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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
奥木湖 ~14年前~

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4/17

四 水底に潜む悪意

 奥木湖は、近くで見るほど底が分からなくなる。


 山の上から眺めれば、湖は一枚の鏡に見える。空を映し、雲を映し、南宮の屋根や北宮の森を同じ水面に並べる。だが、湖畔に立って水を覗き込めば、話は違う。


 光はすぐに折れる。

 石は途中で歪む。

 沈んだ枝は、そこにあるのかないのか分からなくなる。


 奥木の者は、昔から湖の底をあまり語らない。


 どこが深いのか。

 何が沈んでいるのか。

 いつ、誰が落ちたのか。

 何を引き上げ、何をそのままにしたのか。


 知っている者ほど、口を閉ざす。


 午前の神事が終わると、南宮の境内には再び人の声が満ちた。


 祝詞の静けさはすぐにほどけ、太鼓と笛、屋台の呼び声、観光客の笑い声が戻ってくる。来賓たちは社務所横の仮設席へ案内され、総代たちは次の段取りを確認し、若い衆は柱の綱を締め直していた。


 祭りは、何事もなかったように進んでいく。


 だが、人が集まれば、そこには必ず水の底のような場所ができる。


 声が届きにくく、視線が集まりにくい場所。

 誰もが見えているのに、見なかったことにできる場所。


 南宮会館の裏手にある細い通路も、その一つだった。


 表側では茶や菓子が振る舞われ、来賓が談笑している。だが、会館の裏は古い倉庫と生垣に挟まれ、昼前でも薄暗い。風が抜けにくく、祭りの熱から少しだけ切り離されている。


 土師倉之介(はじ くらのすけ)は、そこで立ち止まった。


 手には手帳がある。表向きは祭礼聞き取りの記録だ。実際、数ページには南宮の神事や総代の発言が細かく書き込まれている。


 だが、今開かれているページには、別の言葉が並んでいた。


 北宮の遺物。

 杜守文庫の出蔵。

 教授、水科のみ同席。

 外部研究者排除。

 水科家、北の道。

 胸元の包み。

 北宮由来か。


 最後の一語を書いてから、土師は眉を寄せた。


 胸元の包み。


 晴臣が水科家から出てきた直後、歩きながら無意識に上着の内側へ手をやっていたのを、土師は見ていた。はっきりと中身が見えたわけではない。ただ、古い布の端のようなものが、上着の合わせ目から一瞬だけ覗いた。


 祭りの日に、水科家から晴臣が持ち出したもの。


 お守りかもしれない。

 古い札かもしれない。

 あるいは、ただの私物かもしれない。


 特に意味はないのかもしれない。


 だが、土師はそう考えられなかった。


 晴臣はいつもそうだ。


 意味のある場所に、意味のある時に、何気ない顔で立っている。


 地元の老人が晴臣には口を開く。

 神社の関係者が晴臣には資料を見せる。

 教授が晴臣だけを連れて北宮へ入る。

 そして晴臣自身は、それを特権だとさえ思っていない。


 それが、土師には我慢ならなかった。


 能力の差なら受け入れられる。


 論文の質。調査の精度。語学。読解力。仮説の強度。そうしたもので負けるなら、まだいい。努力の余地がある。追い越すための道筋がある。


 だが、土地の名前は違う。


 水科という姓。

 奥木に生まれたという事実。

 子どもの頃から湖を見てきたという記憶。


 それは努力では手に入らない。


 土師は、自分がそのことに腹を立てていると認めたくなかった。


 研究者として正しい怒りだと思いたかった。閉ざされた資料への渇仰。郷土権力への不信。学問の公開性を妨げる古い慣習への怒り。


 だが、手帳の文字は正直だった。


 そこには何度も、同じ名が書かれている。


 水科。

 水科。

 水科。


「熱心だね」


 声がした。


 土師は手帳を閉じた。


 通路の向こうに、守部冬真(もりべ とうま)が立っていた。祭りの法被を脱ぎ、白いシャツの袖をまくっている。額には汗が残っていたが、息は乱れていない。


「守部さん」


「そんなに警戒しなくてもいい。邪魔をするつもりはないよ」


「別に警戒はしていません」


「そういう顔をしていた」


 冬真は笑った。


 人好きのする笑みだった。地元の老人にも、報道陣にも、子どもにも同じように向けられる笑み。だが今、土師に向けられているそれには、わずかに別の色が混じっていた。


「南宮の記録ですか」


「ええ」


「北宮の方が気になっているように見えたけど」


 土師は黙った。


 冬真は一歩近づき、通路の壁に背を預けた。


「午後、晴臣が北へ入るらしいね」


「ご存じでしたか」


「地元だからね。噂は早い」


「便利ですね。地元というのは」


 自分でも棘がある言い方だと思った。


 だが冬真は怒らなかった。


「便利な時もある。不便な時もある」


「水科君も同じことを言っていました」


「晴臣らしい」


 冬真は目を細めた。


「昔から、あいつはそういうところがある。自分が何を持っているか、分かっていない」


 土師は冬真を見た。


 その言葉には、土師の中にあったものとよく似た硬さがあった。


「守部さんは、水科君と幼馴染でしたね」


「ああ。美月も含めて、子どもの頃から知ってる」


「仲がよさそうに見えます」


「そう見えるなら、そうなんだろう」


 冬真は軽く言った。


 だが、視線は笑っていなかった。


 土師は、その目に気づいた。


 晴臣を見る時、冬真の声は穏やかだ。だが、美月の名が近くにある時だけ、そこにかすかな濁りが出る。


 土師は研究者だった。


 人の表情を読むことを専門にはしていない。だが、古い文書も人の顔も、隠したい部分ほど不自然な余白を作ることは知っていた。


「水科君は、ずいぶん信頼されているようですね」


 土師は言った。


「教授にも、北宮にも、美月さんにも」


 冬真の指先が一瞬だけ動いた。


 ほんのわずかだった。何かを握りしめる前のような動き。


「晴臣は悪い奴じゃない」


「ええ。そう思います」


「だから余計に、厄介な時がある」


 冬真は湖の方へ目を向けた。


 会館の裏手からは、奥木湖の一部だけが見えた。南の水面は光っている。北は生垣に隠れていた。


「悪意がない人間ほど、自分が誰かの場所を奪っていることに気づかない」


 その言葉は、土師の胸に静かに落ちた。


 土師は手帳を握る指に力を入れた。


「それは、研究の話ですか」


「さあ。何の話だろうな」


 冬真は笑った。


 その時、通路の入口に人影が差した。


 二人は同時に振り向いた。


 藤原匡親(ふじわら まさちか)だった。


 黒いスーツの上着を片手にかけ、ゆっくりと歩いてくる。祭りの喧騒の中でも、この男の周囲だけは音が少し低くなるようだった。


「若い人間が、ずいぶん深刻な顔をしている」


挿絵(By みてみん)


 藤原は穏やかに言った。


 冬真はすぐに姿勢を正した。


「藤原先生」


「守部君。柱の段取りは順調かね」


「はい。午前の曳行は予定どおりです」


「それはよかった」


 藤原の視線が土師へ移った。


「あなたは、大学の」


「土師倉之介と申します。奥木の祭祀資料を研究しております」


「そうでしたか。水科君の同僚ですね」


 水科君の同僚。


 ただそれだけの紹介なのに、土師の胸に小さな棘が刺さった。


「はい」


「熱心なことだ。奥木のような土地を研究するには、根気がいるでしょう」


「ええ。ですが、資料に近づくのは容易ではありません」


 土師はそう言った。


 冬真がわずかに土師を見る。


 藤原は表情を変えなかった。


「古い土地には、古い事情がある」


「事情が、学問より優先されることもあるのでしょうか」


 言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。


 だが藤原は、むしろ楽しげに目を細めた。


「学問は自由であるべきです。ただし、自由には順序がある」


「順序、ですか」


「扉には、開ける順序がある。正面から開けるべき扉もあれば、内側の者が先に鍵を外さねばならない扉もある。無理にこじ開ければ、中身だけでなく、扉そのものを壊す」


「中身が腐っている場合は?」


 土師の声は、自分でも驚くほど低かった。


 藤原は土師を見つめた。


 静かな目だった。


「その判断を、外から覗いただけの者が下すのは危うい」


 土師は言葉を失った。


 藤原は責めたわけではない。声も荒げていない。だが、その一言で、土師は自分が扉の外の人間だと言われたのだと分かった。


 冬真が空気を和らげるように言った。


「午後は、北宮で確認があると聞いています」


「そのようだね」


 藤原は答えた。


「先生も立ち会われるのですか」


「私は南宮の式典がある。北のことは、北の者に任せる」


「水科君は入るようです」


 土師が言った。


 自分でも、なぜ口を挟んだのか分からなかった。


 藤原は土師を見た。


 冬真も見た。


 通路の空気が少しだけ冷えた。


「水科君は、奥木の子ですからね」


 藤原は言った。


 その声は穏やかだった。


「それだけですか」


 土師が聞いた。


 藤原は微笑んだ。


「それだけで十分なこともある」


 土師は唇を結んだ。


 冬真は、黙っていた。


 その沈黙の中で、三人の間に言葉にならないものが置かれた。


 晴臣は奥木の子である。

 だから北へ入れる。

 だから美月の隣にいる。

 だから教授に選ばれる。

 だから、何かを見つけるかもしれない。


 そして、見つけたものをどう扱うかは、晴臣自身にも分からない。


 藤原は通路の奥へ視線を向けた。


「北宮のものは、表へ出す時を誤ってはならない」


「何かあるのですか」


 冬真が尋ねた。


 藤原はすぐには答えなかった。


 遠くで太鼓が鳴る。


 その音が途切れてから、藤原は言った。


「あるかもしれない。ないかもしれない。ただ、奥木には、見つからないことで保たれてきた均衡がある」


「均衡」


「家、神社、土地、財団、行政、学問。そうしたものは、それぞれ別々に見えて、実際には同じ水面に映っている。一つを乱せば、他も揺れる」


 土師はその言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 これだ。


 奥木はやはり隠している。


 資料を守っているのではない。均衡などという言葉で、何かを隠している。


 土師にとって、それは学問への侮辱に思えた。


 一方で、冬真は別の言葉に反応していた。


 財団。


 奥木文化財団は、近年、県外企業や観光業者との結びつきを強めている。南宮の修復、湖畔の再開発、資料館の新設。冬真はその中心に立つ若手として期待されていた。


 だが、北宮に何かが出れば、話は変わる。


 見つかったものによっては、再開発も、財団の展示計画も、奥木の観光構想も止まる。あるいは、逆に大きな利権になる。


 晴臣がそれを握る。


 冬真は、その想像が不快だった。


 藤原は二人の表情を見ていた。


 法廷で証人を見る時のように。あるいは、秤に重りを乗せる時のように。


「水科君は、優秀です」


 藤原が言った。


 唐突に聞こえる言葉だった。


「ええ」


 冬真が答える。


 土師は黙っていた。


「ただ、若い。優秀な若者ほど、見つけたものを正しい場所へ置けると思い込む」


「正しい場所、ですか」


 土師が言った。


「論文、学会、新聞、展示室。そうした場所が常に正しいとは限らない」


「では、どこが正しいのですか」


 土師の声には、抑えきれない苛立ちがあった。


 藤原は穏やかに答えた。


「少なくとも、奥木のものは、奥木の者が決めるべきでしょう」


「それでは外部の研究者は不要だと?」


「不要とは言っていない。順序があると言っている」


 また、順序。


 土師はその言葉を嫌悪した。


 順序とは、たいてい権力を持つ者が都合よく使う言葉だ。待てと言われる者は、いつまで待てばいいのか知らされない。扉の外で立ち尽くすだけだ。


 冬真が静かに言った。


「晴臣は、その順序を守りますか」


 藤原の目が冬真へ移る。


 冬真は視線を逸らさなかった。


「晴臣は悪い奴じゃありません。でも、研究のことになると、止まらないところがある」


「君は彼をよく知っている」


「幼馴染ですから」


「同じ幼馴染の美月さんも含めて?」


 冬真の表情が、ほんのわずかに固まった。


 藤原は微笑んだままだった。


 土師はその変化を見逃さなかった。


 この男は、知っている。


 冬真が何を欲し、何に苛立っているのかを。


 藤原は土師も見ていた。


 おそらく、自分の苛立ちも見抜かれている。


「人は、正義だけでは動かない」


 藤原は言った。


「学問でも、郷土愛でも、恋でも同じです。本人はそれをきれいな名で呼ぶ。だが、その底には、たいてい別のものが沈んでいる」


 誰も返事をしなかった。


 通路の外では、祭りの声が明るい。


 その明るさが、かえって裏手の薄暗さを濃くしていた。


 やがて藤原は、何事もなかったように言った。


「午後の確認については、私から教授に一言伝えておきましょう」


 土師が顔を上げた。


「私も同席できるように、ということですか」


「それが必要なら」


 藤原は曖昧に答えた。


「ただし、北宮側が嫌がるなら無理はできない。無理に扉を開けるべきではないからね」


 土師は奥歯を噛んだ。


 冬真が尋ねる。


「では、何を伝えるのですか」


「慎重に扱うように、と」


「水科君に?」


「教授にだよ」


 藤原はそう言った後、少しだけ間を置いた。


「必要なら、水科君にも」


 その言い方には、まだ罪はなかった。


 忠告。

 助言。

 地元有力者としての配慮。


 どの言葉を当てても、不自然ではない。


 だが、その場にいた三人は、それがただの配慮ではないことを理解していた。


 晴臣が何かを見つける前に、あるいは見つけた後すぐに、その動きを見ておく必要がある。


 誰が何を知り、誰が何を持ち、誰がどこへ伝えようとするのか。


 それを押さえる必要がある。


 藤原は懐から名刺入れを出した。


 土師へ一枚差し出す。


「土師さん。研究で困ることがあれば、私に連絡しなさい。奥木には古いしがらみも多いが、若い研究者が無用に遠ざけられるのは、私も本意ではない」


 土師は一瞬ためらい、それから名刺を受け取った。


「ありがとうございます」


「あなたのような外からの目も、時には必要です」


 その言葉は、先ほどの「外から覗いただけの者」という言い方と矛盾しているようで、していなかった。


 藤原は外の目を認めたのではない。


 外の目も使える、と言ったのだ。


 土師は名刺を手帳に挟んだ。


 冬真はその様子を見ていた。


 藤原は次に冬真へ向いた。


「守部君。午後の来賓対応は頼めるかね」


「もちろんです」


「それと、晴臣君が北から戻ったら、私のところへ顔を出すように伝えてください」


「分かりました」


「急ぎではない。ただ、北宮の確認がどうだったか、少し聞いておきたい」


「はい」


 冬真は頷いた。


 その顔は穏やかだった。


 だが、胸の内には別のものが生まれていた。


 晴臣が北から戻る。

 藤原が話を聞く。

 土師が資料を欲しがる。

 自分は美月の隣で、それを見ている。


 それだけで済むのか。


 冬真は美月の笑顔を思い出した。


 晴臣を見る時の、美月の表情。


 それは、冬真がどれほど奥木のために働き、財団で評価され、来賓に頭を下げられても、手に入らないものだった。


 晴臣は努力せずにそれを持っている。


 そう思った瞬間、冬真は自分の中にある感情の名を知りたくなくなった。


 藤原は二人に軽く頷き、通路を出て行った。


 その背中が見えなくなってから、土師が小さく息を吐いた。


「怖い人ですね」


「藤原先生が?」


「ええ。穏やかなのに、こちらが何を考えているか測られている気がする」


「実際、測っているんだろう」


 冬真は言った。


「元検事だからですか」


「それだけじゃない。あの人は奥木の水位を見る人だ」


「水位?」


「誰の欲がどこまで上がっているか。誰の不満がどこで溢れるか。そういうものを見るのが上手い」


 土師は冬真を見た。


「守部さんも、測られていましたね」


 冬真は一瞬、土師を見返した。


 だが、すぐに笑った。


「君もだろう」


「そうですね」


 二人は黙った。


 先ほどまで、互いに深く関わる理由などなかった。


 地元財団の若手理事。

 外部の研究者。


 接点は晴臣だけだった。


 だが、その晴臣を中心にして、二人の苛立ちはわずかに重なり始めていた。


 それはまだ、陰謀とは呼べない。


 誰かを陥れようという相談をしたわけでもない。嘘をついたわけでもない。書類を偽造したわけでもない。罪の名を持つものは、まだ何も生まれていない。


 ただ、同じ方向へ濁った水が流れ始めただけだった。


「水科君は、何を見つけると思いますか」


 土師が言った。


 冬真は少し考えた。


「分からない」


「本当に?」


「ああ。ただ、晴臣は何かを見つける側の人間だ」


 その言葉に、土師は静かに頷いた。


「私もそう思います」


 それが、二人を苛立たせる。


 閉じられた扉の前で立ち止まる人間と、なぜか扉の向こうへ呼ばれる人間がいる。


 晴臣は後者だった。


「見つけたものを、正しく扱えるとは限りません」


 土師が言った。


 冬真は返事をしなかった。


 土師は続けた。


「水科君は優しい。土地にも、人にも。だから、何かを見つけた時、それが誰を傷つけるかを考えて、余計な判断をするかもしれない」


「あるいは、考えずに公開するかもしれない」


 冬真が言った。


「ええ」


「どちらにしても、厄介だな」


「厄介です」


 二人はそこで言葉を切った。


 言ってしまえば、もう戻れない言葉がある。


 まだそこまでは行っていない。


 少なくとも、二人はそう思っていた。


 表の広場から、美月の声が聞こえた。


 誰かに礼を言っている。柔らかい声だった。


 冬真はそちらを見た。


 美月は晴臣の隣にいた。二人は何かを話し、小さく笑っている。


 その笑顔を見た瞬間、冬真の中で、湖底の泥がゆっくりと舞い上がった。


 土師も同じ方向を見た。


 彼が見ていたのは、美月ではない。


 晴臣の胸元だった。


 晴臣はまた、内ポケットに手を当てていた。


 謎の包み。


 水科家。

 北の道。

 教授の確認。

 閉じられた資料。

 自分だけが外された調査。


 土師は手帳を開き、名刺の端を指で押さえた。


 藤原匡親。


 そこに印刷された名前は、ただの連絡先以上のものに見えた。


 南宮の太鼓が鳴る。


 柱が再び動き出す。


 人々は歓声を上げ、綱を引く男たちの背中に拍手を送った。


 誰も、会館の裏手に残った沈黙には気づかない。


 湖面は明るく光っていた。


 だが、その下には、光の届かない水がある。


 そこには、古い枝も、沈んだ石も、名前のないものも眠っている。


 そして時に、底に沈んでいたものは、人の足が踏み込んだだけで舞い上がる。


 この日、奥木湖の水底で、まだ形を持たない悪意が動いた。


 それは小さく、誰にも見えず、音もしなかった。


 だが確かに、晴臣の方へ流れ始めていた。


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