十一 歩み寄る不穏
晴臣が逆井へ向かった頃、出蔵には、まだ白い布を掛けられた石函が残されていた。
杜守文庫の女は、その前に一人で立っていた。
黒沢も、水科晴臣も、神職も、斎部嘉平も、すでに蔵を出ている。彼らは社殿の奥を抜け、逆井へ向かった。
女は同行しなかった。
やることべきことがある。
黒い石函。
水科の子が、それを見たこと。
そして、鏡という言葉が出たこと。
女は、出蔵の奥へ向かって静かに膝を折った。
そこには誰もいない。
少なくとも、目に見える者はいない。
それでも、女は頭を垂れた。
「御前」
声は低かった。
「出蔵にて、鏡の名が出ました」
蔵の中は動かない。
裸電球が、わずかに鳴っている。
奥の暗がりから、声がした。
「誰が」
「水科晴臣です」
沈黙が落ちた。
赤であれば、まだ言い逃れができる。
朱。
清め。
古い祭具。
顔料。
いくつもの言葉で覆える。
だが、鏡は違う。
その名を出した瞬間、黒い石函はただの古い祭具ではなくなる。
水の底に沈められたものではなくなる。
北宮が、長い間、見ないようにしてきたものへ繋がってしまう。
「水科の子が」
「はい」
「黒沢は」
「断定はしておりません。ただ、否定もしませんでした」
「紙は」
「残すおつもりのようでした」
「水科の子は」
「補助記録を取っています」
女は、白い布を見た。
布の下にある石函は何も語らない。
だが、それを見た者たちは語る。
紙に残す。
記憶に残す。
帰った後で、思い出す。
「鏡の力が、戻るのかもしれぬ」
奥の声が言った。
女は、ほんのわずかに顔を上げかけた。
「戻る、でございますか」
「分からぬ」
声は答えた。
「分からぬから、外へ出してはならぬ」
女は頭を下げた。
確認物の正体を、御前も知っているわけではない。
古井戸から出た黒い石の函が、何であるのか。
それが鏡とどう繋がるのか。
底の座に何が嵌まっていたのか。
どのように使うものだったのか。
今の北宮は、正確には知らない。
記録がない。
だが、知らないことと、危険でないことは同じではない。
むしろ、知らないからこそ恐ろしい。
そして、知らないからこそ、欲が生まれる。
もし、あれが鏡に関わるものなら。
もし、これまで閉じていたものを、もう一度開く鍵になるなら。
もし、失われたと思っていた力を、戻せるなら。
それは、恐れであると同時に、力だった。
「黒沢が見たなら、紙の問題で済む」
御前の声が、蔵の奥から落ちた。
「水科が見たなら、紙では済まぬ」
御前は言った。
「あれは今も使われている」
「だが、正しい形ではない。見るべき者が見ているとは限らぬ。受ける器も、逃がす道も欠けている」
「だから、歪む」
「歪んでもわかることがある。だから皆、やめられぬ」
御前の声は低かった。
「だがあの子は、函を見て鏡を思った。水科の子がだ」
女が、そこで初めて口を挟んだ。
「水科は、見る家ではないはずです」
御前は、すぐには答えなかったが、やがて、低く言った。
「見る者を壊さぬための家だった。だが、時が経てば、役の境も、口伝も、形を変える。」
少しの沈黙が落ちた。
「殺せば失う。戻せば広がる。北に置けば、土地が目を覚ますかもしれぬ」
奥木には古い家がいくつもある。
だが、北に触れる名は多くない。
水科。
その名だけは、南の祭りの中にあっても、どこか北の影を引いている。
だからこそ、ただの若い研究者が鏡を連想したのとは違う。
水科の子が鏡を見立てた。
そのこと自体が、北宮にとって不吉であり、危険だった。
「紙の行き先を誤るな」
「はい」
「黒沢の紙と、水科の紙。二つは同じではない」
女は、白い布の前で深く頭を垂れた。
「南宮側へは」
「直接、言うな」
御前の声は短かった。
「藤原の耳に入ればよい」
「承知しました」
それで十分だった。
御前は藤原に命じない。
藤原も御前の家臣ではない。
それでも、必要な者には届ける。
それがこの土地のやり方だった。
同じ頃。
南宮会館の奥では、祭りの準備が進んでいた。
広間では、折り詰めの数が確認され、紙コップが積まれ、湯呑みが畳の上に並べられている。女たちは膳の位置を直し、若い衆は参道と会館の間を行き来していた。
境内では、柱を立てる準備が進んでいる。
男たちは立てる場所を確認し、掛け声の調子を合わせ、年配の氏子が工程を声高に確認していた。太鼓の間隔は短くなり、笛の音は高くなっている。
立柱の前の熱が、南宮全体に溜まり始めていた。
その表の動きとは別に、会館の奥には、外から見えない小部屋があった。
古い襖の向こう。
押入れの横にある、もう一枚の引き戸。
普段は祭具の予備や古い座布団を入れておくための部屋だが、この日は座布団も箱も片づけられ、小さな机が一つ置かれていた。
藤原匡親は、その机の前に座っていた。
机の上には、白い封筒と、筆記具と、閉じられた黒い手帳がある。
広間からは祭りの声が届く。
だが、この部屋の中では、その声はただの振動になっていた。
藤原は、携帯電話の画面を見ていた。
短い文字列だった。
差出人の名は表示されていない。
登録していないからではない。
登録しないことになっている相手だった。
底、映る。
紙、二枚。
水科、見立て。
藤原は、しばらくその文面を見ていた。
説明はない。
だが、十分だった。
逆井の底で、確認物と鏡の結びつきが深まった。
黒沢教授は記録を持った。
水科晴臣も補助記録を取った。
そして、水科の子は、確認物から鏡を連想した。
藤原は画面を閉じた。
その動作に迷いはない。
ただ、閉じた後の指先だけが、机の上でしばらく止まっていた。
「お仕事ですか」
向かいに座っていた守部冬真が言った。
冬真は、祭りの法被を着たままだった。境内から呼ばれてきたのだろう。襟元には、まだ外の熱が残っている。
「急ぎでしたら、改めますが」
「いえ」
藤原は携帯電話を伏せた。
「北宮の調査状況の報告ですよ」
「晴臣たちの?」
「ええ。確認が少し長引いているようです」
藤原は穏やかに答えた。
嘘ではなかった。
ただ、冬真が受け取る意味とは違っていた。
「黒沢先生も一緒ですよね」
「そのはずです」
「なら、大丈夫だと思います」
冬真はそう言った。
藤原はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「そうであればよいのですが」
「何か問題が?」
「問題が起きたわけではありません」
藤原は、白い封筒に指を置いた。
「問題が起きないように、準備しておく必要があるだけです」
冬真は納得しきれない顔をした。
しかし、藤原の言葉は丁寧だった。
丁寧な言葉は、人の警戒を急には起こさせない。
襖の外で、人の足音が止まった。
藤原が顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきたのは、土師倉之介だった。
土師は室内の空気を見て、すぐに表情を整えた。
自分がここへ呼ばれた理由を完全に理解しているわけではない。
「失礼します」
「お忙しいところを」
藤原が言うと、土師は薄く笑った。
「私は、北宮の確認からは外されていますので」
その言い方には、隠しきれない棘があった。
藤原はその棘を咎めなかった。
咎める必要がない。
時に、人の不満は、そのまま使える。
「だからこそ、お聞きしたいことがあります」
「私にですか?」
「ええ」
藤原は紙を一枚出した。
まだ何も書かれていない紙だった。
「水科晴臣さんについてです」
土師の目が、わずかに細くなった。
「水科君についてですか?」
「外部の研究者から見て、水科さんの立場はどう見えますか」
「立場、ですか?」
「黒沢先生に同行し、北宮の非公開確認物の確認に立ち会い、補助記録を取る立場です」
土師は少し黙った。
それから、ゆっくり言った。
「近いと思います」
「近い」
「ええ。資料に近すぎる」
藤原は書いた。
「水科君は地元の出身で、黒沢先生にも信頼されている。北宮の立会いにも入れる。外部の研究者から見れば、それはかなり特殊な立場です」
「特殊」
「本人にその自覚があるかどうかは別として」
土師は、そこで少し言葉を選んだ。
「調査対象に近すぎる人間は、時に見たい形で物を見ることがあります」
冬真が土師を見た。
「晴臣が、都合よく見ていると?」
「一般論です」
「今、一般論を言う場面ですか」
「藤原先生が聞かれたので」
土師は穏やかに答えた。
だが、穏やかさの下に、わずかな満足があった。
冬真はそれに気づいた。
藤原も気づいた。
ただ、藤原は何も言わなかった。
紙に残すべきものは、いまの言葉だけで足りる。
「確認物を見た時、水科さんが何か特定の構造を連想する可能性はありますか」
藤原が尋ねた。
「確認物を見ていない私には、断定できません」
「一般論で構いません」
「なら、あります」
土師は言った。
「地元の伝承や禁足地の話を知る者は、遺物の形状に意味を読み込みやすい。特に、水科君のように、黒沢先生のそばで調査に関わってきた者ならなおさらです」
「問題は、確認物そのものではありません」
藤原が言った。
土師は黙った。
冬真も藤原を見る。
「では、何が問題なのですか」
冬真が尋ねた。
「確認物を、何として見たかです」
藤原は答えた。
「古い祭具として見たなら、文庫の管理物です。文化財として見たなら、学術上の確認物です」
そこで一度、言葉を切る。
「それ以外として見たなら、話が変わります」
部屋の空気が、少し沈んだ。
冬真は意味を掴みきれない顔をした。
土師は、逆に興味を隠しきれていなかった。
「それ以外とは?」
土師は低く言った。
藤原は答えなかった。
土師は、わずかに口元を引いた。
「水科君らしい解釈があったんですね?」
「…どういう意味ですか?」
冬真が言った。
「悪い意味ではありません」
土師は答えた。
「ただ、彼は近すぎる。資料にも、調査対象にも。外から見ると、そう思うだけです」
冬真は言葉を聞き流した。
冬真の胸に残ったのは、確認物のことではなかった。
晴臣が、また美月の近くにいるという事実だった。
その時、藤原の携帯電話が再び震えた。
画面には、短い通知だけが表示された。
文庫筋からの確認。
本文は、さらに短かった。
確認物、鏡様構造の可能性。
文庫外記録、不可。
黒沢、原本保持。
水科、補助記録。
藤原は、それを読んでから画面を閉じた。
冬真が口を開きかけた。
だが、今度は何も聞かなかった。
藤原は、机の上の紙を一枚裏返した。
情報は揃った。
出蔵で鏡の名が出た。
黒沢は原本を保持する。
水科は補助記録を持つ。
確認物は鏡に関わるものとして見立てられた。
逆井でも、その鏡につながる何かがあった。
まだ何も起きていない。
だからこそ、紙を用意する必要がある。
「水科さんが戻ったら、私のところへ」
藤原が言った。
冬真が顔を上げる。
「晴臣を?」
「ええ」
「黒沢先生も一緒なら?」
「その場合は、黒沢先生にも」
「もし晴臣だけなら」
藤原は、冬真を見た。
「その時こそ、確認が必要です」
冬真は、ゆっくり息を吐いた。
「晴臣は、疑われるようなことはしていません」
「まだ、誰も疑っていません」
「その言い方が、もう疑っている」
藤原は薄く笑った。
「守部さん」
「はい」
「疑いというのは、感情ではありません」
藤原は紙を指先で押さえた。
「手順です」
冬真は、それ以上何も言わなかった。
その言葉の意味は分からない。
分からないが、拒むほどの材料もない。
藤原は、冬真がそこで止まることを知っている。
冬真は、晴臣を完全に悪者だとは思っていない。
だが、晴臣が北宮に近づき、美月を不安にさせることには苛立っている。
晴臣が少しだけ遠ざかればいい。
美月が少しだけ自分の方を見るようになればいい。
そう思う弱さを、藤原は見ていた。
「守部さん」
藤原は言った。
「美月さんのそばにいてください」
冬真の顔が変わった。
「美月は関係ありません」
「関係があります」
藤原は静かに言った。
「水科さんが混乱すれば、美月さんも巻き込まれますよ?」
「そんなはずない。美月は無関係です」
「違います」
藤原は遮った。
「美月さんを守るためです」
その言葉は、冬真の中に深く入った。
晴臣を止めるための言葉と同じように。
美月のため。
それは、冬真にとっても否定しにくい言葉だった。
「あなたが彼女のそばにいてください」
藤原は続けた。
「水科さんが動こうとした時、美月さんが巻き込まれないように」
冬真は黙った。
頷かなかった。
だが、拒まなかった。
藤原はそれで十分だと判断した。
土師が、低く言った。
「私にできることは」
藤原は土師を見た。
「水科さんについて、後日確認を求められた場合は、見たままを話してください」
「見たまま」
「ええ。水科さんが黒沢先生に同行していたこと。北宮の非公開確認に立ち会ったこと。補助記録を取っていたこと。外部研究者であるあなたが、その確認から外されていたこと」
土師は唇を結んだ。
その最後の一つは、土師の傷だった。
藤原は、そこをあえて触った。
「それだけでよろしいのですか」
「それだけで十分です」
藤原は答えた。
「嘘は不要です」
その言葉が、一番冷たかった。
嘘は不要。
藤原にとって、嘘は粗い道具だった。
必要なのは、事実の選別と順序である。
「晴臣が手帳を提出すれば……この確認は終わるんですか?」
冬真が言った。
「終わります」
藤原は答えた。
「黒沢先生の記録と照合し、必要な範囲で文庫へ提出する。それで済みます」
「なら、晴臣にそう言えばいい」
「言います」
「晴臣は出すと思います」
「そうであればよいですね」
藤原は紙に目を落とした。
「ただし、出さなかった場合」
「出します」
冬真は少し強く言った。
自分に言い聞かせるようでもあった。
藤原はそれ以上、否定しなかった。
代わりに、別の紙を取り出した。
そこには、項目だけが並んでいた。
北宮確認立会人。
黒沢教授と最後に同行。
非公開確認物に関する個人記録を保持。
確認物について鏡様構造の可能性に言及。
提出拒否。
最後の項目だけは、まだ空欄だった。
藤原はそこに筆を置かなかった。
まだ、書く時ではない。
「人は、理由があれば逃げたと思うものです」
藤原が言った。
冬真は顔を上げた。
「何の話ですか?」
「仮定の話です」
「晴臣が逃げるとは思えません」
「思うかどうかではありません」
藤原は言った。
「そう見えるかどうかです」
冬真は黙った。
藤原は続けた。
「非公開確認物への関心。個人手帳への記録。黒沢先生との意見の相違。提出拒否。それらが並べば、人は理由を見つけます」
「晴臣はそんなことをしない」
「なら、そうならないようにすればいい」
「どうやって」
「手帳を出してもらうことです」
藤原の答えは単純だった。
単純だからこそ、冬真は反論しにくかった。
手帳を出せば終わる。
美月も不安にならない。
晴臣も疑われない。
そう思えば、冬真が晴臣を藤原のもとへ向かわせる理由はできる。
それが藤原の狙いだった。
冬真は、晴臣を陥れようとしているつもりはない。
ただ、手帳を出せばいいと思う。
美月を巻き込まないために。
祭りを乱さないために。
晴臣自身のために。
その言い訳が、冬真の中で形になり始めていた。
外から大きな掛け声が聞こえた。
柱を立てるための神事が、いよいよ始まるのだろう。
南宮の熱が、会館の壁を通して揺れている。
その揺れの中で、藤原は一枚の紙を裏返した。
そこにはまだ何も書かれていない。
だが、空白は空白ではなかった。
これから埋められるために、そこに置かれていた。
会談が終わると、土師は先に部屋を出た。
冬真も、少し遅れて立ち上がった。
「守部さん」
藤原が呼び止めた。
「はい」
「美月さんを、不安にさせないように」
冬真は一瞬だけ黙った。
「分かっています」
「水科さんが戻ったら、声をかけてください」
「藤原先生が探していた、と?」
「ええ。それで構いません」
冬真は頷いた。
そして部屋を出た。
襖が閉じる。
冬真の足音が遠ざかる。
藤原はしばらく動かなかった。
それから、携帯電話を手に取った。
文庫への確認は、短く済ませる必要があった。
御前へ直接ではない。
文庫へ。
文庫としての確認。
その形が必要だった。
藤原は、あらかじめ登録してある番号にかけた。
相手はすぐに出た。
「藤原です」
短い沈黙。
「黒沢先生の記録と水科さんの補助記録については、回収が必要ということですね」
相手の声が、少しだけ低くなった。
「はい」
藤原は頷いた。
「承知しました。こちらの手続き上は、提出という形にします」
短い沈黙があった。
「形式上は提出です。文庫側の言い方をすれば、回収ということになる」
相手は答えなかった。
答えないことで、了承した。
藤原は静かに通話を切った。
これで、形は整った。
文庫は、記録の外部流出を認めない。
黒沢の記録も、水科の補助記録も、回収を求める。
それだけだ。
それだけで、晴臣に手帳を求める理由になる。
それだけで、提出拒否に意味が生まれる。
藤原は、紙を一枚引き寄せた。
まだ空白のままの項目を見た。
提出拒否。
書くべきかどうかは、晴臣が決める。
少なくとも、形の上ではそうだった。
やがて、晴臣は南宮へ戻った。
北宮の黒い鳥居をくぐり、斎部に送られ、美月と会い、冬真に声をかけられた。
その流れは、晴臣には偶然のように見えた。
しかし、南宮会館の奥では、すでに空欄が用意されていた。
黒沢教授の記録。
水科晴臣の手帳。
鏡という言葉。
提出。
拒否。
まだ埋まっていない欄は、いくつかあった。
だが、そのうち一つは、夕方には埋まることになっていた。
藤原が手帳を求め、晴臣は拒んだ。
それは晴臣にとって、黒沢の記録を守るための拒否だった。
だが、藤原の紙の上では違った。
非公開確認物に関する個人記録の提出拒否。
所在不明者との最終同行。
記録保持。
逃亡可能性。
その四つが並べば、十分だった。
南宮の外では、柱を立てるための最後の掛け声が続いていた。
掛け声が上がり、酒と折り詰めが運ばれている。祭りは、何も知らないまま進んでいく。
その声の中で、美月は晴臣を探していた。
白い帯を締めたまま、広間と廊下を行き来し、何度も部屋の方を見た。
そのたびに、冬真が声をかけた。
「今は確認中だ」
「すぐ戻る」
「君が不安になると、晴臣も困る」
どれも間違ってはいない。
間違ってはいない言葉ほど、人を動けなくする。
美月は、冬真を見た。
「それは、晴臣のために言っているんですか」
冬真は一拍遅れた。
「……もちろんだ」
その遅れを、美月は見た。
美月は部屋へ入れなかった。
入らせてもらえなかった。
藤原は、手帳の提出拒否を紙に残した。
その文字は、思ったより小さかった。
小さいのに、重かった。
墨が乾くまで、藤原はそれをじっと見ていた。
その横に、もう一つ空欄があった。
逃亡。
まだ、そこには何も書かれていない。
だが、書かれる場所はすでに空けられていた。
夜が近づいていた。
南宮の火は、まだ残っている。
けれど、その火はもう、晴臣を家へ帰すためのものではなかった。
人を照らす火は、時に、人の影も濃くする。
同じ頃、北宮では、出蔵の扉が閉ざされていた。
杜守文庫の女は、蔵の前で御前からの言葉を受けた。
「紙は」
「藤原先生が整えています」
「水科の子は」
「提出を拒みました」
少しの沈黙があった。
森の上で、鴉が鳴いた。
「なら、次の紙を」
女は顔を伏せた。
「名を記す紙でございますか」
「まだ、名は呼ぶな」
声は言った。
「名は、呼ぶ前に載せるものだ」
女は、さらに深く頭を下げた。
「承知しました」
南宮では、晴臣の名が提出拒否の横に置かれていた。
北宮では、まだ呼ばれていない名が、別の紙へ移されようとしていた。
その紙を、表では別の名で呼ぶ。
だが、北に近い者たちは知っていた。
それは、人の名を守るための紙ではない。
人の名を、どこへ沈めるか決めるための紙だった。
湖の上に、夕闇が降りる。
南の火が、少しずつ弱くなっていく。
その日、水科晴臣はまだ逃げていなかった。
誰からも逃げていなかった。
美月のもとへ戻ろうとしていた。
父の家へ帰ろうとしていた。
赤飯の湯気の前で、何もなかったことにしたかった。
だが、紙の上では、もう道が変わっていた。
逃げる者の道へ。
戻らない者の道へ。
そして、名を沈める者たちの紙へ。
次に開かれるのは、その紙だった。




