第90話 覚えてる
ある夜、ふと、自分に、あの問いを出してみた。
三年半前、思いつきもしなかった問い。俯瞰の頂点にいた頃の俺に、誰かが突きつけてたら、俺の全部が崩れてた問い。
──俺は、あの子の、何を覚えてる?
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まず、昔の答え合わせから、正直にやる。
セルケの、好きな食べ物は?
……思い出せない。「おいしい」の使い方は覚えてるのに、彼女が何を食べてる時にそれを言ったか、思い出せない。俺のノートに残ってるのは、出会った駅、系統、経緯──データだけだ。
ミオの、ゲームの持ちキャラは?
……思い出せない。隣で何十時間も見てたのに。俺が覚えてるのは、肩の触れる距離と、煙の匂いと、俺が崖から落ちた回数。──俺の側の記録ばっかりだ。
ノエラの、店の見取り図。何十枚も見せてもらった、あの夢の棚の配置は?
……。
……思い出せない。
俺は、見てなかったのだ。三年間、あんなに「見える」男だったのに。タグも警戒値も装いも読めたのに。データの向こう側にいた、生身の彼女たちの、好物ひとつ、覚えてない。
視界ってのは、残酷だな。読んだものは、覚えなくていいことになる。読まずに、見たものだけが、残るのに。
⸻
じゃあ、と俺は、今の答え合わせをした。
彼女の、好きな飲み物は?
──即答できた。銘柄まで。コンビニで見かけると、買ってしまうから。
彼女の、笑うタイミングは?
──言える。自分の話にオチがつく〇・五秒前に、先に笑い始める。せっかちな笑い方。あれが出ると、俺も釣られる。
彼女の、靴は?
──言える。よく履いてるのが二足あって、片方の紐が、いつも少しだけ緩い。言おうか言うまいか、毎回迷って、まだ言えてない。
疲れてる日のサインは? ──言える。返事の文末から、感嘆符が消える。
嬉しい日のサインは? ──言える。歩幅が、半歩、広くなる。
……。
止まらなかった。出てくる。いくらでも出てくる。データじゃないものが。ノートに書いてないものが。数えてないのに、覚えてるものが。
俺は、暗い部屋で、一人で、静かに確認した。
見えてる。
俺は今、視界なしで、人が、見えてる。
三年半、レベルを上げ続けて、ついに手に入らなかったものが──レベルの消えた男の手の中に、普通に、あった。
……多分、な。
俺が三年半、夜の街で、千何百回も声をかけて、ほんとうに探してたものの正体も──こういう、なんてことない「覚えてる」の、交換だったんだと思う。
それ以上は、言わない。名前をつけたら、逃げる気がする。
(なあ、システム)
《はい》
(俺の目、治ったのかな)
《──治ったのでは、ありません》
システムは、静かに言った。
《開いたのです。……三年半、かけて》
開眼、って言葉の意味を。
俺はあの銀貨一枚の夜から、ずっと、間違えてたのかもしれないな。
<第9部・了>
あとがき(今日の発見):「好きな人の言ったことは、普通に覚えてる」らしい。普通に、だぞ。俺が三年かけて辿り着いた場所に、世の人たちは、普通に住んでた。……ま、遠回りした奴にしか書けない地図もある。だからこれを書いてる。
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