第27話 澄んだ別れ
その日の俺は、我ながら、上機嫌だった。
前の夜にレベルが35になった。切りのいい数字だ。管理表のグラフは右肩上がりで、渡り屋の同期には「ミナモさんの伸び、おかしい」と言われ、鏡の中の俺は一年前の床の男の面影を消し終えてた。
人生、完全に、うまく回ってた。
だからその日、彼女の家の近くのいつもの店に向かいながら、俺は鼻歌なんか歌ってた。今日は何を話そう。楽しい話のストックは山ほどある。俺の人生は今、楽しい話の製造機だから。
彼女は普通に飯を食い、普通に笑い、食後のお茶が来たところで、普通の声のまま、言った。
「ミナモくん。私、そろそろ終わりにしようと思う」
……。
え。
「……え、」
音が、消えた。店の喧騒が、遠くなった。
心臓が、変な音を立てた。バクバクじゃない。ヒュッ、という、冷たい音。三十秒前まで鼻歌だった男の体温が、一気に下がっていく。
「なんで──いや、待って、俺、なんかした?」
「してない」彼女は静かに首を振った。「ミナモくんは優しかったよ。ずっと」
「じゃあ、なんで」
彼女は少し黙って、お茶を一口飲んで、それから、まっすぐ俺を見た。
澄んだ目だった。最初の夜、街灯の下で笑ってた時と、同じ目。
「ミナモくんはね、優しいの。ほんとに。でも──一回も、甘えてくれなかった」
「…………」
「一緒にいてね、楽しかった。でも、一緒にいるのに、ミナモくんはずっと、一人だったよ」
一緒にいるのに、一人だった。
その言葉は、綺麗に、まっすぐ、入った。防具の隙間とかじゃない。正面から、鎧ごと。
「そんなこと──」ない、と言おうとして、続きが出なかった。
ないのか? 本当に? しんどい話は、いつしてくれるの、と聞かれた夜。三十秒でドアの前から逃げた夜。俺は、否定の材料を、一個も持ってなかった。
一拍の間があって──その間に、彼女の目が、一度だけ、揺れた。
「私はね」と彼女は言った。声は澄んでた。澄ませて、きたんだと思う。半年かけて。責める調子は、最後までなかった。「頼られたかったんだと思う。半分こしたかった。楽しいのも、しんどいのも」
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ」彼女は少し笑った。「ミナモくんが悪いんじゃなくて、多分、まだなんだよ。順番が」
順番。
その言葉の意味を聞き返す前に、彼女は伝票を取って、割り勘にして(最後まで、ちゃんと割り勘の人だった)、店の外で、言った。
「元気でね。──あ、あと」
彼女は一瞬考えて、本当においしいものにしか使わない、あの信用のある声で、言った。
「ミナモくんと過ごした時間、おいしかったよ」
そして、手を振って、歩いていった。
引き止める言葉を、俺は持ってなかった。持ってない、ということが、彼女の言った全部の証明だった。
⸻
どうやって帰ったのか、あんまり覚えてない。
電車の中で、ステータスを開いた。癖で。
【 Lv.35 】
昨日、あんなに嬉しかった数字が、そこにいた。
三十五。声掛け七百なんぼ。札七十なんぼ。右肩上がりのグラフ。
──で?
で、この数字は、今、何をしてくれるんだ?
(……システム。何か、言えよ)
《…………本システムに、この状況に適用できる分析が、ありません》
(………………だろうな)
《……一つだけ。あなたの心拍と呼吸から、推定される状態に、名前があります。報告しますか》
(いい。知ってる。──これは多分、悲しい、ってやつだ)
何も、してくれなかった。一つも。俺が二年かけて積み上げた全部が、彼女の澄んだ一言の前で、綺麗に無力だった。
家に着いて、電気もつけずに、床に座った。
携帯を開いた。彼女とのトーク画面。指が勝手に文字を打ってた。「待って」「もう一回だけ」「俺、変わるから」──
打って、消した。打って、消した。三回やって、やめた。
あの人は、澄んだ人だ。半年考えて、澄み切ってから、言いに来たんだ。それを俺の濁った「待って」で汚すのか。最後の最後に、一番みっともない形で「甘える」のか。今更。そこでだけ。
携帯を伏せて、俺は膝を抱えた。
飯は食えなかった。あの音のことも、数字のことも、どうでもよかった。頭の中では、彼女の最後の言葉だけが、何度も何度も再生されてた。
おいしかったよ。
おいしかったよ、って言ってくれたんだ。あの、本物にしか使わない声で。
……なんで俺は、その時間の中で、一人だったんだ。
---




