第64話 奈落
その夜のことは、正直、半分しか覚えてない。
覚えてる半分だけ、書く。
金曜だった。仕事で、何かがあった(この「何か」を思い出せないのが、もう答えなんだが)。夜の街に出て、研究をして、成果はあって、でも例のごとく胸の奥はしんとしてて、一門の誰かと飲んで、別れて、コンビニに寄った。
甘い缶では、足りない夜だった。
俺は棚の下の段から、一番安い焼酎の、一番でかい瓶を取った。四リットルとかの、業務用みたいなやつじゃない。一リットルの、それでも十分すぎる瓶。
家に帰って、飲んだ。
グラスも使わなかった気がする。データも開かなかった。ただ、頭の中の全部の部屋の電気を、一気に消したかった。消えるまで、飲んだ。
《……ミナモ。今夜は、もう──》
声が、途中で、途切れた。
──ここから、記憶が、飛ぶ。
⸻
次の記憶は、冷たさだ。
頬が、冷たい。硬い。
目を開けると、視界の低い位置に、アスファルトがあった。
……外?
体を起こす。関節が軋む。ここは──家の近くの、路地だった。コンビニと家の、中間あたり。俺は、路上で、倒れてたらしい。時刻は、空の色からして、夜明け前。
(………………)
(………………)
脳内は、無音だった。システムの表示も、まだ、灯らない。
俺はしばらく、路上に座ったまま、ぼーっとしてた。財布はあった。携帯もあった。怪我も、たぶん、なかった。何も失ってない。運が良かった。それだけの話だ。
立ち上がろうとして、ふと、気づいた。
俺の横に、水のペットボトルが、一本、置いてあった。
未開封の、五百ミリの水。
「……買ったっけ」
覚えてない。まあ、買ったんだろう。俺は記憶にない自分に感謝して、その水を飲んだ。
冷たくて、うまかった。夜明け前の路地で飲む水は、理不尽なくらい、うまかった。
家まで歩いて、ベッドに──は行けなくて、床に転がって、寝直した。
⸻
……この朝のことを、俺は、誰にも言わなかった。
一門にも、KPにも、誰にも。
言わなかった理由は、恥ずかしかったから、じゃない。
──大したことだと、思ってなかったからだ。
路上で寝た。起きた。水があった。飲んだ。帰った。以上。俺の中で、この朝は「ちょっと飲みすぎた話」のフォルダに、綺麗に整理された。
危機感というものは、危機の中にいる人間の中で、一番最初に酔い潰れる。
あと、水の話。
あの水を誰が置いたのか、俺は長いこと「過去の自分」だと思ってた。
違ったと知るのは、ずっと後だ。
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