第24話 澄んだ人
セルケの話をしよう。
付き合い始めて分かったのは、彼女が「ちゃんと言う人」だということだった。
たとえば飯屋で、彼女は「おいしい」を乱発しない。本当においしい時だけ、「おいしい」と言う。だから彼女の「おいしい」には、通貨としての信用があった。
たとえば俺が店選びで滑った時、彼女は「ここも良いよ」と気を遣わない。「うーん、次は違うとこにしよ」と言う。言われた瞬間はぐっとくるが、五分後には楽になってる。彼女の言葉には、裏を読む作業がいらなかった。
澄んでるのだ。何もかも。
水みたいな人だな、と思ってた。透明で、ごまかしがなくて、でも冷たくはない。ちゃんと、温度がある水。
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初めて彼女の部屋に行った日のことは、香りで覚えてる。
ドアが開いた瞬間の、柔軟剤と、何かの練り香水の混ざった、彼女の部屋の匂い。俺の部屋とは別の星の空気だった。
「狭いよ」と彼女は言ったが、狭くなかった。物の少ない、澄んだ部屋だった。彼女そのものだった。
ソファで映画を見た。肩が触れる距離。彼女が笑うたび、髪が揺れて、ふわ、と石鹸の匂いがした。俺は映画の内容を、三割も覚えてない。心臓が、静かに、ずっと、とくとく言ってた。
(……なあシステム。今の俺の心拍数)
《────》
(システム?)
《……計測は、していますが。報告しない方が、いい夜だと判断します》
(………………だな)
システムのくせに、粋なことをする。そういえばこいつ、彼女の前では、いつも静かだった。後で理由を聞いたら、こう言われた。《記録する必要のある数値が、発生しないので》。……あれは、こいつなりの最上級の褒め言葉だったと、今は思う。
──その夜のことは、書かない。
書かないが、朝のコーヒーはうまかった。窓から入る光の中で、寝癖のついた彼女が「おいしい」と言った。本物の「おいしい」だった。俺の淹れたインスタントに、本物が出た。
帰り道、俺の服の袖から、彼女の部屋の匂いがした。電車の中で、こっそり袖を嗅いで、にやけて、向かいの席のおじさんと目が合って、真顔に戻った。
……あの匂いは、今も、忘れてない。キモいか? キモいな。でも人間ってのは、匂いで季節を保存する生き物なんだ。しょうがない。
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彼女といると、俺は自分の変化に気づかされた。
たとえば俺は、店員さんへの物言いが丁寧になった。彼女が誰にでも同じ温度で話す人だから、隣にいる俺の雑さが、自分で聞こえるようになったのだ。
たとえば俺は、約束の時間に正確になった。彼女が待ち合わせに正確な人で、正確な人を待たせると、正確に申し訳ないから。
人と関わるということの、姿勢がよくなっていく感じがした。街で覚えた技術とは別の場所で、俺は矯正されていた。
「ミナモくんはさ」
ある夜、彼女が言った。俺の作った(数少ないレパートリーの)パスタを食いながら。
「楽しい話、いっぱいしてくれるよね」
「そう?」
「うん。──で、しんどい話は、いつしてくれるの?」
……。
フォークが、皿に当たって、小さい音を立てた。
俺は一瞬、固まった。心臓の音が、変わったのが分かった。とくとく、じゃない。ドッ、ドッ、という、警報の方の音。
「しんどい話って、ないからなあ。今、楽しいし」
嘘じゃなかった。本当に楽しかったのだ、あの頃は。
彼女は「ふうん」と言った。──その「ふうん」の途中で、ほんの一瞬だけ、寂しそうな色が横切った。一瞬で、消えた。それ以上は聞かなかった。詰めない人だった。ドアをノックして、開かなければ、ノックしたことだけ伝えて帰る人だった。
「おいしい」と彼女は言った。パスタのことだ。本物の「おいしい」だった。
俺は嬉しくて、その前の質問のことを、忘れることにした。
──その夜、家に帰って、風呂に入ってる時に、不意にあの質問が耳の奥で再生された。
で、しんどい話は、いつしてくれるの?
湯船の中で、俺は答えを探した。しんどい話。しんどい話……。
出てこなかった。ないんじゃない。出てこないんだ。心当たりの棚があるはずの場所に、壁があった。壁の向こうに何かあるのは分かるのに、ドアが見つからなかった。
俺は湯船に口まで沈んで、ぶくぶくと息を吐いて、考えるのをやめた。
忘れることに「した」んだから、覚えてたんだよな。本当は。
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