第89話 誕生日
俺の誕生日に、彼女が、店を予約してくれてた。
「場所は、当日のお楽しみです」
連れて行かれたのは──狗ノ谷だった。
あの、キラキラの、高レベル帯の街。かつての俺が遠征して、化け物たちの神技に震えた街。その街の、高層の、夜景の見えるレストラン。
「……こんな店、よく取れたね」
「頑張りました。誕生日なので」
得意げな顔の端に、緊張の残りが見えた。この店に電話をかけてる彼女。地図を調べてる彼女。当日まで内緒にしてる彼女。──俺の見てない時間の彼女を想像して、料理が来る前から、俺は胸がいっぱいだった。
窓際の席だった。眼下に、夜の街が、どこまでも広がってた。
料理が来て、乾杯をして(彼女はワイン、俺は、一杯だけの赤)、いつもの、駆動音の揃った会話をして。彼女が、小さい包みをくれた。中身は書かない。書かないが、俺がいつかの雑談で、ぽろっと一回だけ言ったものを、覚えてて、選んでくれたものだった。
一回しか、言ってないのに。
「……なんで、覚えてたの」
「え?」彼女は、きょとんとした。「好きな人の言ったことって、覚えてません? 普通に」
普通に。
──その「普通」を、俺は、期待の元栓ごと締めて、三年、生きてたんだよな。
⸻
食後、俺は席を立って、窓の前に立った。
眼下の夜景を、見た。
狗ノ谷の光。その向こうの、梟ノ森の湿った灯り。獣の門の巨大な光量。煉瓦の門の、赤い駅舎のライトアップ。辺境の、ささやかな駅前。──俺の三年半の、地図の全部が、一望の下にあった。
綺麗だな、と思った。
思った、次の瞬間。
夜景が、透けた。
比喩じゃない。俺の目に、夜景の光の層の下から、別の映像が、重なって見えたのだ。
──床だった。
夜勤明けの、あの部屋の床。頬の横の、フローリングの木目。「今日は何のために起きるんだっけ」の、あの目線の高さ。倒れた朝の、路地のアスファルト。奈落の毎朝の、賽の河原の床。
俺が、這いつくばってた場所の、全部。
「──あーーー……」
声が、漏れた。
地面、這いつくばってた俺、こんなところに、来たんやなあ。
夜景が、滲んだ。俺は窓に映る自分の顔がぐしゃぐしゃになる前に、深呼吸を一個して(三年半ぶりに、正しい用途の深呼吸だった)、席に戻った。
「どうしました?」
「……いや。夜景が、いい席だなと思って」
「でしょう。頑張ったので」
彼女は、笑った。
その夜、家に帰って、寝る前に、俺は、ほとんど白紙になったステータスを、開いた。
もう、レベルも数字も、読めない。消えかけの、白い頁。
その一番下で。
【 ??? 】
──数字が、なかった。
代わりに、そこには、こう表示されてた。
【 計測不能 】
……。
……はは。
笑ってしまった。三年間、達人の神技にだけ出てた、あの白旗。俺の視界が「これは俺の物差しの外です」と降参する時の、あの表示。
それが、最後の最後に、俺自身の、名前のない数字に、出た。
数えられるものだけを追ってきた男の、いちばん奥の項目が、計測の外に出た夜。
《……本システムから、一言だけ》
(ん)
《おめでとうございます。──計測、不能で》
(……お前に祝われる日が来るとはな。その表示で)
俺は表示を閉じて、電気を消して──
ベッドで、寝た。
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