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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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8/11

八 逆井の朱

 はじめ、晴臣はそれを赤とは思わなかった。


 黒い石の内壁に刻まれた細い溝。


 その一部だけが、周囲の黒と少し違って見えた。


 汚れかと思った。


 水に濡れた跡か、古い泥が入り込んだものか、あるいは石そのものの色のむらか。


 出蔵の裸電球は、天井から低く吊られていた。光は弱く、石函の内側までは十分に届かない。黒い器の底には影が溜まり、刻線の細部は角度によって見えたり消えたりした。


「先生」


 晴臣は声を落とした。


「ここだけ、色が違います」


 黒沢は顔を近づけた。


 すぐには答えなかった。


「灯りを、少し寄せていただけますか」


 黒沢が言うと、神職は出蔵の棚から作業用の小さな手元灯を取った。


 細い光が、石函の内壁を斜めに照らす。


 その時だった。


 黒い溝の奥が、ほんの一瞬だけ鈍く赤を返した。


 赤、というには暗い。


 朱というには沈みすぎている。


 血のような艶もない。


 黒い石に吸われ、長い年月をかけて赤だけが奥に残ったような色だった。


「触れるな」


 黒沢が言った。


 声が鋭かった。


 晴臣は、伸ばしかけた手を止めた。


 神職が一歩近づく。


「何か」


「内壁の刻線に、赤く見える部分があります」


 晴臣が答えると、神職の視線が石函の内壁へ落ちた。


 その瞬間、表情がわずかに変わった。


 驚きではない。


 恐れでもない。


 言われたくなかったことを、先に言われてしまった者の顔だった。


 杜守文庫の女も、無言のまま石函を見た。


 黒い器の内側には、何本もの線が刻まれている。


 縁の近くから始まった線は、すり鉢状の斜面をゆっくり下り、底の円形の座へ向かっている。そのうち一本の溝の奥だけが、黒に沈んだ赤を含んでいた。


 赤は、表面に乗っているのではない。


 塗ったものが剥がれず残っているのでもない。


 かつて朱色の何かを水で溶き、刻線へ流し込んだものが、石の奥に染みついて乾いたように見えた。


「顔料でしょうか」


 晴臣が尋ねた。


「その可能性はある」


 黒沢は否定しなかった。


「ただ、付着というより沈着に近い。石の目に入り込んでいる。しかも、残っている場所が妙だ」


「妙、ですか」


「飾りなら、もっと見える場所に置く。印なら外側に打つ。祭具として清めるなら、縁や表面に用いるのが自然だ。だが、これは刻線の中だ」


 黒沢は、石函の内壁を指した。


「底へ向かう線の中にだけ残っている」


 出蔵の中に、静かな緊張が満ちた。


 裸電球が、頭上でかすかに鳴っている。


 晴臣は、その音をやけに大きく感じた。


「古い祭具には、清めの赤を用いることがあります」


 神職が言った。


 声は落ち着いていた。


 だが、少しだけ早かった。


「清めの赤」


 黒沢が繰り返す。


「朱に近いものです」


 神職は答えた。


「祭具や印に用いる赤いものと考えていただければよろしいかと」


「これも、その一種だと」


「可能性としては」


「何を清めるのですか」


 黒沢の声は穏やかだった。


 問い詰める調子ではない。


 ただ、言葉の意味を確認しているだけだった。


 神職は、ほんのわずかに黙った。


「穢れです」


「穢れ」


「塩のようなものです。場を清める。器を清める。それ以上の意味はありません」


 黒沢は石函を見ていた。


 底へ向かって落ちる刻線。


 黒に沈んだ赤。


 円形の座。


 晴臣には、それらが何を意味するのかまだ分からない。


 だが、黒沢は何かを考えている。


 それだけは分かった。


「この器に、穢れがあるのですか」


 黒沢が尋ねた。


 神職の眉が、わずかに動いた。


「この器が穢れているというより…」


「というより?」


 神職は、そこで言葉を止めた。


「……いえ。古い清めの作法です」


 その言い直し方が、どこか不自然だった。


 出蔵の中の空気が、すっと冷えた。


 晴臣は、神職の顔を見た。


 言いすぎた。


 そういう顔だった。


「清めの作法ですか?」


 黒沢は、その言葉だけを繰り返した。


 神職は答えなかった。


 答えないことで、先ほどの言葉を取り消そうとしているようにも見えた。


 だが、もう遅かった。


 晴臣には、何が遅かったのか分からなかった。


 清め。


 穢れ。


 清めの作法。


 どれも、あまり違和感がない言葉に思える。


 なのに、神職は言った瞬間に口を閉じた。


 黒沢は、その一語を聞いて黙った。


 それが分からない。


 分からないのに、何かが決定的に変わったことだけは分かった。


「……祭祀上の話です」


 神職が言った。


「深い意味はありません」


「そうですか」


 黒沢は、それ以上聞かなかった。


 聞かなかったことが、かえって重かった。


 杜守文庫の女が静かに口を開いた。


「現物の確認は、そこまででよろしいでしょうか」


「いえ」


 黒沢は首を横に振った。


「井戸底を確認したい」


 神職の顔が硬くなった。


「逆井は、現在立入を制限しています」


「石函がどのような状態で沈んでいたのかを確認する必要があります」


「危険です」


「承知しています。下へ降りるとしても、最小限で構いません」


「黒沢先生」


 杜守文庫の女が言った。


「現場確認は、必要最小限にしてくださいますか?」


「分かっています」


「調査記録は?」


「取ります」


「外部への持ち出しは?」


「誓約書の範囲を守ります」


 女はしばらく黒沢を見ていた。


 それから、神職へ視線を移した。


「案内を」


 神職は、わずかに顔を伏せた。


「承知しました」


 その一言で、出蔵の空気が動いた。


 石函には、ふたたび白い布が掛けられた。


 だが、もうそれは何かを隠している布ではなかった。


 何かを、一時的に見なかったことにするための布だった。


 出蔵を出ると、外の空気はさっきより冷えていた。


 まだ午後のはずだった。


 南宮では、太鼓も笛も鳴っているはずだった。


 だが、北宮の奥では、時間が別の流れ方をしているように感じられた。


 晴臣は空を見上げた。


 杉の枝が高く重なり、昼の光を細く切っている。空は見える。けれど、明るいとは思えない。


 斎部嘉平(いんべ かへい)が先に立った。


「逆井はこっちだ」


 社殿の裏から、さらに細い道へ入る。


 そこは、参道とは呼べない道だった。


 人が通った跡はある。だが、日常的に使われている気配はない。落ち葉が湿って層を作り、その下から黒い土が覗いている。木の根が足首を掴むように張り出し、ところどころに小さな石が埋まっていた。


 神職は斎部の後に続き、その後ろを晴臣と黒沢が歩く。


 杜守文庫の女は来なかった。


 出蔵に残ったのか、それとも別の場所へ報告に行ったのか、晴臣には分からない。


 しばらく進むと、道の先に低い石垣が現れた。


 その奥に、丸い石蓋があった。


 苔に覆われ、半分ほど土に埋もれている。周囲には古い注連縄の切れ端のようなものが落ちていた。井戸というより、地面に置かれた封印のように見えた。


「ここが逆井です」


 神職が言った。


 声は低かった。


 石蓋の一部は、すでに外されていた。


 隙間から、湿った冷気が上がってくる。


 井戸の中を覗くと、底は見えなかった。


 暗いというより、黒い。


 神職が腰に下げていた懐中電灯を点け、井戸の中へ向けた。


 光は石組みの内側を滑り落ちていったが、底の黒さまではすぐに届かなかった。


 晴臣は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 子どもの頃、ここに近づくなと言われた理由が、少し分かった気がした。


 井戸は、水を汲むためだけの穴ではない。


 下と上をつなぐ穴だ。


 人が覗けば、下からも覗き返される。


 そんな感覚があった。


「作業では、どこまで確認したのですか」


 黒沢が尋ねた。


「底の泥をさらったところまでです」


 神職が答えた。


「石函は、井戸の底にあった?」


「はい。泥に半ば埋まっていたと聞いております」


「引き上げる前に、写真は」


 神職は答えに詰まった。


「作業中でしたので」


「撮っていない、ということですね」


 神職は黙った。


 黒沢はそれ以上責めなかった。


 責めるより、見る方が早い。


 そう判断したようだった。


 神職が井戸の脇に膝をつき、懐中電灯を下へ向け直した。


 細い光が、石組みの内側を滑り落ちていく。


 底は、思っていたより深くなかった。


 だが、人が何人も降りて調べられるような広さではない。湿った石組みが円く狭まり、その下に黒い泥が溜まっている。大人が一人、どうにか身をかがめて作業できる程度だった。


 晴臣は井戸の縁から身を乗り出しすぎないようにしながら、底を見た。


 黒い泥の中央付近に、浅い沈み跡がある。


 そこだけ泥が押し固められ、何か重いものが長く置かれていたように見えた。


 石函がそこにあったのだろう。


 あるいは、そこに沈められていた。


「水科君、記録を」


 黒沢が言った。


「はい」


 晴臣は手帳を開いた。


「井戸底、黒色泥。中央付近に圧痕。石函が長期間置かれていた可能性あり。泥の一部に色の違い。肉眼では不鮮明。断定は避ける」


 晴臣は書き留めた。


 神職が懐中電灯の角度を変えた。


 底の一部だけが、わずかに違う色を返した。


 赤い、というほどではない。


 赤土の色ではない。


 鉄錆の色でもない。


 泥の黒でもない。


 何か赤いものが水に溶け、長い時間をかけて土に混ざったような色。


 晴臣は、出蔵で見た石函の溝を思い出した。


 黒い石に沈んでいた、あのかすかな赤。


「同じものですか」


 晴臣が尋ねると、黒沢はすぐには答えなかった。


「同じかどうかは分からない」


 教授は言った。


「だが、無関係とは言い切れない」


 それだけだった。


 黒沢は、その場で何かを断定しなかった。


 井戸の底に、答えがあったわけではない。


 少なくとも、晴臣にはそう見えた。


「私が一度降ります」


 黒沢が言った。


 神職がすぐに首を振った。


「危険です」


「承知しています。底の泥と石組みを短時間確認するだけです」


「こちらの者が」


「見方が分からなければ意味がありません」


 黒沢の声は静かだった。


 だが、譲る気はなかった。


 斎部が、近くの杉にもたれ掛かったまま小さく息を吐いた。


「降りるのか、本当に」


「必要です」


「学者ってのは、命知らずだな」


「命知らずではありません。知らないままにする方が危ない」


 斎部は口の端だけで笑った。


 だが、目は笑っていなかった。


 神職はしばらく黙っていたが、やがて井戸の脇に置かれていた作業用の梯子を中へ下ろした。


 梯子が石に当たり、鈍い音が下から返ってくる。


 その音は、想像していたより近かった。


 底はそれほど深くない。


 だが、浅いからといって安心できる暗さではなかった。


「短時間でお願いします」


「分かっています」


 黒沢は鞄を晴臣に預けた。


「水科君、上で記録を続けてくれ。私が言ったことだけを書く。余計な解釈は入れない」


「はい」


 黒沢はゆっくり井戸へ降りた。


 梯子が軋む。


 教授の背中が、石組みの暗さに沈んでいく。


 井戸の底は狭い。


 黒沢が降りると、それだけで底の空間はいっぱいになるように見えた。


 神職が上から懐中電灯を向ける。


 晴臣は井戸の縁に膝をつき、手帳を構えた。


 下から黒沢の声がした。


「底面、黒色泥。圧痕あり。形状は石函底部と近似。縁の一部に赤褐色を帯びた沈着。ただし自然由来の可能性を排除できず。断定は避ける」


 晴臣は書き留めた。


「泥を少量確認します」


 神職の声が硬くなる。


「採取は…」


「持ち出しはしません。この場で確認します」


 黒沢はそう言った。


 短い沈黙があった。


 井戸の底で、教授の気配が動く。


 泥をすくう音。


 石に手が触れる小さな音。


 水がわずかに揺れる音。


 晴臣は息を止めていた。


 だが、下から何か決定的な声が上がることはなかった。


 黒沢は、底の石組みを確認し、泥の状態を記録し、それだけで梯子に手を掛けた。


 井戸の中で何かを見つけたようには見えなかった。


 少なくとも、晴臣には。


 黒沢が井戸から上がってきた時、顔色は変わっていなかった。


 教授は手袋を外し、泥の付いた指先を布で拭った。


「石函が長く沈んでいたことは、ほぼ間違いないでしょう」


 黒沢は言った。


「ただし、それだけです」


 神職は、わずかに息を吐いた。


 安堵したようにも見えた。


「では、これ以上の確認は」


「いえ」


 黒沢は首を横に振った。


「分からないのは、なぜあの赤い沈着が必要だったのかです」


 神職の表情が、わずかに硬くなった。


「先ほど申し上げた通り、清めのためです」


「清め」


「塩のようなものです。古い祭具や場に残る穢れを払う。その程度の意味です」


 黒沢は、井戸の縁に手を置いたまま神職を見た。


 その視線は鋭くない。


 むしろ静かだった。


「何を払うのですか」


「ですから、穢れです」


「穢れとは、何を指すのですか?」


 神職は答えなかった。


 黒沢は追い詰めるようには言わない。


 ただ、聞いていた。


「人の迷い、怒り、怨み」


 神職は言った。


「祭りの場に持ち込まれる、よくないものです」


「それが、なぜ器に残っているのですか?」


「古い作法では、そう考えることがあります」


「それは、人のものですか?」


「……人だけではありません」


 少しの沈黙のあと神職の唇が動いた。


「土地の下に沈めたものを、起こさぬためです」


 言ってから、神職は口を閉じた。


 森の音が消えたように感じた。


 南宮の太鼓も、人の声も、遠くへ引いた。


「土地の下に沈めたものを、起こさぬため」


 黒沢は低く言った。


「黒沢先生」


 神職の声は、さっきより硬かった。


「これ以上は、確認された事実ではありません」


「そうですね」


 黒沢は静かに答えた。


「まだ、確認された事実ではない」


 晴臣には、会話の意味が分からなかった。


 清め。


 穢れ。


 土地に沈めたものを、起こさぬため。


 赤い沈着。


 逆井。


 言葉は並んでいる。


 けれど、まだ一つの形にはならない。


 ただ、黒沢の表情だけが変わっていた。


 驚きではない。


 納得でもない。


 でも何か思い当たったような顔。


 神職も、それに気づいたようだった。


 空気が硬くなる。


 斎部は木にもたれたまま、煙草を取り出した。だが、火はつけなかった。


「先生」


 晴臣が言うと、黒沢は一瞬だけ晴臣を見た。


 その目に、迷いがあった。


 何かを言うべきか。


 言わないべきか。


 黒沢は結局、言わなかった。


「水科君。君は、ここまででいい」


「まだ記録が」


「ここまででいい」


 黒沢の声は静かだった。


「君は南へ戻りなさい」


「先生は」


「私は、少しだけ神職の方と確認することがある」


「一人でですか?」


「すぐ戻る」


 晴臣は、すぐには頷けなかった。


 井戸の底では、何も起きなかった。


 そう見えた。


 だが、上がってきた後の会話で、何かが変わった。


 それだけは分かる。


「先生、私も残ります」


「だめだ」


 黒沢の答えは早かった。


「君は戻りなさい。美月さんが待っているだろう」


 美月の名前を出されて、晴臣は言葉を失った。


 南宮の光。


 白い帯。


 戻ってくること、と言った美月の声。


 それらが一瞬、胸の中に浮かんだ。


「夕方までには戻ってください」


 晴臣は言った。


 黒沢は、少しだけ表情を緩めた。


「ああ。君のお父上にも怒られたくない」


 冗談のように言ったが、笑ってはいなかった。


 斎部が、ふいに言った。


「送ってやるよ」


 晴臣は斎部を見た。


「私をですか」


「北の道は、帰りの方が間違える」


「さっきは案内だけだと言っていたでしょう」


「気が変わった」


 斎部は煙草を懐へ戻した。


「先生も、その方がいいだろ」


 黒沢は斎部を見た。


 少しの間、二人の視線がぶつかった。


 やがて黒沢は頷いた。


「お願いします」


 晴臣は、まだ納得していなかった。


 だが、ここで食い下がっても黒沢は許さないだろう。


 晴臣は逆井を振り返った。


 石蓋の隙間から、湿った冷気がまだ上がっている。


 井戸の底に、答えがあったわけではない。


 けれど、井戸を見たあとで、神職は言葉を漏らした。


 土地の下に沈めたものを、起こさぬため。


 その言葉が、晴臣の耳の奥に残っていた。


 意味は分からない。


 だが、忘れてはいけない言葉だと思った。


 北宮の社殿へ戻る道は、来た時よりも短く感じられた。


 誰も話さなかった。


 出蔵の前まで戻ると、杜守文庫の女が立っていた。


 まるで、ずっとそこにいたかのようだった。


「確認は」


 女が尋ねた。


「石函は、逆井に長期間沈められていた可能性が高い」


 黒沢が答えた。


「それ以上は」


「現時点では断定できません」


 女は黒沢を見た。


「記録は」


「取っています」


「提出を」


「整理後に」


「原本は」


「私が保持します」


 空気が硬くなった。


 晴臣は、黒沢の横顔を見た。


 教授は一歩も退くつもりがない。


 杜守文庫の女は、しばらく黙っていた。


 やがて、低く言った。


「では、そのように」


 その言い方は、承諾ではなかった。


 保留。


 あるいは、通告。


 晴臣にはそう聞こえた。


 黒沢は晴臣へ向き直った。


「水科君。早く南宮へ戻りなさい」


「わかりました、先生も遅くならないでくださいね」


 黒沢は一瞬だけ黙った。


 それから、いつもの調子に戻そうとするように言った。


「わかっている」


 晴臣はなぜか少し不安になった。


 でも、黒沢の表情はいつもと変わらない。


「水科君」


「はい」


「今日見たものに、すぐ意味をつけるな」


 その言葉は、父が朝に言ったものと同じだった。


 晴臣は息を止めた。


「ただし」


 黒沢は続けた。


「見たものを忘れるな」


 晴臣は頷いた。


「はい」


 斎部が先に歩き出した。


「行くぞ」


 晴臣はもう一度だけ黒沢を見た。


 黒沢は出蔵の前に立っていた。


 杜守文庫の女と、神職と向かい合っている。


 その背中は小さくはなかった。


 けれど、晴臣には、その背中がすでに遠い場所へ行ってしまった人のもののように見えた。


 黒い鳥居をくぐる時、晴臣は一度だけ振り返った。


 北宮は、昼の中にあるはずなのに、昼から切り離されていた。


 黒い鳥居。


 杉の影。


 北宮の社殿。


 社務所。


 そのすべてが、光の中で沈んで見えた。


「水科」


 斎部が言った。


「はい」


「今日見たものは、見たままにしとけ」


「どういう意味ですか」


「意味をつけるなってことだよ」


 晴臣は足を止めた。


 その言葉も、父と黒沢が言ったものと同じだった。


「斎部さんまで、それを言うんですか」


「奥木の年寄りは、だいたい同じことを言う」


「なぜです」


「意味をつけたやつから、向こうに呼ばれるからだ」


 斎部は振り返らなかった。


「向こう?」


「知らなくていい」


「知っているんですか」


「知らない方が、長生きできることは知ってる」


 それきり、斎部は黙った。


 南宮の太鼓が少しずつ近づいてくる。


 人の声も戻ってくる。


 光も戻ってくる。


 だが、晴臣にはもう、それが先ほどと同じ光には見えなかった。


 森を抜ける直前、胸元の守り袋が、かすかに熱を持ったような気がした。


 晴臣は足を止め、胸に手を当てた。


 熱い、というほどではない。


 ただ、布の奥に何かがあることを、急に思い出させる温度だった。


 南宮の鳥居の向こうに、人々の姿が見える。


 白い帯の美月が、そのどこかにいる。


 父は家で赤飯の支度をしているのかもしれない。


 夕方までに帰れ。


 南の火があるうちに帰れ。


 晴臣は空を見た。


 太陽はまだ傾ききっていない。


 まだ帰れる。


 そう思った。


 その時、北宮の方角から、鳥の声がした。


 鴉だった。


 一羽ではない。


 何羽もの声が、森の奥で重なっている。


 斎部が小さく舌打ちした。


「早いな」


「何がですか」


 晴臣が聞くと、斎部は答えなかった。


 ただ、足を速めた。





 その夕方、黒沢教授は南宮へ戻らなかった。


 晴臣がそのことを知るのは、もう少し後になる。


 南宮の祭りが、夕暮れの酒と笑いに包まれ始めた頃。


 北宮の奥では、出蔵の扉が閉ざされていた。


 逆井には、ふたたび石蓋が置かれた。


 その下で、冷たい水の匂いが沈んでいた。


 そして、黒い石函の刻線に染みついた赤だけが、白い布の下で、まだ誰にも意味を与えられないまま沈黙していた。

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