第26話 綻び
いつから、と聞かれると難しい。
綻びというのは、破れる場所じゃなくて、糸が少し緩む場所から始まる。
セルケとの時間は、変わらず穏やかだった。飯に行き、笑い、たまに遠出した。何も壊れてなかった。
彼女の部屋の匂いは、俺の週末の匂いになってた。俺の部屋には彼女の歯ブラシがあって、俺の服の何枚かは、彼女の柔軟剤の匂いがするようになってた。
ただ──俺の生活の中で、街の占める割合が、静かに増えていた。
レベルが上がるほど、街は面白くなる。見える情報が増え、届く層が広がり、昨日できなかったことが今日できる。チリ、、ン。成長というのは、麻薬に一番近い健全なものだ。俺は週末の夜を、少しずつ街に足していった。
彼女の柔軟剤の匂いがする袖で、夜の街に出る。今書くと、その一文だけで胸が痛い。当時は、何も感じてなかった。両立できてると思ってた。両立って言葉を使ってる時点で、天秤に載せてたのにな。
彼女は、何も言わなかった。詰めない人だから。
その代わり、あの夜、こう聞いた。
「最近、楽しい?」
「楽しいよ。めっちゃ楽しい」
即答した。嘘じゃない。レベルは31になってた。札の管理表はエクセルになってた。同期の中で俺の伸びは上位だった。
「そっか」と彼女は言った。「どんなふうに?」
「どんなふうに、って──」
俺は、答えようとして、気づいた。
俺の「楽しい」の中身を言葉にすると、全部、数字になる。今週何件。成功率何割。先月比。──それを彼女に言うのか? 街で女の人に声をかけた件数を、彼女に?
言えるわけがない。言うべきでもない。だから俺は、当たり障りのない話に変換した。「新しい友達が増えてさ」。嘘じゃない。嘘じゃないが、翻訳の過程で、本体が抜け落ちた話だった。
彼女は「ふうん」と言って、笑った。
いつもの「ふうん」だった。ノックの音だった。
俺はまた、ドアを開けなかった。
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……言い訳をさせてほしい。
隠し事があったから開けなかったんじゃない。俺は彼女に、後ろめたいことは何もしてなかった。街の俺は声をかけ、札をもらい、でも線の内側にいた。それは本当だ。
開けなかった理由は、もっと単純で、もっと重症だった。
ドアの内側に何があるのか、俺自身が、見たことがなかったのだ。
楽しい。は本当。じゃあその下は? なんで俺はこんなに数字を追うのか。なんで週末の夜、家より街が呼ぶのか。あの音が鳴った〇・五秒後に、いつも胸のどこかがスッと冷えるのは、なんなのか。
見たことがなかった。見ないで済むように、数字があった。
彼女がノックしてたのは、俺も入ったことのない部屋だった。
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