第80話 凪
それからの日々を、凪、と呼んでる。
波が、ない日々だった。
朝、起きる。──ベッドで、だ。床の朝は、いつの間にか、なくなってた。劇的な卒業式はなく、ただ、天気を数えるみたいに、ベッドの朝が増えて、床の朝が減って、気づいたら、ゼロになってた。
仕事に行く。普通に働く。面談の回数は、普通に戻ってた。
夜、帰る。飯を作る(レシピのエクセルは、まだある。趣味は攻略でいいことにした)。
週末は、ノートを書くか、一門の誰かと飯を食うか、KPと縁で茶を飲むか。
そして、日課が一個、増えてた。
夜、配信を聴きながら、一杯だけ、飲むのだ。
──おい、と思っただろ。酒、戻ったのかよ、と。
戻ったんじゃない。**変わった**んだ。あの頃の酒は、電源を消すためのボタンだった。十本の夜も、一リットルの夜も、全部、消灯のための酒だった。
今の一杯は、違う。配信のどうでもいい喋りを聴きながら、一日の終わりに、ゆっくり飲む一杯。消すためじゃなく、味わうための。うまいから、飲む。うまくない日は、飲まない。それだけの、ただの一杯。
同じ液体が、ここまで別の飲み物になるとはな。
⸻
凪の日々は、静かで、平和で──そして、正直に書くと、少しだけ、物足りなかった。
波のない海は、安全だ。でも、船乗りだった男の体は、たまに、波の記憶を思い出す。あの、夜の街の駆動音。チリ、、ンの快感。人生が毎週更新されてた、あの速度。
《戻りたい、ですか》
(……いや。戻りたくは、ない。ただ──)
《ただ?》
(──この凪の先に、何かあるのかなとは、思う)
凪ってのは、終わりなのか。それとも、何かの前なのか。
三年走って、燃えて、落ちて、離れて、辿り着いたこの静かな水面が、俺の物語の最終頁なのか。だとしたら、それはそれで、悪くない頁だとは思う。床の男の到達点としては、上出来すぎるくらいだ。
でも。
夜、配信を聴きながら、一杯を飲みながら、俺は時々、窓の外の街の灯りを見た。
あの灯りのどこかで、今夜も誰かが、初めての一声に震えてる。誰かが撃沈して、誰かの札に火が入って、誰かが乾杯で救われてる。
俺の物語は、凪いだ。
でも、なんとなく──ほんとうに、なんとなくだが──
まだ、次の頁がある気がしてた。
【 ??? 】11
<第8部・了>
あとがき(今日の発見):断つ、について一個だけ。「いつでも戻れる」と思ってるうちは、離れられてない。エンジンを切って、冷え切って、それでも平気だった朝に、初めて離れたことになる。──焦るな。俺は千日かかった。天気は、一日ずつしか数えられない。
---




