page10「凄惨」
「天馬先輩、着きました」
先月着任した、一つ下の後輩刑事である高橋の言葉を聞き、里奈はシートベルトを外した。いつもと変わらぬ調子で「ありがとう」と言いはしたが、実際には腹から来る吐き気を表情に出さないように必死だった。
昨日は本当に悪い飲み方をした。今日が朝早くからの出勤日であることも忘れ、ビール四杯の後にウイスキーのストレートを二杯も口にしてしまった。おかげで朝から化粧をすることもままならず、時間ギリギリの出勤となってしまった。おまけに署に到着するなり出動するわ、高橋の運転はお世辞にも上手いとは言えないぐらい荒いわで、里奈の不調はピークに達しつつあった。
とはいえ、まさか二日酔いで気分が悪いから休みたいと言ったり、パトカーの速度を落とせなど口にしたりすることはできない。里奈は静かに自分の身体と精神を戦わせ続けるしかなかった。
少しでも気分を紛らわせようと、里奈は現場となった家を見上げた。
夢見市の北側にある、住宅街に建つ一軒家だった。築年数はおそらく二十年は超えている。白い壁や門塀には黒い墨がいくつか見られたが庭が備え付けられているなど、立派な家と言うには十分なように里奈には思える。
「じゃあ、現場に入ろうか」
どうやら、検視と鑑識は先ほど終わったらしい。安田の号令に里奈も含めた夢見署の刑事達は「了解」と返事をする。そして業務用のヘアキャップと白手袋、ビニールシューズカバーを身につけていく。
一瞬、九十九と目が合った。しかし向こうからすぐに逸らされてしまう。まるで興味がないと言わんばかりだ。その態度にカチンと来た里奈も、特に話しかけようとはしない。
結局、誰も九十九に声をかける刑事はいない。唯一安田が色々と話しかけてはいるが、彼から返ってくる反応は「そうですか」か「はい」のどちらかだけだ。心を閉ざしていることを、隠そうともしない。最も、隠すつもりなら前に出て「自分は慣れあわない」などと言いきらないだろうが。
「全員、準備はいいか? じゃあ突入」
いつもの柔和な態度とは打って変わり、安田は声に鋭さを含ませて言った。そして彼に続き、刑事達の面々が玄関ドアへと入って行く。
ドアを開けるなり、里奈は鼻につく血のにおいに顔を歪めた。
現場は里奈が想像していた以上に凄惨なものだった。廊下や居間の壁には血がベッタリと付着し、フローリングの床にまで垂れ下がっている。あらゆる家具は横倒しとなり、チョークで描かれた人型の絵が三つ。
一つは玄関に、一つは居間の手前に。そして三つめは、居間の中央にあった。
どれも死体が倒れていた状況を表した絵だ。少し前までその絵の上に人が倒れていたと考えると、いくつかの現場を経験した里奈でもゾッとするものがある。
「被害者の身元は、免許証及び学生証から割り出しました。沢良木智樹、五十二歳。沢良木千穂、四十九歳、そして沢良木七海、十八歳。全員、この家に住んでいました。なお、千穂さんは玄関、智樹さんは居間の手前、七海さんは居間の中心辺りで殺されていました」
鑑識官の下柳が説明しながらタブレットを渡してきた。それを最初に手にした高橋は童顔を歪めるなり「うっ」と声を詰まらせる。そしてそれを里奈に渡してきた。
画面には三人の死体が映っていた。沢良木千穂と智樹は、玄関に居間の手前と、倒れている場所こそ違えど頭から血を流しているという点は共通していた。二人とも目を大きく見開いたまま絶命しており、それがより見る者に恐怖を与えた。
両親よりひどいのは、七海だった。うつ伏せに倒れているが、腹部から血が帯びたたしく流れ出ていたことが、フローリングに広がる水たまりからうかがい知ることができた。背中は抉られ、周囲には黒い羽根が何本も落ちている。目を開いているのは千穂や智樹と一緒だが、歯をむき出しにして白目を向き、口の中にはティッシュが詰め込まれているなど、苦悶と言うには物足りなく感じられるような表情を浮かべて息絶えていた。
「検視に立ち会ってくれた先生によると、死亡推定時刻は昨晩の午後八時から十二時の間。凶器はおそらく刃渡り十八センチメートル程の包丁。沢良木智樹さんと千穂さんは頭を刺され、即死だったと思われるとのことです。で、問題は七海さんなのですが――」
里奈がタブレットを羽曳野に渡したタイミングで、下柳は言葉を止める。眼鏡の位置を調整し、言葉を発することをためらっているように里奈には見えた。
「タブレットの写真を見てもらえばわかるかもしれないんですが、かなり苦しんで死んだと思われます。おまけに開け放たれた窓から入ってきたカラスに、身体も喰われている。詳しいことはこれからの司法解剖によって判明するでしょうが、刺し傷の位置から、肺に刺さった可能性が高いとのことです」
「つまり、呼吸もままならなかった?」
渡されたタブレットの画面を無表情に眺めながら、九十九が指摘した。下柳は苦虫を噛み潰したような顔をして頷く。
肺に穴が空けば、空気が漏れて呼吸が困難となる。つまり七海は胸に刺された傷だけでなく、息もできない苦しさの中で息絶えたということだ。その状況を想像し、里奈はぞっとした。
口にティッシュを詰め込んだのは、万が一にも声を出されないようにする、いわば保険のようなものだったのかもしれない。かなり徹底していた。
両親とは明らかに殺し方が異なっている。つまり――
「これは、沢良木七海を狙った犯行ってことか?」
里奈の考えを代弁するように、九十九が呟いた。その言葉に、周囲の刑事は黙り込む。
「とりあえず、通報時の状況も共有しておこう」
安田が手を叩き、周囲の面々が顔を上げた。
安田は普段は温和な雰囲気で、刑事課長としては珍しい人種と言えるのかもしれない。しかしこういう仕切るべきところではしっかりと前に出て誘導してくれるので、里奈としてはありがたい存在だ。
「今回通報したのは、リフォーム業者の浅井さん。沢良木家は以前から家のリフォームを希望していて、浅井さんとやり取りをしていたそうだ。今日も朝早くからその打ち合わせをこの家でする予定で、だから浅井さんは訪問した。しかしインターホンを押しても出てこない。おかしいと思った浅井さんは智樹さんに電話しようとしたが、そこで赤い何かを加えたカラスが飛び立つのを目にした。浅井さん曰く、肉に見えたということだ。異常を感じた浅井さんは門をよじ登り、庭を周回した結果、沢良木七海さんの死体を発見するに至ったというわけだ」
「異常を感じた時点で、警察に通報しようとはしなかったのですか?」
九十九がタブレットを安田に返しながら訊ねた。
「通報するにも、状況が明確になっていないと上手く伝えられないと感じたらしい」
「そうですか。ちなみに、その浅井は?」
「外で制服警官が事情聴取を行っている。ただひどく怯えているからそれ以上の情報は期待できないかもしれない」
安田の言葉に、里奈は頷いた。
業務中に死体を発見することになったのだ。それも何度も話し合った客が。これで動揺するなというのは、無理があるだろう。
ここでふと、里奈の脳裏に愛流の憎たらしくも自信満々な顔が通り過ぎた。
「安田課長、どうします? 愛流もここに呼びますか?」
安田は事件を早期かつ確実に解決するため、愛流に協力を要請することが度々あった。夢見署の刑事達も義弟のことは知っているため、何人かは頷いた。
「愛流? 誰だ、それは」
九十九が首を傾げながら高橋に訊ねた。高橋もお手上げと言わんばかりに両手を挙げる。
里奈はつい失念してしまっていたが、この二人だけは愛流に会っていなかった。いずれは知ることになるだろうという思いと、どのように説明すればよいだろうという迷いが生じる。
安田が愛流を使役しているのは、あくまで非公式だ。新人の高橋はもちろん、警視庁から異動してきた九十九が知るわけはない。何より所轄の刑事課長が一般人を利用していたとなると、どれだけの問題になるかわかったものではない。
しかし安田の心配は別にあったようだ。
「え、愛流くん、帰ってきているの?」
神妙な面持ちだった安田の顔が一瞬にして歪む。目を大きく見開き、頬を引きつらせた。
――そういえば言っていなかった。
うっかりしていたと里奈は自分を責めたが、それは一瞬のことだった。家族が家に帰ってきたことなどを、一々上司に報告することもおかしい。
「えぇ、昨日。旅の資金を使いきったということでしたし、今なら積極的に協力してくれるかもしれません」
「それはまずい!」
安田が口に手を当て、焦りを見せる。しかし里奈は疑問に思わざるを得なかった。
いつもの安田なら、積極的に愛流を利用しているはずだ。しかし今日は打って変わって、慌てている。一体、何がまずいというのだろう。
その時、家の外が騒がしくなったような気がした。誰かが言い争っている声が、家の中にまで聞こえてくる。
野次馬が集まって、警官と揉めているのだろうか? 里奈が疑問に思った瞬間、見張りをしていた制服警官が家の中に入ってきた。確か高橋と同時期に配属されてきた新人だ。その彼が、里奈達に敬礼する。
「失礼致します」
「どうしたんですか? 外が騒がしくなってきたようですが」
「は。実は、現場に入ってこようとしている妙な男がいまして」
「野次馬ですか?」
「かと思うのですが、妙におかしくて――自分は安田課長と天馬巡査の関係者だからここに来たのだと主張しておりまして」
――まさか!
里奈は安田と顔を見合わせた。噂をすれば影とは言うが、まさにその通りのことが起こったようだ。
まるで競争するかのように、里奈と安田は同時に駈けだした。玄関を出て、門塀の前に立つ。
沢良木家の前には、いつの間にか野次馬が集まっていた。その最前線で、見張りをしている制服警官と揉めている人物が一人。
「君もさっきの彼もこっちに来たばかりだから知らないんだろうけどさ、本当に安田のおっさんの関係者なんだって」
「そんな嘘、信じられるわけないだろ」
「おっと、何を根拠に嘘と言っているのかな? じゃあ、俺の言葉に説得力を持たせるために、君の昨日からの行動でも言い当てようか?」
ピンク色の髪を揺らし、やや高い声音の持ち主。その人物――愛流がこちらに気付き、手を振ってきた。
タイミングが良いのは間違いないのだが、我が弟ながら気楽過ぎる――里奈は額に手を当て、ため息を吐くしかなかった。
(続)




