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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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10/11

十 戻らない者

 人は、待つ時に音を拾う。


 晴臣は、そのことを初めて知った。


 南宮会館の小部屋には、外の祭りの音が薄く届いている。


 太鼓。


 笛。


 祭りの男たちの声。


 広間で折り詰めを運ぶ足音。


 紙コップが畳の上で倒れる軽い音。


 誰かが笑う声。


 誰かが誰かを呼ぶ声。


 その一つ一つが、襖と壁を隔てて、遠くから滲んでくる。


 けれど、晴臣の耳にいちばん強く残っていたのは、藤原が筆を走らせる音だった。


 細い音。


 乾いた音。


 紙の上で、何かが形を持っていく音。


 晴臣は、膝の上に手帳を置いたまま座っていた。


 手帳は開いていない。


 それでも、藤原の視線が時折そこへ落ちるのが分かった。


 土師倉之介はじ くらのすけは、部屋の隅に座っている。


 同席者、という形だった。


 藤原がそう言った。


 正式なものではありません。ただ、確認のためです。


 その言い方が、晴臣には気に入らなかった。


 正式ではない。


 だからこそ、あとからどうとでも言える。


 そういう種類の言葉に聞こえた。


「水科さん」


 藤原が顔を上げた。


「確認を続けます」


「黒沢先生を探す方が先です」


「探しています」


「私も探しに行きます!」


「あなたが動くと、現場が乱れます」


 藤原の声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさは人を落ち着かせるものではなかった。


 動かない水面のように、底が見えない。


「黒沢先生と別れた時、先生はどのような様子でしたか」


「普通でした」


「普通」


「少なくとも、具合が悪そうには見えませんでした」


「口論は」


「ありません」


「神職の方とは」


「少しやり取りはありました。でも、口論というほどでは」


「調査記録をめぐって、意見の相違があった」


「それは、そうかもしれません」


 藤原は書いた。


 晴臣は、その筆先を見た。


 今、自分が言ったことは、どう書かれたのだろう。


 意見の相違。


 記録をめぐる対立。


 黒沢不在の直前。


 自分は、説明しているつもりだった。


 けれど、藤原の紙の上では、説明ではなく、供述になっていく。


「水科さんは、その場で黒沢先生の記録を見ましたか」


「いいえ」


「先生は、記録を外部へ持ち出すつもりだった」


「誓約書は守るとおっしゃっていました」


「大学へ持ち帰る予定だったのでは?」


「整理をするとは聞いていましたが、どこでとは聞いていません」


「なるほど」


 また、その言葉だった。


 なるほど。


 藤原が言うと、それは理解ではなく、分類に聞こえた。


「その記録には、確認物の形状、刻線、底部の構造、赤い沈着、逆井の状況が含まれていた」


「先生が実際に何を書いたかは分かりません」


「あなたは補助記録を取った」


「はい」


「その手帳には、同様の内容がある」


「先生が言ったことだけです」


「未整理の非公開情報が、個人の手帳に記録されている」


 晴臣は、口を閉じた。


 その言い方には、反論しにくかった。


 事実ではある。


 だが、意味が違う。


 黒沢の指示で記録したものだ。


 隠すためではない。


 盗むためでもない。


 しかし、藤原が言葉を選ぶと、その事実は別の形を持つ。


「提出します」


 晴臣は言った。


「黒沢先生が戻ってから」


「先生が戻らなかった場合は?」


 晴臣は藤原を見た。


「先生は戻ります」


「仮定の話です」


「絶対に戻ります」


 藤原は、わずかに目を細めた。


「では、戻るまで保管を」


「私が持っています」


「それでは確認できません」


「だから、先生が戻ってから」


 藤原は、それ以上すぐには言わなかった。


 代わりに、紙を一枚めくった。


 その紙には、すでに何かが書かれている。


 晴臣には読めない。


 しかし、そこに自分の名前があることだけは分かった。


 水科晴臣。


 その文字が、見えなくても分かった。


 自分の名前が、自分から離れて、紙の上で別のものになり始めている。


「水科晴臣氏」


 藤原が静かに読み上げた。


「北宮確認立会人。黒沢教授と最後に同行。非公開資料に関する個人記録を保持。確認物について、鏡様の構造である可能性に言及」


「待ってください」


 晴臣は思わず言った。


「その書き方だと、私が何かを断定したように見えます」


「可能性に言及、としています」


「私の印象です」


「だから、可能性です」


「違います」


「何が違うのですか」


 晴臣は言葉に詰まった。


 何が違うのか。


 説明できる。


 できるはずだった。


 けれど、藤原の文章は、明確な嘘ではない。


 嘘ではないのに、違う。


 それが一番厄介だった。


 土師が、静かに口を開いた。


「学術的には、印象も記録の入口になります」


 晴臣は土師を見た。


「今、それを言う必要がありますか」


「あるでしょう。水科君が何を見て、何を連想したかは、後日の検証に必要です」


「後日の検証?」


「黒沢先生が戻られれば、それで済む話です」


 土師は穏やかに言った。


 戻られれば。


 その言い方が、晴臣の胸に刺さった。


 黒沢は戻る。


 戻るはずだ。


 だが、この部屋にいる者たちは、すでに戻らない場合の紙を作り始めている。


 廊下の方で、足音が近づいた。


 今度は一人ではなかった。


 複数の足音。


 襖の向こうで、冬真の声がした。


「藤原先生」


「どうぞ」


 冬真が入ってきた。


 その後ろに、南宮の若い衆が二人いた。顔に汗を浮かべ、息が少し乱れている。北宮へ向かった者たちだろう。


 晴臣は立ち上がりかけた。


 藤原の視線がそれを止めた。


「報告を」


 藤原が言った。


 若い衆の一人が、緊張した顔で口を開いた。


「北宮の神職の方と一緒に、出蔵の周辺と逆井まで確認しました」


「黒沢先生は」


「お姿はありませんでした」


 晴臣の手が、膝の上で強く握られた。


「ただ」


 若い衆は言い淀んだ。


 藤原が促す。


「ただ?」


「逆井から少し下った水路の脇に、黒沢先生のものと思われる鞄が」


 晴臣は立ち上がった。


「鞄?」


「座ってください」


 藤原が言った。


「鞄って、どういうことですか」


「水科さん」


「黒沢先生はどこですか?」


「座ってください」


 藤原の声は変わらなかった。


 だが、部屋の空気は重くなった。


 晴臣は立ったまま、若い衆を見た。


「先生は」


「見つかっていません」


 若い衆は小さく答えた。


「鞄だけです。中身は、まだ北宮の方で確認中です」


「見に行きます」


「いけません」


 藤原の声が、先ほどより少し低くなった。


「なぜですか」


「あなたは最後の同行者です」


「だから行くんです」


「違います」


 藤原は、はっきりと言った。


「だから行けないのです」


 冬真が一歩前に出た。


「晴臣、落ち着け」


「落ち着けるわけないだろ」


「分かってる」


「分かってない」


 晴臣は冬真を見た。


「黒沢先生がいないんだぞ」


「だから、探してる」


「俺も行く」


「今行っても、神職の指示がないと奥には入れない。余計に混乱する」


 冬真の言葉は正しかった。


 正しいからこそ、晴臣には苛立たしかった。


 正しい言葉で、動けなくされる。


 藤原と同じだ。


「鞄の中身は?」


 藤原が若い衆に尋ねた。


「まだ分かりません。ただ、外から見た限りでは、泥で汚れていて」


「記録類は」


「北宮で確認中です」


「触った者は」


「神職の方だけです」


「よろしい」


 藤原は頷いた。


 そして晴臣へ向き直った。


「水科さん。状況が変わりました」


「何がですか」


「黒沢先生の所持品が発見されました。先生ご本人は不在。直前まで同行していたあなたは、当然、確認対象になります」


「確認対象」


「そうです」


「私は何もしていません」


「誰も、あなたが何かをしたとは言っていません」


 藤原は言った。


「ただ、何もしていないことを確認する必要があります」


 晴臣は笑いそうになった。


 笑えなかった。


 何もしていないことを確認する。


 それは、どうすれば証明できるのか。


 何もしていない者ほど、証明するものがない。


 部屋の外で、女たちの声がした。


 美月の声が混じっている気がした。


 晴臣は襖の方を見た。


「美月」


 思わず名を呼んだ。


 冬真がすぐに振り返った。


 襖の向こうで、誰かが止める声がする。


「晴臣?」


 美月の声だった。


 晴臣は襖へ向かおうとした。


 冬真が立ちはだかった。


「今はだめだ」


「どけ」


「美月をここに入れるな」


「どけ」


「晴臣」


 冬真の声が低くなる。


「美月に、今の君の顔を見せるな」


 晴臣は動きを止めた。


 その言葉だけは、効いた。


 冬真は、そこを知っている。


 どの言葉を使えば、晴臣が止まるのか。


 美月のため。


 それは、晴臣にとって一番否定しにくい言葉だった。


「何があったの?」


 襖の向こうで、美月が言った。


 晴臣は答えようとした。


 しかし、藤原が先に口を開いた。


「黒沢先生の所在確認をしています。水科さんには、事情を確認しているだけです」


「晴臣は」


「落ち着いています」


 藤原は嘘をついた。


 嘘ではないと言える程度に、丁寧な嘘だった。


「少し時間をください」


 美月は黙った。


 襖一枚を隔てて、晴臣には美月の気配が分かった。


 そこにいる。


 ほんのすぐそこにいる。


 なのに、遠い。


 さっきまで、赤飯の話をしていた。


 今夜、父の家へ行くはずだった。


 それが、襖一枚で断たれている。


「晴臣」


 美月が言った。


「必ず戻ってきて」


 晴臣は目を閉じた。


 その言葉は、北宮へ行く前に聞いたものと同じだった。


 戻ってくること。


 あの時は、南宮へ戻ればいいと思っていた。


 だが今、晴臣は南宮の中にいる。


 それでも、戻れていない。


「戻るよ」


 晴臣は答えた。


 声は、自分でも驚くほどかすれていた。


「絶対だよ」


 襖の向こうで、美月が息を呑む気配がした。


 その後、誰かが美月を呼んだ。


 母親か、会館の女か。


 美月の足音が遠ざかる。


 晴臣はその音を聞いていた。


 藤原が、静かに言った。


「水科さん。確認を続けます」


 晴臣は振り返った。


「まだ続けるんですか」


「必要です」


「黒沢先生の鞄が見つかったんですよ」


「だからこそです」


 藤原は机の上の紙を整えた。


「黒沢先生の鞄が見つかった場所は、逆井から下った水路脇。あなたはその直前、黒沢先生と逆井にいた。黒沢先生は記録を保持していた。あなたも個人記録を保持している。確認物について鏡様構造の可能性に言及したのは、あなたです」


「だから何だって言うんですか」


「何も言っていません」


「言ってるじゃないですか」


「事実を並べているだけです」


 その瞬間、晴臣ははっきり分かった。


 藤原は、まだ罪を言っていない。


 だから、晴臣は反論できない。


 だが、事実はもう並べられている。


 その並びが、罪の形を作り始めている。


「事実は、並べ方で意味が変わります」


 晴臣は言った。


 藤原は、わずかに口元を動かした。


「よく分かっておられる」


 その返答に、晴臣は背筋が冷えるのを感じた。


 褒められたのではない。


 認められたのでもない。


 もう遅い、と言われた気がした。


 土師が静かに言った。


「水科君、手帳を預けた方がいい」


「あなたまで」


「君のためだ」


「私のためという言葉を、今日は何度聞けばいいんですか」


 土師は黙った。


 冬真も黙っている。


 藤原だけが、静かに紙を整えていた。


「駐在には連絡を」


 冬真が言った。


「すでに」


 藤原は答えた。


「ただし、まずは北宮側の確認が終わってからです。祭りの最中に大きく騒げば、余計な混乱を招く」


「祭りを続けるんですか」


 晴臣が言った。


「黒沢先生がいないのに」


「祭りは止められません」


「人がいなくなっているんですよ」


「だからといって、大勢の人間を一斉に動揺させるわけにはいきません」


 藤原の声は冷静だった。


 冷静すぎた。


「奥木では、順序を間違えると、収まるものも収まらなくなります」


「人の命より順序ですか」


「人の命を守るための順序です」


 晴臣は言葉を失った。


 藤原の言葉は、どこまでも正しい形をしている。


 その中身がどれほど歪んでいても、外側だけは整っている。


 紙と同じだ。


 まっすぐで、白くて、正しいように見える。


 部屋の外で、太鼓が大きく鳴った。


 柱が動いたのだろう。


 男たちの掛け声が、会館の壁を震わせた。


 祝宴の準備は進んでいる。


 酒が並び、折り詰めが開かれ、湯呑みが運ばれる。


 美月は、どこかで白い帯を締めたまま、晴臣を待っている。


 父は、家で赤飯を用意している。


 その全てが、晴臣から少しずつ遠ざかっていく。


「水科さん」


 藤原が言った。


「今から、あなたの確認内容を読み上げます。違うところがあれば、その場で訂正してください」


「署名しろということですか」


「まだ署名ではありません。確認です」


「また確認」


「そうです」


 藤原は紙を持ち上げた。


 そして、淡々と読み始めた。


 水科晴臣氏は、黒沢教授に同行し、北宮出蔵において非公開の確認物の調査に立ち会った。


 確認物の底部には円形の座があり、水科氏は鏡様のものが嵌められていた可能性に言及した。


 黒沢教授は、形状、刻線、赤色沈着、逆井の状況について記録を保持していた。


 水科氏は黒沢教授の補助として個人手帳に記録を行った。


 逆井確認後、出蔵前で黒沢教授と別れた。


 その後、黒沢教授は所在不明となった。


 黒沢教授の所持品と思われる鞄が、逆井下方の水路脇で発見された。


 読み上げられるたびに、晴臣は自分の足元が削られていくように感じた。


 一つ一つは、間違っていない。


 だが、全部が違う。


「訂正は」


 藤原が尋ねた。


 晴臣は、長く息を吐いた。


「私は、黒沢先生に何もしていません」


「それは記載していません」


「記載してください」


「事実確認に含める内容ではありません」


「私にとっては一番重要です」


「現時点で、誰もあなたを加害者とは言っていません」


「言わなくても、そう読めるように書いている」


 藤原は黙った。


 その沈黙が、答えだった。


「では、こう追記しましょう」


 藤原は筆を取った。


「水科氏は、黒沢教授への関与を否定」


「違う」


 晴臣は即座に言った。


「それでは、疑われている前提になる」


「事実として、あなたが今そう発言した」


「だから違うんです!」


 晴臣は、自分の声が震えているのを感じた。


 言えば言うほど、紙の中に沈んでいく。


 否定すれば、否定した事実だけが残る。


 黙れば、黙った事実が残る。


 何をしても、紙になる。


 檻が作られていく。


「水科さん」


 藤原が言った。


「落ち着いてください」


 その言葉で、晴臣は逆に冷えた。


 落ち着け。


 美月のため。


 確認。


 あなたのため。


 今日は、同じ種類の言葉ばかり聞いている。


 人を縛る言葉。


 人をその場に座らせる言葉。


 人から動く理由を奪う言葉。


 晴臣は、手帳を胸に押し当てた。


 その時だった。


 胸元の守り袋が、かすかに熱を持った。


 強くはない。


 北宮で感じたような焼ける熱ではない。


 だが、確かに温かい。


 晴臣は、息を止めた。


 藤原の筆が止まった。


「どうしました」


「何でもありません」


「そうですか」


 藤原は再び筆を動かした。


 けれど、晴臣には分かった。


 今、藤原は見た。


 自分が胸元を押さえたことを。


 土師も見ていた。


 冬真も。


 この部屋にいる全員が、何かを見ている。


 そして、見たものに意味をつけようとしている。


 晴臣は、父の言葉を思い出した。


 見えたものに、すぐ意味をつけるな。


 だが、ここにいる者たちは違う。


 見えたものに、すぐ意味をつける。


 意味をつけて、紙に書く。


 紙に書いて、人を閉じる。


 廊下の向こうで、また足音がした。


 今度はゆっくりだった。


 急いでいない。


 それなのに、誰もその足音を無視できなかった。


 襖が開いた。


 北宮の神職が立っていた。


 白い装束の裾に、黒い泥が跳ねている。


 顔色は悪かった。


「失礼します」


 神職は低く言った。


 部屋の空気が、さらに冷えた。


 藤原が立ち上がる。


「確認は」


 神職は晴臣を一度見た。


 それから、藤原へ視線を戻した。


「鞄は、黒沢先生のものと見てよいと思われます」


「中身は」


「筆記具、手袋、布、測定用の小物。着替えの一部」


「記録は」


 神職は答えなかった。


 藤原の目が細くなる。


「記録は」


「ありません」


 晴臣は、耳の奥で音が遠のくのを感じた。


「カメラは」


「ありません」


「黒沢先生本人は」


「確認できておりません」


 神職の声は硬かった。


「ただ」


 また、ただ、だった。


 晴臣はその言葉を聞くたびに、胸の内側が冷えていくのを感じた。


「水路の石に、血のようなものが」


 美月の声が、遠くで聞こえた気がした。


 父の声も。


 夕方までに帰れ。


 南の火があるうちに帰れ。


 北の用事を夜へ持ち越すな。


 晴臣は立っていた。


 座っていたのかもしれない。


 自分でも分からなかった。


 藤原は、静かに言った。


「外には」


「まだ知らせておりません」


「よろしい」


「よろしい?」


 晴臣は藤原を見た。


「今、血のようなものって言いましたよね」


「断定ではありません」


「黒沢先生が怪我をしているかもしれないんですよ」


「だから、断定せず確認します」


「確認、確認って」


 晴臣は手帳を握りしめた。


「あなたたちは、黒沢先生を探す気があるんですか!」


 神職の顔が歪んだ。


 藤原は動じなかった。


「あります」


「だったら、私をここに置いておく理由はない」


「あります」


 藤原は机の上の紙に手を置いた。


「黒沢先生の記録とカメラが見つかっていません。先生が所持していた非公開確認物に関する記録は、現時点で所在不明です。そして、あなたは同種の記録を保持しています」


「だから、手帳を渡せと」


「はい」


「渡したら、どうなるんですか」


「保全します」


「誰から」


 藤原は答えなかった。


 晴臣は、その沈黙の意味を理解した。


 誰から守るのか。


 黒沢を失った側からか。


 北宮からか。


 藤原からか。


 それとも、晴臣自身からか。


 答えは、どれにもなり得た。


「水科さん」


 藤原は言った。


「これは、あなたを守るためでもあります」


「もういいです」


 晴臣は低く言った。


「その言葉は、もう聞きました」


 藤原の顔から、わずかに笑みが消えた。


「では、別の言い方をしましょう」


 声が少しだけ硬くなった。


「手帳をこちらに提出してください」


 部屋の中が静まり返った。


 祭りの音だけが遠くで続いている。


 晴臣は、手帳を見た。


 黒沢の声が蘇る。


 見たものを忘れるな。


 晴臣は、ゆっくり首を振った。


「できません」


「なぜですか」


「これは、黒沢先生が戻るまで私が持っています」


「黒沢先生は戻らないかもしれません」


 冬真が小さく息を呑んだ。


 土師が目を伏せた。


 神職は動かなかった。


 晴臣は藤原を見た。


 その言葉だけは、聞き流せなかった。


「もう一度言ってください」


「仮定の話です」


「今、戻らないかもしれないと言いました」


「状況上、そう考える必要があります」


「あなたは、いつからそう考えていたんですか?」


 藤原は答えなかった。


 答えない。


 今日、何度も見た沈黙だった。


 斎部の沈黙。


 神職の沈黙。


 杜守文庫の女の沈黙。


 藤原の沈黙。


 どれも同じではない。


 けれど、すべてが同じ方向を向いている。


 北。


 晴臣には、そう思えた。


 その時、遠くで大きな歓声が上がった。


 柱が立ったのだ。


 南宮の境内で、男たちが叫び、女たちが拍手し、子どもたちが跳ねている。


 十四年に一度の柱が、南の空へ立ち上がる。


 本来なら、晴臣もそこにいるはずだった。


 美月の隣に。


 父の作った赤飯の前に。


 未来の話をしているはずだった。


 だが、晴臣は小部屋にいた。


 紙の前に。


 藤原の前に。


 戻らない黒沢の名と、自分の名が並べられた紙の前に。


 歓声が、少しずつ遠ざかる。


 代わりに、湖の気配が近くなる。


 窓は閉まっている。


 湖など見えない。


 それでも晴臣には、水の匂いがした。


 黒沢の鞄。


 水路の石。


 血のようなもの。


 見つからない記録。


 見つからないカメラ。


 そして、戻らない人。


 藤原が言った。


「水科さん。最後にもう一度だけ言います。手帳を」


 晴臣は答えなかった。


 答えずに、手帳を懐へしまった。


 藤原の目が、その動きを追った。


 神職の顔が強張る。


 土師が唇を結ぶ。


 冬真が、何か言おうとしてやめた。


 その瞬間、晴臣は自分が何かを選んだのだと分かった。


 それが正しい選択かどうかは分からない。


 だが、もう戻れない選択だった。


 紙の檻は、まだ閉じきっていない。


 けれど、扉の音は聞こえた。


 かちり、と。


 小さく、乾いた音がした気がした。


 同じ頃、北宮の奥では、逆井の石蓋がふたたび閉じられていた。


 石蓋の縁には、湿った泥が黒く滲んでいる。


 出蔵の扉は閉ざされ、白い布を掛けられた石函は、誰の目にも触れない場所で沈黙していた。


 杜守文庫の女は、蔵の前に立っていた。


 その背後で、杉の影が深くなっている。


 黒沢の鞄は、別の布に包まれて運ばれていた。


 記録はない。


 カメラもない。


 人もいない。


 あるのは、鞄だけだった。


「紙を探せ」


 影の奥の声が、低く言った。


「原本は、見つかっておりません」


「なら、紙より先に、人だ」


「すでに」


 女はそこで言葉を止めた。


 影の声は笑わなかった。


「水科の子は?」


「藤原先生が留めています」


「なら、南の火があるうちに、結び目を切れ」


 女は顔を伏せた。


「御意」


 北宮の森で、鴉が鳴いた。


 一羽ではなかった。


 何羽もの声が、杉の上で重なった。


 奥木湖の水面には、夕焼けが赤く伸びている。


 南宮では柱が立った。


 北宮では石蓋が閉じた。


 そして、水科晴臣の名は、その夕方、初めて紙の中に閉じ込められた。

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