第87話 ドロップ
その夜、俺はノートに向かってた。
凪の頃から続けてる、書く時間。この頃の俺は、自分の三年半を、最初から書き出す作業を始めてた。誰に見せるでもない。ただ、書くと、分かることがあるからだ。
その夜書いてたのは、別れの場面だった。
セルケ。ミオ。ノエラ。三人の去り際を、記憶の底から、一言ずつ、正確に引き上げて、並べた。
『ミナモくんと過ごした時間、おいしかったよ』
『ミナモはさ、自分を探しに来てたでしょ。……見つかった?』
『あなたにはもう、ついていけません。──でも、好きです』
並べて、眺めて、俺は、ペンを置いた。
……おかしい。
おかしいのだ、この三行。
俺の三年半の物語の中で、俺は「攻略する側」だった。声をかけ、橋を架け、札を拾う側。彼女たちは、俺の物語の、登場人物だった。
なのに、この三行を並べると──**構図が、逆に見える。**
去り際に、価値のある言葉を置いていくのは、どっちだ?
相手の本質を見抜いて、三年かけても解けない問いを残していくのは、どっちだ?
拾われて、大事にされて、書き込みをされて、それから手放されたのは──
「…………俺、じゃないか?」
声に、出てた。
⸻
震える手で、ノートを遡った。
セルケ。俺は彼女の何を変えた? ……思い出せない。逆は? 彼女は俺の、人との関わり方の姿勢を丸ごと矯正して、開かずの部屋の存在を教えて、目録を書かせた。
ミオ。俺は彼女に何を残した? ……分からない。逆は? 彼女は俺の二十何年もののコンプレックスを溶かして、「自分を探しに来てた」という、俺自身も知らなかった俺の正体を、言い当てて去った。
ノエラ。俺は? ……。逆は? 彼女は、俺が正しさの怪物になっていく渦中で、唯一、正確な診断を下した。しかも「好き」を、ちゃんと分けて、置いていってくれた。
──俺の視界は、三年間、彼女たちを「ドロップを落とす側」として描画してた。
逆だった。
**俺が、ドロップ品だったのだ。**
セルケの物語の中で、ミオの物語の中で、ノエラの物語の中で。彼女たちがそれぞれの門を潜り、それぞれの夜を渡る途中で──拾われて、しばらく携えられて、書き込みをされて、そして、それぞれの理由で、手放された、一個のドロップ品。
去り際の、あの言葉たち。
あれは、別れの挨拶なんかじゃなかった。
**あれは、彼女たちが俺という「書」に残していった、最後の書き込みだった。**
拾った者の、責任として。手放す者の、餞として。
⸻
ノートの上に、水滴が、落ちた。
一滴。
二滴。
……あれ、と思った。あれ、待て、と。
三滴目が落ちる前に、胸の奥で、ごぽ、と音がした。栓の向こうで三年半、堰き止められてた水が、水位ごと、来た。
「……う、」
「うわ」
「──**うわああああ……っ、**」
声が、出た。
止まらなかった。俺は、ノートの上に突っ伏して、声を上げて、泣いた。三十路手前の男が、一人の部屋で、嗚咽で肩を跳ねさせて、子供みたいに泣いた。隣の部屋に聞こえてたと思う。知らん。止め方なんて、知らん。三年半、出し方を忘れてたんだ。出し方を忘れてた分まで、全部、出た。
セルケ。ミオ。ノエラ。
拾ってくれて。書き込んでくれて。俺なんかを、携えて歩いてくれて。
「──ありがとう、じゃねえだろ……っ、順番が、逆、だろ、俺……っ」
悲しかったんじゃない。
──やっと、悲しめたのだ。
そして、悲しみの底に、それは、ちゃんとあった。三年半、支払われるのを待ってた、膨大な、未払いの。
感謝、というやつが。
泣き止んだのは、明け方だった。顔はひどいことになってて、ノートは三頁、波打ってた。
でも、胸の奥の、あの「しん」の場所に──生まれて初めて、音が、通ってた。
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