七 北宮の遺物
午後一時を少し過ぎた頃、南宮の熱はまだ冷めていなかった。
境内では、昼の神事を終えた氏子たちが、汗を拭いながら柱の周りに集まっている。綱を直す者、法被の襟を正す者、子どもを肩に乗せて見物する者。出店の前では、焼けた味噌と甘い菓子の匂いが混ざっていた。
奥木南照宮は、光の中にあった。
湖から吹く風も、ここでは明るいものに感じられる。太鼓の音も、笛の音も、人々の笑い声も、すべてが南へ向かって開かれている。
晴臣は、その明るさの端に立っていた。
胸元には、父から渡された守り袋がある。上着の内側に収めているのに、布の感触だけが妙にはっきりしていた。
夕方までに帰れ。
父の声が、ふいに胸の奥で蘇る。
南の火があるうちに帰れ。
北の用事を夜へ持ち越すな。
晴臣は軽く息を吐いた。
迷信だ、と切り捨てることはできた。
研究者としては、そうすべきなのかもしれない。だが、父がああいう言い方をする時、それは単なる怖がらせではなかった。奥木の人間が、長い時間の中で理由を忘れながらも手放さなかった注意。そういうものには、資料に残らない意味がある。
「水科君」
背後から声がした。
振り向くと、黒沢教授が立っていた。
薄い麻のジャケットに、古びた革鞄を提げている。髪には白いものが多いが、背筋は伸びていた。大学では柔らかく笑うことの多い人だが、この日はどこか表情が硬い。
「お待たせしました」
「いや、私も今来たところだ」
黒沢は南宮の賑わいを一度見渡した。
「見事な祭りだな」
「表の方は、そうですね」
晴臣が答えると、黒沢はわずかに眉を上げた。
「表の方は、か」
「奥木では、そういう言い方をする人がいます。南は表、北は裏だと」
「君もそう思うか」
「子どもの頃は、そう聞かされていただけです」
「今は?」
晴臣はすぐには答えなかった。
南宮の鳥居の向こうで、柱が光を受けている。白木の肌に綱の跡が残り、人々の手が何度も触れていた。あれは見られるための柱だ。曳かれ、立てられ、祝われるためのもの。
一方で、北宮の柱の話をする者は少ない。
少ないというより、避ける。
「今は、見ないことで保たれてきたものがあるのかもしれない、と思います」
黒沢は少しだけ笑った。
「研究者らしくない答えだ」
「父に言われました。見えたものにすぐ意味をつけるな、と」
「良い言葉だ」
黒沢はそう言って、鞄を持ち直した。
「行こう。あまり遅くなると、北は冷える」
南宮の脇から湖沿いの道へ下りると、祭りの音は少しずつ薄くなっていった。
最初は太鼓が聞こえた。次に笛が遠くなった。やがて人の声だけが風に混ざり、それも湖の広がりに吸われていく。
奥木湖は、昼の光を受けて静かだった。
静かすぎるほどだった。
湖面には白い雲が映っている。だが、風が吹くたびにその形は崩れ、何か黒いものが水底から揺れ上がるように見えた。
晴臣は歩きながら、何度か湖を見た。
見ない方がいい、と奥木の年寄りは言う。
けれど、奥木の人間は結局、湖を見てしまう。
見ているのではない。見られているのだと、誰かが言った。
その言葉を最初に聞いたのが誰からだったか、晴臣は思い出せなかった。
参道を出て、しばらく歩くと、道はアスファルトから土の色に変わる。舗装された道から、湿った黒土の道へ。両側の木々が高くなり、湖からの光が枝に遮られた。
黒沢は無言で歩いていた。
晴臣も、必要なこと以外は話さなかった。
やがて前方に、斎部嘉平の姿が見えた。
低い石垣にもたれるように立ち、煙草を吸っている。火はついているが、吸っているというより、指に挟んだまま煙を眺めているようだった。
「遅かったな」
斎部は晴臣たちを見ると、煙草を足元で揉み消した。
「時間どおりです」
晴臣が言うと、斎部は口の端だけで笑った。
「北じゃ、時間どおりってのはあまり役に立たん」
「どういう意味ですか」
「南の一時と、北の一時は違うってことだ」
黒沢が静かに斎部を見た。
「案内をお願いできますか」
「頼まれてるからな」
斎部は石垣の奥へ顎をしゃくった。
「こっちだ。北宮の人間が待ってる」
道はさらに細くなった。
人が二人並ぶには狭い。木の根が地面に浮き、ところどころ苔で滑りやすくなっている。南宮の賑わいから、ほんの少し歩いただけなのに、空気の質が違った。
湿っている。
冷たい。
そして、音が吸われる。
鳥の声もないわけではない。木々が鳴らないわけでもない。だが、それらの音は森の奥へ入った途端、誰かに布で包まれたように鈍くなった。
しばらく進むと、黒い鳥居が見えた。
南宮の朱い鳥居とは違う。塗られているのではなく、木そのものが長い年月の中で黒ずんだような色だった。注連縄は古く、紙垂は新しい。誰かがきちんと替えているのに、どこか人の手を拒むように見えた。
鳥居の前には、北宮の神職が一人立っていた。
年齢は五十前後。白い狩衣を着ているが、南宮の神職たちよりも装いが簡素だった。顔には笑みがない。
「ようこそ、黒沢先生、水科さん」
神職は一礼した。
「本日は、奥までお入りいただきます。先に申し上げますが、確認された内容は、許可なく外部へ出さぬようお願いします」
「承知しています」
黒沢が答えた。
神職は晴臣を見た。
「お二人は、こちらへ署名を」
差し出されたのは、二人分の誓約書だった。
藤原が整えた紙であることを、晴臣はまだ知らない。
ただ、文面には見覚えがあった。非公開資料を扱う時には、どこでも似たような書類が出る。研究者としては珍しくない。
晴臣は内容に目を通した。
未公開資料。
確認物。
関係者の許可。
外部開示の禁止。
当たり前のことが、当たり前の言葉で並んでいる。
それなのに、紙の白さだけが妙に冷たかった。
「問題ありません」
晴臣は署名した。
水科晴臣。
自分の名前を書いた瞬間、守り袋が胸元でわずかに重くなったように感じた。
気のせいだ。
そう思おうとした。
神職は二人から書類を受け取り、折り目を正して懐へ入れた。
「では、こちらへ」
鳥居をくぐる時、斎部が低く言った。
「一礼しとけ」
晴臣は斎部を見た。
「作法ですか」
「癖みたいなもんだ」
斎部はそう言い、自分は鳥居の前で深く頭を下げた。
それが妙に印象に残った。
普段の斎部は、何に対しても軽薄な男に見える。酒席では大げさに笑い、人の間をすり抜けるように動く。だが、その一礼だけは違った。
恐れている者の礼だった。
晴臣も頭を下げ、鳥居をくぐった。
北宮の境内は狭かった。
社殿は古く、南宮のような華やかさはない。屋根は低く、木は黒く、石段の隙間には苔が深い。
社殿の奥にはさらに細い道が続いており、杉木立の影の中に、古い土蔵が見えた。
白壁はところどころ剥がれ、腰板は黒く湿っている。大きな蔵ではないが、人が入り、祭具や古文書を納めるには十分な奥行きがあった。
「あれが出蔵ですか」
晴臣が尋ねると、神職は頷いた。
「はい。杜守文庫に移す前の一時保管場所です。祭具、古文書、破損した神具などを置いております」
「杜守の方は?」
「すでに中でお待ちです」
出蔵の前には、一人の女が立っていた。
年齢は四十代ほどに見える。濃紺の着物に、白い割烹着のような上衣を重ねている。神職ではない。だが、立ち方が違った。蔵の前に置かれた石のように、そこにいること自体が役目であるような女だった。
「杜守文庫の立会人です」
神職が言った。
女は名乗らなかった。
ただ、黒沢と晴臣へ短く頭を下げた。
「中へ」
声は低かった。
出蔵の扉が開くと、冷たい空気が流れ出した。
古い紙と、湿った木と、乾いた土の匂いが混ざっている。窓は小さく、光はほとんど入らない。神職が灯りをつけると、裸電球の黄色い光が棚の間をぼんやり照らした。
出蔵の中は、外から見るより奥行きがあった。
左右の棚には木箱が積まれ、中央には古い作業台が置かれている。天井は低いが、数人が立ち会って確認をするだけの余地はあった。
巻物を収めた箱。
古い面。
割れた土器。
錆びた金具。
祭礼に使われたらしい木札。
布に包まれた何か。
どれも静かだった。
だが、静かすぎるものほど、晴臣には人の気配を感じさせた。
誰かが触れた。
誰かが隠した。
誰かが忘れたことにした。
そういうものが、埃の下で息をしている。
「こちらです」
杜守文庫の女が、奥の作業台へ案内した。
そこには、白い布が掛けられていた。
布の下に、丸く深いものの輪郭が見える。
晴臣は無意識に足を止めた。
黒沢も同じだった。
「確認するものは、これ一点ですか」
黒沢が尋ねた。
「はい」
女が答えた。
「大祭前の周辺整備で、北宮裏手の古井戸を確認しました。逆井と呼ばれている井戸です。石組みの一部が崩れているようだと報告があり、危険があるため、改めて状態を見るよう杜守文庫から指示がありました」
「これは井戸の底から?」
「はい。改修の過程で底の泥をさらったところ、これが見つかりました。発見後、いったんこの出蔵へ移しています」
「誰が最初に崩れを?」
女は少しだけ間を置いた。
「北宮の者です。大祭前の見回りで気づいた、と聞いております」
「これについての記録は?」
「井戸そのものは、古い境界図に名があります。ただ、これについての記録は、今のところ見つかっておりません」
「逆井、ですか」
晴臣はその名を繰り返した。
聞いたことがある。
子どもの頃、北宮の裏には覗いてはいけない井戸がある、と誰かに言われた。水があるのかないのかも知らない。大人たちは場所をはっきり言わなかった。ただ、そこに近づくな、とだけ言った。
逆井。
逆さまの井戸。
名前だけで、胸の奥が冷えた。
女は布に手を掛けた。
「ご確認ください」
白い布が外された。
現れたのは、黒い石の器だった。
一見すると、深い鉢のように見えた。
横幅は二尺を少し超えるほど。大人が両腕を回せば抱えられるが、一人で持ち上げるには重すぎる。外側は厚く、片側の縁が大きく欠けていた。全体はすり鉢のように内側へ傾き、底に向かって深く落ちている。
ただの器ではない。
水を汲むための鉢でも、供物を盛るための皿でもない。
底には、円形の浅い座があった。
直径は一尺と少し。丸く平たいものを沈めて嵌めるための窪みに見える。その座だけが異様に滑らかで、泥を拭った後も黒く沈んでいた。
内壁には、細かな刻線が走っていた。
線はところどころ欠け、泥の跡に埋まり、ひび割れに途切れている。だが、よく見ると無秩序ではない。斜めの壁に沿って、下へ、底の円形の座へ向かって落ちている。
黒い。
ただ黒いのではない。
濡れていないのに、光を吸い込むような黒さだった。
晴臣は息を止めた。
鉢。
石臼。
井戸の部材。
水盤。
祭具。
そう見ようと思えば、そう見える。
実際、これを井戸の底から引き上げた者も、最初は古い水盤か何かだと思ったのかもしれない。
だが、何かが違った。
黒沢が手袋をはめ、ゆっくり石函へ近づいた。
「触れても?」
「必要な範囲であれば」
女が言った。
黒沢は欠けた縁を指でなぞった。
「玄武岩ではないな」
「黒曜石ですか」
晴臣が言うと、黒沢は首を傾けた。
「黒曜石に似ているが、重さが違う。表面の処理も妙だ」
晴臣も手袋をはめ、石函の前に立った。
内壁の刻線を見る。
内壁の上部に星図のようなものが見える。星図を眺めていると、それはただ星を写した図ではなく、何かの印に見えてきた。
「これだけ、扱いが違います」
晴臣は星図の中の一点を指した。
「周りの星のような刻みは弧の上にある。でも、この一点だけは弧の中心にある。動かないものとして刻まれているように見えます」
黒沢が目を細めた。
「北極星か」
「やはり、そう見えますか」
「断定はできない。だが、北を定める星として刻んだ可能性は高い。古い星図では、動かぬ一点を基準にして方角を決めることがある」
晴臣は、すり鉢状の内壁に沿って視線を落とした。
水を表すような波線。柱に似た二本の短い刻み。井戸か門を示すような四角い印。それらを結ぶ線は、その動かない一点を基準にして、内壁を伝い、底の円形の座へ落ちている。
この図は、どちらからでも読めるものではない。
「北の印から底を覗くようになっているのでしょうか」
「そのようだな」
神職の表情がわずかに硬くなった。
それは、正体を知っている者の顔ではなかった。
ただ、北から読むという言葉に、北宮を重ねてしまった時の反射的な警戒に思えた。
斎部は棚にもたれて、何も言わない。
杜守文庫の女は、じっと晴臣の手元を見ていた。
黒沢はすり鉢の底へ視線を落とした。
「底に、座がある」
晴臣も見た。
円形の座は、内壁の底に沈むように作られていた。
人の顔を映すには十分で、祭具としては大きすぎない。円の縁は滑らかに削られ、そこだけ他の部分より丁寧に仕上げられている。何か丸く平たいものを、そこへ沈めて嵌め込むための座に見えた。
供物を置く窪みではない。
水を溜めるだけなら、底をここまで滑らかに整える必要もない。
晴臣は顔を底の座に近づけた。
もしここに何かが嵌まるとしたらどんなものだろうか。
静かな出蔵の中で灯りの音だけが、低く鳴っている。
「水科君、この縁の内側を見てくれ」
晴臣は教授の指す場所を見た。
内壁の一部に、細かな刻みがある。
だが、それは普通の文字ではなかった。
傾いた内壁に沿って刻まれ、底の円形の座へ向かっている。真正面から見ても、崩れた線にしか見えない。角度を変えると、わずかに線同士が重なり、別の形に見えた。
「直接読むものではないな」
黒沢が言った。
その声は、ほとんど独り言だった。
「線が石に刻まれている。だが、線として完成していない。何かに映った時に、初めて形になる」
晴臣はもう一度、底の円形の座を見た。
内壁。
斜面。
底に沈む円。
何かを納め、何かを映し、何かを読むための形。
その瞬間、胸元の守り袋が、じわりと熱を持ったように感じた。
晴臣は反射的に胸に手を当てた。
布越しに、硬いものが触れる。
父から渡された守り袋。
祖父の代からあると言っていた。
晴臣は、ゆっくり手を下ろした。
黒沢がその仕草に気づいたが、何も言わなかった。
すり鉢の内壁。
動かない一点。
水の波線。
柱のような二つの刻み。
底へ落ちる線。
そして、その一部が欠けている。
どこかで見た。
子どもの頃、水科家の古い納戸で見た古布の文様。北へ向かうなと言った祖父が父に教えたという、庭の石を結ぶような土に引いた線。簡単な印。
同じではない。
だが、似ている。
「水科君」
黒沢が低く呼んだ。
「何か分かるか」
晴臣は迷った。
見えたものに、すぐ意味をつけるな。
父の声がした。
だが、意味をつけるなという言葉は、何も考えるなという意味ではない。
焦るな。
飛びつくな。
けれど、見たものから目を逸らすな。
そういう意味だったのかもしれない。
晴臣は、そこでようやく違和感の正体に気づいた。
このすり鉢は、内壁を読むためのものではない。
底を見るためのものだ。
だが、底だけを見るものでもない。
内壁の線が、底に落ちる。
底に何かが嵌まっていれば、斜めの内壁の刻線がそこに映る。覗く角度によって、線の重なり方が変わる。意味も変わる。
正しい場所から覗かなければ、形にならない。
正しい方角を定めなければ、反転する。
「これは、何かを納めていたものだと思います」
晴臣は慎重に言った。
誰も動かなかった。
「水盤、というより、深い石の函。中央には、丸く平たいものを沈めて嵌める座があります」
黒沢は黙って聞いている。
「底の線は、文字というより方位を合わせるためのものに見えます。水、柱、井戸のような印がある。どれも直接読むというより、覗く位置を決めるための目印です」
晴臣は、欠けずに残っている内壁を指した。
「でも、こちらの刻みは違う。傾いた内壁に刻まれていて、底へ向かっています。普通に見ても崩れた線にしか見えない。でも、中央に何かが嵌められていたなら、そこへ映る」
黒沢が低く言った。
「鏡面に映すためか」
晴臣は頷いた。
「はい。もし中央に嵌められていたものが鏡のようなものなら、内壁の刻みがその面に映る。そこで初めて読める構造だったのではないでしょうか」
その瞬間、晴臣は、自分の声が少し遅れて返ってきたような気がした。
蔵の中の誰かが聞いたのではない。
石函の底が、聞いた。
そんな感覚だった。
そして、晴臣の言葉で出蔵の空気が変わった。
神職の指が、袖の内側で強く握られた。
それは、答えを知っている者の反応ではなかった。
むしろ、知らないまま避けてきた言葉を、急に目の前へ置かれた者の反応だった。
杜守文庫の女の目が細くなる。
斎部嘉平は、ふいに視線を逸らした。
黒沢だけが、石の函を見つめたままだった。
「なぜ、そう思う」
教授の声は静かだった。
「内壁の刻線が反転しているように感じます」
晴臣は言った。
「普通に読むための文字や図というより、何かに映して読むためのものに見えます。底に平滑なものがあったなら、それに映ることを前提にしているのではないでしょうか」
「反転文か」
「はい。ただ、文字として読める部分は少ないです。図と刻線の境が曖昧で」
黒沢は目を閉じた。
何かを思い出そうとしているようだった。
神職が口を開いた。
「水科さん、それは推測ですか」
「はい。現時点では」
「ならば、その解釈を記録に断定として残すことはできません」
神職の声は硬かった。
それは否定ではなかった。
否定できるほど、神職もその石の函を知らなかった。
ただ、言葉にしてはいけない方角へ、話が進み始めていることだけは分かっているようだった。
黒沢がゆっくり顔を上げた。
「断定として残す必要はありません。ただ、そう読める痕跡があることは記録すべきです」
「申し訳ありませんが、これについての未確認の解釈は控えていただきたい」
「未確認だからこそ、記録として残すのです」
黒沢の声は穏やかだった。
だが、晴臣はその奥に緊張を感じた。
初めて見る遺物に向ける声ではない。
教授は、驚いている。
それでも、おそらく何かを知っている。
晴臣には、そう見えた。
斎部が低く笑った。
「先生方は、やっぱり面倒なところを見るな」
「斎部さんは、何かご存じですか」
晴臣が尋ねると、斎部は肩をすくめた。
「俺は鍵を開けるだけだ」
「でも、これがどこにあったかは知っている」
「井戸の底だ」
「井戸に入る前の話です」
斎部は答えなかった。
代わりに、杜守文庫の女が言った。
「先ほど申し上げたとおりです。北宮裏手の古井戸で見つかった。それ以前の詳細な経緯は、現在確認中です」
「井戸そのものの記録は」
「古い境界図に名があります。ただ、この確認物についての記録は、今のところ見つかっておりません」
「いつから塞がれていた井戸ですか」
女は一瞬だけ沈黙した。
「分かりません。少なくとも、現在の北宮では使われておりません」
分からない。
その言葉は、出蔵の中でひどく重く聞こえた。
晴臣は黒い石函を見下ろした。
使われなくなった井戸。
底に沈められていた黒い石函。
名のない遺物。
石函の底にあったと思われる鏡状のもの。
ひとつひとつは推測にすぎない。
だが、推測が同じ方向を向き始める時がある。
晴臣は黒沢を見た。
「先生」
「何だ」
「もしこれが、鏡のようなものを納めていたものだとして」
晴臣は言葉を選んだ。
自分の言葉が、誰にどう聞かれるかを考えた。
だが、考えた上で、言わずにはいられなかった。
「中身は、どこにいったのでしょうか」
黒沢の顔が、はっきりと強張った。
その反応だけで、晴臣は自分の推測がただの飛躍ではないと分かった。
神職が一歩前へ出た。
「水科さん」
声に警告が混じっていた。
「それ以上は、確認された事実ではありません」
「分かっています」
「ならば、言葉を控えてください」
晴臣は神職を見た。
神職の目は、怒っているというより、恐れていた。
この人は、石函の正体を知っているわけではない。
だが、晴臣の言葉が何に繋がるのかだけは、分かっている。
鏡。
北宮で、その一語は軽く扱われない。
晴臣は、そのことに気づいてしまった。
黒沢が静かに言った。
「今日のところは、形状、材質、刻線、底の座の確認に留めよう」
「先生」
晴臣が呼ぶと、黒沢は首を横に振った。
「水科君。見えたものに、すぐ意味をつけるな」
父と同じ言葉を先生は言った。
晴臣は言葉を失った。
黒沢は石函から手を離した。
「ただし、見えたものを忘れるな」
それだけ言って、教授は手袋を外した。
杜守文庫の女が白い布を戻そうとした。
その時だった。
晴臣は、石函の縁に、小さな赤い染みを見つけた。
黒に沈んで、最初は見落としかけた。
だが、確かにある。
朱か。
血か。
分からない。
古いものか、新しいものかも分からない。
だが、その赤は黒い石の中で、妙にはっきり浮いていた。
「待ってください」
晴臣は言った。
女の手が止まる。
「そこに、赤い痕が」
黒沢が身を乗り出した。
神職の顔色が変わった。
斎部が、今度ははっきりと目を逸らした。
出蔵の外で、風が吹いた。
戸がわずかに鳴る。
遠く、南宮の太鼓が聞こえた。
それはもう、祭りの音には聞こえなかった。
何かを知らせる合図のように、晴臣の耳に届いた。




