page13「苛立ち」
今日の講義を終えた陽子は自転車に飛び乗り、一分と経たないうちに大学の敷地から出て行った。そして喫茶「私生活」の駐車スペースに自転車を置く。
午後の四時になっても気温は大して下がらず、陽子は額に汗が浮かんでいるのを感じた。本当は拭き取りたいがそれすらも億劫で、急いで店の中へと駆け込んだ。
店内でくつろいでいた客達が、一斉に陽子の方に視線を向けた。しまったと思ったが、全員常連であった。そのため、見知った客達はすぐに顔をテーブルの方向に戻す。
「コラコラ陽子ちゃん。お客さんを驚かしたらダメでしょう」
茂が物腰柔らかな口調で陽子を嗜める。いつもと同じ調子ではあるのだが、今日に限ってはどうしても芝居がかっているように見え、陽子の中にわずかにではあるが苛立ちが生じる。
「店長、私に隠していることありますよね?」
「うん、あるよ。愛流のことだろ?」
あっさりと自白した。拍子抜けしたが、ここで手を緩めてはいけない。
陽子は腕を大きく振ってキッチンへと近づいていく。そしてカウンターテーブルに手を突き、茂を睨みつける。
「言ってくれる約束でしたよね?」
「ごめんごめん、愛流に黙っているように言われててさ。というか陽子ちゃん、なんで愛流のことを知っているの?」
「さっき見かけました」
「あちゃあ、あいつも運が悪いね」
茂が肩をすくめておどけて見せた。その姿を見ると、陽子にはもはや怒る気力すら湧いてこない。脱力して回転椅子に座り込む。
こういう飄々としたところは、血の繋がりがないとはいえさすが愛流の父親と言うべきだ。
「そんなに私に会うのが嫌なの――」
自分の口から漏れ出た弱々しい言葉に、陽子自身驚いた。
どうやら自分でも思っていた以上にショックを受けていたらしい。愛流が帰ってきたことを自分に言わなかったことが。
それほどまでに陽子の中で、愛流の存在が大きくなっていたということだろう。
――私は一人で浮かれていただけなのだろうか。
愛流の過去を知り、傷を見て、寄り添いたいと思った。愛流もまた自分を助手として受け入れてくれると言ってくれた。
しかし実際にはその愛流に避けられている。
そんな自分がひどく滑稽で虚しい存在に思えてならない。陽子は自分の腕に顔を埋める。
「じゃあ、ちょっと仕返しでもするかい?」
頭上から茂の言葉が飛んできて、陽子は反射的に頭を上げた。
茂の口元には、年齢とは不釣り合いな悪戯小僧のような笑みが浮かんでいた。
(続)




