↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/67

第56話 でも好きです


その夜のことは、順番に書く。


一行も、間違えたくない。



ノエラの部屋だった。


彼女の淹れた茶があって、本の匂いがあって、いつもの夜のはずだった。俺は最近の「活動」の話をしてた。四の間を語る集まりが大きくなってること。もっと広げるために、俺が考えてる次の展開のこと。


「──で、ゆくゆくは、これを体系化して、俺が」


「ミナモさん」


彼女が、静かに、俺の言葉を止めた。


湯呑みを両手で持って、しばらく黙って、それから、まっすぐ俺を見た。


「一個、聞いていいですか」


「うん」


「最近のミナモさんの話ね、世界とか、みんなとか、体系とか──大きい言葉が、増えました」


「……そう?」


「増えました。私、数えてたので」


数えてた。信じる人は、信じてる間、ちゃんと数えてるのだ。


「四十三回です。今月」


「…………数えすぎだろ」


「本気で聞いてると、数えちゃうんです」彼女は、笑わなかった。「で、その分だけ、減った言葉があります」


「……何が」


「ミナモさん自身の話です」


「…………」


「前はあったんです。今日こんな失敗した、とか。駅を三周してた頃の話とか、大丈夫でした、の話とか。私、あの話たちが、大好きだったんです。かっこ悪くて、正直で、ミナモさんの声がしてた。──最近は、全部、正しい話。正しくて、大きくて、綺麗な話」


彼女の声が、ほんの少しだけ、揺れた。


「私、気づいたら、ミナモさんの話を聞いてるのに──ミナモさんの声を、もう二ヶ月、聞いてない」


湯呑みの中で、茶が、静かに湯気を立ててた。


「私ね」と彼女は続けた。「本気の人が好きです。それは変わってません。ミナモさんが本気なのも、疑ってません。でも」


一拍、置いて。


「──本気で、間違った方向に走ってる人には、ついていけない。人の夢は応援できるけど、人の迷子には、付き合えない」


──迷子。


その一語が、俺の中の何かの、引き金を引いた。


「迷子って──俺は、迷ってない」


「ミナモさん」


「迷ってない。迷ってない。むしろ今、人生でいちばん、道が見えてる」


「うん」


「見えてるんだよ。全部が繋がってる。枠のことも、錨のことも、この街の仕組みも、俺がこの二年何に苦しんでたのかも、全部、説明がつく。こんなに視界がクリアだったことは、生まれてから一度もない。迷子? 冗談だろ。迷ってない。断言する。俺は、迷ってない」


「…………」


「迷ってるのは──」


言うな。


言うな、当時の俺。そこで止まれ。頼むから。


「──迷ってるのは、むしろ、俺以外の全員の方だ」


……。


言った。


言い切った。愛する人の部屋で。彼女の淹れた茶の湯気の向こうで。人生でいちばん醜い断言を、人生でいちばん澄んだ目に向かって、俺は、放った。


ノエラは、目を伏せなかった。


逸らしもしなかった。ただ、まっすぐ俺を見たまま、静かに、言った。


「……うん。──それが、言えちゃうんだね。今のミナモさんは」


その声は、責めてなかった。


責めてないことが、どんな叱責より、深く刺さる言い方が、この世にはある。


彼女は湯呑みを置いて、立ち上がって、窓を少し開けた。夜の空気が入って、茶の匂いが、揺れた。


窓の外を見たまま、彼女は言った。


「ミナモさん。あなたにはもう、ついていけません」


振り向いた彼女の目は──濡れてた。


濡れてるのに、声は、最後まで、澄んでた。


「でも──好きです」


「…………」


「ついていけない、と、好き、は、別なんです。私の中では、ずっと別。ごっちゃにして、嫌いになってお別れする方が、多分、楽なんだと思う。でも、それ、嘘になるから。私、ミナモさんに、最後まで嘘つきたくないから」


彼女は、袖で目元を一回だけ拭って──その手首が、小さく震えてるのが、見えた──それから、ちゃんと笑った。


澄んだ声を出すのに、あの人がいくら払ってたのか。当時の俺は、見ようともしなかった。


「だから、これはお別れだけど、嫌いになったんじゃない。それだけは、持って帰ってください」



玄関で、靴を履いた。


ドアノブに手をかけた俺の背中に、最後の声がかかった。


「ミナモさん」


「……」


「体には、気をつけてね。──ごはん、ちゃんと食べてね」


……。


世界を変える男に、かける言葉が、それか。


それなんだよ。それが、あの人なんだよ。俺の掲げた大きい言葉の全部が、彼女の「ごはん、ちゃんと食べてね」一つに、質量で負けてた。負けてることに、当時の俺は、気づきもしなかった。


──おい、当時の俺。


振り返れ。今。ドアが閉まる前に。一回でいい。振り返って、彼女の顔を、ちゃんと見ろ。


……振り返らなかったんだよな、お前は。



帰り道のことは、あんまり覚えてない。


覚えてるのは、頭の中で、二つの文が、ずっとぐるぐる回ってたことだ。


ついていけません。


でも、好きです。


普通、この二つは、セットで来ない。別れの言葉は、だいたい、好意ごと畳んで持っていく。彼女は、畳まなかった。信じられない、と、好き、を、几帳面に分けて、片方だけ置いて、いった。


──それが、どれだけ難しいことか。


分けられる人の前で、俺は、何も分けられてなかった。正しさと、自分。借りた答えと、解いた答え。大きい言葉と、俺の声。全部、混ぜて、混ぜたまま、走ってた。


なのに、その夜の俺が出した結論は、こうだ。


「……惜しかったな。彼女も、あと少しで、枠の外に出られたのに」


──おい。


おい、当時の俺。


お前は、いつか、この夜を思い出して、床を叩いて悔やむ。彼女が置いていった「でも好きです」の意味を解くのに、お前は三年かかる。「ごはん、ちゃんと食べてね」の意味を知るのは、飯が食えなくなった朝だ。


でもその夜のお前は、傷ついた自尊心に、正しさの包帯を巻いて、寝た。


包帯の下の傷は、膿んでいく。


---



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。