第5話 あれは何だ
その夜のことは、今でもコマ送りで再生できる。
冬の入り口。いつもの駅。俺はいつも通り声をかけられずにいて、半分は観察のために通ってた。勇気は貯まらないのに、観察眼だけが無駄に育っていた。
その観察眼が、一人の男を捉えた。
第一印象──疲れてんのかな、あの人。
その男は、何も構えてなかった。
俺の知ってる「声をかける男たち」は、みんなどこか力んでる。歩幅で勢いをつけたり、手をひらひらさせて場を作ったり。
その男は、手をブラーんとさせていた。
ブラーん、である。完全脱力。やる気が服着て歩いてるのが俺らだとしたら、あの男はやる気を家に忘れてきた人だった。
その男が、すれ違いざま、二言か三言、何か言った。
聞こえなかった。距離があった。大きな声ですらなかった。
次の瞬間。
女の人が、笑った。足が、止まった。
数十秒後──二人は並んで歩き出した。
……は?
え、待って。
今、何が起きた??
巻き戻す。男、歩いてくる。脱力。すれ違う。二言。笑い。並ぶ。
いや分からん!! 工程が足りない!! 俺の知ってる理論だと、あそこには最低五個は手順が挟まるはずなんだ。掴み、理由づけ、自己紹介、打診──あの男はそれを二言でやった。
いや、「やった」ようにすら見えなかった。
強いて言えば──終わってた。始まる前に。
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家に帰って、ノートを開いて、しばらく何も書けなかった。
観察したのに、観察できてなかった。あの数秒だけ、世界の解像度が足りなかった。
ようやく書いたのは一行。
「あれは何だ」
怖い、と思った。
そして怖いの二秒後に来た感情を、俺は今でも大事にしてる。
見たい。
あの側から見える世界を、俺も見たい。
伝説は、いた。噂のコメント欄の外に、生身で、この駅に。
人生で初めて、下り坂の先じゃない方向に、行きたい場所ができた。
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