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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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6/11

六 藤原匡親の判子

 昼の神事が近づく頃、南宮会館の奥の一室には、祭りの音が届かなかった。


 美月が白い帯を締め直されていた広間から、廊下を二つ隔てた先に、その応接室はあった。


 まったく聞こえないわけではない。太鼓も、笛も、境内の歓声も、薄い壁と廊下を通って、低く滲むように入ってくる。だが、この部屋の中に入った途端、それらは祭りの音ではなく、遠い場所で起きている出来事のように聞こえた。


 応接室と呼ばれているが、華やかさはない。


 古い長机。灰色の金庫。壁に掛けられた歴代総代の写真。隅には古い石油ストーブが置かれている。窓は一つあるが、磨りガラスで、外の光は白く濁っていた。


 藤原匡親ふじわら まさちかは、その長机の前に座っていた。


 黒い上着は椅子の背に掛けられている。白いシャツの袖口には、銀色のカフスが光っていた。祭りの場にいるには少し整いすぎた姿だったが、藤原という男にはそれが似合っていた。


 机の上には、数枚の書類が置かれている。


 神社関係の届出書。

 文化財調査に関する確認書。

 臨時立会人名簿。

 遺物一時保管記録。

 非公開資料閲覧に関する誓約書。


 どれも、今日ただちに何かを裁くための書類ではない。


 むしろ逆だった。


 何かが起きた時に、あとから「すでに定められていた」と言うための紙である。


 藤原はその紙を一枚ずつ手に取り、目を通していた。


 文字の誤りはない。日付も、宛名も、所属も整っている。必要な空欄だけが残されていた。


 人の名を書く欄。

 時間を書く欄。

 確認物の概要を書く欄。

 引渡し先を書く欄。


 空欄は便利だ。


 事実がまだ決まっていない時ほど、空欄は役に立つ。


 やがて、襖の向こうから控えめな声がした。


「失礼いたします」


「どうぞ」


 入ってきたのは、南宮の事務方をしている初老の男だった。祭りの法被の上に黒い羽織をかけ、両手で茶封筒を持っている。


「藤原先生、こちらが北宮側から預かっております確認書です」


「ありがとう」


 藤原は茶封筒を受け取り、中身を取り出した。


 紙は古くはない。だが、文面は妙に古い言い回しで整えられていた。


 奥木北鎮宮おくぎほくちんぐう所蔵資料の一時閲覧につき、関係者以外への開示を禁ずる。


 調査記録は、南北両宮および杜守文庫もりかみぶんこの確認を経た後に取り扱うものとする。


 確認物の帰属および取扱いについては、奥木坐二柱神社おくぎにますふたはしらじんじゃおよび関係旧家との協議により定める。


 藤原は目を止めた。


 確認物。


 便利な言葉だった。


 発見物、とも書いていない。

 出土品、とも書いていない。

 祭具、とも、文書、とも、石板とも書いていない。


 ただ、確認物。


 名を与えないための名だった。


 正確には、発見などではないのだろう。


 奥木おくぎの奥に、ずっとあったものだ。

 ただ、誰も表の台帳に載せなかった。

 誰も研究者の前に置かなかった。

 誰も名前を与えなかった。


 名のないものは、存在しないものとして扱える。


 だが一度でも紙の上に乗れば、それは手続きの中へ入る。手続きに入れば、確認者が生まれる。確認者が生まれれば、記録が残る。


 そして記録は、時に実物より厄介だった。


「北宮側は、これでよいと?」


「はい。御前様のところから、今朝、使いの者が」


「御前様が直接?」


「いえ、杜守文庫の者からです。ただ、御前様の印はいただいております」


 藤原は紙の末尾を見た。


 杜守家の印がある。


 古い家の印は、時に本人の言葉より重い。


「分かりました」


 藤原は紙を机に置いた。


 事務方の男は、少し落ち着かない様子で立っていた。


「何か?」


 藤原が尋ねると、男は小さく頭を下げた。


「いえ。ただ、北宮の奥へ大学の先生方を入れ、未公開資料や遺物の確認に立ち会わせるとなると、後で何か問題にならないかと」


「黒沢教授と水科君のことですね」


「はい」


「問題とは?」


「その、所有や指定のことです。文化財になれば町としてはありがたい話ですが、北宮の方は表に出るのを嫌がりますし、杜守文庫も簡単には」


「だからこそ、順序を整えるのです」


 藤原は穏やかに言った。


 男はすぐに頷いた。


「はい」


「祭りの日は、人の気が大きくなる。普段なら動かないものも、今日は動く。柱も、人も、紙も同じです」


「紙も、ですか」


「ええ。紙は、動く前に置いておくものです」


 男は意味を測りかねた顔をした。


 藤原はそれ以上説明しなかった。


「水科君は、何時に北宮へ?」


「一時過ぎには、教授と合流すると聞いております」


「教授は?」


「大学から来られている黒沢教授です」


「同行者は」


「水科さん、北宮の神職が一名、杜守文庫の立会人が一名。それから、案内役として斎部嘉平いんべ かへいが入る予定です」


 藤原の指が、机を一度だけ叩いた。


 小さな音だった。


「斎部君も入るのですか」


「山道と出蔵の鍵の関係で、必要だと」


「なるほど」


 藤原は目を伏せた。


 斎部嘉平(いんべ かへい)


 小さな男だ。


 だが、小さな男ほど隙間に入り込む。祭りにも、調査にも、旧家にも、酒席にも、噂にも。どこにも属さない男は、どこへでも入れる。


 便利であり、危うい。


「水科君は、北宮の奥まで入ることを承知しているのですね」


「はい。教授から話は通っていると」


「本人に誓約書は?」


「まだです。現地で署名をいただく予定です」


「現地で?」


 藤原は、そこで初めて少しだけ顔を上げた。


 事務方の男は慌てたように言った。


「本来は事前にいただくべきですが、祭りの準備で手が回らず」


「責めているわけではありません」


 藤原は微笑んだ。


「ただ、署名は先にしてもらいなさい」


「今からですか」


「ええ」


「水科さんを呼びますか」


「必要なら」


 藤原は誓約書を一枚引き寄せた。


 そこには、調査により知り得た未公開資料および確認物の内容を、関係者の許可なく外部へ開示しないこと、と記されている。


 普通の文面だった。


 研究者が非公開資料を見る時には、よくある誓約である。


 だが、普通の文面ほど使いやすい。


 普通だから、誰も警戒しない。

 普通だから、署名する。

 普通だから、あとで縛れる。


 藤原は、机の右端に置かれていた印章箱を開けた。


 中には、いくつかの判子が並んでいる。


 南宮会館の事務印。

 奥木坐二柱神社の受付印。

 文化財保護協議会の確認印。

 そして、藤原自身の認印。


 藤原は自分の印を手に取った。


 黒水牛の小さな判子だった。長年使っているため、縁がわずかに丸くなっている。役所にも、検察にも、審議会にも、財団にも、無数の紙に押してきた印だった。


 判子とは、奇妙な道具である。


 紙の上に、赤い形を残すだけだ。


 それなのに、その赤い形一つで、人は入れる場所を得る。金が動く。土地が移る。資料が閉じられる。誰かの言葉が、正式な記録になる。


 時には、誰かの人生の向きさえ変わる。


 藤原は印面を確かめ、朱肉に軽く押し当てた。


 赤い朱が、印の縁に薄く乗る。


 事務方の男が少し緊張したように見ていた。


「これは、先生の確認印でよろしいのでしょうか」


「ええ。私は北宮へは立ち会いませんが、手続き上の確認はしました。そういう意味です」


「はい」


「書類とは、現場にいなくても、現場にいたことに近い効果を持つ」


 藤原はそう言って、確認欄に判子を押した。


 小さな音がした。


 紙の上に、藤原匡親の名が赤く残った。


 その音は、太鼓よりずっと小さい。


 だが、藤原にとっては太鼓より確かだった。


 外では、柱が動くたびに人々が声を上げる。男たちが肩に綱を食い込ませ、土と汗にまみれながら木を曳く。南宮の神は、そうした動きを好む。


 だが、藤原は別のものを動かす。


 紙。

 印。

 証言。

 順序。

 記録。


 人がどれほど叫んでも、最後に残るのは紙だ。


 叫び声は消える。

 顔色は変わる。

 約束は忘れられる。

 だが、紙は残る。


 残った紙が、過去の形を決める。


「水科君には、署名を」


 藤原は誓約書を男へ渡した。


「北宮へ向かう前に必ず」


「承知しました」


「それから、土師君にも控えを」


「土師さんにもですか」


「彼は同席しないのでしょう」


「はい」


「だからこそ、同じ文面を見せておくとよい。自分が外されたことを知る者には、外された理由を紙で示した方が納得しやすい」


「なるほど」


 事務方の男は頷いたが、おそらく半分も理解していなかった。


 それでよい、と藤原は思った。


 全員が理解している必要はない。


 紙は、理解されるためではなく、使われるためにある。


 男が書類を整え、部屋を出て行くと、応接室には藤原一人が残った。


 外の太鼓が少し大きくなった。


 昼の神事が近いのだろう。


 藤原は椅子の背にもたれ、磨りガラスの窓を見た。外の人影はぼんやりと動いている。誰が誰なのかは分からない。ただ、祭りの熱だけが白く揺れていた。


 北宮の出蔵から出たものが、ただの古い祭具ならよい。


 封印石。

 供物台。

 祭壇の一部。

 あるいは、逆柱祭に使われた名もない石。


 その程度なら、いくらでも処理できる。


 問題は、それが失われたはずのものに繋がる場合だった。


 藤原自身も、その全てを知っているわけではない。


 奥木には、知っている者がいなくなった後も、作法だけが残ることがある。記録は焼かれ、名は消され、理由は忘れられる。それでも、石は動かすな、北へ入る時は足を洗え、柱の年には戸を閉めろ、という形で、意味の抜けた決まりだけが残る。


 古い秘密を守る者たちでさえ、守っているものの始まりを、すべて覚えているわけではない。


 むしろ、長く続いた仕組みほど、自分たちがなぜそれをしているのかを忘れる。


 忘れても、使うことはできる。


 奥木には、そういうものがある。


 誰も名を口にしない。

 誰も正面から見ようとしない。

 それでも、誓約の前に置かれ、裏切りの後に確かめられ、罪を抱えた者の沈黙を測るもの。


 使えてはいる。


 だが、読めてはいない。


 それで足りる時代が長く続いた。


 誰が従うか。

 誰が裏切るか。

 誰の罪を握れるか。

 誰を奥木の外へ出し、誰を権力者の傍らへ置くか。


 それだけ分かれば、扱う者たちには十分だった。


 しかし、それが本来何を閉じ、何を鎮め、何を恐れていたのか。


 そこまでは、もう伝わっていない。


 伝わっていないということは、存在しないこととは違う。


 その失われた部分に、今日の確認物が触れているなら。


 そして、水科という名を持つあの青年が、それを読めるなら。


 話は別だった。


 藤原は机の上の誓約書に視線を落とした。


 水科。


 古い祭礼記録の中で、目立たぬ場所に出てくる名だった。


 神主ではない。

 総代でもない。

 杜守でもない。

 祭りの中心に立つ家ではない。


 だが、北の道に関わる名。


 道とは、ただ歩く場所ではない。


 何かを運ぶためにある。

 何かを移すためにある。

 何かを、奥へ入れるためにある。


 あるいは、奥から遠ざけるためにある。


 藤原は、水科晴臣の顔を思い浮かべた。


 若い研究者。

 奥木の子。

 水科家の息子。

 秦美月はた みづきの婚約者になる男。


 そして、余計なものを見つける目を持つ男。


 襖の向こうで別の足音が止まった。


「入っても?」


 守部冬真もりべ とうまの声だった。


「どうぞ」


 冬真が入ってきた。


 片手には来賓の案内資料を持っている。先ほどまで表で笑っていた顔とは違い、部屋に入った途端、少し表情を落とした。


「来賓対応は?」


「一段落しました。午後の席順は総代が見ています」


「そうですか」


 藤原は机の書類を整えた。


 冬真の視線がそこへ落ちる。


「北宮の書類ですか」


「手続きの確認です」


「祭りの日にまで」


「祭りの日だからこそです」


 藤原は答えた。


「人が多い日は、物事が動く。動いたものを後で拾おうとすると、形が崩れる。だから先に紙を置いておく」


「先生らしいですね」


「褒め言葉として受け取っておきましょう」


 冬真は少し笑った。


 だが、その笑みには落ち着きがなかった。


 藤原はそれを見た。


「何かありましたか」


「いえ」


「美月さんのことですか」


 冬真の表情が止まった。


 一瞬だけだったが、十分だった。


「先生は、何でもお見通しですね」


「そうではありません。君は分かりやすい」


「それは困ります」


「困るほどのことではない。若い頃の感情は、誰にでもある」


 冬真は視線を逸らした。


「感情だけなら、いいんですが」


「違うのですか」


 冬真は黙った。


 部屋の外では、誰かが廊下を走る音がした。すぐに女の声が注意し、足音は小さくなる。


 藤原は待った。


 検事時代から、人は沈黙の後に本音をこぼすことが多いと知っている。


 やがて冬真が言った。


「晴臣は、何でも持っているように見える時があります」


「君の方が、持っているように見える人間もいるでしょう」


「分かっています。だから余計に嫌なんです」


 冬真は視線を落とした。


「俺には、役職も、財団の名前も、祭りの席もあります。でも、美月が自然に見るのは晴臣です。あいつは何も奪っていない。誰かを押しのけたわけでもない。ただ、最初からそこにいる」


「だから、責める理由がない」


 藤原が言った。


 冬真は答えなかった。


「理由のない感情は、扱いに困るでしょう」


 冬真の指が、資料の端をわずかに握った。


「……はい」


「なら、理由が欲しくなる」


 藤原の声は穏やかだった。


 冬真は顔を上げなかった。


「晴臣君には、悪意がないのでしょう」


「はい」


「悪意がないことは、罪ではない」


「分かっています」


「ただ、悪意がない人間が、誰かを傷つけないとは限らない」


 冬真は顔を上げた。


 藤原は淡々と続けた。


「本人にそのつもりがなくても、立っているだけで誰かの場所を塞ぐことはある。光の当たる場所にいる者は、自分の影がどこへ落ちているか分からない」


 冬真は机の上の書類を見た。


「晴臣が北宮で何かを見つけたら、どうなりますか」


「見つけたものによります」


「町は変わりますか」


「変わるかもしれない」


「財団は?」


「止まる事業もあれば、動く事業もあるでしょう」


「美月は?」


 藤原は少しだけ目を細めた。


 冬真自身も、自分がなぜその問いを口にしたのか分かっていないようだった。


「美月さんは、晴臣君の婚約者になるのでしょう」


「まだ正式ではありません」


「しかし、そういうことにはなっている」


 冬真は口を閉ざした。


 藤原は立ち上がり、机の上に置かれた誓約書を一枚手に取った。


「守部君。人の運命は、大きな事件でだけ変わるわけではありません」


 冬真は藤原を見た。


「紙一枚で変わることもある。署名一つ、印一つ、証言一つ。誰かが少し遅れ、誰かが少し黙り、誰かが少し違う言い方をする。それだけで、道は分かれる」


「それは、晴臣の道ですか」


「誰の道でもあります」


 藤原は誓約書を机に戻した。


「私は、晴臣君に何かをするつもりはありません」


 その言葉は、嘘ではなかった。


 少なくとも、この時点では。


 藤原はまだ、晴臣への対処を決めてはいない。だが、晴臣が何を見つけるかによっては、動かねばならないと考えていた。


 動く時に備えて、紙を整えているだけだ。


 冬真は藤原の言葉を聞き、ゆっくり息を吐いた。


「先生は、いつもそう言いますね」


「何を?」


「何かをするつもりはない、と」


「実際、何もしていません」


 藤原は微笑んだ。


「ただ、何かが起きた時に、町が壊れないようにしているだけです」


「町のためですか」


「町のため。神社のため。人のため。そういう言い方はいくらでもできます」


「本当は?」


「均衡のためです」


 冬真は黙った。


 藤原は窓の方へ歩いた。


 磨りガラス越しに、外の光が白く滲んでいる。そこに人影が一つ、二つ、ゆっくり流れた。


「奥木は、表から見るより脆い土地です。古い家、古い神社、古い約束、古い罪。そういうものを薄い紙で何枚も重ねて、ようやく形を保っている」


「紙で、ですか」


「ええ」


 藤原は振り返った。


「だから私は、紙を大事にする」


 冬真は、机の上の判子を見た。


 赤い朱肉がまだ乾ききっていない。


「晴臣は、紙よりも物を信じる」


「研究者ですからね」


「遺物、記録、痕跡。そういうものを見つければ、紙で隠してきたことも暴く」


「かもしれません」


「それでも、止めないのですか」


 藤原は少しだけ笑った。


「今はまだ、止める理由がありません」


「理由ができたら?」


「その時は、その時です」


 短い答えだった。


 だが、冬真には十分だった。


 理由ができれば、藤原は動く。


 そして理由は、作ることもできる。


 冬真はその考えを振り払おうとした。


 まだ何も起きていない。


 晴臣は北宮へ行くだけだ。教授と遺物を確認し、戻ってくる。夜には美月と柱曳きを見る。水科家で赤飯を食べ、婚約の話をする。


 それだけのはずだった。


 それだけで済んでしまえば、自分はただ笑って祝う側に立つ。


 奥木の若手として、幼馴染として、美月を取られた男として、それでも祝う。


 冬真は、自分がその場所に立つことを想像した。


 息が詰まった。


「守部君」


 藤原の声で、冬真は我に返った。


「はい」


「晴臣君が北宮から戻ったら、私のところへ案内してください」


「分かっています」


「急がせる必要はありません。ただ、彼が誰かに何かを話す前に、少し話を聞いておきたい」


「美月より先に、ですか」


 冬真が言った。


 口にした瞬間、自分でも嫌な言い方だと思った。


 藤原はそれを咎めなかった。


「できれば」


 冬真は頷いた。


 それが何を意味するのか、完全には分かっていなかった。


 分かりたくなかったのかもしれない。


「承知しました」


 冬真はそう言った。


 その時、廊下の向こうから、美月の声が聞こえた。


 誰かに呼ばれて返事をする、明るい声。


 冬真は反射的にそちらを見た。


 藤原は、その動きを見ていた。


「よく見ていますね」


「幼馴染ですから」


「そうでしたね」


 藤原の声は穏やかだった。


 冬真は資料を持ち直した。


「失礼します。午後の来賓対応に戻ります」


「お願いします」


 冬真は一礼し、部屋を出て行った。


 襖が閉まる。


 藤原はしばらくそのまま立っていた。


 やがて机へ戻り、書類をもう一度整えた。


 誓約書。

 確認書。

 立会人名簿。

 保管記録。


 どれも、まだ白い部分を残している。


 藤原は空欄を見つめた。


 空欄は、未来のためにある。


 まだ起きていないことを、あとから正しい形に収めるためにある。


 外の太鼓が鳴った。


 南宮の広場で、柱が再び動き出したのだろう。人々の歓声が遠くから上がる。


 藤原は、朱肉の蓋を閉じた。


 小さな音がした。


 それは、何かに蓋をする音に似ていた。


 同じ頃、晴臣は会館の外で、胸元の守り袋に手を当てていた。


 美月は広間で、白い帯を締めたまま人々に囲まれていた。


 土師倉之介はじ くらのすけは、藤原から受け取った名刺の端を手帳に挟み直していた。


 斎部嘉平は、北宮へ続く道の入口で、誰かと短く言葉を交わしていた。


 それぞれが、まだ自分のしていることの意味を知らなかった。


 ただ、紙だけは先に整えられていた。


 判子の赤だけが、白い紙の上で乾き始めていた。

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