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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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5/11

五 美月の白い帯

 南宮会館の広間には、祭りの表側とは違うざわめきがあった。


 境内では太鼓と笛が鳴り、氏子の男たちの掛け声が響いている。屋台の匂いが風に乗り、観光客の笑い声が石段の方から絶えず流れてくる。


 だが、会館の中には別の時間があった。


 畳敷きの広間には、地元の女たちや古くからの家の者たちが集まり、湯呑みを手にしながら、低い声で話をしている。祭りの段取り、来賓の席順、料理の数、誰の家の誰が戻ってきたか、誰の子がどこへ勤めたか。


 表の祭りが男たちのものだとすれば、会館の内側は、奥木の女たちのものだった。


 晴臣は、美月の姿を探して南宮会館まで来たが、入口の前で少し足を止めた。


 中へ入るのをためらったのではない。


 ただ、そこにいる美月の姿が、朝とは少し違って見えたからだった。


 美月は、広間の隅にいた。


 母親と叔母たち、それに近所の女たちに囲まれ、背筋を伸ばして座っている。朝は社務所の前で配り物を手伝い、子どもや老人の間を忙しく動いていた。だが今は、動くことを許されていないように、畳の上で静かに座らされている。


 その腰に、白い帯があった。


 遠目には、ただ白く見える。


 けれど近づくと、生成りの地に細い銀糸が織り込まれているのが分かった。光の当たり方によって、帯の表面に湖面のような細い反射が走る。


 美月の母が、その結び目を整えていた。


「動きすぎなのよ。朝から走り回るから、少し緩んでる」


「走り回ってないよ」


「同じことです。祭りの日にそんなに裾を乱して」


「手伝いがあるんだから仕方ないでしょ」


「今日は手伝いだけの日じゃないでしょう」


 その言葉に、周囲の女たちが小さく笑った。


 美月は困ったように目を伏せる。


 晴臣は、その場に入るタイミングを失った。


 広間の女たちは、晴臣にすぐ気づいた。


「あら、晴臣君」


「ちょうどいいところに来た」


「見てやって。美月ちゃん、照れて仕方ないんだから」


 美月が顔を上げた。


 目が合う。


 その瞬間、美月は分かりやすく眉を寄せた。


「晴臣、そこで見てないで助けて」


「助ける?」


「みんなが大げさにする」


 晴臣が返事をする前に、美月の母が振り向いた。


 秦佐和子(はた さわこ)


 晴臣が子どもの頃から知っている人だった。美月に似た柔らかい目をしているが、笑っていても簡単にはごまかされない芯がある。


「晴臣さん。今日はおめでとうと言っていいのかしら」


「まだ正式には」


「正式には、ね」


 佐和子は少し笑った。


「でも、柱の年に両家がそういう話をして、本人たちがその気なら、奥木ではもう半分決まったようなものです」


「母さん」


 美月が小さく抗議した。


「半分どころか、八割くらい決まってるよ」


 叔母の一人が言い、広間にまた笑いが起きた。


 晴臣は頭を下げるしかなかった。


「よろしくお願いします」


 そう言うと、美月が一瞬だけ晴臣を見た。


 驚いたような、嬉しいような顔だった。


 佐和子は帯の結び目を軽く叩き、満足したように頷いた。


「この帯、分かる?」


 晴臣は美月の腰の白い帯を見た。


「古いものですか」


「私の母が、嫁入りの時に締めた帯なの。派手じゃないけれど、いい帯よ」


「はい。とても似合っています」


 晴臣がそう言うと、美月はすぐに視線を落とした。


 周囲の女たちは、それだけでまた笑う。


「まあ、ちゃんと言うじゃない」

「晴臣君は昔から真面目だから」

「真面目すぎて、美月ちゃんが苦労しそうだけどね」


「もう、やめて」


 美月は困ったように言ったが、その声は怒っていなかった。


 白い帯が、畳の上で静かに光っている。


 晴臣はその帯を見ながら、朝、石段の前で見た美月とは違うものを感じていた。


 朝の美月は、晴臣の隣にいた。


 湖の北を見て、不安を口にし、夜の柱曳きを一緒に見る約束をした。二人だけの約束だった。


 だが今の美月は、秦家の娘としてそこにいる。


 母に帯を直され、叔母たちにからかわれ、古い帯を腰に締め、奥木の女たちの輪の中に座っている。


 それは祝福だった。


 同時に、土地の中へ置かれることでもあった。


「晴臣さん」


 佐和子が言った。


「はい」


「午後、北宮へ行くんですってね」


 広間の空気が、ほんのわずかに静かになった。


 大きな変化ではない。


 だが、湯呑みを持つ手が一瞬止まり、誰かの視線が畳へ落ちた。


 晴臣はそれに気づいた。


「はい。教授に呼ばれています。杜守文庫(もりかみぶんこ)出蔵(でぐら)で見つかった遺物の確認です」


「そう」


 佐和子はそれ以上、詳しく聞かなかった。


 聞かないことに慣れている人の沈黙だった。


「美月が心配していました」


「母さん」


「していたでしょう」


 美月は黙った。


 佐和子は晴臣を見た。


「晴臣さん。あの子は、待つ子です」


 晴臣は言葉を返せなかった。


「小さい頃からそう。自分から大きな声で欲しいとは言わない。怒っても、泣いても、最後は待ってしまう。だから、待たせすぎないでください」


 広間の笑いが消えていた。


 美月は母を見る。


「そんな言い方しなくても」


「大事なことだから」


 佐和子の声は静かだった。


「仕事も、研究も、大事でしょう。晴臣さんがそういう人だということは、美月も分かっていると思います。でも、分かっていることと、寂しくないことは違います」


 晴臣は頭を下げた。


「分かっています」


「本当に?」


 その問いに、晴臣は一瞬だけ詰まった。


 父にも、美月にも、似たようなことを聞かれた。


 本当に。


 晴臣は、何度その言葉を聞いただろう。


「本当に、分かっているつもりです」


 佐和子はしばらく晴臣を見ていた。


 それから、少し表情を緩めた。


「なら、いいです」


 美月は小さく息を吐いた。


「母さん、晴臣を怖がらせないで」


「怖がるくらいでちょうどいいの」


「もう」


 また少しだけ笑いが戻った。


 だが晴臣の胸には、佐和子の言葉が残った。


 美月は、待つ子です。


 その言葉は、父の言葉とは違う形で重かった。


 北の用事を夜へ持ち越すな。

 見たものにすぐ意味をつけるな。

 待たせすぎないでください。


 別々の人間が、別々の言葉で、同じ方角を指している。


 晴臣はそう感じた。


 美月は立ち上がった。


「少しだけ、晴臣と外に出てもいい?」


 佐和子は帯の結び目をもう一度見た。


「走らないなら」


「走らない」


「帯をほどかないなら」


「ほどかない」


「晴臣さん」


「はい」


「戻す時は、ちゃんと戻してください」


 晴臣は一瞬、意味が分からなかった。


 周囲の女たちがまた笑う。


 美月は顔を赤くした。


「母さん」


「冗談です」


 佐和子はそう言ったが、目は笑っていた。


 晴臣は頭を下げ、美月と一緒に広間を出た。


 廊下に出ると、会館の外から祭りの音が一気に近づいた。太鼓、笛、人の声。昼前の熱が、開け放たれた戸口から流れ込んでくる。


 美月はしばらく黙っていた。


「ごめんね」


「何が?」


「母が、変なこと言って」


「変なことなんてないよ」


「待つ子って言われるの、あんまり好きじゃない」


「そうなの?」


「うん。待ってるだけみたいだから」


 美月は廊下の端で立ち止まった。


 外へ出れば、南宮の境内が見える。柱は境内を出て鳥居前の広場で休められ、若い衆が綱を整えていた。来賓席の方では、守部冬真(もりべ とうま)が誰かに頭を下げている。


 美月はその光景を見ながら言った。


「私は、待つしかできないわけじゃない」


「うん」


「晴臣が奥木を出た時も、大学に行った時も、研究で戻ったり離れたりする時も、私はただ待ってたわけじゃない。自分でここに残ったの」


 晴臣は美月を見る。


 美月の声は穏やかだった。


 けれど、その奥に硬いものがあった。


「奥木が好きだから?」


「好き、だけじゃない」


「嫌い?」


「嫌いでもない」


 美月は少し笑った。


「難しいね」


「奥木は、だいたい難しい」


「そう。難しい。人が近いし、噂は早いし、古い決まりも多い。南宮は明るいけど、北宮は怖い。ここにいると、息苦しい時もある」


 白い帯の結び目に、美月の手が触れた。


「でも、ここには母がいる。家族がいる。湖がある。祭りの日の匂いがある。晴臣が帰ってくる場所も、ここにある」


 晴臣は黙って聞いていた。


「だから私は、ここに残った。待たされたんじゃない。自分で選んだの」


 美月は晴臣を見た。


「だから、晴臣も選んで」


「何を?」


「戻ってくること」


 それは、朝に交わした約束と似ていた。


 だが、少し違った。


 ただ夜の柱立までに戻る、という話ではない。


 仕事から戻る。

 北宮から戻る。

 古いものの中へ沈みかけても、今ある場所へ戻る。


 そういう意味に聞こえた。


「戻るよ」


 晴臣は言った。


「今日は、北宮の確認が終わったら戻る。夕方は一緒に柱立を見る。その後、父さんのところへ行く」


「それだけ?」


 美月が少しだけ笑った。


 晴臣は息を吸った。


「その後、ちゃんと話そう。婚約のこと。日取りのこと。住む場所のこと。父さんの家のことも、僕の借家のことも」


 美月の表情が静かに変わった。


「うん」


「今まで曖昧にしていたけど、ちゃんと決めよう」


「晴臣がそういう話を自分からするの、珍しい」


「そうかな」


「珍しいよ。たいてい、私が聞くまで仕事の話をしてる」


「反省してる」


「少し?」


「かなり」


 美月は笑った。


 その笑顔を見て、晴臣は少し肩の力が抜けた。


「じゃあ、夜に話そう」


「うん」


「昭三さんの赤飯を食べながら?」


「焦げてなければ」


「焦げても食べるんでしょ」


「美月に出すなら焦がさないと思う」


「そこは信じてるんだ」


「父さんは、美月には弱いから」


 美月は嬉しそうに笑った。


 その横顔に、白い帯の光が重なる。


 晴臣はふと、その帯に視線を落とした。


「苦しくない?」


「え?」


「帯。さっきから少し触ってる」


「ああ」


 美月は自分の腰に手を当てた。


「少し苦しい」


「緩めてもらう?」


「いい」


「でも」


「今日は、締めておく」


 美月は静かに言った。


「祖母の帯だし、母が選んでくれたし。少し苦しくても、今日はこれでいい」


 晴臣は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。


 白い帯は祝福に見えた。


 同時に、美月を奥木へ結びつけるものにも見えた。


 それを美月は、自分で締めている。


 誰かに強いられたのではなく、自分で選んでいる。


「美月」


「うん?」


「似合ってる」


 美月は一瞬だけ黙り、それから視線を逸らした。


「それ、さっきも言った」


「もう一回言ってもいいだろ」


「ずるい」


「何が?」


「そういうところ」


 美月はそう言って笑った。


 廊下の向こうから、誰かが美月を呼ぶ声がした。


「美月ちゃん、こっちお願い」


「はい」


 美月は返事をしてから、晴臣を見た。


「行かないと」


「うん」


「午後、北宮へ行く前に何か食べて」


「分かった」


「帰ってきたら、声をかけて」


「必ず」


「今日の約束、何回目だろうね」


「何回でもする」


 美月は少しだけ目を細めた。


 それから、人の方へ戻っていった。


 白い帯が、廊下の光の中で一度だけ淡く光った。


 晴臣はその背中を見送った。


 その時、廊下の外側、会館の入口近くに冬真が立っていることに気づいた。


 守部冬真は、来賓対応の途中だったのだろう。片手に資料を持ち、誰かを案内していたらしい。だが今は足を止め、美月が広間へ戻っていく背中を見ていた。


 冬真は晴臣に気づくと、いつものように笑った。


「いい帯だな」


「ああ」


「美月に似合ってる」


「うん」


 晴臣は短く答えた。


 冬真は会館の中へ視線を向けた。


 広間の奥では、秦家の女たちが美月を迎え入れている。白い帯を締めた美月は、その輪の中心に戻っていった。


「もう、完全にそういう空気だな」


「そういう?」


「お前と美月だよ。みんな、そういう目で見てる」


「気が早いんだよ」


「奥木では、早い方が本当になる」


 冬真は笑った。


 軽い口調だった。


 だが晴臣には、その笑みが少し薄く見えた。


「冬真」


「何だ」


「何か言いたいことある?」


 冬真は一瞬、晴臣を見た。


 それから、肩をすくめた。


「おめでとう、って朝も言っただろ」


「ああ」


「もう一回言えばいいか?」


「いや」


「じゃあ、大事にしろ」


 冬真はそう言った。


「美月は、ああ見えて簡単には泣かない。でも、泣く時は誰にも見せない」


 晴臣は黙った。


 冬真の声には、幼馴染としての親しさがあった。


 同時に、晴臣が知らない美月を自分は知っている、という響きもあった。


「分かってる」


「本当に?」


 また、その問いだった。


 晴臣は少しだけ息を吐いた。


「今日は、何人にもそれを聞かれる」


「それだけ信用がないんだろ」


「ひどいな」


「研究馬鹿だからな」


 冬真は笑った。


 そして、晴臣の肩を軽く叩いた。


「午後、北宮だろ。早く戻れよ」


「ああ」


「美月を待たせるな」


「分かってる」


「ならいい」


 冬真は資料を持ち直し、来賓席の方へ歩いていった。


 その後ろ姿を見送りながら、晴臣はふと違和感を覚えた。


 冬真は祝ってくれている。


 少なくとも言葉の上ではそうだ。


 だが、その言葉の底に何があるのか、晴臣には分からなかった。


 見えたものにすぐ意味をつけるな。


 父の言葉が、胸の奥でまた響いた。


 晴臣は目を伏せた。


 意味をつけないこと。


 それは、研究者の晴臣にとって難しいことだった。


 しかしこの朝、晴臣は何度もそうしようとしていた。


 美月の不安にも。

 父の警告にも。

 斎部の含みにも。

 土師の棘にも。

 冬真の笑みにも。


 すぐには意味をつけない。


 そうすることで、日常を守っているような気がしていた。


 会館の外へ出ると、昼の光が眩しかった。


 南宮の境内では、次の神事の準備が進んでいる。柱の綱が巻き直され、若い衆が冷たい水を浴びるよう飲んでいた。来賓席の方では、藤原匡親(ふじわら まさちか)が穏やかな顔で誰かと話している。少し離れたところでは、土師倉之介(はじ くらのすけ)が手帳を閉じ、会館の裏手から戻ってくるところだった。


 晴臣はそれらを見た。


 そして、胸元に手を当てた。


 守り袋がある。


 古い布の感触が、上着の内側に小さく残っている。


 午後になれば、北宮へ行く。


 教授と遺物を確認する。

 終わったら戻る。

 美月と柱曳きを見る。

 父の赤飯を食べる。

 婚約の話をする。


 予定はそれだけだった。


 それ以上の意味を、晴臣はまだ持たせなかった。


 南宮会館の広間から、美月の声が聞こえた。


 誰かに呼ばれて返事をする、明るい声だった。


 晴臣は振り返った。


 障子の隙間から、白い帯が少しだけ見えた。


 それは祝福の色に見えた。


 そしてなぜか、ほどけない結び目のようにも見えた。


 晴臣はその白を目に焼きつけた。


 今度こそ忘れないように。


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