包まれた。

「あんたに、何がわかる」

 七海は相変わらず表情を消して言葉を発している。陽子の中で、アラーム音が鳴った。

 原因はわからないが、舞優は地雷を踏んでしまったらしい。

「あんな奴ら!」

 七海がヒステリックに騒ぎ出した。舞優の襟をつかみ、無理矢理立ち上がらせる。

 舞優は状況を理解を出来ていないらしい。目を大きく見開き、口を半開きにしている。その目には怯えの涙が滲んでいた。

「辞めて!」

 さすがにここでもボーッとしているわけにはいかない。陽子は立ち上がり、七海と舞優を引き離そうとした。しかし七海の力はすさまじく、中々舞優を離そうとはしない。

「ちょっと七海!」

「落ち着いて!」

 どうやら状況が危機的だと思ったのは、陽子だけではなかったらしい。今まで黙っていた吉田と大平も背後から七海を止める。さらに周囲のクラスメイトも集まってきて、何とか二人を引き離せた。騒ぎを聞きつけたのか、黒子も慌てて教室の中に入ってきて「君達、何をしている!」と叫んだ。

 結局、次の授業に舞優と七海の姿はなかった。二人は生徒指導室にて事情を聞かれることとなったのだ。

 それ以降、七海らが舞優に話しかけてくることはなくなった。陽子としては彼女らが自分達に何らかの嫌がらせをしてくるのではないかと、五月中はどこにいても冷や冷やしていたのだが、どうやら何も起こらなさそうだと思い、ホッとした。

「――とまぁ、こんなことがありまして」

 中学時代の出来事を愛流に話し終えて、陽子は一息吐いた。愛流は手に持っているヘルメットを指で何度も叩きながら、考え込むように黙っている。

「一応確認だけど、舞優ちゃんからも話すことはなかったんだよね? 帰りに七海ちゃん達に話しかけられたとか、出かけた時にバッタリ会ったとか」

 口を開いたと思うと、愛流がやや重めな口調で訊いた。その質問に対し、陽子は首を縦に振る。

「私も気になって、似たようなことを何度か舞優に訊いたことはあります。でも特にそんなことはなかったって答えるばかりで」

「その言葉をそのまま信じたいところだけど、舞優ちゃんが一人で抱え込みやすい性格であった以上、陽子ちゃんに気を遣って嘘を吐いていた可能性があるって訳か」

 愛流の言葉に、陽子は何も答えることができなかった。

 まさにその通りだった。陽子の知らないところで、舞優が七海と何かあったとしてもおかしくはない。それこそ、愛流が言ったように、彼女らに虐められていたとしても。

 それなのに、陽子はその可能性を考えようとしなかった。自分に何も起こっていない。自分が見えているところでは変化はない。だから大丈夫だったのだと、安易に決めつけてしまっていた。

 自分のおめでたさに、陽子はほとほと呆れ、そして怒りを覚えている。

「私が――」

 絞り出すように、陽子は言葉を発した。持っているヘルメットに八つ当たりしたい気持ちに駆られそうになる。

「私があの時、ちゃんと舞優を気にかけていれば、死なずに済んだかもしれないのに」

 幾度となく駆られてきた悔しさが、また襲ってきた。涙が滲み、唇を噛みしめる。

 こんな後悔をしても、意味がないことはわかっている。しかし思わずにはいられない。

  それほどまでに舞優の自殺は、陽子に暗い影を落としていた。

 その時、荒々しい音が陽子の鼓膜を振動する。我に返ると、愛流がバイクにまたがってエンジンをかけている姿が目に映った。そして振り返り、ヘルメットのシールドを上げる。

「次の目的地へ行こう。ここでの調査は終わった」

 淡々とした調子で愛流は答えた。陽子は息を整えると頷き、ヘルメットを被ってタンデムシートに跨る。

 陽子が乗ったことを確認すると、愛流はアクセルグリップを回してバイクを走らせた。

 愛流は何も言ってこなかった。陽子を責める言葉も、慰める言葉も。

 それが逆に陽子には心地よくて、救われたような気分となった。


(続)


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