第8話 一声
駅は、いつも通りだった。
いつも通りの雑踏。いつも通りの自販機(今日は買わない)。夕方の光。
変わってたのは、俺の腹の底だけ。
今日、出す。何が起きても、一声、出す。
技術のことは考えない。使えるレベルにないのは俺が一番知ってる。今日は生身で出す。それだけの日だ。
一時間、歩いた。
そして──その瞬間が来た。
歩道の先から、歩いてくる人がいた。
急いでない歩き方。ふわっとした髪が、歩くたびに軽く揺れる。柔らかい色の服。イヤホンはしてない。
俺はなぜか「この人だ」じゃなくて「今だ」と思った。相手じゃなく、時間の方が来た。
足が、動いた。半年動かなかった足が。
距離、三メートル。
心臓、バクバクバクバク。うるさい。耳の内側で鳴ってる。
二メートル。手汗。喉が締まる。いつもならここで吸って、吐いて、終わる。
一メートル。
「あの! すいまっせぇ……」
出た。
出たが。
すいまっせぇ、てなんだよ!!!! 噛んだ!? 伸びた!? 挨拶が方言みたいになってるが!??
彼女が、足を止めた。
え。
止まった。止まってくれた。
ふわっと、シャンプーのいい匂い。
彼女がこっちを見る。ちょっと驚いた、大きい目。
(………………)
(何話す???)
沈黙。
ちんもく。
(噓だろ、頭が真っ白──半年分の理論どこいった、棚ごと消えたが!?)
「あ、え、あの、……タイプ? で」
タイプ? で。
(はぁ、??? 何その言い方!!!! 疑問形!? 自分のタイプに自信ないの!? どうしよう!!!!)
彼女が、首を少しかしげた。
「……どうかされました??」
声、めっちゃ優しい。
かわいいっ、えっ!!! こっち見てる、めっちゃ見てる、どうしよう!??
心臓、限界。耳、熱い。多分今の俺、顔真っ赤。
(言え、次の言葉、なんかあるだろ、理由づけ、自己紹介、なんでも──)
(あーーーわーーーダメだ俺なんて何してんの? 恥ずかしくねーの? は?? もうダメだ意味わかんねー──)
「あの!! 大丈夫でした!!!!」
出た言葉が、それだった。
大丈夫でした。
過去形。何が。誰が。
彼女は二秒くらい、きょとんとして。
「え? そうなんですね??」
ニコ。
笑った。ちょっと困った感じの、でも柔らかい笑顔で。そして軽く会釈して、歩いていった。
ふわっとした髪と、いい匂いだけが残った。
──あの匂いを、俺は今も、覚えてる。人生初の一声の匂い。……キモいか? キモいな。でも事実なんだから、しょうがない。
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雑踏の真ん中で、俺は立ち尽くしていた。
心臓がまだバクバクいってる。手汗がすごい。
撃沈だ。誰がどう見ても撃沈。「大丈夫でした」て。声かけの歴史に残る迷言だろ。
なのに。
気づいたら、俺は笑っていた。
世界が、終わらなかったのだ。
半年間、俺の体は「声をかけたら取り返しのつかないことが起きる」と信じてた。だから足が止まり、喉が締まった。
実際に起きたのは──困った笑顔と、ニコ、だけだった。
空は落ちてこなかった。地面は硬いままだった。硬い地面の上に、俺はまだ立ってた。
立ててるなら、次がある。
その夜のノート。
「本日、声かけ数、一。人生通算、一」
次の行に、もう一つ。
「この一声、俺一人じゃ限界がある」
半年の独学で、一声出すとこまでは来た。ここから先は、潜り方を知る者に習うべきだ。
例の噂を、調べる時が来た。
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