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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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9/11

九 紙の檻

 南宮へ戻ると、世界はまだ明るかった。


 太鼓が鳴っている。


 笛が鳴っている。


 人の声が重なり、笑い声が弾け、社務所の前では氏子たちが汗を拭いながら水を飲んでいた。境内の端では、子どもたちが走り回り、母親たちがそれを叱っている。参道には屋台の匂いが混じり、甘い醤油の焦げる匂いと、焼いた餅の匂いが風に流れていた。


 何も変わっていない。


 晴臣は、そう思おうとした。


 だが、うまくいかなかった。


 南宮は、確かに南宮のままだった。


 赤い幟。


 白い幕。


 人の熱。


 祭りの明るさ。


 それでも、晴臣の目には、すべてが少し遠く見えた。


 ついさっきまでいた北宮の空気が、まだ体のどこかに残っている。


 黒い鳥居。


 出蔵の裸電球。


 石函の内側に沈んだ赤。


 逆井の底に溜まった黒い泥。


 土地の下に沈めたものを、起こさぬため。


 その言葉だけが、南宮の太鼓の奥に混じって、何度も聞こえる気がした。


「水科」


 斎部が言った。


 晴臣は振り向いた。


 斎部嘉平いんべ・かへいは、南宮の鳥居の手前で足を止めていた。ここから先へは行かない、というように。


「ここまででいいだろ」


「ありがとうございました」


「礼を言うほどのことじゃない」


 斎部は懐から煙草を出しかけ、境内の人目に気づいたのか、また戻した。


「黒沢先生は、大丈夫でしょうか」


 晴臣が聞くと、斎部は答えなかった。


 聞こえていないわけではない。


 答えないことを選んだ沈黙だった。


「斎部さん」


「学者の先生は、紙を残したがる」


「紙?」


「記録だよ」


 斎部は北宮の方角を見た。


「奥木じゃ、紙は強い。強すぎるくらいにな」


「どういう意味ですか」


「そのままだ」


 斎部は晴臣を見た。


 目が、いつもの軽さを失っている。


「水科。今日は早く家へ帰れ」


「でも、南宮で」


「祭りなんか、来年もある」


「双柱大祭は十四年に一度です」


「そういう言い返しができるなら、まだ大丈夫だ」


 斎部は、少しだけ口の端を上げた。


 だが、笑いにはならなかった。


「美月ちゃんを待たせるな。あと、父親の言うことは聞け」


「父を知っているんですか」


「奥木じゃ、知らない方が難しい」


 それだけ言うと、斎部は背を向けた。


 南宮へ入らず、横の細道へ消えていく。


 晴臣はその背中を見送った。


 あの男は、何かを知っている。


 全部ではない。


 けれど、どこを踏めば危ないかは知っている。


 その感覚は、北宮へ向かう時よりも強くなっていた。


「晴臣」


 呼ばれて振り向くと、美月がいた。


 白い帯が、夕方の光の中で柔らかく浮いている。


 昼に見た時よりも、少しだけ帯の白が濃く見えた。清らかというより、何かを縛っている白だった。


「戻ったんだ」


「ああ」


「黒沢先生は?」


「まだ北宮にいる」


 美月の表情が、わずかに曇った。


「一緒じゃないの?」


「北宮の神職と話をしてから戻るって」


「そう」


 美月は頷いたが、納得してはいないようだった。


「何かあった?」


「別に」


 晴臣はそう答えた。


 答えてから、自分でも嘘だと思った。


 別に、ではない。


 けれど、何があったのかを説明できなかった。


 石函の赤。


 逆井の泥。


 清め。


 穢れ。


 土地の下に沈めたもの。


 言葉はある。


 でも、それをそのまま口にすると、何かが形を持ってしまう気がした。


 意味をつけるな。


 父も、黒沢も、斎部も同じことを言った。


 美月は、晴臣を見ていた。


「嘘が下手」


「そうか」


「うん」


 美月は少し笑った。


 だが、すぐに真面目な顔に戻った。


「言えないこと?」


「言えないというより、分からない」


「晴臣にも?」


「うん」


 美月は、それ以上聞かなかった。


 ただ、晴臣の胸元を見た。


「守り袋」


 晴臣は反射的に胸に手を当てた。


 服の下で、布の小さな膨らみがある。


「さっきから、そこばかり気にしてる」


「そうか」


「北宮で、何かあった?」


「分からない」


「分からない?」


「少し、熱くなった気がした」


「守り袋が?」


「気のせいかもしれない」


 美月は、晴臣の胸元を見たまま黙った。


「気のせいなら、いいけど」


 そう言ったきり、美月はそれ以上聞かなかった。


 南宮の太鼓が鳴る。


 掛け声が上がる。


 人々が一斉に参道の方を向く。


 柱を動かす準備が始まっていた。


 祭りは進んでいる。


 誰かが北宮で何かを見つけようが、黒沢が戻っていなかろうが、南宮の時間は止まらない。


「晴臣」


「何」


「今日は、ちゃんと戻ってきて」


「戻ってきた」


「そうじゃなくて」


 美月は、少しだけ声を低くした。


「夜になる前に、家に戻って」


 父と同じことを言う。


 晴臣はそう思った。


 南の火があるうちに帰れ。


 北の用事を夜へ持ち越すな。


「分かった」


 晴臣が答えると、美月は少しだけ安心したように見えた。


「今夜、お父さんのところへ行くんでしょう」


 美月が言った。


「赤飯、用意してくれてるんだよね」


「ああ」


「じゃあ、ちゃんと帰ってきて。北宮の話は、そのあとでいい」


 その言い方が、晴臣には妙に現実的に聞こえた。


 北宮で見た黒い石も、逆井の泥も、いったん遠ざけられる気がした。


 今夜、家へ帰る。


 父が赤飯を用意している。


 美月を連れていく。


 それだけで、まだ自分の人生は南側に戻れるような気がした。


 その時、境内の向こうで、守部冬真もりべ・とうまがこちらを見ているのに気づいた。


 冬真は、すぐに表情を整えた。


 いつもの、祭りの顔。


 誰に見られても問題のない、若い財団理事の顔。


 だが、晴臣には分かった。


 冬真はずっとこちらを見ていた。


「戻ったんだな」


 冬真は近づいてきた。


「北宮はどうだった」


「確認だけだよ」


「黒沢先生は?」


「まだ北宮」


「そうか」


 冬真の返事は短かった。


 短すぎた。


「何か聞いてるのか」


 晴臣が尋ねると、冬真は少しだけ眉を上げた。


「何を?」


「黒沢先生のこと」


「いや。俺が知るわけないだろ」


 そう言って、冬真は笑った。


 その笑い方が、妙に滑らかだった。


「そういえば、藤原先生が探していた。北宮から戻ったら一度声をかけてほしいって」


「俺に?」


「いや、黒沢先生にだろう。君も一緒だったなら、念のため話を聞きたいんじゃないかな」


「何のために?」


「手続きだよ」


 冬真は軽く言った。


「非公開資料の確認があったんだろ。誓約書も書いたんじゃないのか」


「書いた」


「なら、その確認だ。藤原先生は、そういうところに細かい」


 冬真の言葉は自然だった。


 不自然なほど自然だった。


 晴臣は、美月を見た。


 美月は黙っている。


 その目が、冬真ではなく晴臣を見ていた。


 行かない方がいい。


 そう言っているように見えた。


「あとで行く」


 晴臣が答えると、冬真は頷いた。


「遅くならない方がいい。祭りの後は皆ばたつくから」


「……分かった」


 冬真は美月へ視線を移した。


「美月も、そろそろ会館の方へ戻った方がいい。お母さんが探していた」


「……分かりました」


 美月は丁寧に答えた。


 その距離感が、晴臣には少し引っかかった。


 冬真は、奥木の誰に対しても近い。


 だが、美月だけは、近くにいながら遠い。


 冬真はそれ以上言わず、境内の人混みへ戻っていった。


 美月が小さく言った。


「藤原さんのところへ行くの?」


「行った方がいいだろうな」


「一人で?」


「たぶん」


「黒沢先生が戻ってからじゃだめなの」


「それでもいいと思う」


 晴臣はそう答えた。


 だが、心のどこかで分かっていた。


 黒沢は、すぐには戻らない。


 なぜそう思うのかは分からない。


 ただ、北宮を出る時に見た教授の背中が、どうしても頭から離れなかった。


 その背中は、もう南宮へ戻る人のものには見えなかった。


 その時、南宮会館の方から若い男が小走りに近づいてきた。


 祭りの手伝いをしている氏子の一人だった。首に手拭いを掛け、額には汗が浮いている。


「水科さん」


「はい」


「藤原先生が、少しお話を聞きたいそうです。北宮の確認の件で」


 美月の顔が曇った。


「今ですか」


 晴臣が尋ねると、男は申し訳なさそうに頭を下げた。


「お時間のある時で構わないそうですが、祭りの後になると人の出入りが増えるので、できれば今のうちに確認だけ、と」


 確認。


 その言葉が、晴臣の耳に引っかかった。


「すぐ戻る」


 晴臣は美月に言った。


「本当に?」


「うん」


 美月はまだ納得していなかった。


 だが、会館の方から別の女の声がした。美月を呼んでいる。白い帯を締めたまま、ここに長く立っているわけにもいかなかった。


「待ってる」


 美月はそう言った。


「今度は、ちゃんと」


 晴臣は頷いた。


「分かった」


 晴臣は、若い氏子に続いて南宮会館へ向かった。


 南宮会館の入口では、酒の準備が始まっていた。


 折り詰めが並べられ、紙コップが積まれ、年配の男たちが声を張って段取りを確認している。廊下には畳の匂いと、冷えた麦茶の匂いが混じっていた。


 その奥へ進むにつれ、祭りの熱は薄くなっていく。


 襖で仕切られた小部屋の前で、若い氏子は足を止めた。


「こちらです」


 晴臣が礼を言うと、男は逃げるように広間へ戻っていった。


 小部屋の中には、祭りの熱とは別の静けさがあった。


 部屋には、外の音が薄くしか届かない。


 机の上には、書類が整然と並んでいた。


 確認書。


 誓約書。


 立会人名簿。


 非公開資料閲覧記録。


 それらは、朝見た時と同じように、ひとつの乱れもなく重ねられている。


 藤原匡親ふじわら・まさちかは、机の向こうに座っていた。


 晴臣が入ると、藤原は筆記具を置き、顔を上げた。


「お戻りになりましたか」


「はい」


「黒沢先生は」


「まだ北宮です」


「そうですか」


 藤原は、それほど驚いた様子を見せなかった。


 むしろ、その答えを最初から知っていたようにも見えた。


「何かありましたか」


 晴臣が尋ねると、藤原は薄く笑った。


「それを、こちらが伺いたいと思っていました」


「私は記録補助で同行しただけです」


「その記録補助が重要なのです」


 藤原は、机の上の書類に指を置いた。


「非公開資料の確認は、後日の混乱を避けるために、誰が何を見たのかを明確にしておく必要があります」


「それは分かります」


「では、確認させてください」


 藤原の声は、丁寧だった。


 丁寧すぎるほどだった。


「北宮の出蔵で確認したものについて、黒沢先生は何か断定的な発言をされましたか」


「断定はしていません」


「そうですか」


「形状や刻線の記録を取っただけです」


「底に嵌まっていたものについて、何か話は出ましたか」


 晴臣は、少しだけ息を止めた。


「嵌まっていたもの?」


「円形の座があったと聞いています」


「はい」


「そこに、何かがあったという話です」


 藤原は、一拍置いた。


「鏡、という言葉は出ましたか」


 鏡。


 ここで、その言葉が出る。


 晴臣は北宮の出蔵で、自分が言ったことを思い出した。


 鏡のようなものが、底に嵌まっていたのではないか。


 あれは、自分の推測だった。


 黒沢が断定したわけではない。


「私が、そう見えるかもしれないと言いました」


「あなたが」


「はい」


 藤原は、筆記具を取った。


「黒沢先生ではなく、水科さんが」


「はい」


「なるほど」


 藤原は何かを書き留めた。


 その動作を見て、晴臣の胸に小さな違和感が生まれた。


 今の言葉は、正確に記録されたのだろうか。


 それとも、別の意味を与えられたのだろうか。


「それは、学術的な判断ですか」


「いえ。見たままの印象です」


「印象」


「底の円形の座に、何かが嵌まっていたのではないかと思っただけです」


「その何かを、鏡だと考えた」


「鏡のようなもの、と言いました」


「分かりました」


 藤原は頷いた。


 分かった、という言葉の割に、目は少しも柔らかくならなかった。


「北宮で、他に何か聞きましたか」


「聞いた、というのは」


「神職の方から、説明など」


 晴臣は黙った。


 土地の下に沈めたものを、起こさぬため。


 その言葉が浮かんだ。


 だが、それを言っていいのか分からなかった。


 言った瞬間、何かに意味をつけてしまう気がした。


「祭具の清めについて、少し説明がありました」


「清め」


「はい」


「それだけですか」


「それだけです」


 藤原は、しばらく晴臣を見ていた。


 その視線は、疑っているというより、測っているようだった。


 どこまで知っているのか。


 どこまで言うのか。


 どこから先を、言わないのか。


 晴臣は、そう感じた。


「黒沢先生の記録は」


「先生が持っています」


「水科さんは写しを」


「持っていません」


「手帳は?」


「私の記録はあります」


「見せていただけますか」


 晴臣は手帳を押さえた。


 反射的だった。


 藤原の目が、その動きを見た。


「後ほど、黒沢先生と確認してから提出します」


「それは黒沢先生のご指示ですか」


「はい」


「なるほど」


 藤原はまた、何かを書いた。


 その時、襖の向こうで人の気配がした。


「失礼します」


 入ってきたのは、土師倉之介はじ・くらのすけだった。


 晴臣を見ると、土師は一瞬だけ驚いたような顔をした。


 だが、すぐに薄く笑った。


「水科君。戻っていたんですね」


「はい」


「黒沢先生は?」


「まだ北宮です」


「そうですか」


 土師は、藤原を見た。


 言葉にはしない。


 だが、その目だけで何かを確認したように見えた。


「土師さんも、何か確認ですか」


 晴臣が尋ねると、土師は肩をすくめた。


「私は外された側ですからね。あとから聞くしかありません」


 その言い方には、まだ昼の刺々しさが残っていた。


「それにしても、羨ましいですね」


「何がですか」


「北宮の出蔵に入り、非公開の確認物を見て、黒沢先生のそばで記録を取る。地元の名前というのは、やはり便利だ」


 晴臣は答えなかった。


 この場で反論しても、何もよくならない。


 土師の目は、晴臣の手帳に落ちた。


「それが記録ですか」


「個人の手帳です」


「個人の手帳に、非公開資料の内容が書かれている」


 藤原が、静かに言った。


 晴臣は、そこで初めて気づいた。


 今の会話が、少しずつ形を変えられていることに。


 個人の手帳。


 非公開資料。


 鏡という推測。


 黒沢の不在。


 それらが、ばらばらの事実ではなく、ひとつの線に並べられようとしている。


「水科君は、以前から北宮の伝承に強い関心を持っていました」


 土師が、ふいに言った。


 晴臣は土師を見た。


「何ですか、急に」


「事実を言っているだけです。地元の伝承、北宮の禁足地、水科家に残る古い話。君はそれらに詳しい」


「それが何か」


「だから、確認物を見て鏡を連想したとしても、不自然ではない」


 土師は穏やかに言った。


 だが、その言葉は、晴臣を助けていなかった。


 むしろ、晴臣の言葉に別の意味を与えていた。


 藤原は、土師の言葉を遮らなかった。


 ただ、静かに書き留めた。


 その筆先の音だけが、小部屋の中で細く響いた。


「提出はします」


 晴臣は言った。


「ただし、黒沢先生と確認してからです」


「もちろんです」


 藤原は穏やかに答えた。


「こちらも、手順を乱すつもりはありません」


 手順。


 その言葉が、妙に冷たかった。


 その時、廊下の方が少し騒がしくなった。


 誰かが小走りに近づいてくる。


 襖の前で足が止まった。


「藤原先生」


 声は、南宮の若い職員のものだった。


「北宮から連絡です」


 部屋の空気が変わった。


 藤原は立ち上がらなかった。


 ただ、筆記具を置いた。


「どうしました」


「黒沢先生が、まだ戻られていないとのことです」


「それは先ほど聞いています」


「いえ」


 職員の声が揺れた。


「出蔵にも、逆井にも、お姿がないそうです」


 晴臣は、手帳を握る指に力が入るのを感じた。


「どういうことですか」


 自分の声が、思ったより低く出た。


 職員は晴臣を見た。


 答えられない顔だった。


 藤原は、ゆっくり息を吐いた。


「北宮の方は」


「神職の方が確認中です。杜守文庫にも連絡を」


「分かりました」


 藤原は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


「水科さん」


 藤原が晴臣を見た。


「あなたが最後に黒沢先生と別れたのは、いつですか」


「北宮です」


「正確には」


「逆井の確認後、出蔵の前で」


「その時、黒沢先生は記録を持っていた」


「はい」


「あなたの手帳も」


「私が持っています」


「なるほど」


「なるほど、ではありません」


 晴臣は思わず言った。


「探しに行かないと」


「当然、確認はします」


「私も行きます」


「いけません」


 藤原の声は静かだった。


「なぜですか」


「関係者だからです」


「関係者なら、なおさら」


「いえ」


 藤原は、はっきりと言った。


「関係者だからこそ、軽率に動くべきではありません」


 土師が、何も言わずに晴臣を見ていた。


 その目に、同情はない。


 好奇心と、別の何かがある。


 冬真が襖の向こうに現れたのは、その直後だった。


「何があったんですか」


 藤原が答えるより早く、晴臣が言った。


「黒沢先生がいない」


 冬真の顔が、一瞬だけ止まった。


 だが、その停止は短かった。


「黒沢先生が?」


 冬真は、晴臣ではなく藤原を見た。


「……北宮にいるんじゃないんですか」


「出蔵にも逆井にもいないって」


 晴臣が答えた。


 冬真は、ほんの少しだけ黙った。


「探さないと」


 自然な反応だった。


 だが、晴臣には、どこか薄く感じられた。


 まるで、正しい場面で正しい言葉を選んだようだった。


「守部さん」


 藤原が言った。


「若い衆を数人、北宮へ向かわせてください。ただし、勝手に奥へ入らないように。神職の指示に従うこと」


「分かりました」


「それから、水科さん」


 藤原は晴臣へ向き直る。


「あなたはここに残ってください」


「嫌です」


「お願いではありません」


 その声に、部屋の温度が下がった。


 藤原は怒っていない。


 怒っていないのに、逆らう余地がない。


「黒沢先生と最後に一緒にいた人物の一人として、あなたには事情を確認する必要があります」


「私を疑っているんですか」


「疑う、という言葉は適切ではありません」


「では何ですか」


「確認です」


 確認。


 その言葉がまた出た。


「晴臣」


 冬真が低く言った。


「今は動かない方がいい」


「黒沢先生がいないんだぞ」


「分かってる。でも、君が騒げば、美月が不安になる」


 美月の名前が出た瞬間、晴臣は言葉に詰まった。


 冬真は、そこを正確に突いてきた。


「君が落ち着いていれば、美月も落ち着く。だから、今は藤原先生の言う通りにした方がいい」


 表向きは、正しい言葉だった。


 晴臣自身、それを完全に否定することができなかった。


 だが、その言葉は晴臣を助けてはいない。


 ただ、この部屋に留めるための重しになった。


 晴臣は、手帳を握ったまま立っていた。


 南宮の外では、太鼓が鳴っている。


 境内では、まだ笑い声がしている。


 祭りは続いている。


 だが、この小部屋の中では、別のものが始まっていた。


 晴臣には、それが分かった。


 まだ名前はつけられない。


 けれど、確かに始まっている。


 黒沢が戻らない。


 その事実だけが、紙の上に置かれようとしている。


 誰が最後に会ったのか。


 誰が記録を持っているのか。


 誰が鏡のようなものと言ったのか。


 誰が北宮から戻り、誰が戻らなかったのか。


 ばらばらの事実が、誰かの手で並べられていく。


 その並び方が、晴臣には怖かった。


「手帳を」


 藤原が言った。


 晴臣は答えなかった。


「水科さん」


 藤原の声は静かだった。


「今ここで預けていただいた方が、あなたのためです」


「私のため?」


「そうです」


 晴臣は、手帳を見た。


 黒沢が言った言葉が蘇る。


 私が言ったことだけを書く。


 余計な解釈は入れない。


 今日見たものに、すぐ意味をつけるな。


 ただし、見たものを忘れるな。


 晴臣は、手帳を胸に引き寄せた。


「黒沢先生が戻ってからにします」


 藤原は、しばらく晴臣を見ていた。


 その顔には、笑みが残っている。


 だが、目は笑っていなかった。


「分かりました」


 藤原は言った。


「では、それまでこちらでお待ちください」


 待つ。


 また、その言葉だった。


 南宮の外で、柱を曳く掛け声が上がった。


 男たちの声が、夕方の空へ伸びていく。


 晴臣は、その声を聞きながら、初めて思った。


 自分は、戻ってきたのではない。


 北宮から、まだ戻れていないのだ。


 同じ頃。


 北宮の出蔵では、白い布を掛けられた石函が、元の場所に置かれていた。


 扉は閉ざされている。


 鍵は掛けられている。


 その前に、杜守文庫の女が一人で立っていた。


 神職の姿はない。


 黒沢の姿もない。


 女は、扉の前でしばらく目を閉じていた。


 やがて、低く言った。


「見つけてしまわれました」


 誰に向けた言葉でもないようだった。


 だが、背後の杉の影が、わずかに揺れた。


 風はなかった。


「水科の子は」


 影の奥から、声がした。


 年齢の分からない、乾いた声だった。


「まだ分かっておりません」


「分からぬ者ほど、あとで思い出す」


「はい」


「黒沢は」


 女は答えなかった。


 答える必要がないのか。


 答えられないのか。


 少しの沈黙のあと、影の声が言った。


「紙を探せ」


「原本は、黒沢先生が保持しています」


「なら、戻らぬようにしろ」


 女は顔を伏せた。


「御意」


 北宮の森で、鴉が鳴いた。


 南宮の太鼓は、もうここまでは届かなかった。


 夕暮れが、奥木湖の水面へゆっくり落ちていく。


 湖は何も語らない。


 ただ、空の赤を映していた。


 人は、水に何かを沈める。


 祈りを沈める。


 罪を沈める。


 名前を沈める。


 そして、沈めたものが浮かび上がる時、最初に揺れるのは水面ではない。


 それを見た人間の顔だった。

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