第69話 元栓
転機は、劇的に来なかった。
ある夕方、駅前で、それは起きた。
信号待ちをしてたら、横断歩道の向こうに、女の人が二人、立ち話をしてた。友達同士の、別れ際の長話。片方が、何かを言って、もう片方が、声を立てて笑った。
──その笑い方が、セルケに、少し似てた。
目を細めて、髪が揺れて、楽しかった時間の余熱で笑う、あの感じ。
俺は、それを見た。
見て──
何も、動かなかった。
「…………」
懐かしさも、痛みも、何も。心拍数、変化なし。ただ「似てる」という情報だけが、視界のタグと同じ棚に、すっと分類された。
信号が青になった。俺は歩き出して、三歩目で、止まった。
……おい。
待て。
今の、なんで、何も動かなかった?
俺はその場で、頭の中の棚を、順番に開け始めた。実験だ。一個ずつ、確かめる。
セルケのこと。──あの澄んだ別れ。おいしかったよ。……動かない。
ミオのこと。──じゃあね。見つかった? ……動かない。
ノエラのこと。──ついていけません、でも好きです。ごはん、ちゃんと食べてね。……動かない。
倒れた朝のこと。床の毎朝のこと。会社への文面の在庫のこと。
動かない。動かない。動かない。
全部、「情報」だった。痛かったはずの記憶が、全部、痛みの抜き取られた、ただのデータになって、棚に並んでた。
(──悲しく、ない)
俺は、夕方の駅前で、立ち尽くした。
悲しくない。いつから? ……遡った。ミオの玄関の夜? いや、あの夜はまだ、重かった。ノエラの夜? あの夜は、正しさの包帯を巻いた。巻けたということは、傷は、あった。じゃあ、その後だ。無双が始まって、全部が輝いて見え始めた、あのあたりから──
俺は、悲しんでない。
一度も。
⸻
そして、見つけてしまった。
胸の奥の、あの「しん」の正体を。
あれは、静けさじゃなかった。
──元栓だった。
期待の、元栓。俺はどこかの時点で、それを、締めてたのだ。人に何かを期待する管の、大元の栓を。期待しなければ、失望は発生しない。失望が発生しなければ、悲しみも発生しない。悲しみが発生しなければ、俺は、無敵だ。
無双の正体は、強さじゃなかった。
期待の放棄だった。
何も入ってこないガラスの内側から見れば、世界は、そりゃあ輝いて見える。ガラスは光をよく通す。通すのは、光だけだ。温度は、通さない。
楽しかったのは、本当。満たされてたのも、本当。悲しくなかったのも、本当。
全部本当で──悲しめる回路だけが、切ってあった。
⸻
家に帰って、床に座って、俺は、久しぶりにステータスを、ちゃんと見た。
【 Lv.44 】
声掛け:1300超 札:200超
【 ??? 】7
声をかけるたび、レベルは上がった。それは、嘘じゃなかった。この数字は、全部、本物だ。
なのに俺は、まだ、床で目を覚ます。
──この一行の意味が、その夜、初めて、裏返った。
床から抜け出すために、レベルを上げてたんじゃなかったのか? 違った。順番が、逆だった。
レベルを上げるために──数えられるものだけを浴び続けるために──俺は、床の男のままでいる必要があったのだ。期待の元栓を締めた男。悲しめない男。数字しか入ってこない男。
そういう男が、一番、レベルが上がる。
そういう男の朝が、床じゃなくて、どこだっていうんだ。
《…………ミナモ》
無音だった視界に、小さく、声が灯った。ずいぶん久しぶりの、あの《》だった。
《栓、見つけましたね》
(……ああ)
《開けますか》
俺は、答えられなかった。
栓を開けたら、二年半ぶんの水が、一気に来る。セルケも、ミオも、ノエラも、倒れた朝も、床の毎朝も、全部、痛みを取り戻して、戻ってくる。
その水圧に、今の俺が、耐えられるのか。
「…………まだだ」
俺は、栓に手をかけたまま、その夜は、開けなかった。
でも、覚えておいてくれ。
見つけた栓は、もう、なかったことにできない。
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