一 湖に柱が立つ日
巌窟王が大好きです。
デュマの名作をトレースした作品です。
奥木湖には、朝霧がよく似合う。
山の端からまだ陽が差しきらない時刻、湖面は白く沈み、対岸の森は墨を含ませた紙のように輪郭を失っていた。水鳥の声が一つ、霧の奥から鳴る。返事はない。ただ、湖のどこかで水が小さく揺れた。
奥木郷の者は、昔から湖を「見る」とは言わない。
湖に「見られる」と言う。
子どもの頃、水科晴臣はその言い方が嫌いだった。湖は水であり、空を映すだけのものだ。こちらを見るはずがない。そう父に言うと、父は笑って、湖に背を向けて暮らせる者だけがそう言えるのだ、と答えた。
その意味が少し分かるようになったのは、晴臣が奥木を離れ、大学で古代祭祀を学ぶようになってからだった。
人は、水に何かを沈める。
神を沈める。
祈りを沈める。
罪を沈める。
忘れたい名を沈める。
そして沈めた者ほど、水面を恐れる。
十四年に一度の双柱大祭の朝、奥木湖はいつもより静かだった。
湖の南岸では、夜明け前から人が集まっていた。奥木南照宮へ続く参道には、町内の法被を着た男たちが並び、太い綱を肩にかけている。綱の先には、山から伐り出された巨木が横たわっていた。
ただの木ではない。樹皮を剥がれ、節を削られ、根元に朱の印を打たれたそれは、すでにどこか人の手を離れたもののように見えた。眠っている獣のようでもあり、祭壇に運ばれる骸のようでもあった。
「引けえ!」
掛け声が朝霧を裂いた。
何十人もの男たちが一斉に綱を引く。柱は重く軋み、湿った参道を削るように、わずかに前へ動いた。その瞬間、参道の両側から歓声が上がる。子どもが跳ね、老人が手を叩き、観光客がスマートフォンを掲げる。
奥木郷にとって、双柱大祭は単なる祭りではない。
子どもはこの祭りを見て大人になり、大人はこの祭りを境に人生を数える。十四年前には誰が生まれた、十四年前には誰が死んだ、十四年前には家を建てた、別れた、戻った、許した。
奥木では、人生の大きな出来事は、たいてい柱の年に起こると言われている。
表の祭りは、南にある。
南宮では柱を立てる。光を迎える。人を集める。神を祝う。鳥居の前には屋台が並び、観光協会の幟が立ち、町長や県議、地元企業の役員が晴れやかな顔で挨拶をする。
一方、湖の北側は朝になっても霧が濃い。
北宮へ向かう道には、早くから注連縄が張られていた。観光客が迷い込まないように、という説明はある。だが、奥木の者は知っている。あれは迷い込ませないための縄ではない。
見てはならないものを、見せないための縄だ。
奥木坐二柱神社。
南の奥木南照宮。
北の奥木北鎮宮。
二つで一つの社とされるが、奥木の人間はその二つを同じものとしては扱わない。南宮は人が集まる場所。北宮は人が口を閉ざす場所。
南で祀り、北で鎮める。
湖を挟んで、奥木郷は二つの顔を持っていた。
水科晴臣は、南宮の参道から少し外れた石段に立ち、湖の北を見ていた。
二十九歳。大学の研究員としては若い。だが、奥木郷ではすでに「水科先生」と呼ばれることが増えていた。古代史、山岳祭祀、自然信仰。そんなものを専門にしている若者は、地元の者には妙にありがたく見えるらしい。
晴臣自身は、その呼び方にいつも少し居心地の悪さを覚えていた。
自分は先生などではない。
ただ、見過ごされてきたものが気になるだけだ。
手帳を開き、晴臣は短く書きつけた。
南宮、立柱。北宮、逆柱。
湖を挟む祭祀軸。
十四年周期。
北岸、霧残る。
禁足地、本日午後確認。
そこまで書いた時、背後から声がした。
「また北宮を見てる」
振り向くと、秦美月が立っていた。
白い上着に、薄桃色の帯留め。祭りの朝に合わせた装いなのだろうが、派手ではない。美月は昔からそうだった。目立つ色を選ばないのに、不思議と人目を引く。
晴臣は手帳を閉じた。
「見てただけだよ」
「嘘。あなたの“見てただけ”は、だいたい考え事をしてる時」
「そんなことないよ?」
「私にはわかる。眉間に少し皺が寄る」
美月は自分の眉間を指先で示した。
晴臣は苦笑する。
「職業病かな」
「性格だと思う」
そう言って、美月は晴臣の隣に並んだ。二人で湖の北を見る。南岸の喧騒が嘘のように、対岸は黙っていた。
「北宮って、子どもの頃から苦手」
「どうして?」
「静かすぎるから。南宮は人がいる感じがするけど、北宮は……人がいなくなった後の感じがする」
晴臣は、すぐには返事をしなかった。
美月の言葉は学術的ではない。だが、妙に正確だった。
人がいる場所。
人がいなくなった後の場所。
南宮と北宮の違いを、これほど短く言える人間を、晴臣はほかに知らなかった。
「その感覚、よくわかるよ」
「また、適当な返事」
「そんなことないよ」
「今日は祭りの日でしょ。考え事は少し休んだら?」
美月が笑う。
晴臣は素直に頷いた。
「そうする」
「本当に?」
「できるだけ」
「できるだけ、ね」
美月は呆れたように笑ったが、その目には責める色はなかった。
太鼓の音が近づいてくる。柱がまた動いたのだろう。参道の奥で歓声が上がり、子どもたちが走っていく。屋台の油の匂いと、焚かれた榊の匂いが混じっていた。
晴臣は、その匂いが好きだった。
奥木を離れて何年も経つのに、祭りの朝の匂いだけは、体の奥に残っている。
「午後、北宮に行くんでしょ?」
美月が言った。
晴臣は頷く。
「教授に呼ばれてる。杜守文庫の出蔵で見つけた古い遺物の確認をすることになってる」
「遺物?」
「奥木の祭礼に関わるものかもしれないって。詳しいことはまだ聞いてない」
「危ないものじゃないよね」
「遺物が?」
「北宮にあるものって、なんでも少し怖いから」
晴臣は笑いかけたが、美月の顔が思いのほか真剣だったので、途中でやめた。
「大丈夫。教授もいるし」
「ならいいけど」
「夕方までには戻る。立柱、一緒に見る約束だろ」
「忘れてなかったんだ」
「忘れるわけない」
美月は一瞬だけ晴臣を見た。
その目に、安堵とも寂しさともつかないものが浮かんだ。
「じゃあ、信じる」
「ずいぶん大げさだな」
「あなたは仕事のことになると、時間を忘れるから」
「今日は忘れない」
「絶対?」
「絶対」
美月はようやく笑った。
その笑顔を見て、晴臣は少しだけ胸が詰まった。理由は分からなかった。幸せなはずの朝に、不意に何かを失う前のような心細さが差し込んだ。
晴臣は、その感覚をすぐに打ち消した。
今日は祭りの日だ。
夜には、美月と柱曳きを見る。
明日になれば、また仕事の話をして、父の家に寄り、婚約の段取りを少しずつ進める。
これから先も、そんな日が続くはずだった。
午前八時を過ぎる頃、南宮の参道はさらに人で埋まった。
奥木町観光協会の幟が立ち、社務所の前には奉賛企業の名札が掲げられている。湖畔の旅館は満室で、駅前の土産物屋では菓子や酒が飛ぶように売れていると聞いた。
奥木郷にとって、祭りは信仰であり、観光であり、金でもある。
晴臣はその賑わいの向こうに、見慣れた男の姿を見つけた。
守部冬真だった。
白いシャツに紺のジャケット。地元の文化財団の若手理事として、報道陣の前で柔らかく笑っている。昔から人に見られることが上手い男だった。子どもの頃は、それをただ愛想がいいのだと思っていた。今は少し違う。
冬真は、自分がどの角度から見られているかを、常に知っている。
冬真は晴臣に気づくと、人の輪を抜けて近づいてきた。
「晴臣。朝から考え事か」
「冬真こそ、朝から広報担当みたいだな」
「実際、そういう役回りだよ。奥木のために顔を売れってさ」
冬真は冗談めかして肩をすくめた。
その視線が、美月へ移る。
「美月も来てたんだ」
「うん。晴臣が北宮ばかり見てるから、連れ戻しに来たの」
「それは大仕事だ」
三人は笑った。
傍から見れば、幼馴染の気安いやり取りにしか見えない。
だが晴臣は、冬真の笑みの奥に一瞬だけ硬いものを見た。美月を見る時だけ、冬真の目はわずかに変わる。昔からそうだったのかもしれない。晴臣が気づかなかっただけで。
「午後、北宮に入るんだって?」
冬真が言った。
「ああ。少しだけ」
「気をつけろよ。北は最近、またうるさいらしい」
「うるさい?」
「杜守文庫の連中だよ。外の研究者を入れるなって」
「僕は外じゃない」
「大学の人間になった時点で、向こうから見れば外だろ」
冬真の口調は軽い。
だが、その言葉は妙に耳に残った。
大学の人間になった時点で、外。
奥木に生まれたからといって、奥木の内側にいるとは限らない。
そう言われた気がした。
「教授も一緒だ。問題ないよ」
「ならいいけど」
冬真はまた笑った。
「夜は婚約の祝いも兼ねるんだろ。主役が北で迷子になったら困る」
美月が少し頬を赤くした。
「冬真、声が大きい」
「いいじゃないか。めでたい話だ」
冬真はそう言いながら、晴臣の肩を軽く叩いた。
「おめでとう、晴臣」
「ありがとう」
晴臣も笑った。
その時、冬真の掌が妙に冷たいと思った。
昼近くになると、湖面の霧は消え、奥木湖は青く広がった。南宮の柱は少しずつ参道へ近づき、人々の熱気は増していた。
晴臣は一度、美月と別れた。
約束は夕方。
夕方の柱立を一緒に見ること。
それまでに、北宮での確認を終えるつもりだった。
「本当に、少しだけだから」
晴臣がそう言うと、美月は不満そうに唇を尖らせた。
「その“少しだけ”が、あなたの場合は信用できない」
「今日は戻るよ」
「絶対?」
「絶対」
美月はしばらく晴臣を見ていた。
その目が、ふと湖の北へ移る。
南岸はこれほど賑やかなのに、湖の向こうだけは、まるで霧がまだ残っているように暗かった。
「ねえ、晴臣」
「うん?」
「北宮の遺物ってどんなものなの?」
「まだ分からない。祭具か、古い石の器かもしれないって話だけど」
「祭具?」
美月の声が、わずかに硬くなった。
晴臣はそれに気づいた。
「どうかした?」
「ううん。ただ……北宮の祭具って、なんだか嫌だなって思っただけ」
「嫌?」
「うまく言えないけど、南宮の祭具なら分かるの。神様に光を返すものって感じがする。でも北宮のは、こっちを見るためじゃなくて、向こうから見られるためのものみたい」
晴臣は黙った。
その言葉は、手帳に書き留めたいほど奇妙で、的を射ていた。
向こうから見られるための祭具。
「すぐ戻る」
晴臣はもう一度言った。
「夜は一緒に見る。約束する」
美月は頷いた。
「破ったら、怒るから」
「分かってる」
太鼓の音が南宮から響いた。柱が大きく動いたのだろう。歓声が上がり、子どもたちが走っていく。美月もそちらへ視線を向けた。
晴臣は、その横顔を見た。
白い上着。薄桃色の帯留め。祭りの朝の光。
湖の風に揺れる髪。
それを、覚えておこうと思った。
理由は分からなかった。
ただ、その時の美月を、なぜか強く記憶に留めておきたいと思った。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。待ってる」
美月は笑った。
晴臣も笑い返した。
それが、二人が何も知らずに交わした最後の穏やかな約束になった。
晴臣が南宮を離れると、祭りの音は背中の方へ遠ざかっていった。湖を回り込む道の先に、北宮の森がある。
黒い鳥居は、まだ見えない。
けれど晴臣には、湖の向こうから何かがこちらを見ているような気がした。
奥木湖の水面に、一筋の黒い光が走った。
風のせいだろうと、晴臣は思った。
そう思って、歩き出した。




