第81話 改札
その夜のことは、短くしか書けない。
短くしか書けない理由は、読めば分かると思う。
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なんでもない、金曜だった。
凪の日々の、いつもの夜。配信を聴きながら、一杯だけ飲んで、風呂に入って、寝るだけの夜。
のはずだったが、その夜は、なぜか、コンビニに行きたくなった。特に買うものはなかった。強いて言えば、アイスが食いたかった。凪の男の夜更かしの理由なんて、そんなもんだ。
サンダルで外に出て、コンビニに行って、アイスを買って、帰り道──
駅の前を、通った。
終電の少し前の時間。改札から、まばらに人が出てくる。三年間、俺の戦場だった場所。今はもう、何の表示も浮かばない、ただの駅。
その改札から、一人、出てきた。
……。
……ビビッ、と来た。
他に言い方がない。ビビッ、だ。雷でも、運命でも、一目惚れでもない。強いて言えば、ラジオの周波数が、合った音。ずっと砂嵐だったところに、急に、声が通った感じ。
俺の足は、止まってた。
脳内は──無音だった。
システムの分析も、ない。型の一言目も、浮かばない。焚火の設計も、間合いの計算も、何も。三年分の技術の全部が、その瞬間、一個も、起動しなかった。
代わりに、口が、勝手に動いた。
「あの、」
彼女が、こっちを見た。
「……はい?」
「…………いや、あの」
言葉の続きは、なかった。用意してないんだから、当たり前だ。俺はアイスの袋を提げた、サンダルの男だった。人生でいちばん、丸腰だった。
沈黙。
ちんもく。
……この沈黙、知ってるな、と頭の隅で思った。三年半前の、あの「大丈夫でした」の夜と、同じ成分の沈黙。一周回って、戻ってきたのか、俺は。
でも、一個だけ、あの夜と違うことがあった。
俺は今夜、怖くなかった。
「──アイス、溶けるんですけど」
俺は、袋を軽く持ち上げて、言った。
「溶ける前に、そこの縁で食うんですけど。……よかったら、半分どうですか」
我ながら、意味が分からない。ナンパの歴史のどこを探しても、載ってない誘い文句だと思う。技として採点したら、零点だ。
零点の、手だった。
彼女は、俺と、アイスの袋を、交互に見て。
それから、ふ、と笑って、言った。
「……何味ですか?」
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その夜、俺たちはコンビニ前の縁で、アイスを半分こして食った。
話した内容は、書かない。
彼女のことは、この先も、あまり書かない。名前も、書かない。それだけは、先に決めてる。理由は、うまく言えない。強いて言えば──三年間、出会いを全部ノートに書いてきた男が、初めて、書きたくないと思った。
書いたら、減る気がしたのだ。
これが、俺の人生の、初めての零ノ手の夜だった。
技名ゼロ。設計ゼロ。音も、鳴らなかった。
《……本日の報告です》
家に帰った俺に、システムが、静かに言った。
《本システム、今夜は、仕事が一件も、ありませんでした。──良い夜でした》
鳴らなかったのに、あの夜より満ちてた夜を、俺は他に知らない。
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