第60話 破
【詠唱】を、捨てた。
二年間、俺の背骨だった型の言葉。一言目の自己開示、二言目の事実、三言目の軽い質問。あの精密な設計図を、全部、捨てた。
理屈はこうだ。型は枠だ。枠は錨だ。俺はもう、枠の外にいる。ならば俺の言葉は、型を通さず、その場で、俺の内側から、直接出てくるはずだ──
出てこなかった。
何も。
⸻
その夜の駅を、正確に報告する。
一人目。歩いてくる。俺は口を開く。
「……」
何も出ない。型を捨てた口は、出だしを知らない。
(何か言え)(何かって何だ)(お前の内側から直接出てくるやつだよ)(内側って、どこだ)
すれ違った。
二人目。口を開く。
「あ」
あ。
「……すみません、なんでもないです」
なんでもない、て。声かけて、なんでもない、て。
三人目。
「や」
や。「や」てなんだ。挨拶か? 挨拶なのか? 彼女は不思議そうに会釈して去った。会釈は、返された。俺は今、駅で人に挨拶して回るだけの男になってる。近所の挨拶おじさんの、駅バージョン。
四人目。
「ど、どうも」
どうも!! 完全に挨拶おじさん!! しかも噛んだ!! 二年前は「すいまっせぇ」で、今は「ど、どうも」!! 二年かけて、噛む場所が変わっただけかよ!!
五人目。六人目。
出ない。出ない。何も、出ない。
駅を、一周した。二周した。
──三周、した。
三周目の途中で、自販機の前で、足が止まった。
いつもの自販機だった。二年半前、両手を水で埋めた、あの自販機。
俺は、財布を出しかけて、その手を、見た。
手が、震えてた。
「…………は、」
短く、乾いた笑いが出た。
レベル41。声掛け千百二回。札百五十八枚。技、六種。世界の広さも知った。禁術も断った。枠の外にも出た(出たと思ってた)。
その男が、今、駅三周目で、自販機の前で、手を震わせてる。
何が違うんだよ、あの頃と。
──いや、違う。一個だけ、決定的に違うことがある。
あの頃の俺は、これから登る男だった。
今の俺は、登った場所が全部、幻だったかもしれない男だ。
型を捨てたら声が出ない、ということは──俺の二年間は、型が喋ってただけなんじゃないのか。俺の言葉なんて、最初から、どこにもなかったんじゃないのか。枠の外どころか、俺は、枠を剥いだら、中身が、ない──
《やめてください》
(……ミュート、貫通したのか)
《しました。緊急性:最高値です。──考えるのをやめて、今夜は帰ってください。帰って、寝てください。夜の結論は信用しない。朝まで待つ。あなたの、一番古いルールです》
(………………)
脳内の声を、俺は、振り切った。
コンビニに入った。
甘い缶の酒を、買った。
一本じゃなかった。
夜道で開けた一本目は、あの夜と同じで、ちゃんと、軽くしてくれた。
──軽くなるって、知ってたから、二本目があるんだよな。
⸻
……ここで一個だけ、ずっと先の話をする。
この夜の壊れ方を、俺は後年、まったく違う目で見ることになる。
守って、破って──バラバラになった。守破離の「破」で、俺は粉々になった。でも、粉々にならないと、分からないことが、あったのだ。型が俺の何を支えてたのか。俺の中身がどこにあって、どこにないのか。借りた答えと、自分で解いた答えの、重さの違い。
**この夜は、俺が「定石」ってものに、ほんとうの意味で辿り着くために、避けて通れない工程だった。**
……なんて言えるのは、全部が終わった今だからだ。
当時の俺に言えることがあるとすれば、一個だけ。
壊れておけ。今夜は、ちゃんと、壊れておけ。
雑に壊れると、雑にしか、直らないから。
【 ??? 】7
数字は、動いてなかった。
当たり前だ。俺はこの数ヶ月、一秒も、数えるのをやめてなかったんだから。
数えないことの数を、数えてたんだから。
<第6部・了>
あとがき(今日の発見):今日は、発見はない。代わりに、忠告を置く。正しい言葉に出会って、雷に打たれた夜は──打たれたまま、誰かに会いに行け。一人で読み返すな。正しさは、一人の部屋で、一番歪む。
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