四 水底に潜む悪意
奥木湖は、近くで見るほど底が分からなくなる。
山の上から眺めれば、湖は一枚の鏡に見える。空を映し、雲を映し、南宮の屋根や北宮の森を同じ水面に並べる。だが、湖畔に立って水を覗き込めば、話は違う。
光はすぐに折れる。
石は途中で歪む。
沈んだ枝は、そこにあるのかないのか分からなくなる。
奥木の者は、昔から湖の底をあまり語らない。
どこが深いのか。
何が沈んでいるのか。
いつ、誰が落ちたのか。
何を引き上げ、何をそのままにしたのか。
知っている者ほど、口を閉ざす。
午前の神事が終わると、南宮の境内には再び人の声が満ちた。
祝詞の静けさはすぐにほどけ、太鼓と笛、屋台の呼び声、観光客の笑い声が戻ってくる。来賓たちは社務所横の仮設席へ案内され、総代たちは次の段取りを確認し、若い衆は柱の綱を締め直していた。
祭りは、何事もなかったように進んでいく。
だが、人が集まれば、そこには必ず水の底のような場所ができる。
声が届きにくく、視線が集まりにくい場所。
誰もが見えているのに、見なかったことにできる場所。
南宮会館の裏手にある細い通路も、その一つだった。
表側では茶や菓子が振る舞われ、来賓が談笑している。だが、会館の裏は古い倉庫と生垣に挟まれ、昼前でも薄暗い。風が抜けにくく、祭りの熱から少しだけ切り離されている。
土師倉之介は、そこで立ち止まった。
手には手帳がある。表向きは祭礼聞き取りの記録だ。実際、数ページには南宮の神事や総代の発言が細かく書き込まれている。
だが、今開かれているページには、別の言葉が並んでいた。
北宮の遺物。
杜守文庫の出蔵。
教授、水科のみ同席。
外部研究者排除。
水科家、北の道。
胸元の包み。
北宮由来か。
最後の一語を書いてから、土師は眉を寄せた。
胸元の包み。
晴臣が水科家から出てきた直後、歩きながら無意識に上着の内側へ手をやっていたのを、土師は見ていた。はっきりと中身が見えたわけではない。ただ、古い布の端のようなものが、上着の合わせ目から一瞬だけ覗いた。
祭りの日に、水科家から晴臣が持ち出したもの。
お守りかもしれない。
古い札かもしれない。
あるいは、ただの私物かもしれない。
特に意味はないのかもしれない。
だが、土師はそう考えられなかった。
晴臣はいつもそうだ。
意味のある場所に、意味のある時に、何気ない顔で立っている。
地元の老人が晴臣には口を開く。
神社の関係者が晴臣には資料を見せる。
教授が晴臣だけを連れて北宮へ入る。
そして晴臣自身は、それを特権だとさえ思っていない。
それが、土師には我慢ならなかった。
能力の差なら受け入れられる。
論文の質。調査の精度。語学。読解力。仮説の強度。そうしたもので負けるなら、まだいい。努力の余地がある。追い越すための道筋がある。
だが、土地の名前は違う。
水科という姓。
奥木に生まれたという事実。
子どもの頃から湖を見てきたという記憶。
それは努力では手に入らない。
土師は、自分がそのことに腹を立てていると認めたくなかった。
研究者として正しい怒りだと思いたかった。閉ざされた資料への渇仰。郷土権力への不信。学問の公開性を妨げる古い慣習への怒り。
だが、手帳の文字は正直だった。
そこには何度も、同じ名が書かれている。
水科。
水科。
水科。
「熱心だね」
声がした。
土師は手帳を閉じた。
通路の向こうに、守部冬真が立っていた。祭りの法被を脱ぎ、白いシャツの袖をまくっている。額には汗が残っていたが、息は乱れていない。
「守部さん」
「そんなに警戒しなくてもいい。邪魔をするつもりはないよ」
「別に警戒はしていません」
「そういう顔をしていた」
冬真は笑った。
人好きのする笑みだった。地元の老人にも、報道陣にも、子どもにも同じように向けられる笑み。だが今、土師に向けられているそれには、わずかに別の色が混じっていた。
「南宮の記録ですか」
「ええ」
「北宮の方が気になっているように見えたけど」
土師は黙った。
冬真は一歩近づき、通路の壁に背を預けた。
「午後、晴臣が北へ入るらしいね」
「ご存じでしたか」
「地元だからね。噂は早い」
「便利ですね。地元というのは」
自分でも棘がある言い方だと思った。
だが冬真は怒らなかった。
「便利な時もある。不便な時もある」
「水科君も同じことを言っていました」
「晴臣らしい」
冬真は目を細めた。
「昔から、あいつはそういうところがある。自分が何を持っているか、分かっていない」
土師は冬真を見た。
その言葉には、土師の中にあったものとよく似た硬さがあった。
「守部さんは、水科君と幼馴染でしたね」
「ああ。美月も含めて、子どもの頃から知ってる」
「仲がよさそうに見えます」
「そう見えるなら、そうなんだろう」
冬真は軽く言った。
だが、視線は笑っていなかった。
土師は、その目に気づいた。
晴臣を見る時、冬真の声は穏やかだ。だが、美月の名が近くにある時だけ、そこにかすかな濁りが出る。
土師は研究者だった。
人の表情を読むことを専門にはしていない。だが、古い文書も人の顔も、隠したい部分ほど不自然な余白を作ることは知っていた。
「水科君は、ずいぶん信頼されているようですね」
土師は言った。
「教授にも、北宮にも、美月さんにも」
冬真の指先が一瞬だけ動いた。
ほんのわずかだった。何かを握りしめる前のような動き。
「晴臣は悪い奴じゃない」
「ええ。そう思います」
「だから余計に、厄介な時がある」
冬真は湖の方へ目を向けた。
会館の裏手からは、奥木湖の一部だけが見えた。南の水面は光っている。北は生垣に隠れていた。
「悪意がない人間ほど、自分が誰かの場所を奪っていることに気づかない」
その言葉は、土師の胸に静かに落ちた。
土師は手帳を握る指に力を入れた。
「それは、研究の話ですか」
「さあ。何の話だろうな」
冬真は笑った。
その時、通路の入口に人影が差した。
二人は同時に振り向いた。
藤原匡親だった。
黒いスーツの上着を片手にかけ、ゆっくりと歩いてくる。祭りの喧騒の中でも、この男の周囲だけは音が少し低くなるようだった。
「若い人間が、ずいぶん深刻な顔をしている」
藤原は穏やかに言った。
冬真はすぐに姿勢を正した。
「藤原先生」
「守部君。柱の段取りは順調かね」
「はい。午前の曳行は予定どおりです」
「それはよかった」
藤原の視線が土師へ移った。
「あなたは、大学の」
「土師倉之介と申します。奥木の祭祀資料を研究しております」
「そうでしたか。水科君の同僚ですね」
水科君の同僚。
ただそれだけの紹介なのに、土師の胸に小さな棘が刺さった。
「はい」
「熱心なことだ。奥木のような土地を研究するには、根気がいるでしょう」
「ええ。ですが、資料に近づくのは容易ではありません」
土師はそう言った。
冬真がわずかに土師を見る。
藤原は表情を変えなかった。
「古い土地には、古い事情がある」
「事情が、学問より優先されることもあるのでしょうか」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
だが藤原は、むしろ楽しげに目を細めた。
「学問は自由であるべきです。ただし、自由には順序がある」
「順序、ですか」
「扉には、開ける順序がある。正面から開けるべき扉もあれば、内側の者が先に鍵を外さねばならない扉もある。無理にこじ開ければ、中身だけでなく、扉そのものを壊す」
「中身が腐っている場合は?」
土師の声は、自分でも驚くほど低かった。
藤原は土師を見つめた。
静かな目だった。
「その判断を、外から覗いただけの者が下すのは危うい」
土師は言葉を失った。
藤原は責めたわけではない。声も荒げていない。だが、その一言で、土師は自分が扉の外の人間だと言われたのだと分かった。
冬真が空気を和らげるように言った。
「午後は、北宮で確認があると聞いています」
「そのようだね」
藤原は答えた。
「先生も立ち会われるのですか」
「私は南宮の式典がある。北のことは、北の者に任せる」
「水科君は入るようです」
土師が言った。
自分でも、なぜ口を挟んだのか分からなかった。
藤原は土師を見た。
冬真も見た。
通路の空気が少しだけ冷えた。
「水科君は、奥木の子ですからね」
藤原は言った。
その声は穏やかだった。
「それだけですか」
土師が聞いた。
藤原は微笑んだ。
「それだけで十分なこともある」
土師は唇を結んだ。
冬真は、黙っていた。
その沈黙の中で、三人の間に言葉にならないものが置かれた。
晴臣は奥木の子である。
だから北へ入れる。
だから美月の隣にいる。
だから教授に選ばれる。
だから、何かを見つけるかもしれない。
そして、見つけたものをどう扱うかは、晴臣自身にも分からない。
藤原は通路の奥へ視線を向けた。
「北宮のものは、表へ出す時を誤ってはならない」
「何かあるのですか」
冬真が尋ねた。
藤原はすぐには答えなかった。
遠くで太鼓が鳴る。
その音が途切れてから、藤原は言った。
「あるかもしれない。ないかもしれない。ただ、奥木には、見つからないことで保たれてきた均衡がある」
「均衡」
「家、神社、土地、財団、行政、学問。そうしたものは、それぞれ別々に見えて、実際には同じ水面に映っている。一つを乱せば、他も揺れる」
土師はその言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
これだ。
奥木はやはり隠している。
資料を守っているのではない。均衡などという言葉で、何かを隠している。
土師にとって、それは学問への侮辱に思えた。
一方で、冬真は別の言葉に反応していた。
財団。
奥木文化財団は、近年、県外企業や観光業者との結びつきを強めている。南宮の修復、湖畔の再開発、資料館の新設。冬真はその中心に立つ若手として期待されていた。
だが、北宮に何かが出れば、話は変わる。
見つかったものによっては、再開発も、財団の展示計画も、奥木の観光構想も止まる。あるいは、逆に大きな利権になる。
晴臣がそれを握る。
冬真は、その想像が不快だった。
藤原は二人の表情を見ていた。
法廷で証人を見る時のように。あるいは、秤に重りを乗せる時のように。
「水科君は、優秀です」
藤原が言った。
唐突に聞こえる言葉だった。
「ええ」
冬真が答える。
土師は黙っていた。
「ただ、若い。優秀な若者ほど、見つけたものを正しい場所へ置けると思い込む」
「正しい場所、ですか」
土師が言った。
「論文、学会、新聞、展示室。そうした場所が常に正しいとは限らない」
「では、どこが正しいのですか」
土師の声には、抑えきれない苛立ちがあった。
藤原は穏やかに答えた。
「少なくとも、奥木のものは、奥木の者が決めるべきでしょう」
「それでは外部の研究者は不要だと?」
「不要とは言っていない。順序があると言っている」
また、順序。
土師はその言葉を嫌悪した。
順序とは、たいてい権力を持つ者が都合よく使う言葉だ。待てと言われる者は、いつまで待てばいいのか知らされない。扉の外で立ち尽くすだけだ。
冬真が静かに言った。
「晴臣は、その順序を守りますか」
藤原の目が冬真へ移る。
冬真は視線を逸らさなかった。
「晴臣は悪い奴じゃありません。でも、研究のことになると、止まらないところがある」
「君は彼をよく知っている」
「幼馴染ですから」
「同じ幼馴染の美月さんも含めて?」
冬真の表情が、ほんのわずかに固まった。
藤原は微笑んだままだった。
土師はその変化を見逃さなかった。
この男は、知っている。
冬真が何を欲し、何に苛立っているのかを。
藤原は土師も見ていた。
おそらく、自分の苛立ちも見抜かれている。
「人は、正義だけでは動かない」
藤原は言った。
「学問でも、郷土愛でも、恋でも同じです。本人はそれをきれいな名で呼ぶ。だが、その底には、たいてい別のものが沈んでいる」
誰も返事をしなかった。
通路の外では、祭りの声が明るい。
その明るさが、かえって裏手の薄暗さを濃くしていた。
やがて藤原は、何事もなかったように言った。
「午後の確認については、私から教授に一言伝えておきましょう」
土師が顔を上げた。
「私も同席できるように、ということですか」
「それが必要なら」
藤原は曖昧に答えた。
「ただし、北宮側が嫌がるなら無理はできない。無理に扉を開けるべきではないからね」
土師は奥歯を噛んだ。
冬真が尋ねる。
「では、何を伝えるのですか」
「慎重に扱うように、と」
「水科君に?」
「教授にだよ」
藤原はそう言った後、少しだけ間を置いた。
「必要なら、水科君にも」
その言い方には、まだ罪はなかった。
忠告。
助言。
地元有力者としての配慮。
どの言葉を当てても、不自然ではない。
だが、その場にいた三人は、それがただの配慮ではないことを理解していた。
晴臣が何かを見つける前に、あるいは見つけた後すぐに、その動きを見ておく必要がある。
誰が何を知り、誰が何を持ち、誰がどこへ伝えようとするのか。
それを押さえる必要がある。
藤原は懐から名刺入れを出した。
土師へ一枚差し出す。
「土師さん。研究で困ることがあれば、私に連絡しなさい。奥木には古いしがらみも多いが、若い研究者が無用に遠ざけられるのは、私も本意ではない」
土師は一瞬ためらい、それから名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
「あなたのような外からの目も、時には必要です」
その言葉は、先ほどの「外から覗いただけの者」という言い方と矛盾しているようで、していなかった。
藤原は外の目を認めたのではない。
外の目も使える、と言ったのだ。
土師は名刺を手帳に挟んだ。
冬真はその様子を見ていた。
藤原は次に冬真へ向いた。
「守部君。午後の来賓対応は頼めるかね」
「もちろんです」
「それと、晴臣君が北から戻ったら、私のところへ顔を出すように伝えてください」
「分かりました」
「急ぎではない。ただ、北宮の確認がどうだったか、少し聞いておきたい」
「はい」
冬真は頷いた。
その顔は穏やかだった。
だが、胸の内には別のものが生まれていた。
晴臣が北から戻る。
藤原が話を聞く。
土師が資料を欲しがる。
自分は美月の隣で、それを見ている。
それだけで済むのか。
冬真は美月の笑顔を思い出した。
晴臣を見る時の、美月の表情。
それは、冬真がどれほど奥木のために働き、財団で評価され、来賓に頭を下げられても、手に入らないものだった。
晴臣は努力せずにそれを持っている。
そう思った瞬間、冬真は自分の中にある感情の名を知りたくなくなった。
藤原は二人に軽く頷き、通路を出て行った。
その背中が見えなくなってから、土師が小さく息を吐いた。
「怖い人ですね」
「藤原先生が?」
「ええ。穏やかなのに、こちらが何を考えているか測られている気がする」
「実際、測っているんだろう」
冬真は言った。
「元検事だからですか」
「それだけじゃない。あの人は奥木の水位を見る人だ」
「水位?」
「誰の欲がどこまで上がっているか。誰の不満がどこで溢れるか。そういうものを見るのが上手い」
土師は冬真を見た。
「守部さんも、測られていましたね」
冬真は一瞬、土師を見返した。
だが、すぐに笑った。
「君もだろう」
「そうですね」
二人は黙った。
先ほどまで、互いに深く関わる理由などなかった。
地元財団の若手理事。
外部の研究者。
接点は晴臣だけだった。
だが、その晴臣を中心にして、二人の苛立ちはわずかに重なり始めていた。
それはまだ、陰謀とは呼べない。
誰かを陥れようという相談をしたわけでもない。嘘をついたわけでもない。書類を偽造したわけでもない。罪の名を持つものは、まだ何も生まれていない。
ただ、同じ方向へ濁った水が流れ始めただけだった。
「水科君は、何を見つけると思いますか」
土師が言った。
冬真は少し考えた。
「分からない」
「本当に?」
「ああ。ただ、晴臣は何かを見つける側の人間だ」
その言葉に、土師は静かに頷いた。
「私もそう思います」
それが、二人を苛立たせる。
閉じられた扉の前で立ち止まる人間と、なぜか扉の向こうへ呼ばれる人間がいる。
晴臣は後者だった。
「見つけたものを、正しく扱えるとは限りません」
土師が言った。
冬真は返事をしなかった。
土師は続けた。
「水科君は優しい。土地にも、人にも。だから、何かを見つけた時、それが誰を傷つけるかを考えて、余計な判断をするかもしれない」
「あるいは、考えずに公開するかもしれない」
冬真が言った。
「ええ」
「どちらにしても、厄介だな」
「厄介です」
二人はそこで言葉を切った。
言ってしまえば、もう戻れない言葉がある。
まだそこまでは行っていない。
少なくとも、二人はそう思っていた。
表の広場から、美月の声が聞こえた。
誰かに礼を言っている。柔らかい声だった。
冬真はそちらを見た。
美月は晴臣の隣にいた。二人は何かを話し、小さく笑っている。
その笑顔を見た瞬間、冬真の中で、湖底の泥がゆっくりと舞い上がった。
土師も同じ方向を見た。
彼が見ていたのは、美月ではない。
晴臣の胸元だった。
晴臣はまた、内ポケットに手を当てていた。
謎の包み。
水科家。
北の道。
教授の確認。
閉じられた資料。
自分だけが外された調査。
土師は手帳を開き、名刺の端を指で押さえた。
藤原匡親。
そこに印刷された名前は、ただの連絡先以上のものに見えた。
南宮の太鼓が鳴る。
柱が再び動き出す。
人々は歓声を上げ、綱を引く男たちの背中に拍手を送った。
誰も、会館の裏手に残った沈黙には気づかない。
湖面は明るく光っていた。
だが、その下には、光の届かない水がある。
そこには、古い枝も、沈んだ石も、名前のないものも眠っている。
そして時に、底に沈んでいたものは、人の足が踏み込んだだけで舞い上がる。
この日、奥木湖の水底で、まだ形を持たない悪意が動いた。
それは小さく、誰にも見えず、音もしなかった。
だが確かに、晴臣の方へ流れ始めていた。




