第56話 でも好きです
その夜のことは、順番に書く。
一行も、間違えたくない。
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ノエラの部屋だった。
彼女の淹れた茶があって、本の匂いがあって、いつもの夜のはずだった。俺は最近の「活動」の話をしてた。四の間を語る集まりが大きくなってること。もっと広げるために、俺が考えてる次の展開のこと。
「──で、ゆくゆくは、これを体系化して、俺が」
「ミナモさん」
彼女が、静かに、俺の言葉を止めた。
湯呑みを両手で持って、しばらく黙って、それから、まっすぐ俺を見た。
「一個、聞いていいですか」
「うん」
「最近のミナモさんの話ね、世界とか、みんなとか、体系とか──大きい言葉が、増えました」
「……そう?」
「増えました。私、数えてたので」
数えてた。信じる人は、信じてる間、ちゃんと数えてるのだ。
「四十三回です。今月」
「…………数えすぎだろ」
「本気で聞いてると、数えちゃうんです」彼女は、笑わなかった。「で、その分だけ、減った言葉があります」
「……何が」
「ミナモさん自身の話です」
「…………」
「前はあったんです。今日こんな失敗した、とか。駅を三周してた頃の話とか、大丈夫でした、の話とか。私、あの話たちが、大好きだったんです。かっこ悪くて、正直で、ミナモさんの声がしてた。──最近は、全部、正しい話。正しくて、大きくて、綺麗な話」
彼女の声が、ほんの少しだけ、揺れた。
「私、気づいたら、ミナモさんの話を聞いてるのに──ミナモさんの声を、もう二ヶ月、聞いてない」
湯呑みの中で、茶が、静かに湯気を立ててた。
「私ね」と彼女は続けた。「本気の人が好きです。それは変わってません。ミナモさんが本気なのも、疑ってません。でも」
一拍、置いて。
「──本気で、間違った方向に走ってる人には、ついていけない。人の夢は応援できるけど、人の迷子には、付き合えない」
──迷子。
その一語が、俺の中の何かの、引き金を引いた。
「迷子って──俺は、迷ってない」
「ミナモさん」
「迷ってない。迷ってない。むしろ今、人生でいちばん、道が見えてる」
「うん」
「見えてるんだよ。全部が繋がってる。枠のことも、錨のことも、この街の仕組みも、俺がこの二年何に苦しんでたのかも、全部、説明がつく。こんなに視界がクリアだったことは、生まれてから一度もない。迷子? 冗談だろ。迷ってない。断言する。俺は、迷ってない」
「…………」
「迷ってるのは──」
言うな。
言うな、当時の俺。そこで止まれ。頼むから。
「──迷ってるのは、むしろ、俺以外の全員の方だ」
……。
言った。
言い切った。愛する人の部屋で。彼女の淹れた茶の湯気の向こうで。人生でいちばん醜い断言を、人生でいちばん澄んだ目に向かって、俺は、放った。
ノエラは、目を伏せなかった。
逸らしもしなかった。ただ、まっすぐ俺を見たまま、静かに、言った。
「……うん。──それが、言えちゃうんだね。今のミナモさんは」
その声は、責めてなかった。
責めてないことが、どんな叱責より、深く刺さる言い方が、この世にはある。
彼女は湯呑みを置いて、立ち上がって、窓を少し開けた。夜の空気が入って、茶の匂いが、揺れた。
窓の外を見たまま、彼女は言った。
「ミナモさん。あなたにはもう、ついていけません」
振り向いた彼女の目は──濡れてた。
濡れてるのに、声は、最後まで、澄んでた。
「でも──好きです」
「…………」
「ついていけない、と、好き、は、別なんです。私の中では、ずっと別。ごっちゃにして、嫌いになってお別れする方が、多分、楽なんだと思う。でも、それ、嘘になるから。私、ミナモさんに、最後まで嘘つきたくないから」
彼女は、袖で目元を一回だけ拭って──その手首が、小さく震えてるのが、見えた──それから、ちゃんと笑った。
澄んだ声を出すのに、あの人がいくら払ってたのか。当時の俺は、見ようともしなかった。
「だから、これはお別れだけど、嫌いになったんじゃない。それだけは、持って帰ってください」
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玄関で、靴を履いた。
ドアノブに手をかけた俺の背中に、最後の声がかかった。
「ミナモさん」
「……」
「体には、気をつけてね。──ごはん、ちゃんと食べてね」
……。
世界を変える男に、かける言葉が、それか。
それなんだよ。それが、あの人なんだよ。俺の掲げた大きい言葉の全部が、彼女の「ごはん、ちゃんと食べてね」一つに、質量で負けてた。負けてることに、当時の俺は、気づきもしなかった。
──おい、当時の俺。
振り返れ。今。ドアが閉まる前に。一回でいい。振り返って、彼女の顔を、ちゃんと見ろ。
……振り返らなかったんだよな、お前は。
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帰り道のことは、あんまり覚えてない。
覚えてるのは、頭の中で、二つの文が、ずっとぐるぐる回ってたことだ。
ついていけません。
でも、好きです。
普通、この二つは、セットで来ない。別れの言葉は、だいたい、好意ごと畳んで持っていく。彼女は、畳まなかった。信じられない、と、好き、を、几帳面に分けて、片方だけ置いて、いった。
──それが、どれだけ難しいことか。
分けられる人の前で、俺は、何も分けられてなかった。正しさと、自分。借りた答えと、解いた答え。大きい言葉と、俺の声。全部、混ぜて、混ぜたまま、走ってた。
なのに、その夜の俺が出した結論は、こうだ。
「……惜しかったな。彼女も、あと少しで、枠の外に出られたのに」
──おい。
おい、当時の俺。
お前は、いつか、この夜を思い出して、床を叩いて悔やむ。彼女が置いていった「でも好きです」の意味を解くのに、お前は三年かかる。「ごはん、ちゃんと食べてね」の意味を知るのは、飯が食えなくなった朝だ。
でもその夜のお前は、傷ついた自尊心に、正しさの包帯を巻いて、寝た。
包帯の下の傷は、膿んでいく。
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