第51話 四の間
その本は、渡り屋の広間の、隅の机に置いてあった。
薄い、私家版みたいな装丁の本。表紙に、題だけが刷ってある。
『四の間』
「なんすかこれ」と俺は、近くにいた顔見知りに聞いた。
「あー、最近、街で回ってるやつ。読んだ人がみんな変になる本」
「変になる?」
「いや、いい意味で。……多分いい意味で。作者不明なんだけど、妙に刺さるらしくて。写しが出回ってる」
《作者不明の書物が街で流通している時点で、警戒を推奨します》
(読むだけ読む。分析は俺の得意分野だろ)
俺は借りて帰った。夜、部屋で、なんとなく開いた。
──そのなんとなくを、俺は三年、引きずることになる。
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最初の頁に、こうあった。
『一の間、二の間、三の間。人は数えられる部屋に住んでいる。この書は、数えられない部屋──四の間への、扉である』
ふうん、と思った。詩みたいなもんか、と。
読み進めた。
止まらなくなった。
『きみが見ている世界は、世界そのものではない。きみの枠が切り取った、世界の切れ端である』
『枠は、変えられる。枠を変えれば、同じ世界が、別の世界になる』
『数字は、錨である。きみを一つの海底に繋ぎ止める。数えるのをやめた者から、船は動き出す』
頁をめくる手が、震え始めてた。
なぜか。
──答えが、書いてあったからだ。
俺がこの二年、ノートの隅に放置してきた問いたち。型の言葉は嘘なのか。変えた声は俺の声なのか。なぜ戦果のあった夜ほど、部屋がしんとするのか。俺のゴールは何なのか。
解けなかった問いの、全部に、この本は答えてた。
型は嘘ではない、枠の一つである。声は全部きみの声である、枠が違うだけだ。部屋がしんとするのは、きみが数字という錨に繋がれているからだ。ゴールを数で置くな、打算を起点にするな、そこから全部が濁る──
一問、解けるたび、頭の中で、何かが弾けた。あの、チリ、、ン、に似た快感が、頁をめくるたびに鳴った。レベルアップの音の、思考版。
気づいたら、朝だった。
俺は読み終えた本を胸に置いて、天井を見てた。
雷に打たれる、って表現があるだろ。あれは嘘だ。雷はもっと静かに落ちる。落ちたことに気づかないくらい静かに落ちて、あとから全部を燃やす。
「……すげえ本、見つけた」
《一晩の読書としては、心拍の上昇が異常値でした。……ご自愛ください》
この夜の俺は、人生最高の読書をしたと思ってた。
……読書、ではあった。
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