↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

89/110

第81話 改札


その夜のことは、短くしか書けない。


短くしか書けない理由は、読めば分かると思う。


⸻


なんでもない、金曜だった。


凪の日々の、いつもの夜。配信を聴きながら、一杯だけ飲んで、風呂に入って、寝るだけの夜。


のはずだったが、その夜は、なぜか、コンビニに行きたくなった。特に買うものはなかった。強いて言えば、アイスが食いたかった。凪の男の夜更かしの理由なんて、そんなもんだ。


サンダルで外に出て、コンビニに行って、アイスを買って、帰り道──


駅の前を、通った。


終電の少し前の時間。改札から、まばらに人が出てくる。三年間、俺の戦場だった場所。今はもう、何の表示も浮かばない、ただの駅。


その改札から、一人、出てきた。


……。


……ビビッ、と来た。


他に言い方がない。ビビッ、だ。雷でも、運命でも、一目惚れでもない。強いて言えば、ラジオの周波数が、合った音。ずっと砂嵐だったところに、急に、声が通った感じ。


俺の足は、止まってた。


脳内は──無音だった。


システムの分析も、ない。型の一言目も、浮かばない。焚火の設計も、間合いの計算も、何も。三年分の技術の全部が、その瞬間、一個も、起動しなかった。


代わりに、口が、勝手に動いた。


「あの、」


彼女が、こっちを見た。


「……はい?」


「…………いや、あの」


言葉の続きは、なかった。用意してないんだから、当たり前だ。俺はアイスの袋を提げた、サンダルの男だった。人生でいちばん、丸腰だった。


沈黙。


ちんもく。


……この沈黙、知ってるな、と頭の隅で思った。三年半前の、あの「大丈夫でした」の夜と、同じ成分の沈黙。一周回って、戻ってきたのか、俺は。


でも、一個だけ、あの夜と違うことがあった。


俺は今夜、怖くなかった。


「──アイス、溶けるんですけど」


俺は、袋を軽く持ち上げて、言った。


「溶ける前に、そこの縁で食うんですけど。……よかったら、半分どうですか」


我ながら、意味が分からない。ナンパの歴史のどこを探しても、載ってない誘い文句だと思う。技として採点したら、零点だ。


零点の、手だった。


彼女は、俺と、アイスの袋を、交互に見て。


それから、ふ、と笑って、言った。


「……何味ですか?」


⸻


その夜、俺たちはコンビニ前の縁で、アイスを半分こして食った。


話した内容は、書かない。


彼女のことは、この先も、あまり書かない。名前も、書かない。それだけは、先に決めてる。理由は、うまく言えない。強いて言えば──三年間、出会いを全部ノートに書いてきた男が、初めて、書きたくないと思った。


書いたら、減る気がしたのだ。


これが、俺の人生の、初めての零ノ手の夜だった。


技名ゼロ。設計ゼロ。音も、鳴らなかった。


《……本日の報告です》


家に帰った俺に、システムが、静かに言った。


《本システム、今夜は、仕事が一件も、ありませんでした。──良い夜でした》


鳴らなかったのに、あの夜より満ちてた夜を、俺は他に知らない。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。