第82話 鏡
後日、ちゃんと飲みに行った。
居酒屋のカウンターで、俺たちは、ぽつぽつと話した。仕事の話、街の話、どうでもいい話。彼女は、よく笑い、よく食べた。
会話の中で、俺は何度か、変な感覚に襲われた。
たとえば、俺が「夜に考えたことって、信用ならなくないですか」と言いかけた時。彼女は、こともなげに、こう返した。
「あー、分かります。私、夜に出した結論は、朝までは仮置きって決めてるんで」
「────」
「? どうしました」
「……いや。俺、まったく同じルールで生きてて」
「え、ほんとですか? 仲間だ」
仲間だ、じゃないのよ。俺がそのルールを作るのに、雨の駅と、塗り潰したノートと、半年かかってるのよ。
たとえば、彼女が仕事の理不尽の話をした時。オチが、こうだった。
「──で、腹立ったんで、帰りにちょっといいプリン買って、相殺しました」
「…………二個?」
「え、なんで分かるんですか」
なんでだろうな。www
そういうことが、一晩で、五回あった。
物事の捉え方の、角度が、同じなのだ。笑うポイント。流すポイント。譲れないポイント。まるで、別々の場所で同じ設計図から組まれた二台の機械みたいに、思考の駆動音が、揃ってる。
(………………)
脳内は、その夜も、ほぼ無音だった。分析が要らなかったからだ。読む必要のない相手、というものが、この世にいるのだと、俺はこの歳で初めて知った。
帰り道、駅で別れる時、彼女が言った。
「今日、楽しかったです。……あの、変なこと言っていいですか」
「どうぞ」
「初対面の気が、しないんですよね。ずっと。──前にどっかで、会ってません?」
……。
「──さあ。会ってたら、覚えてると思うけど」
「ですよね。じゃ、気のせいか」
言ってから、彼女は自分の言葉に照れたらしく、「……変なこと言いました。今の、忘れてください」と早口で付け足して、笑って、改札に消えた。
忘れられるわけ、ないだろ。
改札の向こうの後ろ姿が、なんとなく、弾んで見えた。
会ってたら、覚えてる。……ほんとうに、そうか? 三年間、俺の視界は、何千人をタグで処理してきた。顔より先にデータを読んで、風景として流してきた。その何千人の中に──
考えるのは、やめた。
答えの出ない問いは、ノートに書いて、寝かせる。それが今の俺の、定石だ。
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家に帰って、俺は、彼女のことを思い返した。
鏡、という言葉が浮かんだ。
でも、昔の俺の知ってる鏡とは、違った。水面は、人を映して、自分は映らない。写鏡は、映すふりをして、書き換える。
彼女といる時の感覚は──合わせ鏡だった。俺が映って、それを映した彼女が映って、お互いの奥行きが、どこまでも続いてる。
どっちも、消えてない鏡。
そんな鏡が、この世にあるとはな。
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