第9話 銀貨一枚
「渡り屋」という場所の噂は、前から拾ってた。
潜る者たちの間で、ぽつぽつ語られる名前。
曰く、声をかけることを教えてくれる場所がある。曰く、大金は取られない。銀貨一枚で入り口まで連れて行ってくれる。曰く、そこで「開眼」した者から、世界の見え方が変わる。
胡散臭い。全部胡散臭い。特に「開眼」が最高に胡散臭い。
でも俺には、判断材料が一つあった。
あの、手をブラーんの男。あの「始まる前に終わってる技」。あれが実在する以上、この世界には俺の知らない階層が実在する。なら、そこへの入り口が実在しても、おかしくない。
それに、銀貨一枚なら──騙されても飲み会一回分だ。
申し込んだ。集合は次の週末。
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前夜。俺は床に座って(ベッドはあるのに、大事な夜はなぜか床に座る癖があった)、一冊終わったノートを読み返した。
周回の記録。深呼吸の記録。会釈の記録。おばあちゃんの記録。最接近〇・八メートルの記録。塗り潰された「もう、やめようかな」の跡。
そして最後のページの、「大丈夫でした」の記録。
我ながら、ひどいノートだった。成果と呼べるものがほぼない。この半年を人に説明しろと言われたら、「駅を徘徊してました」以外の要約が難しい。
でも、と思った。
このノートがなかったら、俺は明日、申し込んでない。
三周で帰った日がなければ、記録を取ってない。記録がなければ、潜る男たちに気づいてない。あの男の技を見てなければ、上の階層を信じてない。水鏡に締め出されてなければ、街に残ってない。「大丈夫でした」がなければ、習おうと思えるだけの自分への信用がない。
全部、繋がってた。成果ゼロの半年が、一本の助走路になってた。
この半年を、俺は後に「助走」と呼ぶことになる。
──それは後の話で、その夜の俺はただ、目覚ましを二重にかけて、緊張でなかなか寝つけずにいた。
明日、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。
どっちでもいい。俺の持ち札はもともとゼロだ。ゼロの男は、テーブルに着くだけで収支がプラスになる。
……そういえばあの頃の俺は、何でも収支で考える男だった。
その癖ごと、明日からの日々にぶっ壊されるとも知らずに。
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