第79話 注釈のない街
視界が、完全に消えた夜の話をする。
その夜、俺は梟ノ森の駅前に立って──固まった。
何も、表示されてなかった。
タグ、ゼロ。数字、ゼロ。装い、ゼロ。三年ぶりの、生の雑踏。
そして俺は、思い知った。
情報のない雑踏が、こんなに広いってことを。
前の俺の視界は、雑踏を「読めるもの」にしてくれてた。全員に注釈が付いて、全員が分類済みで、世界は整理された図鑑だった。図鑑は、安心だ。読めるものは、怖くない。
注釈が消えた今、目の前にいるのは──分類されてない、何千人の、知らない人生だった。
あの人が何を考えてるか、分からない。あの子が急いでる理由も、あの二人が笑ってるわけも、分からない。読めない。予測できない。全員が、開けてみるまで中身の分からない、本だった。
怖かった。
正直に言う。ちょっと、怖かった。三年前、声をかけられなかった頃の怖さと、似て、でも違う怖さ。あの頃は「拒絶されるのが」怖かった。今のは──「世界がこんなに知らないものだらけなのが」怖かった。
でも。
その怖さの、すぐ裏に、それはあった。
⸻
雑踏の中を、ゆっくり歩いた。
タグの消えた人々と、すれ違っていく。
会社帰りらしき人。重そうな鞄。何の仕事だろう。知らない。
笑い合う学生たち。何の話だろう。知らない。
一人でイヤホンの子。何を聴いてるんだろう。知らない。
知らない。知らない。知らない。──全員が、知らない。
……なんだこれ。
なんだこれ、なんだこれ。
世界、こんなに、でかかったっけ!?
肺に、夜の空気が、どかっと入ってきた。肩が、軽い。三年間、雑踏を歩くたびに無意識で回してた解析の負荷が、ゼロになってる。目に入る全員が、未読で、未知で、開いてない本で──その本屋のど真ん中に、俺は、手ぶらで立ってる。
気づいたら、俺は、小走りしてた。
三十路手前の男が、夜の駅前を、意味もなく、小走りした。楽しかったから。それ以外の理由が、なかった。すれ違ったサラリーマンが、ちょっと引いてた。すまん。でも、走りたかったんだ。
三年前の、あの北の門で、俺が言ったこと。「この街は、知らない人がまだ『人』なんだよ」。東京は人が多すぎて、知らない人が風景になる、って。
違ったのだ。
風景にしてたのは、街じゃない。
視界だ。
タグは、人を風景にするための道具だった。分類した瞬間、その人は「読めるもの」になって、読めるものは、もう、見なくていい。俺の三年間の視界は、解像度が上がってたんじゃない。
世界を、効率よく見ないための装置が、精密になってただけだった。
注釈のない街は、怖くて、広い。
広くて──全員が、人だった。
俺は雑踏の真ん中で、走るのをやめて、息を整えて、それから、少し、泣きそうになった。理由は、その時は分からなかった。今なら分かる。
三年ぶりに、世界に、初めまして、を言ってたんだ。
初めましての世界は、広くて、明るくて、誰のことも、まだ何も知らなかった。
最高だろ、そんなの。
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