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第68話 底


底の朝の話を、する。


短い話だ。底ってのは、だいたい短い。


⸻


その朝も、床だった。


いつもの木目。いつもの関節の軋み。いつもの、口の中の砂漠。


携帯を見た。時刻を見て、曜日を見て──仕事に、遅れてた。大幅に。


慌てなかった。慌てる機能が、その朝は、起動しなかった。俺はただ、床に転がったまま、天井を見て、会社に送る文面を、頭の中で組み立てた。体調不良。通院。文面は、すぐできた。こういう文面の在庫が、この頃の俺には、あった。在庫があること自体が、答えだった。


送信して、俺は、そのまま天井を見てた。


静かだった。


頭の中が、じゃない。頭の中は、二日酔いの耳鳴りで、うるさかった。


静かだったのは──もっと、奥だ。


胸の、一番奥。あの、しん、とする場所。祭りの後の校庭。あそこが、その朝、過去最大に、静かだった。校庭どころじゃない。夜の海だ。音のない、暗い、境目の見えない。


(………………)


(………………)


システムの声が、なかった。


開眼の夜から二年半、俺の視界に住んで、数えて、注釈をつけて、警告して、白旗を上げてきた、あの《》の声。ミュートされても、緊急時には貫通してきた、あの声が。


その朝は、貫通してこなかった。


脳内、無音。表示、なし。議題も、なし。


俺は、からっぽの視界で、一人、天井を見てた。


怖い、とすら思わなかった。怖いという感情も、その朝は、在庫切れだった。


⸻


昼過ぎに起き上がって、水を飲んで、床を見た。


昨夜の缶が、転がってた。数える気にもならない本数。


俺はそれを、一本ずつ、拾った。拾って、袋にまとめて、ゴミの日を確認して、玄関に置いた。


それだけの作業に、なぜか、ひどく時間がかかった。


作業しながら、頭の隅で、誰かの声がした。システムでもない、もっと古い声。二年半前の、あの雨の夜の、ノートの声。


──もう、やめようかな。


……何を? と、俺は自分に聞いた。


酒を? 街を? 声かけを? それとも──


主語の出ないまま、その問いは、暗い海に沈んだ。


夜の結論は信用するな、朝まで待て。俺の古いルールだ。


でもあの朝の問いは、朝に出た問いだった。


朝の問いは、どこまで待てばいい?


誰にも言わないまま、俺はその朝を、一人で畳んで、仕舞った。


---



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