九 紙の檻
南宮へ戻ると、世界はまだ明るかった。
太鼓が鳴っている。
笛が鳴っている。
人の声が重なり、笑い声が弾け、社務所の前では氏子たちが汗を拭いながら水を飲んでいた。境内の端では、子どもたちが走り回り、母親たちがそれを叱っている。参道には屋台の匂いが混じり、甘い醤油の焦げる匂いと、焼いた餅の匂いが風に流れていた。
何も変わっていない。
晴臣は、そう思おうとした。
だが、うまくいかなかった。
南宮は、確かに南宮のままだった。
赤い幟。
白い幕。
人の熱。
祭りの明るさ。
それでも、晴臣の目には、すべてが少し遠く見えた。
ついさっきまでいた北宮の空気が、まだ体のどこかに残っている。
黒い鳥居。
出蔵の裸電球。
石函の内側に沈んだ赤。
逆井の底に溜まった黒い泥。
土地の下に沈めたものを、起こさぬため。
その言葉だけが、南宮の太鼓の奥に混じって、何度も聞こえる気がした。
「水科」
斎部が言った。
晴臣は振り向いた。
斎部嘉平は、南宮の鳥居の手前で足を止めていた。ここから先へは行かない、というように。
「ここまででいいだろ」
「ありがとうございました」
「礼を言うほどのことじゃない」
斎部は懐から煙草を出しかけ、境内の人目に気づいたのか、また戻した。
「黒沢先生は、大丈夫でしょうか」
晴臣が聞くと、斎部は答えなかった。
聞こえていないわけではない。
答えないことを選んだ沈黙だった。
「斎部さん」
「学者の先生は、紙を残したがる」
「紙?」
「記録だよ」
斎部は北宮の方角を見た。
「奥木じゃ、紙は強い。強すぎるくらいにな」
「どういう意味ですか」
「そのままだ」
斎部は晴臣を見た。
目が、いつもの軽さを失っている。
「水科。今日は早く家へ帰れ」
「でも、南宮で」
「祭りなんか、来年もある」
「双柱大祭は十四年に一度です」
「そういう言い返しができるなら、まだ大丈夫だ」
斎部は、少しだけ口の端を上げた。
だが、笑いにはならなかった。
「美月ちゃんを待たせるな。あと、父親の言うことは聞け」
「父を知っているんですか」
「奥木じゃ、知らない方が難しい」
それだけ言うと、斎部は背を向けた。
南宮へ入らず、横の細道へ消えていく。
晴臣はその背中を見送った。
あの男は、何かを知っている。
全部ではない。
けれど、どこを踏めば危ないかは知っている。
その感覚は、北宮へ向かう時よりも強くなっていた。
「晴臣」
呼ばれて振り向くと、美月がいた。
白い帯が、夕方の光の中で柔らかく浮いている。
昼に見た時よりも、少しだけ帯の白が濃く見えた。清らかというより、何かを縛っている白だった。
「戻ったんだ」
「ああ」
「黒沢先生は?」
「まだ北宮にいる」
美月の表情が、わずかに曇った。
「一緒じゃないの?」
「北宮の神職と話をしてから戻るって」
「そう」
美月は頷いたが、納得してはいないようだった。
「何かあった?」
「別に」
晴臣はそう答えた。
答えてから、自分でも嘘だと思った。
別に、ではない。
けれど、何があったのかを説明できなかった。
石函の赤。
逆井の泥。
清め。
穢れ。
土地の下に沈めたもの。
言葉はある。
でも、それをそのまま口にすると、何かが形を持ってしまう気がした。
意味をつけるな。
父も、黒沢も、斎部も同じことを言った。
美月は、晴臣を見ていた。
「嘘が下手」
「そうか」
「うん」
美月は少し笑った。
だが、すぐに真面目な顔に戻った。
「言えないこと?」
「言えないというより、分からない」
「晴臣にも?」
「うん」
美月は、それ以上聞かなかった。
ただ、晴臣の胸元を見た。
「守り袋」
晴臣は反射的に胸に手を当てた。
服の下で、布の小さな膨らみがある。
「さっきから、そこばかり気にしてる」
「そうか」
「北宮で、何かあった?」
「分からない」
「分からない?」
「少し、熱くなった気がした」
「守り袋が?」
「気のせいかもしれない」
美月は、晴臣の胸元を見たまま黙った。
「気のせいなら、いいけど」
そう言ったきり、美月はそれ以上聞かなかった。
南宮の太鼓が鳴る。
掛け声が上がる。
人々が一斉に参道の方を向く。
柱を動かす準備が始まっていた。
祭りは進んでいる。
誰かが北宮で何かを見つけようが、黒沢が戻っていなかろうが、南宮の時間は止まらない。
「晴臣」
「何」
「今日は、ちゃんと戻ってきて」
「戻ってきた」
「そうじゃなくて」
美月は、少しだけ声を低くした。
「夜になる前に、家に戻って」
父と同じことを言う。
晴臣はそう思った。
南の火があるうちに帰れ。
北の用事を夜へ持ち越すな。
「分かった」
晴臣が答えると、美月は少しだけ安心したように見えた。
「今夜、お父さんのところへ行くんでしょう」
美月が言った。
「赤飯、用意してくれてるんだよね」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと帰ってきて。北宮の話は、そのあとでいい」
その言い方が、晴臣には妙に現実的に聞こえた。
北宮で見た黒い石も、逆井の泥も、いったん遠ざけられる気がした。
今夜、家へ帰る。
父が赤飯を用意している。
美月を連れていく。
それだけで、まだ自分の人生は南側に戻れるような気がした。
その時、境内の向こうで、守部冬真がこちらを見ているのに気づいた。
冬真は、すぐに表情を整えた。
いつもの、祭りの顔。
誰に見られても問題のない、若い財団理事の顔。
だが、晴臣には分かった。
冬真はずっとこちらを見ていた。
「戻ったんだな」
冬真は近づいてきた。
「北宮はどうだった」
「確認だけだよ」
「黒沢先生は?」
「まだ北宮」
「そうか」
冬真の返事は短かった。
短すぎた。
「何か聞いてるのか」
晴臣が尋ねると、冬真は少しだけ眉を上げた。
「何を?」
「黒沢先生のこと」
「いや。俺が知るわけないだろ」
そう言って、冬真は笑った。
その笑い方が、妙に滑らかだった。
「そういえば、藤原先生が探していた。北宮から戻ったら一度声をかけてほしいって」
「俺に?」
「いや、黒沢先生にだろう。君も一緒だったなら、念のため話を聞きたいんじゃないかな」
「何のために?」
「手続きだよ」
冬真は軽く言った。
「非公開資料の確認があったんだろ。誓約書も書いたんじゃないのか」
「書いた」
「なら、その確認だ。藤原先生は、そういうところに細かい」
冬真の言葉は自然だった。
不自然なほど自然だった。
晴臣は、美月を見た。
美月は黙っている。
その目が、冬真ではなく晴臣を見ていた。
行かない方がいい。
そう言っているように見えた。
「あとで行く」
晴臣が答えると、冬真は頷いた。
「遅くならない方がいい。祭りの後は皆ばたつくから」
「……分かった」
冬真は美月へ視線を移した。
「美月も、そろそろ会館の方へ戻った方がいい。お母さんが探していた」
「……分かりました」
美月は丁寧に答えた。
その距離感が、晴臣には少し引っかかった。
冬真は、奥木の誰に対しても近い。
だが、美月だけは、近くにいながら遠い。
冬真はそれ以上言わず、境内の人混みへ戻っていった。
美月が小さく言った。
「藤原さんのところへ行くの?」
「行った方がいいだろうな」
「一人で?」
「たぶん」
「黒沢先生が戻ってからじゃだめなの」
「それでもいいと思う」
晴臣はそう答えた。
だが、心のどこかで分かっていた。
黒沢は、すぐには戻らない。
なぜそう思うのかは分からない。
ただ、北宮を出る時に見た教授の背中が、どうしても頭から離れなかった。
その背中は、もう南宮へ戻る人のものには見えなかった。
その時、南宮会館の方から若い男が小走りに近づいてきた。
祭りの手伝いをしている氏子の一人だった。首に手拭いを掛け、額には汗が浮いている。
「水科さん」
「はい」
「藤原先生が、少しお話を聞きたいそうです。北宮の確認の件で」
美月の顔が曇った。
「今ですか」
晴臣が尋ねると、男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お時間のある時で構わないそうですが、祭りの後になると人の出入りが増えるので、できれば今のうちに確認だけ、と」
確認。
その言葉が、晴臣の耳に引っかかった。
「すぐ戻る」
晴臣は美月に言った。
「本当に?」
「うん」
美月はまだ納得していなかった。
だが、会館の方から別の女の声がした。美月を呼んでいる。白い帯を締めたまま、ここに長く立っているわけにもいかなかった。
「待ってる」
美月はそう言った。
「今度は、ちゃんと」
晴臣は頷いた。
「分かった」
晴臣は、若い氏子に続いて南宮会館へ向かった。
南宮会館の入口では、酒の準備が始まっていた。
折り詰めが並べられ、紙コップが積まれ、年配の男たちが声を張って段取りを確認している。廊下には畳の匂いと、冷えた麦茶の匂いが混じっていた。
その奥へ進むにつれ、祭りの熱は薄くなっていく。
襖で仕切られた小部屋の前で、若い氏子は足を止めた。
「こちらです」
晴臣が礼を言うと、男は逃げるように広間へ戻っていった。
小部屋の中には、祭りの熱とは別の静けさがあった。
部屋には、外の音が薄くしか届かない。
机の上には、書類が整然と並んでいた。
確認書。
誓約書。
立会人名簿。
非公開資料閲覧記録。
それらは、朝見た時と同じように、ひとつの乱れもなく重ねられている。
藤原匡親は、机の向こうに座っていた。
晴臣が入ると、藤原は筆記具を置き、顔を上げた。
「お戻りになりましたか」
「はい」
「黒沢先生は」
「まだ北宮です」
「そうですか」
藤原は、それほど驚いた様子を見せなかった。
むしろ、その答えを最初から知っていたようにも見えた。
「何かありましたか」
晴臣が尋ねると、藤原は薄く笑った。
「それを、こちらが伺いたいと思っていました」
「私は記録補助で同行しただけです」
「その記録補助が重要なのです」
藤原は、机の上の書類に指を置いた。
「非公開資料の確認は、後日の混乱を避けるために、誰が何を見たのかを明確にしておく必要があります」
「それは分かります」
「では、確認させてください」
藤原の声は、丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
「北宮の出蔵で確認したものについて、黒沢先生は何か断定的な発言をされましたか」
「断定はしていません」
「そうですか」
「形状や刻線の記録を取っただけです」
「底に嵌まっていたものについて、何か話は出ましたか」
晴臣は、少しだけ息を止めた。
「嵌まっていたもの?」
「円形の座があったと聞いています」
「はい」
「そこに、何かがあったという話です」
藤原は、一拍置いた。
「鏡、という言葉は出ましたか」
鏡。
ここで、その言葉が出る。
晴臣は北宮の出蔵で、自分が言ったことを思い出した。
鏡のようなものが、底に嵌まっていたのではないか。
あれは、自分の推測だった。
黒沢が断定したわけではない。
「私が、そう見えるかもしれないと言いました」
「あなたが」
「はい」
藤原は、筆記具を取った。
「黒沢先生ではなく、水科さんが」
「はい」
「なるほど」
藤原は何かを書き留めた。
その動作を見て、晴臣の胸に小さな違和感が生まれた。
今の言葉は、正確に記録されたのだろうか。
それとも、別の意味を与えられたのだろうか。
「それは、学術的な判断ですか」
「いえ。見たままの印象です」
「印象」
「底の円形の座に、何かが嵌まっていたのではないかと思っただけです」
「その何かを、鏡だと考えた」
「鏡のようなもの、と言いました」
「分かりました」
藤原は頷いた。
分かった、という言葉の割に、目は少しも柔らかくならなかった。
「北宮で、他に何か聞きましたか」
「聞いた、というのは」
「神職の方から、説明など」
晴臣は黙った。
土地の下に沈めたものを、起こさぬため。
その言葉が浮かんだ。
だが、それを言っていいのか分からなかった。
言った瞬間、何かに意味をつけてしまう気がした。
「祭具の清めについて、少し説明がありました」
「清め」
「はい」
「それだけですか」
「それだけです」
藤原は、しばらく晴臣を見ていた。
その視線は、疑っているというより、測っているようだった。
どこまで知っているのか。
どこまで言うのか。
どこから先を、言わないのか。
晴臣は、そう感じた。
「黒沢先生の記録は」
「先生が持っています」
「水科さんは写しを」
「持っていません」
「手帳は?」
「私の記録はあります」
「見せていただけますか」
晴臣は手帳を押さえた。
反射的だった。
藤原の目が、その動きを見た。
「後ほど、黒沢先生と確認してから提出します」
「それは黒沢先生のご指示ですか」
「はい」
「なるほど」
藤原はまた、何かを書いた。
その時、襖の向こうで人の気配がした。
「失礼します」
入ってきたのは、土師倉之介だった。
晴臣を見ると、土師は一瞬だけ驚いたような顔をした。
だが、すぐに薄く笑った。
「水科君。戻っていたんですね」
「はい」
「黒沢先生は?」
「まだ北宮です」
「そうですか」
土師は、藤原を見た。
言葉にはしない。
だが、その目だけで何かを確認したように見えた。
「土師さんも、何か確認ですか」
晴臣が尋ねると、土師は肩をすくめた。
「私は外された側ですからね。あとから聞くしかありません」
その言い方には、まだ昼の刺々しさが残っていた。
「それにしても、羨ましいですね」
「何がですか」
「北宮の出蔵に入り、非公開の確認物を見て、黒沢先生のそばで記録を取る。地元の名前というのは、やはり便利だ」
晴臣は答えなかった。
この場で反論しても、何もよくならない。
土師の目は、晴臣の手帳に落ちた。
「それが記録ですか」
「個人の手帳です」
「個人の手帳に、非公開資料の内容が書かれている」
藤原が、静かに言った。
晴臣は、そこで初めて気づいた。
今の会話が、少しずつ形を変えられていることに。
個人の手帳。
非公開資料。
鏡という推測。
黒沢の不在。
それらが、ばらばらの事実ではなく、ひとつの線に並べられようとしている。
「水科君は、以前から北宮の伝承に強い関心を持っていました」
土師が、ふいに言った。
晴臣は土師を見た。
「何ですか、急に」
「事実を言っているだけです。地元の伝承、北宮の禁足地、水科家に残る古い話。君はそれらに詳しい」
「それが何か」
「だから、確認物を見て鏡を連想したとしても、不自然ではない」
土師は穏やかに言った。
だが、その言葉は、晴臣を助けていなかった。
むしろ、晴臣の言葉に別の意味を与えていた。
藤原は、土師の言葉を遮らなかった。
ただ、静かに書き留めた。
その筆先の音だけが、小部屋の中で細く響いた。
「提出はします」
晴臣は言った。
「ただし、黒沢先生と確認してからです」
「もちろんです」
藤原は穏やかに答えた。
「こちらも、手順を乱すつもりはありません」
手順。
その言葉が、妙に冷たかった。
その時、廊下の方が少し騒がしくなった。
誰かが小走りに近づいてくる。
襖の前で足が止まった。
「藤原先生」
声は、南宮の若い職員のものだった。
「北宮から連絡です」
部屋の空気が変わった。
藤原は立ち上がらなかった。
ただ、筆記具を置いた。
「どうしました」
「黒沢先生が、まだ戻られていないとのことです」
「それは先ほど聞いています」
「いえ」
職員の声が揺れた。
「出蔵にも、逆井にも、お姿がないそうです」
晴臣は、手帳を握る指に力が入るのを感じた。
「どういうことですか」
自分の声が、思ったより低く出た。
職員は晴臣を見た。
答えられない顔だった。
藤原は、ゆっくり息を吐いた。
「北宮の方は」
「神職の方が確認中です。杜守文庫にも連絡を」
「分かりました」
藤原は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
「水科さん」
藤原が晴臣を見た。
「あなたが最後に黒沢先生と別れたのは、いつですか」
「北宮です」
「正確には」
「逆井の確認後、出蔵の前で」
「その時、黒沢先生は記録を持っていた」
「はい」
「あなたの手帳も」
「私が持っています」
「なるほど」
「なるほど、ではありません」
晴臣は思わず言った。
「探しに行かないと」
「当然、確認はします」
「私も行きます」
「いけません」
藤原の声は静かだった。
「なぜですか」
「関係者だからです」
「関係者なら、なおさら」
「いえ」
藤原は、はっきりと言った。
「関係者だからこそ、軽率に動くべきではありません」
土師が、何も言わずに晴臣を見ていた。
その目に、同情はない。
好奇心と、別の何かがある。
冬真が襖の向こうに現れたのは、その直後だった。
「何があったんですか」
藤原が答えるより早く、晴臣が言った。
「黒沢先生がいない」
冬真の顔が、一瞬だけ止まった。
だが、その停止は短かった。
「黒沢先生が?」
冬真は、晴臣ではなく藤原を見た。
「……北宮にいるんじゃないんですか」
「出蔵にも逆井にもいないって」
晴臣が答えた。
冬真は、ほんの少しだけ黙った。
「探さないと」
自然な反応だった。
だが、晴臣には、どこか薄く感じられた。
まるで、正しい場面で正しい言葉を選んだようだった。
「守部さん」
藤原が言った。
「若い衆を数人、北宮へ向かわせてください。ただし、勝手に奥へ入らないように。神職の指示に従うこと」
「分かりました」
「それから、水科さん」
藤原は晴臣へ向き直る。
「あなたはここに残ってください」
「嫌です」
「お願いではありません」
その声に、部屋の温度が下がった。
藤原は怒っていない。
怒っていないのに、逆らう余地がない。
「黒沢先生と最後に一緒にいた人物の一人として、あなたには事情を確認する必要があります」
「私を疑っているんですか」
「疑う、という言葉は適切ではありません」
「では何ですか」
「確認です」
確認。
その言葉がまた出た。
「晴臣」
冬真が低く言った。
「今は動かない方がいい」
「黒沢先生がいないんだぞ」
「分かってる。でも、君が騒げば、美月が不安になる」
美月の名前が出た瞬間、晴臣は言葉に詰まった。
冬真は、そこを正確に突いてきた。
「君が落ち着いていれば、美月も落ち着く。だから、今は藤原先生の言う通りにした方がいい」
表向きは、正しい言葉だった。
晴臣自身、それを完全に否定することができなかった。
だが、その言葉は晴臣を助けてはいない。
ただ、この部屋に留めるための重しになった。
晴臣は、手帳を握ったまま立っていた。
南宮の外では、太鼓が鳴っている。
境内では、まだ笑い声がしている。
祭りは続いている。
だが、この小部屋の中では、別のものが始まっていた。
晴臣には、それが分かった。
まだ名前はつけられない。
けれど、確かに始まっている。
黒沢が戻らない。
その事実だけが、紙の上に置かれようとしている。
誰が最後に会ったのか。
誰が記録を持っているのか。
誰が鏡のようなものと言ったのか。
誰が北宮から戻り、誰が戻らなかったのか。
ばらばらの事実が、誰かの手で並べられていく。
その並び方が、晴臣には怖かった。
「手帳を」
藤原が言った。
晴臣は答えなかった。
「水科さん」
藤原の声は静かだった。
「今ここで預けていただいた方が、あなたのためです」
「私のため?」
「そうです」
晴臣は、手帳を見た。
黒沢が言った言葉が蘇る。
私が言ったことだけを書く。
余計な解釈は入れない。
今日見たものに、すぐ意味をつけるな。
ただし、見たものを忘れるな。
晴臣は、手帳を胸に引き寄せた。
「黒沢先生が戻ってからにします」
藤原は、しばらく晴臣を見ていた。
その顔には、笑みが残っている。
だが、目は笑っていなかった。
「分かりました」
藤原は言った。
「では、それまでこちらでお待ちください」
待つ。
また、その言葉だった。
南宮の外で、柱を曳く掛け声が上がった。
男たちの声が、夕方の空へ伸びていく。
晴臣は、その声を聞きながら、初めて思った。
自分は、戻ってきたのではない。
北宮から、まだ戻れていないのだ。
同じ頃。
北宮の出蔵では、白い布を掛けられた石函が、元の場所に置かれていた。
扉は閉ざされている。
鍵は掛けられている。
その前に、杜守文庫の女が一人で立っていた。
神職の姿はない。
黒沢の姿もない。
女は、扉の前でしばらく目を閉じていた。
やがて、低く言った。
「見つけてしまわれました」
誰に向けた言葉でもないようだった。
だが、背後の杉の影が、わずかに揺れた。
風はなかった。
「水科の子は」
影の奥から、声がした。
年齢の分からない、乾いた声だった。
「まだ分かっておりません」
「分からぬ者ほど、あとで思い出す」
「はい」
「黒沢は」
女は答えなかった。
答える必要がないのか。
答えられないのか。
少しの沈黙のあと、影の声が言った。
「紙を探せ」
「原本は、黒沢先生が保持しています」
「なら、戻らぬようにしろ」
女は顔を伏せた。
「御意」
北宮の森で、鴉が鳴いた。
南宮の太鼓は、もうここまでは届かなかった。
夕暮れが、奥木湖の水面へゆっくり落ちていく。
湖は何も語らない。
ただ、空の赤を映していた。
人は、水に何かを沈める。
祈りを沈める。
罪を沈める。
名前を沈める。
そして、沈めたものが浮かび上がる時、最初に揺れるのは水面ではない。
それを見た人間の顔だった。




