第99話 書けよ
その夜、俺は、最後の一周をしてた。
理由は、単純だ。翌週から、少し遠くに引っ越すことが決まってた(彼女との、次の話だ。詳細は、書かない)。だから、街に、挨拶をしに来た。
煉瓦の門を、昼に歩いた。順路の民が、今日も札を交換してた。
夕方、辺境で降りた。街灯の下に、誰もいなかった。いなくて、よかった。
夜、梟ノ森。焼き鳥屋で、おまかせを食った。「しばらく来れないんで」と言ったら、大将は「ん」とだけ言った。会計は、いつも通りだった。串は──出なかった。そうか。俺の分は、もう、出たもんな。
最後に、あの駅前に、戻ってきた。
全部が始まった駅。三周した駅。大丈夫でしたの駅。開眼の駅。十七連敗の駅。倒れた駅。卒業の駅。アイスの駅。
終電が近くて、人はまばらだった。俺は、植え込みの縁──KPとの定位置──に、一人で座った。
⸻
隣に、男が、座ってた。
いつからいたのか、気づかなかった。フードを、深く被った男だった。歳も、顔も、分からない。攻略でもなく、待ち合わせでもなく、ただ、座って、夜の駅を見てた。
俺と、同じ姿勢で。
なんとなく──ほんとうに、なんとなくだ──俺は、口を開いてた。
「……いい街ですよね、ここ」
フードの男は、すぐには答えなかった。
代わりに、ふ、と笑った。
……変な、笑い方だった。声でもなく、息でもなく。文字にしろと言われたら、俺には一文字でしか書けない。「w」。そうとしか書けない種類の、軽くて、古くて、全部知ってるみたいな笑い方。
「──で」
男が、初めて、口をきいた。
「お前は、これから、どうすんの?」
「…………」
引っ越します、とか。仕事が、とか。答えの候補は、いくつもあった。
でも、その問いは、なぜか、そのどれも聞いてない気がした。もっと手前の、もっとでかい何かを、聞かれてる気がした。三年半の全部を見てきた誰かに、「で?」と、続きを促されてるような。
俺が答えを探してるうちに、男は、立ち上がってた。
フードのまま、二、三歩、歩いて──思い出したみたいに、半分だけ振り返って、言った。
「──書けよ。それ」
「……え?」
「持ってんだろ、ノート。──もったいねえよ、あれ」
それだけ言って、男は、終電間際の雑踏に、混ざって、消えた。
……。
……誰だ、今の。
ノートのことなんて、一言も、言ってないぞ。鞄の中だぞ、今日は。
(……システム。今の、何者だ)
──返事は、ない。
……そうだった。もう、いないんだった。三年半の癖ってのは、抜けないな。
でも、なんとなく、分かった気がした。あいつがいたら、多分、こう言った。
《該当データ、なし。……考えるだけ野暮の類かと》
だな。www
この街には、最後まで、分からないものが残ってた。それでいい。全部分かる街なんて、潜る価値がない。
⸻
家に帰って、俺は、机に向かった。
ノートを、全部、出した。世界一情けないデータの一冊目から、目録の頁、読み直しの章、宛名のない領収書まで。三年半と、その後の凪の、全部。
これを、物語にする。
床で目を覚ましてた男が、声をかけて、レベルを上げて、登って、燃えて、落ちて、降りて、朝に還るまでの話。俺の恥と、無様と、天才かよ、と、うわあああの、全部。
誰のために?
──決まってる。
いつかの俺のためにだ。今夜もどこかの床で、天井じゃなくて木目を見ながら、「何のために起きるんだっけ」をやってる、顔も知らない、いつかの俺のために。
俺は、新しいノートの、一頁目を開いた。
一行目は、もう、決まってた。
『この街には、鎧を着た女が歩いている。』
---




