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第40話 じゃあね


ミオとのことを、ちゃんと書く。


俺は、あの部屋に通ってた。週に一度か、二度。ゲームをして、どうでもいい話をして、煙の匂いの中で、今だけの時間を過ごした。


部屋の外にも、少しだけ思い出がある。


近所の回転ずしで、どっちが多く食えるか勝負した昼。ミオは細いくせに、俺より三皿多く食って、「育ち盛りなので」と言った。大学生はいつまで育ち盛りなんだよ。悔しいから翌週リベンジして、二皿差で負けた。差、詰まってるのに負けは負けだった。「ミナモ、伸びしろあるよ」と皿の塔の向こうで言われた。何の伸びしろだよ。


……ああいう、なんでもない昼が、あった。それだけは、書いておきたかった。



あの部屋で、俺は一個、白状をしてる。


きっかけは、彼女の大学の課題の話だった。俺は聞きながら、無意識に、いつもの相槌より半歩引いてた。それを、彼女は見逃さなかった。


「ミナモ、大学の話になると、ちょっと閉まるよね」


「……閉まる?」


「うん。シャッター半分下りる。がらがら、って」


(バレてる)(この子、ほんとによく見てる)


俺は、観念して、言った。人生で初めて、口に出した。


「──俺、大学、行ってないんだよ。で、多分ずっと、それが引け目だった」


言った瞬間、心臓がドッと鳴った。二十何年、誰にも言わなかった話だ。笑われるか、気を遣われるか、どっちが来ても嫌だな、と身構えた。


ミオは、煙を吐いて、言った。


「ふうん。──で、今、なんか困ってる?」


「……え?」


「大学行ってなくて、今日、なんか困った?」


「…………いや」


「じゃあ、それ、終わった話じゃん」


……。


終わった話じゃん。


その一言が、二十何年もののコンプレックスを、どう処理したのか、うまく説明できない。慰められたんじゃない。励まされたんでもない。ただ、彼女の部屋の時間の流れ──過去も未来も持ち込ませない、今だけの流れ──に浸された俺の引け目が、気づいたら、輪郭を失ってた。


砂糖が水に溶けるみたいに。あんなに硬かったのに。


この部屋は、今しかない。今の俺は、困ってない。なら、ない。それだけ。



だから、あの夜のことは、余計に、書くのがつらい。


いつもの部屋で、いつものゲームの後、ミオが、いつものテンポで言ったのだ。


「ね。付き合う?」


いつものテンポ──に、その時は聞こえた。あとから何百回も再生して、やっと気づいた。あの「ね。」の前に、彼女は一回だけ、小さく、息を吸ってた。今しか置かない人が、あの一言だけは、助走をつけて言ったのだ。


……。


コントローラーを持ったまま、俺は固まった。


《返答を──》


(分かってる)


《「はい」の一音です。あなたはこの部屋が好きで、この人との時間が好きです。データが揃っています》


(分かってる。分かってるんだよ。じゃあなんで、声が、出ねえんだよ)


出なかった。


好きだった。この部屋も、この子も、この時間も。嘘じゃなく。


でも、「はい」の一音が、喉の奥で、固まって動かなかった。理由は──分からなかった。当時の俺には、ほんとうに、分からなかった。この部屋で癒やされてる俺と、夜の街で数字を積んでる俺と、目録を書いた床の俺が、頭の中で会議を始めて、誰も、結論を出せなかった。


沈黙が、長すぎた。


ミオは、俺の顔をしばらく見て、それから、ふ、と笑った。


「ん。いいよ、無理しなくて」


怒らなかった。泣かなかった。詰めなかった。いつものテンポのまま、ゲームの電源を落として、「今日、もう遅いね」と言った。



それから、部屋に呼ばれる回数が、ゆっくり減った。


連絡の間隔が、ゆっくり伸びた。


喧嘩は一度もなかった。だから、終わりの日付も、ない。最後に部屋に行った日、帰り際に、彼女は玄関で言った。


「じゃあね」


いつもの「じゃあね」と、同じ軽さだった。


同じ軽さなのに、俺には分かった。これは、いつものじゃない方の「じゃあね」だ。


「──ミオ」


「ん?」


何か言おうとして、また、言葉が出なかった。ほんとうに、俺という男は、肝心の時に。


彼女は、ドアにもたれて、少しだけ笑って、最後に、こう言った。


「ミナモはさ。うちに、私を見に来てたんじゃなくて──自分を探しに来てたでしょ」


……。


「…………見つかった?」


ドアが、閉まった。






……。






廊下の電灯が、じ、と小さく鳴ってた。


俺は、閉まったドアの前に、しばらく、立ってた。



夜道を、一人で歩いた。


見つかった? って、何がだよ。俺は、お前に会いに行ってたんだよ。──そう思おうとして、思えなかった。あの部屋で溶けた引け目。あの部屋でだけ呼吸できた何か。俺があの部屋から持ち帰ってたものを、全部並べたら、たしかにそれは、「俺」の破片ばっかりだった。


彼女は、最初から、全部見えてたのだ。見えてて、黙って、部屋に置いてくれてたのだ。


コンビニの前で、足が止まった。


酒でも買うか、と思った。


深い考えはなかった。ただ、この夜を、素面のまま家まで持って帰るのが、少しだけ、重かった。


甘い缶の酒を、一本買った。歩きながら飲んだ。ぬるくなる前に、飲み切った。


──一本で、ちゃんと軽くなった。


軽くなるんだ、と思った。


それが、どういう発見だったのか。この時の俺は、まだ知らない。


【 ??? 】5


<第4部・了>


あとがき(今日の発見):ルートと店の定石──「持ち道」を持て。俺の梟ノ森の持ち道は、ゲーム屋の前を通って、あの焼き鳥屋で終わる。……終われてた頃の話だけどな。あと、回転ずしで勝てない相手とは、長く付き合え。皿の数は、遠慮のなさの数だ。


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