第88話 読み直し
翌朝から、俺は、三年半を、読み直した。
俺がドロップ品だった、という新しい目で。一頁ずつ。
⸻
セルケ。
彼女は、辺境の夜、友達との楽しい時間の余熱の中で、変な声かけをしてきた男を、拾った。拾って、関わりの姿勢を教えて、半分こを提案して──俺がまだ、半分こできる状態じゃないと分かった時、「順番が、まだ」と言って、手放した。
あの「順番」の意味が、今なら分かる。
自分と半分こできない男は、人と半分こできない。俺には、俺との関係が、先だった。彼女は、それを見抜いてた。見抜いて、責めずに、俺を、俺の順番に、返してくれたのだ。
ミオ。
彼女は、今しかない部屋に、過去でできた男を置いてくれた。俺のコンプレックスが溶けたのは、彼女の部屋の時間の流れの、副作用ですらない。あれは彼女の生き方そのものが持ってた、効能だった。
「見つかった?」
──見つかったよ、ミオ。だいぶ、かかったけど。お前の部屋で溶けてたのは、俺の引け目だけじゃなくて、俺が引け目で固めてた、俺の輪郭ごとだった。
ノエラ。
信じる人。彼女は、燃える男を、燃料ごと愛そうとして、燃料の中身が借り物だと気づいて、それでも「好き」だけは、本物のまま、置いていった。
『ついていけない、と、好き、は、別なんです』
……あれから俺は、あの言葉を解くのに、三年かかった。解けた今、言えることは一個だ。あの分け方ができる人は、俺が枠だの錨だの言ってた頃、とっくに、俺の目指してた場所に、立ってた。
⸻
読み直しの途中で、初期のノートから、忘れてた頁が出てきた。
夜の世界の第一法則。「技より先に、火を焚け」。兄貴分の教えの頁だ。
その隣に、当時の俺が、小さく書き足してた一行があった。
「笑ってくれたら、札が死んでても、なんか、こっちも楽しい」
……お前、気づいてたんじゃないか。最初から。
そうなのだ。思い出した。あの頃、断られても、相手がクスクス笑いながら「ごめんね!」と手を振ってくれた夜は、心が、擦り切れなかった。連れ出して、四十分盛り上がって、それでも札にならなかった夜ですら、楽しかった時間は、ちゃんと歴史に残った。
逆に、「勝ち」だけをギラギラ追ってた時期は、勝っても負けても、すり減った。相手から何かを**奪う**設計の活動は、成功の瞬間にすら、俺を貧しくした。四の間の「打算」の一節が刺さったのは、俺が体で知ってた真実を、言い当てられたからだった。
原理は、最初からノートに書いてあったのだ。
**目の前の人を、楽しませること。**
**そして、負ける時は、ハッピーに負けること。**
グッドルーザーの夜だけが、翌朝も歩ける。三年半の全戦績を読み直して、確信した。俺の物語で、ほんとうに実ってた夜は、全部、相手が笑ってた夜だった。
⸻
三人に、連絡は、しなかった。
したくなかったわけじゃない。ノートを書きながら、何度も、遠話の札に手が伸びかけた。ありがとう、と。今なら分かる、と。
でも、やめた。
彼女たちは、それぞれの物語の途中にいる。手放したドロップ品から、ある日、感謝の長文が届く──それは、俺の側の都合を、彼女たちの静かな現在に、押しつけることだ。
恩ってのは、返しに行くものじゃない場合がある。
**次に、渡すものだ。**
俺が受け取った書き込みを、俺はこの先、誰かへの書き込みとして、渡していく。それが、あの三人への、いちばん正しい返済だと思った。
ノートの、読み直しの章の最後に、俺は、二行書いた。
「俺は、いい人たちに、拾われてきた」
そしてもう一行。書きながら、これが三年半の答案だと思った。
「自己肯定ってのは、成果を人に褒められることじゃなかった。自分と向き合って、一個ずつ、刻むことだった」
---




