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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
奥木湖 ~14年前~

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3/14

三 奥木に住む者たち

 奥木郷の人間は、湖の方角で物を言う。


 南へ行く、と言えば、たいてい奥木南照宮のある明るい方を指す。商店街、旅館街、役場、駅、学校、観光案内所。人が集まり、金が動き、よそ者が奥木を奥木として知る場所である。


 北へ行く、と言えば、声が少し低くなる。


 奥木北鎮宮。杜守文庫。古い墓地。霧深い森。地図には載っていても、地元の者が積極的に案内したがらない道。


 同じ湖のほとりに住みながら、南と北は別の土地だった。


 水科晴臣は、水科家を出ると、湖へ下る道をゆっくり歩いた。


 朝はすでに深まり、祭りの音は大きくなっていた。遠くから太鼓の音が響き、時折、掛け声が風に乗って届く。南宮へ向かう車が何台も通り過ぎ、法被姿の男たちや、着飾った子どもたちが同じ方向へ歩いていく。


 すれ違うたびに、誰かが声をかけてきた。


「水科先生、おはよう」


「お父さん、元気かい」


「美月ちゃんとそろそろだって?」


「東京の大学は忙しいだろう」


 晴臣はそのたびに、曖昧に笑って頭を下げた。


 奥木では、噂は湖を渡る風より早い。


 晴臣と美月の婚約話も、父が赤飯を炊こうとしていることまでも、夕方には集落の端まで届いているだろう。


 それを煩わしいと思う日もある。


 だが、この朝だけは、どの声も悪くなかった。自分がこの土地に生まれ、この土地の誰かに覚えられていることが、妙にありがたく感じられた。


 湖沿いの道へ出ると、視界が開けた。


 奥木湖は朝日に照らされ、南の水面だけが明るく光っている。対岸の北の森は、まだ色を沈めたままだった。


 晴臣は無意識に胸元へ手をやった。


 内ポケットの守り袋が、そこにある。


 父から受け取った時はただ古びた布の塊にしか思えなかったのに、歩くたびにその存在が気になった。まるで、自分の服の内側に、別の時代の小石を一つ入れているようだった。


「水科君」


 背後から呼ばれた。


 振り向くと、土師倉之介(はじ くらのすけ)が小走りに近づいてきた。


 細い体に、黒縁の眼鏡。きちんと整えた髪。白いシャツの襟元まで丁寧に留めている。晴臣と同じ大学の研究室に籍を置く男で、年齢は晴臣より二つ上だった。


 土師は奥木の出身ではない。


 だが、ここ数年は奥木の祭祀資料に強い関心を示し、何度も調査に来ていた。晴臣とは共同研究者のような立場にあったが、実際には少し違う。晴臣は奥木の内側から資料を見ている。土師は外からそれを欲しがっている。


 その違いは、二人の間にいつも薄い膜のようにあった。


「おはようございます、土師さん」


 土師は息を整えながら言った。


「おはようございます。早いですね」


「祭礼当日の動きは記録しておきたいですから。こういう機会は十四年に一度です」


 そう言って、土師は胸ポケットから小型の録音機を覗かせた。


「もう何人かに聞き取りを?」


「ええ。南宮の総代と、観光協会の方に少し。もっとも、表向きの話ばかりですが」


 土師は笑った。


 その笑みには、軽い失望と優越感が混じっていた。


「表向き?」


「水科君なら分かるでしょう。奥木の人は、肝心なことを言わない」


「それは、奥木に限らないと思いますよ」


「そうでしょうか」


 土師は湖の北を見た。


「少なくとも、ここは極端です。資料はある。伝承もある。祭礼も残っている。なのに、核心になると急に口を閉ざす。まるで、知られること自体を拒んでいるみたいだ」


「古い土地は、だいたいそうです」


「でも、水科君には口を開く」


 晴臣は土師を見た。


 土師は笑っていたが、その目は笑っていなかった。


「地元の名前を持っていると、便利ですね」


 言葉は柔らかい。


 だが、棘があった。


「便利なことばかりではありませんよ」


「そうですか?」


「地元の人間だからこそ、聞けないこともある」


「贅沢な悩みですね」


 土師はそう言って、眼鏡を押し上げた。


 晴臣は返事をしなかった。


 土師の能力は高い。文献の読み込みも早く、仮説の立て方も鋭い。発表の場ではいつも理路整然としている。だが、ときどき、その鋭さが人に向く。


 資料が誰かにだけ開かれていることを許せない。


 晴臣には、土師の中にそういう硬さがあるように思えた。


「午後の北宮の確認、先生から聞きました」


 土師が言った。


「土師さんも来るんですか?」


「本当は同席したかったんですが、教授からは外されました」


「外された?」


「人数を絞りたいそうです。北宮の意向なのか、教授の判断なのかは知りませんが」


 土師の声が少し低くなった。


「水科君は入れるのに、私は入れない」


「教授の判断でしょう」


「ええ。そうですね。教授の判断です」


 その言い方で、土師が納得していないことは明らかだった。


 晴臣は少し困った。


「確認が終わったら、資料は共有します」


「本当に?」


「もちろん」


「写真も?」


「許可が出れば」


「許可が出れば、ですか」


 土師は短く笑った。


「奥木らしいですね。物は見せない。名前だけ匂わせる。外の研究者には待てと言う。そうやって何十年も、資料を腐らせてきた」


「腐らせてきた、という言い方はどうかな」


「では、眠らせてきた」


「それなら少し近い」


 晴臣がそう言うと、土師は一瞬だけ黙った。


 そして、妙に穏やかな声で言った。


「水科君は優しいですね」


「そうですか?」


「ええ。土地にも、人にも。だから、核心を見落とす」


 その言葉は、湖面に小石を投げるように残った。


 晴臣が返事をする前に、南宮の方から大きな歓声が上がった。柱が鳥居前の広場へ入ったらしい。周囲の人々がそちらへ流れていく。


 土師は録音機をしまった。


「私は南宮の記録を続けます。午後、何か分かったら教えてください」


「分かりました」


「期待しています」


 そう言って、土師は人混みの方へ歩いていった。


 晴臣はその背中を見送った。


 細い背中だった。だが、どこか冷たい芯がある。土師倉之介という男は、目の前に閉じた扉があると、鍵を探すより先に、誰がその扉を閉じたのかを憎むところがある。


 晴臣はそれを危ういと思っていた。


 だが、自分がその危うさの対象になっているとは、まだ考えていなかった。


 南宮の参道に着く頃には、祭りは最初の熱を迎えていた。


 柱は鳥居前の広場まで曳かれ、男たちが綱を巻き直している。太鼓が鳴り、笛が高く響き、子どもたちは屋台の前で綿あめをねだっていた。湖畔の旅館組合が出した仮設の席では、来賓たちが茶を飲みながら談笑している。


 晴臣は人混みの中に美月を探した。


 美月は社務所の近くにいた。


 近所の婦人たちに囲まれ、祭礼用の配り物を手伝っている。手際よく紙袋を分け、子どもには腰をかがめて声をかけ、老人には少し大きめの声で説明する。


 美月はどこにいても、その場に馴染む。


 それは、目立たないという意味ではない。むしろ逆だった。彼女がいると、その場の角が少し丸くなる。言葉の尖りが和らぎ、人が自然と安心する。


 晴臣はしばらく声をかけずに見ていた。


 美月は晴臣に気づくと、少しだけ手を振った。


 その瞬間、晴臣の胸元の守り袋が、なぜか重く感じられた。


「水科先生」


 今度は別の声がした。


 少しかすれた、馴れ馴れしい声。


 斎部嘉平(いんべ かへい)だった。


 祭りの法被をだらしなく羽織り、片手に紙コップの茶を持っている。年齢は五十を少し過ぎたくらいだが、日に焼けた顔と細い目のせいで、実年齢より老けて見える。髪には白いものが混じり、口元にはいつも何かを知っているような薄い笑みがあった。


「先生なんてやめてください」


 晴臣が言うと、斎部は声を出して笑った。


「おお、謙虚だねえ。大学の人は違う」


「斎部さんこそ、朝から忙しそうですね」


「忙しいふりだよ。祭りってのは、忙しそうな顔をしてる奴ほど何もしてねえ」


「自分で言いますか」


「言えるくらいがちょうどいいんだ」


 斎部は紙コップの茶をすすった。


 その息に、かすかに酒の匂いが混じっていた。


「父に会ったそうですね」


「ああ、昭三さんか。相変わらず堅い人だ。庭先で煙草一本吸おうとしただけで、目が怖い」


「庭で吸うからでしょう」


「水科家の庭は、昔からきれいにしてあるからな。石も、木も、妙に行儀がいい」


「父がそういう性格なんです」


「性格だけじゃねえよ」


 斎部の目が、細くなった。


「水科の家は、昔から庭を荒らさない。石を動かさない。木を勝手に切らない。そういう家だった」


 晴臣は眉を寄せた。


「どういう意味ですか」


「昔の北宮の作法だよ。庭石にも、道にも、木にも、それぞれ置かれた意味がある。動かしていいものと、動かしちゃいけないものがある」


 斎部は、そこで少しだけ声を落とした。


「水科の家はな、見たものを見たままにしない作法を知ってた」


「見たものを、見たままにしない?」


「そういうことだ」


 斎部は茶の入った紙コップを揺らした。


「見るってのは、ただ目に入れることじゃねえ。見たものを、どう置くかってことでもある。水科は、その置き方を知ってた家だ」


「水科家が、北宮の作法を知っていたと?」


「知っていた、というより、守っていた」


「守っていた?」


「お前さんの家は、北の道に関わってたんだよ」


「北の道?」


「北宮へ入る道だ。北宮ってのは誰でも奥まで行けるわけじゃねえ。どこを通って、どこで足を洗って、どの石から先へ進むか。そういうことを知ってる家が、何軒かあった」


「その一つが水科家だったと?」


「昔の話だ」


 斎部はそこで口をつぐみ、わざとらしく周囲を見回した。


「ここで話すことじゃねえな」


「気になる言い方ですね」


「気にするな。俺は気になる言い方しかできねえ」


 斎部は笑った。


 晴臣は少しだけ眉を寄せた。


 斎部はこういう男だ。断片だけを投げ、相手の反応を見る。知っているのか、知らないのか。欲しがるのか、怖がるのか。その反応で、人との距離を測る。


「午後、北へ行くんだろ」


「ええ」


「奥まで?」


「確認のために入るだけです」


「奥までか」


「斎部さん」


「悪い悪い」


 斎部は片手を上げた。


「ただな、北の奥は足元が悪い。石段も苔で滑る。気をつけろよ」


「ありがとうございます」


「あと、見つけたものは、すぐ人に見せるな」


 晴臣は斎部を見た。


「どういう意味ですか」


「意味なんかねえよ。年寄りの知恵だ」


「斎部さん、年寄りではないでしょう」


「この土地では、三十を過ぎたら半分年寄りだ。五十を過ぎたら古文書みたいなもんだ」


「自分で古文書と言いますか」


「読みにくいだろ」


 斎部はにやりと笑った。


 晴臣は笑えなかった。


「斎部さんは、北宮の遺物について何か知ってるんですか」


「知らん」


「父もそう言っていました」


「昭三さんは本当に知らん。俺は、知らんことにしてる」


 斎部はそう言ってから、しまった、という顔をした。


 それも演技かもしれなかった。


「今のは冗談だ」


「冗談に聞こえませんでした」


「じゃあ、半分だけ冗談だ」


「残り半分は?」


「祭りが終わったら教えてやる」


 斎部は紙コップを握りつぶし、近くのごみ袋へ放った。


「祭りの前に古い話をするもんじゃねえ。土地が聞いてる」


「土地が?」


「湖でもいい」


 斎部は湖の方を顎で示した。


「奥木湖は耳がいいからな」


 そう言うと、斎部は人混みの中へ紛れていった。


 晴臣はその場に残った。


 父も、斎部も、同じようなことを言う。


 北へ行くな。

 夜へ持ち越すな。

 見たものをすぐ信じるな。

 見つけたものをすぐ人に見せるな。


 それぞれの言葉は曖昧で、根拠がない。


 だが、根拠がないからこそ、奥木の底に沈んでいる同じものに触れているようにも感じられた。


「晴臣」


 美月が近づいてきた。


 手には配り物の紙袋を持っている。額に少し汗が浮かんでいた。


「斎部さんと何を話してたの?」


「北宮は足元が悪いから気をつけろって」


「それだけ?」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「よく分からない話」


「斎部さんらしい」


 美月は苦笑した。


「昔から、あの人は何を知っているのか分からない顔をするよね」


「知ってるのかもしれない」


「それとも、知ってるふりが上手いだけかも」


「その可能性もある」


 二人は並んで、南宮の広場を見た。


 柱の周囲では、若い男たちが綱を巻き直している。その中心に、冬真の姿があった。


 冬真は財団の来賓席にいるべき立場でありながら、現場の若者たちにも自然に声をかけていた。汗をかいた男たちと笑い、老人に頭を下げ、報道陣に向けては必要な時だけ表情を整える。


 美月が小さく言った。


「冬真は、昔からああいうのが上手いね」


「人に見られるのが?」


「人の中に入るのが」


「美月も上手いよ」


「私は入るというより、流されてるだけ」


「それは違うと思う」


 晴臣が言うと、美月は少しだけ笑った。


 その視線の先で、冬真がこちらを見た。


 一瞬だけ、三人の目が合う。


 冬真はすぐに笑みを浮かべ、片手を上げた。


 美月も手を振り返した。


 晴臣も軽く頷いた。


 ただ、それだけだった。


 だが晴臣は、冬真が手を下ろす直前、その指先に力が入ったのを見た。綱を握る時のような、何かを押さえる時のような力だった。


「どうかした?」


 美月が聞いた。


「いや」


 晴臣は首を振った。


「何でもない」


 実際、何でもないはずだった。


 幼馴染がこちらを見て、手を振った。それだけのことだ。意味をつけるほどのことではない。


 父に言われたばかりだった。


 見えたものにすぐ意味をつけるな。


 晴臣はそう自分に言い聞かせた。


 南宮の境内に、午前の神事を告げる太鼓が鳴った。


 人々が一斉に社殿の方へ向く。来賓席の者たちも立ち上がり、氏子たちが整列し、白い装束の神職がゆっくりと進み出た。


 晴臣と美月も、人の流れに従って少し後ろへ下がった。


 祝詞が始まる。


 南宮の祝詞は明るい。湖の恵み、山の恵み、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛。聞き慣れた言葉が、祭りの空へ上がっていく。


 だが、晴臣の耳には、その奥に別の静けさがあるように感じられた。


 北宮は今、何をしているのだろう。


 南で柱を立てるなら、北では何を沈めるのか。


 父は、北の用事を夜へ持ち越すなと言った。


 斎部は、見つけたものをすぐ人に見せるなと言った。


 土師は、奥木は核心を隠すと言った。


 それぞれ別の方向から、同じ一点を指している。


 晴臣は胸元に手を当てた。


 守り袋の感触があった。


 その時、祝詞の声が一段高くなった。


 風が吹いた。


 南宮の幟が一斉に揺れ、湖面の光が砕けた。


 美月が小さく身じろぎした。


「寒い?」


 晴臣が聞く。


「ううん」


 美月は南宮の社殿を見たまま答えた。


「今、誰かに呼ばれた気がしただけ」


「誰に?」


「分からない」


 晴臣は、美月の横顔を見た。


 美月はすぐに笑ってみせた。


「気のせい。祭りの日って、変な感じがするから」


「そうだね」


 晴臣は頷いた。


 だが、その言葉はどこか上滑りした。


 祝詞が終わり、太鼓の音が境内に響いた。人々は頭を下げ、再び顔を上げる。南宮の空は明るく、社殿の屋根は朝日に光っていた。


 何もおかしなことは起きていない。


 祭りは予定どおり進んでいる。


 晴臣はそう思おうとした。


 その時、南宮の石段の下に、一台の黒い車が停まった。


 車から降りてきた男を見て、周囲の空気がわずかに変わった。


 藤原匡親(ふじわら まさちか)だった。


 元検事。奥木郷出身の法務関係者で、現在は県の文化財審議にも関わる有力者だった。地元では、ただ「藤原先生」と呼ばれている。


 背は高く、髪は白いものが混じっているが、姿勢は崩れていない。黒いスーツに、落ち着いた色のネクタイ。祭りの場にあっても、どこか法廷の空気をまとっていた。


 冬真がすぐに近づき、頭を下げた。


 土師も遠くからそれを見ている。


 斎部は人混みの端で煙草をくわえようとして、近くの婦人に睨まれ、渋々しまった。


 美月は小さく息を飲んだ。


「藤原先生も来てたんだ」


「来賓だからね」


 晴臣は答えた。


 藤原は冬真と言葉を交わした後、晴臣の方を見た。


 目が合った。


 藤原は、穏やかに微笑んだ。


 晴臣も頭を下げた。


 その瞬間、胸元の守り袋が、かすかに熱を持ったような気がした。


 もちろん、気のせいだ。


 古い布が熱を持つはずがない。


 そう思った時、藤原の後ろに立つ男が、北の森の方へ目を向けた。


 晴臣はその男を知らなかった。


 来賓の一人だろう。黒いスーツを着た、目立たない中年の男だった。名札も見えない。報道陣でも、神社関係者でもない。だが、その男は南宮の神事にはほとんど関心がないようだった。


 彼は、湖の北だけを見ていた。


 晴臣は一瞬、その視線を追った。


 北宮の森は、朝になってもなお暗い。


 その暗さの向こうで、何かが静かに口を開けているように見えた。


「晴臣?」


 美月の声で、晴臣は我に返った。


「どうしたの?」


「いや」


 晴臣は首を振った。


「少し、考え事をしてた」


「また?」


「少しだけ」


 美月は呆れたように笑った。


「今日は祭りの日なのに」


「分かってる」


「本当に?」


「できるだけ」


「その言い方、朝も聞いた」


 二人は小さく笑った。


 その笑い声は、祭りの喧騒にすぐ紛れた。


 だが、晴臣は気づいていなかった。


 この時、南宮の境内には、すでに奥木の主だった者たちが揃っていた。


 晴臣を祝う者。

 晴臣を羨む者。

 晴臣を利用しようとする者。

 晴臣を消すことになる者。

挿絵(By みてみん)

 それぞれが笑い、それぞれが頭を下げ、それぞれが祭りの顔をしていた。


 奥木に住む者たちは、湖の前では本音を言わない。


 喜びも、嫉妬も、欲も、罪も。


 すべてをいったん水面に映し、何事もなかったように胸の奥へ沈める。


 その朝、晴臣はまだ、誰の底にも触れていなかった。


 午後になれば、北宮へ行く。


 教授と遺物を確認する。


 夜には美月と柱曳きを見る。


 それだけの一日のはずだった。


 南宮の太鼓が、再び鳴った。


 湖面が光った。


 そして、北の森だけが、何も答えなかった。


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