第16話 計測不能
その男の噂は、広間で聞いた。
「一日で百枚聞く男がいる」
盛った話だと思った。俺の一日の最高は七枚。百枚は物理的におかしい。会話時間を考えたら計算が合わない。
「会話しないんだよ、あの人」と同期は言った。「一言なの。ほんとに、一言」
半信半疑のまま、ある夜、その男を見た。
夜の駅の雑踏で、彼はまっすぐ立ってた。構えらしい構えはない。ただ、雑踏を見てる。
その静けさだけで、周囲と密度が違った。人混みの中に、そこだけ、凪いだ水面があるみたいだった。
《……当該個体、観察を推奨します。理由:本システムの予測モデルが、初期化されそうです》
(初期化て。何が始まるんだよ)
そして、歩き出した誰かの進路に、彼が、すっと入った。
来る。
俺は、息を止めた。システムの表示が、彼の口元に、フル解像度でフォーカスする。予測値の演算が、ちりちりと視界の端で走ってるのが分かる。
「すいません」
一言。
──世界の音が、そこだけ、切り取られた。
ほんとに一言だった。しかもそれは、俺が半年で一万回は口にした、あの「すいません」と同じ単語のはずだった。同じ単語の、はずなのに。声の重心が、違う。届き方が、違う。夜の雑踏の騒音の中で、その一言だけが、彼女の耳に、まっすぐ、澄んで、落ちた。
女の人が、止まった。完全に。振り向いた顔に、警戒の色がなかった。まるで呼ばれる約束をしてた人みたいに、彼女は彼の言葉を待ってた。
俺の視界で、演算が、弾けた。
《計測──》
《計測──計測──》
《【 計測不能 】》
(……おい。システム。どうした)
《………………白旗です》
(は?)
《本システムは、いま、生まれて初めて、白旗を上げています。彼の一言は、本システムの全パラメータの外側で成立しました。……鳥肌、という表現を、データとしてしか知りませんでしたが》
システムの声が、心なしか、震えてた。
(──俺の腕、見ろ)
《立っていますね。鳥肌》
俺の腕に、ぶわ、と立った鳥肌ごと、俺はあの夜の一言を、体に刻んだ。技ってのは、極まると、音になる。音ってのは、極まると、静けさになる。
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彼の名はイチといった。後に俺の、生涯の友になる男だ。
近くで話すようになって、分かったことがある。彼の「すいません」は、選ばれた一言じゃない。磨かれた一言だった。
何万回。文字通り、何万回の素振り。同じ一言を、角度を変え、声音を変え、間を変え、駅の空気に合わせて、何万回。
レパートリーは、ない。一撃だけを、研ぎ続けた男。
もう一つ、気づいたことがある。
イチは、最初の一音だけ、ほんの僅かに詰まる癖があった。「す、すいません」の「す、」が、時々、俺にだけ聞こえる長さで、引っかかる。
俺はそれを、指摘しなかった。誰も、しなかった。
何万回の素振りには、何万回ぶんの理由がある。聞かなくても、それだけは分かる気がした。
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