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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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7/11

七 北宮の遺物

 午後一時を少し過ぎた頃、南宮の熱はまだ冷めていなかった。


 境内では、昼の神事を終えた氏子たちが、汗を拭いながら柱の周りに集まっている。綱を直す者、法被の襟を正す者、子どもを肩に乗せて見物する者。出店の前では、焼けた味噌と甘い菓子の匂いが混ざっていた。


 奥木南照宮おくぎなんしょうぐうは、光の中にあった。


 湖から吹く風も、ここでは明るいものに感じられる。太鼓の音も、笛の音も、人々の笑い声も、すべてが南へ向かって開かれている。


 晴臣は、その明るさの端に立っていた。


 胸元には、父から渡された守り袋がある。上着の内側に収めているのに、布の感触だけが妙にはっきりしていた。


 夕方までに帰れ。


 父の声が、ふいに胸の奥で蘇る。


 南の火があるうちに帰れ。

 北の用事を夜へ持ち越すな。


 晴臣は軽く息を吐いた。


 迷信だ、と切り捨てることはできた。


 研究者としては、そうすべきなのかもしれない。だが、父がああいう言い方をする時、それは単なる怖がらせではなかった。奥木の人間が、長い時間の中で理由を忘れながらも手放さなかった注意。そういうものには、資料に残らない意味がある。


「水科君」


 背後から声がした。


 振り向くと、黒沢教授が立っていた。


 薄い麻のジャケットに、古びた革鞄を提げている。髪には白いものが多いが、背筋は伸びていた。大学では柔らかく笑うことの多い人だが、この日はどこか表情が硬い。


「お待たせしました」


「いや、私も今来たところだ」


 黒沢は南宮の賑わいを一度見渡した。


「見事な祭りだな」


「表の方は、そうですね」


 晴臣が答えると、黒沢はわずかに眉を上げた。


「表の方は、か」


「奥木では、そういう言い方をする人がいます。南は表、北は裏だと」


「君もそう思うか」


「子どもの頃は、そう聞かされていただけです」


「今は?」


 晴臣はすぐには答えなかった。


 南宮の鳥居の向こうで、柱が光を受けている。白木の肌に綱の跡が残り、人々の手が何度も触れていた。あれは見られるための柱だ。曳かれ、立てられ、祝われるためのもの。


 一方で、北宮の柱の話をする者は少ない。


 少ないというより、避ける。


「今は、見ないことで保たれてきたものがあるのかもしれない、と思います」


 黒沢は少しだけ笑った。


「研究者らしくない答えだ」


「父に言われました。見えたものにすぐ意味をつけるな、と」


「良い言葉だ」


 黒沢はそう言って、鞄を持ち直した。


「行こう。あまり遅くなると、北は冷える」


 南宮の脇から湖沿いの道へ下りると、祭りの音は少しずつ薄くなっていった。


 最初は太鼓が聞こえた。次に笛が遠くなった。やがて人の声だけが風に混ざり、それも湖の広がりに吸われていく。


 奥木湖は、昼の光を受けて静かだった。


 静かすぎるほどだった。


 湖面には白い雲が映っている。だが、風が吹くたびにその形は崩れ、何か黒いものが水底から揺れ上がるように見えた。


 晴臣は歩きながら、何度か湖を見た。


 見ない方がいい、と奥木の年寄りは言う。


 けれど、奥木の人間は結局、湖を見てしまう。


 見ているのではない。見られているのだと、誰かが言った。


 その言葉を最初に聞いたのが誰からだったか、晴臣は思い出せなかった。


 参道を出て、しばらく歩くと、道はアスファルトから土の色に変わる。舗装された道から、湿った黒土の道へ。両側の木々が高くなり、湖からの光が枝に遮られた。


 黒沢は無言で歩いていた。


 晴臣も、必要なこと以外は話さなかった。


 やがて前方に、斎部嘉平いんべ・かへいの姿が見えた。


 低い石垣にもたれるように立ち、煙草を吸っている。火はついているが、吸っているというより、指に挟んだまま煙を眺めているようだった。


「遅かったな」


 斎部は晴臣たちを見ると、煙草を足元で揉み消した。


「時間どおりです」


 晴臣が言うと、斎部は口の端だけで笑った。


「北じゃ、時間どおりってのはあまり役に立たん」


「どういう意味ですか」


「南の一時と、北の一時は違うってことだ」


 黒沢が静かに斎部を見た。


「案内をお願いできますか」


「頼まれてるからな」


 斎部は石垣の奥へ顎をしゃくった。


「こっちだ。北宮の人間が待ってる」


 道はさらに細くなった。


 人が二人並ぶには狭い。木の根が地面に浮き、ところどころ苔で滑りやすくなっている。南宮の賑わいから、ほんの少し歩いただけなのに、空気の質が違った。


 湿っている。


 冷たい。


 そして、音が吸われる。


 鳥の声もないわけではない。木々が鳴らないわけでもない。だが、それらの音は森の奥へ入った途端、誰かに布で包まれたように鈍くなった。


 しばらく進むと、黒い鳥居が見えた。


 南宮の朱い鳥居とは違う。塗られているのではなく、木そのものが長い年月の中で黒ずんだような色だった。注連縄は古く、紙垂は新しい。誰かがきちんと替えているのに、どこか人の手を拒むように見えた。


 鳥居の前には、北宮の神職が一人立っていた。


 年齢は五十前後。白い狩衣を着ているが、南宮の神職たちよりも装いが簡素だった。顔には笑みがない。


「ようこそ、黒沢先生、水科さん」


 神職は一礼した。


「本日は、奥までお入りいただきます。先に申し上げますが、確認された内容は、許可なく外部へ出さぬようお願いします」


「承知しています」


 黒沢が答えた。


 神職は晴臣を見た。


「お二人は、こちらへ署名を」


 差し出されたのは、二人分の誓約書だった。


 藤原が整えた紙であることを、晴臣はまだ知らない。


 ただ、文面には見覚えがあった。非公開資料を扱う時には、どこでも似たような書類が出る。研究者としては珍しくない。


 晴臣は内容に目を通した。


 未公開資料。

 確認物。

 関係者の許可。

 外部開示の禁止。


 当たり前のことが、当たり前の言葉で並んでいる。


 それなのに、紙の白さだけが妙に冷たかった。


「問題ありません」


 晴臣は署名した。


 水科晴臣。


 自分の名前を書いた瞬間、守り袋が胸元でわずかに重くなったように感じた。


 気のせいだ。


 そう思おうとした。


 神職は二人から書類を受け取り、折り目を正して懐へ入れた。


「では、こちらへ」


 鳥居をくぐる時、斎部が低く言った。


「一礼しとけ」


 晴臣は斎部を見た。


「作法ですか」


「癖みたいなもんだ」


 斎部はそう言い、自分は鳥居の前で深く頭を下げた。


 それが妙に印象に残った。


 普段の斎部は、何に対しても軽薄な男に見える。酒席では大げさに笑い、人の間をすり抜けるように動く。だが、その一礼だけは違った。


 恐れている者の礼だった。


 晴臣も頭を下げ、鳥居をくぐった。


 北宮の境内は狭かった。


 社殿は古く、南宮のような華やかさはない。屋根は低く、木は黒く、石段の隙間には苔が深い。


 社殿の奥にはさらに細い道が続いており、杉木立の影の中に、古い土蔵が見えた。


 白壁はところどころ剥がれ、腰板は黒く湿っている。大きな蔵ではないが、人が入り、祭具や古文書を納めるには十分な奥行きがあった。


「あれが出蔵ですか」


 晴臣が尋ねると、神職は頷いた。


「はい。杜守文庫に移す前の一時保管場所です。祭具、古文書、破損した神具などを置いております」


「杜守の方は?」


「すでに中でお待ちです」


 出蔵の前には、一人の女が立っていた。


 年齢は四十代ほどに見える。濃紺の着物に、白い割烹着のような上衣を重ねている。神職ではない。だが、立ち方が違った。蔵の前に置かれた石のように、そこにいること自体が役目であるような女だった。


「杜守文庫の立会人です」


 神職が言った。


 女は名乗らなかった。


 ただ、黒沢と晴臣へ短く頭を下げた。


「中へ」


 声は低かった。


 出蔵の扉が開くと、冷たい空気が流れ出した。


 古い紙と、湿った木と、乾いた土の匂いが混ざっている。窓は小さく、光はほとんど入らない。神職が灯りをつけると、裸電球の黄色い光が棚の間をぼんやり照らした。


 出蔵の中は、外から見るより奥行きがあった。


 左右の棚には木箱が積まれ、中央には古い作業台が置かれている。天井は低いが、数人が立ち会って確認をするだけの余地はあった。


 巻物を収めた箱。

 古い面。

 割れた土器。

 錆びた金具。

 祭礼に使われたらしい木札。

 布に包まれた何か。


 どれも静かだった。


 だが、静かすぎるものほど、晴臣には人の気配を感じさせた。


 誰かが触れた。

 誰かが隠した。

 誰かが忘れたことにした。


 そういうものが、埃の下で息をしている。


「こちらです」


 杜守文庫の女が、奥の作業台へ案内した。


 そこには、白い布が掛けられていた。


 布の下に、丸く深いものの輪郭が見える。


 晴臣は無意識に足を止めた。


 黒沢も同じだった。


「確認するものは、これ一点ですか」


 黒沢が尋ねた。


「はい」


 女が答えた。


「大祭前の周辺整備で、北宮裏手の古井戸を確認しました。逆井さかさいと呼ばれている井戸です。石組みの一部が崩れているようだと報告があり、危険があるため、改めて状態を見るよう杜守文庫から指示がありました」


「これは井戸の底から?」


「はい。改修の過程で底の泥をさらったところ、これが見つかりました。発見後、いったんこの出蔵へ移しています」


「誰が最初に崩れを?」


 女は少しだけ間を置いた。


「北宮の者です。大祭前の見回りで気づいた、と聞いております」


「これについての記録は?」


「井戸そのものは、古い境界図に名があります。ただ、これについての記録は、今のところ見つかっておりません」


「逆井、ですか」


 晴臣はその名を繰り返した。


 聞いたことがある。


 子どもの頃、北宮の裏には覗いてはいけない井戸がある、と誰かに言われた。水があるのかないのかも知らない。大人たちは場所をはっきり言わなかった。ただ、そこに近づくな、とだけ言った。


 逆井。


 逆さまの井戸。


 名前だけで、胸の奥が冷えた。


 女は布に手を掛けた。


「ご確認ください」


 白い布が外された。


 現れたのは、黒い石の器だった。


 一見すると、深い鉢のように見えた。


 横幅は二尺を少し超えるほど。大人が両腕を回せば抱えられるが、一人で持ち上げるには重すぎる。外側は厚く、片側の縁が大きく欠けていた。全体はすり鉢のように内側へ傾き、底に向かって深く落ちている。


 ただの器ではない。


 水を汲むための鉢でも、供物を盛るための皿でもない。


 底には、円形の浅い座があった。


 直径は一尺と少し。丸く平たいものを沈めて嵌めるための窪みに見える。その座だけが異様に滑らかで、泥を拭った後も黒く沈んでいた。


 内壁には、細かな刻線が走っていた。


 線はところどころ欠け、泥の跡に埋まり、ひび割れに途切れている。だが、よく見ると無秩序ではない。斜めの壁に沿って、下へ、底の円形の座へ向かって落ちている。


 黒い。


 ただ黒いのではない。


 濡れていないのに、光を吸い込むような黒さだった。


 晴臣は息を止めた。


 鉢。

 石臼。

 井戸の部材。

 水盤。

 祭具。


 そう見ようと思えば、そう見える。


 実際、これを井戸の底から引き上げた者も、最初は古い水盤か何かだと思ったのかもしれない。


 だが、何かが違った。


 黒沢が手袋をはめ、ゆっくり石函へ近づいた。


「触れても?」


「必要な範囲であれば」


 女が言った。


 黒沢は欠けた縁を指でなぞった。


「玄武岩ではないな」


「黒曜石ですか」


 晴臣が言うと、黒沢は首を傾けた。


「黒曜石に似ているが、重さが違う。表面の処理も妙だ」


 晴臣も手袋をはめ、石函の前に立った。


 内壁の刻線を見る。


 内壁の上部に星図のようなものが見える。星図を眺めていると、それはただ星を写した図ではなく、何かの印に見えてきた。


「これだけ、扱いが違います」


 晴臣は星図の中の一点を指した。


「周りの星のような刻みは弧の上にある。でも、この一点だけは弧の中心にある。動かないものとして刻まれているように見えます」


 黒沢が目を細めた。


「北極星か」


「やはり、そう見えますか」


「断定はできない。だが、北を定める星として刻んだ可能性は高い。古い星図では、動かぬ一点を基準にして方角を決めることがある」


 晴臣は、すり鉢状の内壁に沿って視線を落とした。


 水を表すような波線。柱に似た二本の短い刻み。井戸か門を示すような四角い印。それらを結ぶ線は、その動かない一点を基準にして、内壁を伝い、底の円形の座へ落ちている。


 この図は、どちらからでも読めるものではない。


 「北の印から底を覗くようになっているのでしょうか」


 「そのようだな」


 神職の表情がわずかに硬くなった。


 それは、正体を知っている者の顔ではなかった。


 ただ、北から読むという言葉に、北宮を重ねてしまった時の反射的な警戒に思えた。


 斎部は棚にもたれて、何も言わない。


 杜守文庫の女は、じっと晴臣の手元を見ていた。


 黒沢はすり鉢の底へ視線を落とした。


「底に、座がある」


 晴臣も見た。


 円形の座は、内壁の底に沈むように作られていた。


 人の顔を映すには十分で、祭具としては大きすぎない。円の縁は滑らかに削られ、そこだけ他の部分より丁寧に仕上げられている。何か丸く平たいものを、そこへ沈めて嵌め込むための座に見えた。


 供物を置く窪みではない。


 水を溜めるだけなら、底をここまで滑らかに整える必要もない。


 晴臣は顔を底の座に近づけた。


 もしここに何かが嵌まるとしたらどんなものだろうか。


 静かな出蔵の中で灯りの音だけが、低く鳴っている。


「水科君、この縁の内側を見てくれ」


 晴臣は教授の指す場所を見た。


 内壁の一部に、細かな刻みがある。


 だが、それは普通の文字ではなかった。


 傾いた内壁に沿って刻まれ、底の円形の座へ向かっている。真正面から見ても、崩れた線にしか見えない。角度を変えると、わずかに線同士が重なり、別の形に見えた。


「直接読むものではないな」


 黒沢が言った。


 その声は、ほとんど独り言だった。


「線が石に刻まれている。だが、線として完成していない。何かに映った時に、初めて形になる」


 晴臣はもう一度、底の円形の座を見た。


 内壁。


 斜面。


 底に沈む円。


 何かを納め、何かを映し、何かを読むための形。


 その瞬間、胸元の守り袋が、じわりと熱を持ったように感じた。


 晴臣は反射的に胸に手を当てた。


 布越しに、硬いものが触れる。


 父から渡された守り袋。


 祖父の代からあると言っていた。


 晴臣は、ゆっくり手を下ろした。


 黒沢がその仕草に気づいたが、何も言わなかった。


 すり鉢の内壁。

 動かない一点。

 水の波線。

 柱のような二つの刻み。

 底へ落ちる線。

 そして、その一部が欠けている。


 どこかで見た。


 子どもの頃、水科家の古い納戸で見た古布の文様。北へ向かうなと言った祖父が父に教えたという、庭の石を結ぶような土に引いた線。簡単な印。


 同じではない。


 だが、似ている。


 「水科君」


 黒沢が低く呼んだ。


「何か分かるか」


 晴臣は迷った。


 見えたものに、すぐ意味をつけるな。


 父の声がした。


 だが、意味をつけるなという言葉は、何も考えるなという意味ではない。


 焦るな。

 飛びつくな。

 けれど、見たものから目を逸らすな。


 そういう意味だったのかもしれない。


 晴臣は、そこでようやく違和感の正体に気づいた。


 このすり鉢は、内壁を読むためのものではない。


 底を見るためのものだ。


 だが、底だけを見るものでもない。


 内壁の線が、底に落ちる。


 底に何かが嵌まっていれば、斜めの内壁の刻線がそこに映る。覗く角度によって、線の重なり方が変わる。意味も変わる。


 正しい場所から覗かなければ、形にならない。


 正しい方角を定めなければ、反転する。


「これは、何かを納めていたものだと思います」


 晴臣は慎重に言った。


 誰も動かなかった。


「水盤、というより、深い石のはこ。中央には、丸く平たいものを沈めて嵌める座があります」


 黒沢は黙って聞いている。


「底の線は、文字というより方位を合わせるためのものに見えます。水、柱、井戸のような印がある。どれも直接読むというより、覗く位置を決めるための目印です」


 晴臣は、欠けずに残っている内壁を指した。


「でも、こちらの刻みは違う。傾いた内壁に刻まれていて、底へ向かっています。普通に見ても崩れた線にしか見えない。でも、中央に何かが嵌められていたなら、そこへ映る」


 黒沢が低く言った。


「鏡面に映すためか」


 晴臣は頷いた。


「はい。もし中央に嵌められていたものが鏡のようなものなら、内壁の刻みがその面に映る。そこで初めて読める構造だったのではないでしょうか」


 その瞬間、晴臣は、自分の声が少し遅れて返ってきたような気がした。


 蔵の中の誰かが聞いたのではない。


 石函の底が、聞いた。


 そんな感覚だった。


 そして、晴臣の言葉で出蔵の空気が変わった。


 神職の指が、袖の内側で強く握られた。


 それは、答えを知っている者の反応ではなかった。


 むしろ、知らないまま避けてきた言葉を、急に目の前へ置かれた者の反応だった。


 杜守文庫の女の目が細くなる。


 斎部嘉平は、ふいに視線を逸らした。


 黒沢だけが、石の函を見つめたままだった。


「なぜ、そう思う」


 教授の声は静かだった。


「内壁の刻線が反転しているように感じます」


 晴臣は言った。


「普通に読むための文字や図というより、何かに映して読むためのものに見えます。底に平滑なものがあったなら、それに映ることを前提にしているのではないでしょうか」


「反転文か」


「はい。ただ、文字として読める部分は少ないです。図と刻線の境が曖昧で」


 黒沢は目を閉じた。


 何かを思い出そうとしているようだった。


 神職が口を開いた。


「水科さん、それは推測ですか」


「はい。現時点では」


「ならば、その解釈を記録に断定として残すことはできません」


 神職の声は硬かった。


 それは否定ではなかった。


 否定できるほど、神職もその石の函を知らなかった。


 ただ、言葉にしてはいけない方角へ、話が進み始めていることだけは分かっているようだった。


 黒沢がゆっくり顔を上げた。


「断定として残す必要はありません。ただ、そう読める痕跡があることは記録すべきです」


「申し訳ありませんが、これについての未確認の解釈は控えていただきたい」


「未確認だからこそ、記録として残すのです」


 黒沢の声は穏やかだった。

 

 だが、晴臣はその奥に緊張を感じた。


 初めて見る遺物に向ける声ではない。


 教授は、驚いている。


 それでも、おそらく何かを知っている。


 晴臣には、そう見えた。


 斎部が低く笑った。


「先生方は、やっぱり面倒なところを見るな」


「斎部さんは、何かご存じですか」


 晴臣が尋ねると、斎部は肩をすくめた。


「俺は鍵を開けるだけだ」


「でも、これがどこにあったかは知っている」


「井戸の底だ」


「井戸に入る前の話です」


 斎部は答えなかった。


 代わりに、杜守文庫の女が言った。


「先ほど申し上げたとおりです。北宮裏手の古井戸で見つかった。それ以前の詳細な経緯は、現在確認中です」


「井戸そのものの記録は」


「古い境界図に名があります。ただ、この確認物についての記録は、今のところ見つかっておりません」


「いつから塞がれていた井戸ですか」


 女は一瞬だけ沈黙した。


「分かりません。少なくとも、現在の北宮では使われておりません」


 分からない。


 その言葉は、出蔵の中でひどく重く聞こえた。


 晴臣は黒い石函を見下ろした。


 使われなくなった井戸。

 底に沈められていた黒い石函。

 名のない遺物。

 石函の底にあったと思われる鏡状のもの。

 

 ひとつひとつは推測にすぎない。


 だが、推測が同じ方向を向き始める時がある。


 晴臣は黒沢を見た。


「先生」


「何だ」


「もしこれが、鏡のようなものを納めていたものだとして」


 晴臣は言葉を選んだ。


 自分の言葉が、誰にどう聞かれるかを考えた。


 だが、考えた上で、言わずにはいられなかった。


「中身は、どこにいったのでしょうか」


 黒沢の顔が、はっきりと強張った。


 その反応だけで、晴臣は自分の推測がただの飛躍ではないと分かった。


 神職が一歩前へ出た。


「水科さん」


 声に警告が混じっていた。


「それ以上は、確認された事実ではありません」


「分かっています」


「ならば、言葉を控えてください」


 晴臣は神職を見た。


 神職の目は、怒っているというより、恐れていた。


 この人は、石函の正体を知っているわけではない。


 だが、晴臣の言葉が何に繋がるのかだけは、分かっている。


 鏡。


 北宮で、その一語は軽く扱われない。


 晴臣は、そのことに気づいてしまった。


 黒沢が静かに言った。


「今日のところは、形状、材質、刻線、底の座の確認に留めよう」


「先生」


 晴臣が呼ぶと、黒沢は首を横に振った。


「水科君。見えたものに、すぐ意味をつけるな」


 父と同じ言葉を先生は言った。


 晴臣は言葉を失った。


 黒沢は石函から手を離した。


「ただし、見えたものを忘れるな」


 それだけ言って、教授は手袋を外した。


 杜守文庫の女が白い布を戻そうとした。


 その時だった。


 晴臣は、石函の縁に、小さな赤い染みを見つけた。


 黒に沈んで、最初は見落としかけた。


 だが、確かにある。


 朱か。


 血か。


 分からない。


 古いものか、新しいものかも分からない。


 だが、その赤は黒い石の中で、妙にはっきり浮いていた。


「待ってください」


 晴臣は言った。


 女の手が止まる。


「そこに、赤い痕が」


 黒沢が身を乗り出した。


 神職の顔色が変わった。


 斎部が、今度ははっきりと目を逸らした。


 出蔵の外で、風が吹いた。


 戸がわずかに鳴る。


 遠く、南宮の太鼓が聞こえた。


 それはもう、祭りの音には聞こえなかった。


 何かを知らせる合図のように、晴臣の耳に届いた。


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