第94話 名前
彼女の部屋で、コーヒーを淹れてた朝だった。
休日の、遅い朝。窓から光が入って、部屋には豆の匂いと、彼女の柔軟剤の匂いが混ざってた。彼女は寝癖のまま、ソファで丸くなって、俺の淹れるコーヒーを待ってた。この距離に、まだ、慣れない。慣れないまま、ずっといたい。
「ねえ」と、彼女が言った。「そういえばさ」
「ん?」
「私、あなたの本名、ちゃんと聞いてない」
……。
手が、止まった。
そうだ。俺は彼女に、街の名で通してた。ミナモ。三年半、俺の名前だったハンネ。仲間もみんなそう呼ぶし、彼女もそれで呼んでた。不便はなかった。不便はなかったが──
「教えて。ほんとの名前」
彼女は、ソファの上で膝を抱えて、こっちを見てた。
(言え)
(……震えてんじゃねえよ、俺。名前だぞ。ただの、俺の名前だぞ)
震えてた。なんでだよ。
……ただの、じゃないのか。
考えてみれば、俺は三年半、本名を、ほとんど使ってなかった。会社の書類と、役所と、それだけ。街ではミナモ。心の中でも、いつからか、ミナモ。夜勤の床に置いてきた名前。何者でもなかった頃の、名前。
その名前を、今、この人が、聞いてる。
俺は、コーヒーを二つ持って、彼女の隣に座って、言った。
「──湊」
「……みなと?」
「湊。港の方の字で、湊」
彼女は、二回、口の中で転がした。みなと。みなと。
それから、ふ、と笑って、言った。
「湊。コーヒー、ありがと」
「────」
……うわ。
うわ、待て。待て待て待て。
名前って。呼ばれるって。こんなんだったか!?
胸の真ん中に、どすん、と来た。あったかい砲弾みたいなのが。三年半、誰にも呼ばれなかった二文字が、寝癖の人の声で、コーヒーの湯気の向こうから、飛んできて、直撃した。
「……泣いてます?」
「泣いてない」
泣いてた。ちょっとだけ。コーヒーのせいにした。熱かったんで、と。淹れたの俺だけどな。
彼女は、それ以上聞かずに、俺の肩に、こつん、と頭を載せた。髪から、ふわ、といい匂いがした。観測は──もう、打ち切らなかった。打ち切る理由が、この部屋には、なかった。
「ねえ。湊、って呼べるの、私だけ?」
「……街の連中はミナモだから。──うん。多分、今は、そう」
「ふふ」肩の上で、彼女が笑う振動が、伝わってきた。「じゃあ、大事に使お」
大事に使お、て。名前を、大事に、使う。……そういう言い方をする人なんだ、この人は。三年半、数えることしか知らなかった男の名前は、こうして、数えない人の口座に、預けられた。
⸻
ミナモ、という名前を、俺は今も、大事に持ってる。
あれは偽名じゃなかった。三年半、俺を運んでくれた船の名前だ。
ただ、船を降りたら、名乗るのは、港の名前でいい。
……この理屈に、我ながら、うまく出来すぎだろ、と思った諸君。
俺もそう思う。人生、たまに、うまく出来すぎてる夜がある。
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