五 美月の白い帯
南宮会館の広間には、祭りの表側とは違うざわめきがあった。
境内では太鼓と笛が鳴り、氏子の男たちの掛け声が響いている。屋台の匂いが風に乗り、観光客の笑い声が石段の方から絶えず流れてくる。
だが、会館の中には別の時間があった。
畳敷きの広間には、地元の女たちや古くからの家の者たちが集まり、湯呑みを手にしながら、低い声で話をしている。祭りの段取り、来賓の席順、料理の数、誰の家の誰が戻ってきたか、誰の子がどこへ勤めたか。
表の祭りが男たちのものだとすれば、会館の内側は、奥木の女たちのものだった。
晴臣は、美月の姿を探して南宮会館まで来たが、入口の前で少し足を止めた。
中へ入るのをためらったのではない。
ただ、そこにいる美月の姿が、朝とは少し違って見えたからだった。
美月は、広間の隅にいた。
母親と叔母たち、それに近所の女たちに囲まれ、背筋を伸ばして座っている。朝は社務所の前で配り物を手伝い、子どもや老人の間を忙しく動いていた。だが今は、動くことを許されていないように、畳の上で静かに座らされている。
その腰に、白い帯があった。
遠目には、ただ白く見える。
けれど近づくと、生成りの地に細い銀糸が織り込まれているのが分かった。光の当たり方によって、帯の表面に湖面のような細い反射が走る。
美月の母が、その結び目を整えていた。
「動きすぎなのよ。朝から走り回るから、少し緩んでる」
「走り回ってないよ」
「同じことです。祭りの日にそんなに裾を乱して」
「手伝いがあるんだから仕方ないでしょ」
「今日は手伝いだけの日じゃないでしょう」
その言葉に、周囲の女たちが小さく笑った。
美月は困ったように目を伏せる。
晴臣は、その場に入るタイミングを失った。
広間の女たちは、晴臣にすぐ気づいた。
「あら、晴臣君」
「ちょうどいいところに来た」
「見てやって。美月ちゃん、照れて仕方ないんだから」
美月が顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、美月は分かりやすく眉を寄せた。
「晴臣、そこで見てないで助けて」
「助ける?」
「みんなが大げさにする」
晴臣が返事をする前に、美月の母が振り向いた。
秦佐和子。
晴臣が子どもの頃から知っている人だった。美月に似た柔らかい目をしているが、笑っていても簡単にはごまかされない芯がある。
「晴臣さん。今日はおめでとうと言っていいのかしら」
「まだ正式には」
「正式には、ね」
佐和子は少し笑った。
「でも、柱の年に両家がそういう話をして、本人たちがその気なら、奥木ではもう半分決まったようなものです」
「母さん」
美月が小さく抗議した。
「半分どころか、八割くらい決まってるよ」
叔母の一人が言い、広間にまた笑いが起きた。
晴臣は頭を下げるしかなかった。
「よろしくお願いします」
そう言うと、美月が一瞬だけ晴臣を見た。
驚いたような、嬉しいような顔だった。
佐和子は帯の結び目を軽く叩き、満足したように頷いた。
「この帯、分かる?」
晴臣は美月の腰の白い帯を見た。
「古いものですか」
「私の母が、嫁入りの時に締めた帯なの。派手じゃないけれど、いい帯よ」
「はい。とても似合っています」
晴臣がそう言うと、美月はすぐに視線を落とした。
周囲の女たちは、それだけでまた笑う。
「まあ、ちゃんと言うじゃない」
「晴臣君は昔から真面目だから」
「真面目すぎて、美月ちゃんが苦労しそうだけどね」
「もう、やめて」
美月は困ったように言ったが、その声は怒っていなかった。
白い帯が、畳の上で静かに光っている。
晴臣はその帯を見ながら、朝、石段の前で見た美月とは違うものを感じていた。
朝の美月は、晴臣の隣にいた。
湖の北を見て、不安を口にし、夜の柱曳きを一緒に見る約束をした。二人だけの約束だった。
だが今の美月は、秦家の娘としてそこにいる。
母に帯を直され、叔母たちにからかわれ、古い帯を腰に締め、奥木の女たちの輪の中に座っている。
それは祝福だった。
同時に、土地の中へ置かれることでもあった。
「晴臣さん」
佐和子が言った。
「はい」
「午後、北宮へ行くんですってね」
広間の空気が、ほんのわずかに静かになった。
大きな変化ではない。
だが、湯呑みを持つ手が一瞬止まり、誰かの視線が畳へ落ちた。
晴臣はそれに気づいた。
「はい。教授に呼ばれています。杜守文庫の出蔵で見つかった遺物の確認です」
「そう」
佐和子はそれ以上、詳しく聞かなかった。
聞かないことに慣れている人の沈黙だった。
「美月が心配していました」
「母さん」
「していたでしょう」
美月は黙った。
佐和子は晴臣を見た。
「晴臣さん。あの子は、待つ子です」
晴臣は言葉を返せなかった。
「小さい頃からそう。自分から大きな声で欲しいとは言わない。怒っても、泣いても、最後は待ってしまう。だから、待たせすぎないでください」
広間の笑いが消えていた。
美月は母を見る。
「そんな言い方しなくても」
「大事なことだから」
佐和子の声は静かだった。
「仕事も、研究も、大事でしょう。晴臣さんがそういう人だということは、美月も分かっていると思います。でも、分かっていることと、寂しくないことは違います」
晴臣は頭を下げた。
「分かっています」
「本当に?」
その問いに、晴臣は一瞬だけ詰まった。
父にも、美月にも、似たようなことを聞かれた。
本当に。
晴臣は、何度その言葉を聞いただろう。
「本当に、分かっているつもりです」
佐和子はしばらく晴臣を見ていた。
それから、少し表情を緩めた。
「なら、いいです」
美月は小さく息を吐いた。
「母さん、晴臣を怖がらせないで」
「怖がるくらいでちょうどいいの」
「もう」
また少しだけ笑いが戻った。
だが晴臣の胸には、佐和子の言葉が残った。
美月は、待つ子です。
その言葉は、父の言葉とは違う形で重かった。
北の用事を夜へ持ち越すな。
見たものにすぐ意味をつけるな。
待たせすぎないでください。
別々の人間が、別々の言葉で、同じ方角を指している。
晴臣はそう感じた。
美月は立ち上がった。
「少しだけ、晴臣と外に出てもいい?」
佐和子は帯の結び目をもう一度見た。
「走らないなら」
「走らない」
「帯をほどかないなら」
「ほどかない」
「晴臣さん」
「はい」
「戻す時は、ちゃんと戻してください」
晴臣は一瞬、意味が分からなかった。
周囲の女たちがまた笑う。
美月は顔を赤くした。
「母さん」
「冗談です」
佐和子はそう言ったが、目は笑っていた。
晴臣は頭を下げ、美月と一緒に広間を出た。
廊下に出ると、会館の外から祭りの音が一気に近づいた。太鼓、笛、人の声。昼前の熱が、開け放たれた戸口から流れ込んでくる。
美月はしばらく黙っていた。
「ごめんね」
「何が?」
「母が、変なこと言って」
「変なことなんてないよ」
「待つ子って言われるの、あんまり好きじゃない」
「そうなの?」
「うん。待ってるだけみたいだから」
美月は廊下の端で立ち止まった。
外へ出れば、南宮の境内が見える。柱は境内を出て鳥居前の広場で休められ、若い衆が綱を整えていた。来賓席の方では、守部冬真が誰かに頭を下げている。
美月はその光景を見ながら言った。
「私は、待つしかできないわけじゃない」
「うん」
「晴臣が奥木を出た時も、大学に行った時も、研究で戻ったり離れたりする時も、私はただ待ってたわけじゃない。自分でここに残ったの」
晴臣は美月を見る。
美月の声は穏やかだった。
けれど、その奥に硬いものがあった。
「奥木が好きだから?」
「好き、だけじゃない」
「嫌い?」
「嫌いでもない」
美月は少し笑った。
「難しいね」
「奥木は、だいたい難しい」
「そう。難しい。人が近いし、噂は早いし、古い決まりも多い。南宮は明るいけど、北宮は怖い。ここにいると、息苦しい時もある」
白い帯の結び目に、美月の手が触れた。
「でも、ここには母がいる。家族がいる。湖がある。祭りの日の匂いがある。晴臣が帰ってくる場所も、ここにある」
晴臣は黙って聞いていた。
「だから私は、ここに残った。待たされたんじゃない。自分で選んだの」
美月は晴臣を見た。
「だから、晴臣も選んで」
「何を?」
「戻ってくること」
それは、朝に交わした約束と似ていた。
だが、少し違った。
ただ夜の柱立までに戻る、という話ではない。
仕事から戻る。
北宮から戻る。
古いものの中へ沈みかけても、今ある場所へ戻る。
そういう意味に聞こえた。
「戻るよ」
晴臣は言った。
「今日は、北宮の確認が終わったら戻る。夕方は一緒に柱立を見る。その後、父さんのところへ行く」
「それだけ?」
美月が少しだけ笑った。
晴臣は息を吸った。
「その後、ちゃんと話そう。婚約のこと。日取りのこと。住む場所のこと。父さんの家のことも、僕の借家のことも」
美月の表情が静かに変わった。
「うん」
「今まで曖昧にしていたけど、ちゃんと決めよう」
「晴臣がそういう話を自分からするの、珍しい」
「そうかな」
「珍しいよ。たいてい、私が聞くまで仕事の話をしてる」
「反省してる」
「少し?」
「かなり」
美月は笑った。
その笑顔を見て、晴臣は少し肩の力が抜けた。
「じゃあ、夜に話そう」
「うん」
「昭三さんの赤飯を食べながら?」
「焦げてなければ」
「焦げても食べるんでしょ」
「美月に出すなら焦がさないと思う」
「そこは信じてるんだ」
「父さんは、美月には弱いから」
美月は嬉しそうに笑った。
その横顔に、白い帯の光が重なる。
晴臣はふと、その帯に視線を落とした。
「苦しくない?」
「え?」
「帯。さっきから少し触ってる」
「ああ」
美月は自分の腰に手を当てた。
「少し苦しい」
「緩めてもらう?」
「いい」
「でも」
「今日は、締めておく」
美月は静かに言った。
「祖母の帯だし、母が選んでくれたし。少し苦しくても、今日はこれでいい」
晴臣は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
白い帯は祝福に見えた。
同時に、美月を奥木へ結びつけるものにも見えた。
それを美月は、自分で締めている。
誰かに強いられたのではなく、自分で選んでいる。
「美月」
「うん?」
「似合ってる」
美月は一瞬だけ黙り、それから視線を逸らした。
「それ、さっきも言った」
「もう一回言ってもいいだろ」
「ずるい」
「何が?」
「そういうところ」
美月はそう言って笑った。
廊下の向こうから、誰かが美月を呼ぶ声がした。
「美月ちゃん、こっちお願い」
「はい」
美月は返事をしてから、晴臣を見た。
「行かないと」
「うん」
「午後、北宮へ行く前に何か食べて」
「分かった」
「帰ってきたら、声をかけて」
「必ず」
「今日の約束、何回目だろうね」
「何回でもする」
美月は少しだけ目を細めた。
それから、人の方へ戻っていった。
白い帯が、廊下の光の中で一度だけ淡く光った。
晴臣はその背中を見送った。
その時、廊下の外側、会館の入口近くに冬真が立っていることに気づいた。
守部冬真は、来賓対応の途中だったのだろう。片手に資料を持ち、誰かを案内していたらしい。だが今は足を止め、美月が広間へ戻っていく背中を見ていた。
冬真は晴臣に気づくと、いつものように笑った。
「いい帯だな」
「ああ」
「美月に似合ってる」
「うん」
晴臣は短く答えた。
冬真は会館の中へ視線を向けた。
広間の奥では、秦家の女たちが美月を迎え入れている。白い帯を締めた美月は、その輪の中心に戻っていった。
「もう、完全にそういう空気だな」
「そういう?」
「お前と美月だよ。みんな、そういう目で見てる」
「気が早いんだよ」
「奥木では、早い方が本当になる」
冬真は笑った。
軽い口調だった。
だが晴臣には、その笑みが少し薄く見えた。
「冬真」
「何だ」
「何か言いたいことある?」
冬真は一瞬、晴臣を見た。
それから、肩をすくめた。
「おめでとう、って朝も言っただろ」
「ああ」
「もう一回言えばいいか?」
「いや」
「じゃあ、大事にしろ」
冬真はそう言った。
「美月は、ああ見えて簡単には泣かない。でも、泣く時は誰にも見せない」
晴臣は黙った。
冬真の声には、幼馴染としての親しさがあった。
同時に、晴臣が知らない美月を自分は知っている、という響きもあった。
「分かってる」
「本当に?」
また、その問いだった。
晴臣は少しだけ息を吐いた。
「今日は、何人にもそれを聞かれる」
「それだけ信用がないんだろ」
「ひどいな」
「研究馬鹿だからな」
冬真は笑った。
そして、晴臣の肩を軽く叩いた。
「午後、北宮だろ。早く戻れよ」
「ああ」
「美月を待たせるな」
「分かってる」
「ならいい」
冬真は資料を持ち直し、来賓席の方へ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、晴臣はふと違和感を覚えた。
冬真は祝ってくれている。
少なくとも言葉の上ではそうだ。
だが、その言葉の底に何があるのか、晴臣には分からなかった。
見えたものにすぐ意味をつけるな。
父の言葉が、胸の奥でまた響いた。
晴臣は目を伏せた。
意味をつけないこと。
それは、研究者の晴臣にとって難しいことだった。
しかしこの朝、晴臣は何度もそうしようとしていた。
美月の不安にも。
父の警告にも。
斎部の含みにも。
土師の棘にも。
冬真の笑みにも。
すぐには意味をつけない。
そうすることで、日常を守っているような気がしていた。
会館の外へ出ると、昼の光が眩しかった。
南宮の境内では、次の神事の準備が進んでいる。柱の綱が巻き直され、若い衆が冷たい水を浴びるよう飲んでいた。来賓席の方では、藤原匡親が穏やかな顔で誰かと話している。少し離れたところでは、土師倉之介が手帳を閉じ、会館の裏手から戻ってくるところだった。
晴臣はそれらを見た。
そして、胸元に手を当てた。
守り袋がある。
古い布の感触が、上着の内側に小さく残っている。
午後になれば、北宮へ行く。
教授と遺物を確認する。
終わったら戻る。
美月と柱曳きを見る。
父の赤飯を食べる。
婚約の話をする。
予定はそれだけだった。
それ以上の意味を、晴臣はまだ持たせなかった。
南宮会館の広間から、美月の声が聞こえた。
誰かに呼ばれて返事をする、明るい声だった。
晴臣は振り返った。
障子の隙間から、白い帯が少しだけ見えた。
それは祝福の色に見えた。
そしてなぜか、ほどけない結び目のようにも見えた。
晴臣はその白を目に焼きつけた。
今度こそ忘れないように。




