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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太


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二 水科家の朝

 水科家の朝は、昔から音が少なかった。


 奥木湖の南岸から少し外れた、集落の端にその家はある。表通りから一本奥へ入った場所で、観光客が迷い込むことはまずない。古い平屋に、低い石垣。庭先には柿の木が一本あり、縁側の下には父が拾ってきた平たい石がいくつも並べられている。

挿絵(By みてみん)

 晴臣は今、その家には住んでいない。


 大学の研究室に籍を置いてからは、奥木に戻るたび町中の小さな借家を使っていた。資料を広げるには父の家は手狭で、大学や役場へ出入りするにもその方が都合がよかった。父も、いい年をした息子がいつまでも同じ屋根の下にいるものではない、と笑っていた。


 母が生きていれば、違ったかもしれない。


 母は晴臣が中学二年の時に病で亡くなった。奥木の外の病院へ通い、最後はこの家へ戻って息を引き取った。以来、水科家の朝は少し静かになり、父はその静けさを埋めるように縁側の下に石を並べるようになった。


 子どもの頃、晴臣は父が拾ってきた石を宝物だと思っていた。


 ただの石ではない、と父は言った。水に転がされ、角を削られ、誰にも拾われずに残った石だ。そういうものには、長くそこにあっただけの顔がある。


 その理屈が正しいのかどうか、晴臣には分からなかった。


 けれど、父が石を洗う手つきは丁寧だった。安物の茶碗を洗うよりも、神棚の榊を替える時よりも、どこか慎重だった。


 水科晴臣が古いものに惹かれるようになったのは、父のせいかもしれない。


 少なくとも、父はそう思っていない。

 自分は学がないから、お前が勝手に賢くなったのだ、と言う。


 晴臣はその言い方が好きではなかった。


 父は学がないのではない。

 ただ、書物の外にあるものを見てきた人だった。


 双柱大祭の朝、晴臣は南宮へ向かう前に水科家へ寄った。


 まだ七時前だったが、父はすでに起きていた。台所の戸を開けると、味噌汁の匂いがした。鍋の蓋が小さく鳴り、湯気が天井近くで薄く広がっている。


「早いな」


 父は振り向かずに言った。


 水科昭三(みずしなしょうぞう)。六十二歳。奥木郷で生まれ、奥木郷で働き、奥木郷からほとんど出ずに生きてきた男だった。背は高くない。肩も丸い。だが、若い頃から土木の仕事をしているせいか、腕と手だけ分厚い。


「祭りの日だからね」


「東京の先生は、祭りの日でも寝坊しないのか」


「東京の先生じゃないよ」


「じゃあ、奥木の先生か」


「それも違う」


 父はそこで初めて笑った。


「じゃあ何だ」


「ただの研究員」


「それが分からん。先生と何が違う」


「色々違う」


「偉いのか」


「偉くない」


「なら同じだ」


 父はそう言って、味噌汁を椀によそった。


 食卓には、焼き鮭、漬物、卵焼き、山菜の煮物が並んでいた。祭りの日だからといって、特別なものではない。だが、晴臣が好きなものばかりだった。


「美月ちゃんとは会うのか」


 父が椀を置きながら聞いた。


「朝、南宮で」


「そうか」


「夕方には柱が立つところを一緒に見る」


「そうか」


 父は同じ返事を二度した。


 晴臣は箸を取る。


「何か言いたそうだね」


「いや」


「言えばいいのに」


「お前は昔から、こっちが言う前に聞く」


「父さんが分かりやすすぎるんだよ」


 父は少し不満そうに鼻を鳴らした。


「美月ちゃんは、いい子だ」


「うん」


「奥木の子だが、奥木に縛られすぎていない」


「そうだね」


「だから大事にしろ」


「してるよ」


「仕事よりもか」


 晴臣は箸を止めた。


 父は味噌汁をすすっている。こちらを見ていない。だが、その問いは軽くなかった。


「比べるものじゃないだろ」


「比べる時が来る」


「来ないよ」


「来る」


 父は短く言った。


 晴臣は黙った。


 父は昔から、こういう言い方をする。理由を細かく説明しない。けれど、なぜかその言葉は後になって残る。


「奥木ではな」


 父は静かに続けた。


「古いものに近づくと、人も古いものに数えられる」


「どういう意味?」


「知らん」


「知らないのに言ったの」


「俺の言葉じゃない。じいさんが言ってた」


 晴臣の祖父は、晴臣が生まれてすぐに亡くなっている。晴臣自身に記憶はない。ただ、無口な人で、北宮の話をするといつも不機嫌になったと父から聞いていた。


「おじいちゃんが?」


「ああ。『北のものには近づくな』とよく言ってた」


「父さんもそう思う?」


「俺は、そんな大層なことは分からん。ただ、北宮は昔から人を選ぶ」


「神社が人を選ぶの?」


「人がそういうふうにしてきたんだろ」


 父は漬物を口に運んだ。


「南宮は誰でも行ける。北宮は、行ける者と行けない者がいる。理由は知らん。ただ、奥木はずっとそうしてきた」


「今日は教授と一緒に北宮へ行く」


「聞いてる」


「誰から?」


「昨日、斎部(いんべ)が来た」


 晴臣は顔を上げた。


「斎部さんが?」


「ああ。庭先で煙草を吸いながら、お前は偉くなったなと言っていた。北宮の奥まで入れるようになったか、とも」


 斎部嘉平(いんべかへい)


 奥木郷の案内人のような男だった。考古学の調査があれば手伝い、祭りがあれば雑務をし、誰かが頼めば山道を案内する。どこにでもいるが、どこにも属していない。晴臣は子どもの頃から知っているが、どこか信用しきれないものがあった。


「斎部さんが、そんなことを」


「嫌な言い方だった」


「父さんが嫌な言い方って言うの、珍しいね」


「俺は人を見る目がある」


「自分で言う?」


「お前よりはある」


 父は少し笑ったが、その目は笑っていなかった。


「晴臣」


「うん」


「今日、北へ行くなら、夕方までに南へ帰れ」


「美月にも同じこと言われた」


「なら、ちゃんと聞け」


「教授の調査次第だよ」


「違う」


 父は箸を置いた。


「夕方までに帰れ。南の火があるうちに帰れ。北の用事を夜へ持ち越すな」


 晴臣は、父を見た。


 父は迷信深い男ではない。神棚に手を合わせるが、宝くじの当選祈願はしない。祭りは大事にするが、天気を神の機嫌で語ることはない。その父が、今は妙に古い言い方をしている。


「何か知ってるの?」


「知らん」


「知らないことばかりだな」


「知らんから言ってる」


 父の声は低かった。


「知っている者は、言わない。知らん者だけが、危ないと言える」


 晴臣は返す言葉を探した。


 その時、庭先で柿の葉が揺れた。朝の風が吹き、縁側に置かれた石の一つが、乾いた音を立てた。


 父は立ち上がり、母の位牌がある小さな仏壇の前へ行った。


 母は死ぬ前に、美月ちゃんは泣き虫だけど芯が強い、と言った。晴臣はその時、なぜ母がそんな話をするのか分からなかった。今なら少し分かる。


 母は、自分がいなくなった後の晴臣の隣に、誰が立つのかを見ていたのかもしれない。


 父は線香を一本立てた。


「母さんにも言っておいた」


「何を?」


「お前が美月ちゃんと一緒になるらしい、と」


「らしいって何」


「まだ結婚はしてない」


「それはそうだけど」


「だから、ちゃんとしろ」


「分かってる」


「分かってない顔だ」


 晴臣は思わず笑った。


「どんな顔だよ」


「仕事のことを考えてる顔だ」


 美月と同じことを言う。


 晴臣は降参するように両手を上げた。


「分かった。今日は北宮の調査を早めに切り上げる。夜は美月と柱曳きを見る。研究のことは少しだけ忘れる」


「少しだけか」


「できるだけ」


「お前の“できるだけ”は信用ならん」


「さっき美月にも言われた」


「なら、二人分聞け」


 父は仏壇から戻ると、戸棚から小さな包みを取り出した。古びた布でくるまれている。晴臣の前に置いた。


「何?」


「持っていけ」


 晴臣は布を開いた。


 中には、古い守り袋が入っていた。色はすっかり褪せ、紐の部分は何度も結び直された跡がある。表には、かすれた墨で水科の家紋が描かれていた。


「うちにそんなものあったんだ」


「じいさんのものだ」


「おじいちゃんの?」


「ああ。北へ行く時は持っていけと言われてた」


「父さんは持って行ったことあるの?」


「俺は北へ行かない」


「それじゃあ、守り袋にどんな意味があるかわからないじゃないか」


「いいか晴臣、これは、何かを跳ね返すものじゃない」


 父は言った。


「入りすぎないようにするものだ」


「この守り袋に意味があるかどうかは、持って行ってから考えろ」


 父の言い方があまりに真面目だったので、晴臣はそれ以上冗談にできなかった。


「ありがとう」


 守り袋を上着の内ポケットに入れる。


 古い布の感触が、胸のあたりに残った。


 父はそれを見届けると、ようやく少し表情を緩めた。


「今日、美月ちゃんを連れてこい」


「夜?」


「ああ。柱立が終わったら、少し寄れ。赤飯くらい炊いておく」


「父さんが?」


「悪いか」


「いや、赤飯なんか炊けるんだと思って」


「祭りの日だ。婚約の祝いくらいする」


 晴臣は、父の顔を見た。


 父は照れた時、少しだけ口元を曲げる。今もそうだった。


「喜ぶと思う」


「美月ちゃんがか」


「うん」


「お前は?」


「僕も」


「ならいい」


 父は短く言った。


 その言い方が、晴臣には妙に嬉しかった。


 水科家は、奥木郷の中で大きな家ではない。古い家柄でも、祭りの中心でも、財団の役員でもない。父は地元の土木会社で長く働き、母は小さな商店で経理を手伝っていた。目立つものは何もない。


 だが、晴臣にとって、帰る場所とはこの家だった。


 台所の味噌汁の匂い。

 縁側の石。

 仏壇の線香。

 父の短い返事。

 母の位牌。

 庭の柿の木。


 何も特別ではないものが、晴臣の人生の底にあった。


 だからこそ、失うことなど考えたこともなかった。


 食事を終えると、晴臣は食器を片付けた。父は祭りへ持っていく法被を奥の部屋から出している。町内の手伝いに出るらしい。


「父さんも南宮へ?」


「午前中だけな。午後は家に戻る」


「北宮には近づかない?」


「近づかん」


「徹底してるね」


「年寄りの言うことは聞いておくもんだ」


「父さん、年寄りってほどじゃないだろ」


「お前から見ればな」


 父は法被を羽織り、鏡の前で襟を直した。古い法被だが、きちんと洗われ、畳まれていた。背中には奥木南照宮の祭紋が染め抜かれている。


 晴臣はふと尋ねた。


「父さんは、双柱大祭って好き?」


 父は襟を整える手を止めた。


「好きか嫌いかで言えば、好きではない」


「意外だな。毎回手伝ってるのに」


「手伝うのと好きなのは違う」


「どうして好きじゃない?」


 父はしばらく黙っていた。


 窓の外で、遠く太鼓の音が鳴った。柱を曳く掛け声が、風に乗って小さく届く。


「祭りの年は、人が変わる」


「人が?」


「ああ。普段は隠していることが、少し出る。欲も、見栄も、恨みも、昔の話もな」


「それは祭りだからじゃなくて、人が集まるからだろ」


「そうかもしれん」


 父は鏡越しに晴臣を見た。


「だが、柱の年には、消える者もいる」


 晴臣は、言葉を失った。


「消える?」


「昔の話だ」


「誰が?」


「知らん」


「また知らない」


「名前が残っていないから、知らん」


 父はそう言って、法被の帯を締めた。


「だから消えたんだろう」


 部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。


 晴臣は父の背中を見ていた。法被の祭紋。その下に丸まった肩。いつもと同じ父なのに、その言葉だけが不意に別の場所から来たようだった。


「父さん」


「なんだ」


「おじいちゃんは、何か知ってたのかな」


「知っていたかもしれんし、知らなかったかもしれん」


「水科家は北宮と関係がある?」


 父は振り向いた。


 その目が、わずかに細くなった。


「誰に聞いた」


「誰にも。研究してると、うちの名字が古い記録に少し出てくるんだ。祭祀の下役みたいな形で」


「なら、それ以上掘るな」


 即答だった。


「どうして?」


「掘って出てくるものが、必ず宝とは限らん」


「それは研究者に言う台詞じゃない」


「父親として言ってる」


 晴臣は黙った。


 父はそれ以上説明しなかった。


 水科家の姓が奥木の古い祭礼記録に出てくることを、晴臣は以前から気にしていた。大きな役目ではない。神主でも社家でもない。ただ、北宮の祭具を運ぶ者、逆柱(さかばしら)の道を清める者、そうした端役として、水科の名が数度だけ現れる。


 研究者としては、興味を持たない方がおかしい。


 だが、父の顔を見ると、それを口に出す気が少し萎えた。


「分かった。今日は聞かない」


「今日だけか」


「とりあえず」


「お前は本当に面倒な子だ」


「もう二十九だけど」


「子は子だ」


 父はそう言った。


 晴臣は不意に胸が詰まった。


 父にとって、自分はいつまでも子なのだろう。奥木を出て、大学へ進み、研究者になり、婚約者を得ても、それは変わらない。


 晴臣はその事実を、少し窮屈に感じ、同じくらいありがたく思った。


 玄関で靴を履くと、父が後ろから声をかけた。


「晴臣」


「うん」


「北宮で何か見ても、全部を信じるな」


 晴臣は振り返った。


「見るって、何を?」


「分からん」


「父さん」


「分からんが、そう思った」


 父はまっすぐ晴臣を見ていた。


「見えるものが、本当とは限らん。見えなかったものが、嘘とも限らん。お前は頭がいいから、見えたものにすぐ意味をつける、気をつけろ、意味をつけたものは、今度はこっちを見るようになる」


「こっちを見る?」


「だから意味をつけるな」


「研究者はそういう仕事だから」


「今日はするな」


 晴臣は少し笑った。


「難しい注文だね」


「お前には難しいだろうな」


 父は真顔で言った。


 晴臣は返事に困り、結局、頷いた。


「気をつける」


「それでいい」


 父は玄関の外まで見送りに出た。


 朝の光が、家の前の細い道に差している。遠くから祭りの音が近づいたり遠ざかったりしていた。奥木湖の方角から、湿った風が吹く。


 晴臣は一歩出て、振り返った。


「夜、美月と来るよ」


「ああ。赤飯を炊いておく」


「焦がさないで」


「焦げても食え」


「美月に出すんだろ」


「……気をつける」


 晴臣は笑った。


 父もほんの少し笑った。


 その表情を、晴臣は後に何度も思い出すことになる。


 玄関先に立つ父。

 古い法被。

 丸い背中。

 不器用な笑み。

 赤飯を炊いて待つと言った声。


 そのどれもが、あまりにも日常だった。


 だから晴臣は、別れの挨拶らしいことなど何も言わなかった。


「行ってきます」


「ああ。行ってこい」


 それだけだった。


 晴臣は水科家を出た。


 道を下れば、奥木湖が見える。南宮の方角から、祭りの準備の音が響いている。祭りはさらに大きくなっていく。


 晴臣は胸元に手を当てた。


 内ポケットの守り袋が、布越しに小さく触れた。


 古びたもの。

 祖父から父へ、父から晴臣へ渡されたもの。

 意味の分からないもの。


 それでも、持っているだけで少し体が重くなる気がした。


 奥木湖の水面は、朝日に照らされて光っていた。


 南の光は明るい。


 だが、北の森だけはまだ暗かった。


 晴臣はその暗さを見ないようにして、南宮へ向かった。

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