第28話 書き出しの夜
家に帰って、床に座った。
ベッドじゃなく、床に。大事な夜は床に座る癖。この夜ほど、床が正しい夜はなかった。
頭の中を、彼女の言葉が回ってた。
一緒にいるのに、ずっと一人だった。
一回も、甘えてくれなかった。
まだなんだよ、順番が。
──何が「まだ」なんだよ。順番って何だよ。俺の何が。
気づいたら、ノートを開いてた。街の記録用の、あのノート。数字とデータで埋まった几帳面なページたちを、乱暴にめくって、白いページを出した。
そして、書いた。
最初の一行は、震えた字で、こうだ。
「俺の悪いところ」
書き出した。
人に頼れない。頼り方を知らない。しんどい、が言えない。しんどい、を感じてるかどうかすら、分からない。楽しい、で全部を上塗りする。数字で埋める。数えられないものから逃げる。ドアの内側を見たことがない。優しさを、距離を詰めない言い訳に使う。与えるふりして、実は何も差し出してない。俺は、俺の中身を、誰にも──俺にも──見せたことがない。
一行書くたびに、うっ、となった。うっ、となるやつが、正解だった。うっ、とならない行は消して、なる行だけ残した。
ページが埋まった。二ページ目も埋まった。
人生で一番、字が汚い夜だった。人生で一番、正直な字だった。
書き終えて、俺はそのページを、しばらく見てた。
そこに並んでたのは、レベル35の男の、レベル1にも満たない中身だった。街でどれだけ数字を積んでも、一ミリも動いてなかった場所。彼女がノックし続けてくれた、開かずの部屋の、目録。
……悔しかった。彼女に対してじゃない。俺に対してだ。
こんなに全部書けるじゃないか。知ってたんじゃないか、全部。知ってて、見なかっただけじゃないか。
俺はペンを握り直して、二ページの目録の一番下に、でかい字で書いた。
「俺は、逃げない」
宣言だった。誰も見てない、床の上の、独りよがりの宣言。
でも、あの夜の俺には、それが必要だった。神様にも、仲間にも、彼女にも──誰の承認もいらない。俺が、俺に言う。逃げない。この目録から。この部屋から。もう。
書き終えて、顔を上げたら、窓の外が薄青かった。
朝だった。
俺は床で、少しだけ泣いて、それから寝た。
床は、硬かった。
硬い床の感触が、あの朝は、なぜか支えだった。
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