十九 冬真の傘
朝になっても、晴臣は戻らなかった。
南宮会館の畳には、夜の匂いが残っていた。酒、煮物、濡れた法被、消えた火の灰。祝いの膳は片付けられていたが、柱立の余韻はどこにもなかった。柱は外に立っている。立っているのに、もう誰も見上げていない。
美月は、会館の玄関脇に座っていた。
眠っていない。
泣いてもいない。
ただ、体の奥から音が消えたようだった。
夜のあいだに、何度も同じ説明を聞かされた。
黒沢先生が亡くなった。
水科晴臣は事情を聞かれるため、警察署へ向かった。
その途中で、所在が分からなくなった。
まだ断定はしない。
確認中である。
藤原匡親は、そう言った。
逃げたとは言わなかった。
誰も、はっきりとは言わなかった。
だが、言わない言葉ほど早く広がる。
朝になる頃には、南宮会館の廊下にも、境内にも、参道の端にも、その言葉は薄く敷かれていた。
水科晴臣は、逃げたらしい。
美月はそれを聞くたび、顔を上げた。
違う。
そう言いたかった。
けれど、誰に言えばいいのか分からなかった。
言えば、また誰かが困った顔をする。
断定していません。
確認中です。
お気持ちは分かります。
どの言葉も、美月の手を取らない。取らないまま、少しずつ離れていく。
晴臣は、戻ると言った。
後で必ず話す、と言った。
その声は、まだ耳に残っている。
美月は何度も、会館の入口を見た。玄関の引き戸が開き、晴臣が入ってくるのではないかと思った。少し疲れた顔で、悪かった、と言うのではないかと思った。
だが、戸は開かなかった。
開くたびに入ってくるのは、神社関係者や警察官や、事情を知りたがる近所の人だけだった。
「美月」
母の声がした。
秦澄江は、会館の廊下の向こうから歩いてきた。
紺の上着を羽織り、髪を後ろで結んでいる。祭りの朝にはきちんと整えていた髪が、今は少し乱れていた。顔には疲れが出ていたが、目だけははっきりしていた。
澄江は、美月の隣に膝をついた。
「家に帰ろう」
「晴臣が」
「分かってる」
「戻ってくるかもしれない」
「だから、ここにいちゃ駄目」
美月は母を見た。
澄江は、美月の手を取った。
指先が冷えていた。
「ここにいても、あなたには何も教えてくれない。晴臣君のお父さんのところへ行こう。あの人も一人で待っている」
「でも、警察が」
「警察の話は、警察から聞けばいい。藤原さんの口からだけ聞いてはいけない」
その言葉に、美月は小さく息を呑んだ。
母が藤原を疑うようなことを言うのは、初めてだった。
「お母さん、何か知ってるの?」
「知らない」
澄江はすぐに言った。
「知らないから、決めちゃいけない。晴臣君が自分の口で話すまで、あなたは何も決めなくていい」
美月の目に、ようやく涙が浮かんだ。
「でも、みんな……」
「みんなは、あなたの代わりに待ってくれない」
澄江は静かに言った。
「待つのは苦しいよ。けれど、苦しいからといって先に諦めると、後で自分を許せなくなる」
美月は俯いた。
母の手は冷たい。
けれど、その冷たさだけが、朝の会館の中で確かなものだった。
少し離れた場所で、守部冬真は二人を見ていた。
声は聞こえていた。
美月に近づく機会を、冬真は夜のうちから何度も探していた。
会館の廊下で。
玄関の前で。
警察官が入れ替わる隙に。
泣き出しそうな美月の横に立ち、肩に手を添え、落ち着いて、と言う。
それは自然なことだった。
誰も不自然には思わない。
昨夜から冬真は、そういう位置にいた。
美月を守る男。
美月を支える男。
晴臣がいない場所で、美月のそばにいても許される男。
だが、澄江がいる。
澄江は冬真を見ていた。
昨夜、美月の肩に手を置いた時も。
晴臣との間に入った時も。
藤原の説明に合わせて、美月を休ませようとした時も。
澄江は、何も言わずに見ていた。
その目が、冬真には不快だった。
責められているわけではない。
問い詰められているわけでもない。
ただ、見透かされている様に感じた。
それが一番厄介だった。
「冬真さん」
澄江が顔を上げた。
冬真はすぐに表情を整えた。
「はい」
「少し、話せますか」
美月が不安そうに母を見た。
澄江は、美月の手を軽く握った。
「すぐ戻るから」
冬真は頷いた。
二人は会館の裏へ出た。
朝の空は重かった。
祭りの翌朝とは思えないほど雲が低く、細い雨が降り始めていた。会館裏の通路には、使い終わった長机や折り畳み椅子が壁際に寄せられている。排水路に水が流れ、泥と落ち葉を押していた。
澄江は軒下で立ち止まった。
「あなたは、賢い人ね」
冬真は曖昧に笑った。
「急にどうされました」
「人がどう見ているか、よく分かっている」
「そうでしょうか」
「分かっているでしょう。美月の前で、あなたがどう立てばいいかも」
冬真の笑みが、少しだけ遅れた。
澄江は続けた。
「昨夜から、あなたはずっと美月のそばにいる。心配してくれているのは分かる。でも、近すぎる」
「僕はただ」
「晴臣君がいない場所に、あなたが入り込もうとしているように見える」
雨の音が、軒先で細かく鳴った。
冬真は、ゆっくり息を吸った。
「そんなつもりはありません」
「つもりは、本人にも見えないことがある」
「僕はそんなつもりじゃ…」
「責めているわけじゃない」
澄江の声は静かだった。
「でも、美月は今、弱っている。晴臣君を信じたいのに、周りの声に削られている。そこへ優しい言葉をかけられたら、寄りかかってしまう」
「それの何が悪いんです」
言った後で、冬真は自分の声が少し強すぎたことに気づいた。
澄江も気づいた。
冬真はすぐに表情を戻した。
「すみません。僕も動揺していて」
「冬真さん」
澄江は冬真をまっすぐ見た。
「美月には、晴臣君を待たせます」
冬真の胸の奥で、何かが冷えた。
「晴臣は、警察車両からいなくなったと聞きました」
「聞きました」
「黒沢先生の件もあります」
「承知しています」
「それでも?」
「それでもです」
澄江は言った。
「晴臣君が自分の口で美月に話すまで、私は美月に諦めさせない」
冬真は、雨の向こうの排水路を見た。
水が流れている。
南宮の火が消えた後も、水だけは動いている。
「もし、戻らなかったら」
「その時は、その時に考える」
「美月が壊れます」
「壊れるかどうかを、あなたが決めないで」
短い言葉だった。
だが、冬真の中の何かを確かに刺した。
あなたが決めないで。
それは、冬真がずっとしたかったことだった。
美月のそばにいる者を決めること。
美月が誰を待つかを決めること。
美月がどこで泣き、誰に寄りかかるかを決めること。
晴臣が奥木から消えた今、ようやくその場所が空いたと思った。
だが、澄江がいる。
この女は、美月に待てと言う。
晴臣を待てと言う。
晴臣の父の家へ行こうと言う。
それだけは困る。
水科昭三と秦美月が繋がれば、美月は晴臣を待ち続ける。晴臣の不在は、逃亡ではなく、奪われた空白になる。美月は泣きながらでも、水科家の戸を叩くだろう。
そうなれば、冬真はいつまでも晴臣の代わりになれない。
「澄江さん」
冬真は声を落とした。
「今、水科家へ行くのはやめた方がいいと思います。警察も捜査している。余計な接触と思われるかもしれない」
「余計かどうかは、私が決めます」
「美月の名前も出る」
「だから何ですか」
「口裏合わせだと思われるかもしれない」
澄江は冬真を見た。
「その言葉を、誰から聞いたの?」
冬真は黙った。
言葉が先に出た。
藤原の言葉か。
自分の言葉か。
もう分からない。
澄江は小さく息を吐いた。
「あなたまで、そんな言い方をするのね」
「美月を守るためです」
「違う」
澄江ははっきり言った。
「あなたは、美月を守る顔で、美月を晴臣君から離そうとしている」
冬真は、返事をしなかった。
雨が少し強くなった。
澄江は会館裏の通路を抜けた。
細い雨は、さっきよりも肩に残る。屋根のない場所へ出ると、すぐに上着が湿った。南宮会館の裏から駐車場へ下りるには、古い石段を使う必要があった。
上から下まで、三メートルほどの高低差がある。
普段なら、何でもない階段だった。
けれど祭りの翌朝、そこには泥が残っていた。法被姿の男たちが夜のうちに何度も行き来し、雨がその泥を薄く伸ばしていた。石段の角は濡れて黒く光り、端の排水路から溢れた水が一段目を斜めに横切っている。
澄江は足元を見た。
それから、会館の方を一度振り返った。
「美月を連れて、水科さんの家へ行きます。あなたは来なくていい」
冬真は、その背中を追った。
「待ってください」
澄江は止まらない。
「澄江さん。僕は、本当に美月を心配しているんです」
「分かっています」
「分かっていません」
冬真の声が、少しだけ乱れた。
澄江は石段の一番上で立ち止まった。
雨が、二人の間に落ちる。
「冬真さん」
澄江は振り返った。
「美月を心配しているなら、今は晴臣君から離そうとしないで」
「晴臣は、戻らないかもしれない」
「それでも、待たせます」
「待って、どうなるんですか」
冬真は一歩近づいた。
「黒沢先生は亡くなった。晴臣は警察に向かう途中でいなくなった。みんなが疑っている。美月がどれだけ傷つくか、分かってるんですか」
「分かっています」
「分かっているなら」
「だから、あなたに決めさせない」
澄江の声は静かだった。
だが、その静けさが冬真の中を削った。
あなたに決めさせない。
その言葉が、冬真の胸の奥に残った。
美月が誰を待つか。
誰に寄りかかるか。
誰の言葉を信じるか。
それを決められない。
晴臣がいなくなっても、まだ決められない。
澄江がいる限り、美月は水科家へ行く。昭三の前で泣く。晴臣を待つ。晴臣の不在は、逃げた男の空白ではなく、奪われた男の空白になる。
それだけは、困る。
冬真はそう思った。
思ってしまった。
「一度だけ、聞いてください」
冬真はさらに近づいた。
澄江は石段に背を向ける形で立っていた。後ろには濡れた階段がある。冬真には、それが見えていた。石の角が黒く濡れていることも、上から下まで一気に落ちればただでは済まないことも、分かっていた。
分かっていたのに、足は止まらなかった。
「僕は、美月を不幸にしたくないんです」
「なら、今は美月に近づかないで」
澄江は言った。
その言葉で、冬真の中の何かが外れた。
怪我でもすればいい。
一日でも、二日でも、動けなくなればいい。
水科家へ行かなければいい。
晴臣を待てと言えなくなればいい。
ここで澄江を押したことなど、後でどうとでも言える。
冬真は自分を止めようとした。
でも、手は前に伸びていた。
指が上着の布を捉えた瞬間、冬真はほんの少し力を入れた。
それは、あまりに簡単だった。
澄江の体が傾いた。
雨だった。
石段が濡れていた。
澄江の体が傾いた。
「あ」
澄江の声が、小さく漏れた。
足が石段の端を探した。
見つからなかった。
濡れた靴底が滑り、体が後ろへ落ちる。
我に返った冬真は手を伸ばした。
だが、遅かった。
澄江の手が空を掴み、体が石段を転がり落ちた。
一段。
二段。
雨音の中に、鈍い音が混じる。
最後に、階段下の石畳へ落ちた音がした。
冬真は動けなかった。
自分の手を見ていた。
指先に、澄江の上着の感触が残っている。
押した。
確かに、押した。
殺すつもりはなかった。
そう思った。
だが、殺すつもりがなかったことは、押したことを消さない。
石段の下で、澄江は動かなかった。
雨が髪に落ちている。
頬に落ちている。
手が不自然な角度で投げ出されていた。
冬真は、一歩下りようとして、足を止めた。
早く手当をしなければ。
そう思った。
だが、同時に、別の声がした。
これで、美月は水科家へ行けない。しかも、今、手当したら押したことがバレるかもしれない。
冬真は、その声を聞いてしまった。
聞いた自分を、否定できなかった。
「澄江さん」
ようやく声が出た。
小さすぎた。
誰にも届かない。
冬真は息を吸い直した。
「澄江さん!」
今度は大きく叫んだ。
会館の中から人の気配がした。
冬真は石段を駆け下りた。
慎重に。
滑らないように。
その慎重さに、自分で気づき、喉が詰まった。
「誰か! 来てください!」
叫び声は、正しく響いた。
氏子が走ってくる。
婦人たちが悲鳴を上げる。
誰かが救急車を呼べと言う。
冬真は澄江のそばに膝をついた。
肩に触れる。
雨で濡れていた。
冷たい。
「滑ったんです」
冬真は言った。
誰に聞かれたわけでもない。
それでも、先に言った。
「石段で、急に。僕が止めようとしたんですが」
半分は本当だった。
止めようとした。
最後には。
ただ、その前に押した。
その一瞬だけが、どこにも入っていない。
入れなければ、なかったことになる。
冬真は、そう考えている自分に気づいた。
そして、その考え方が藤原に似ていることにも気づいた。
美月が駆けてきた。
「お母さん!」
その声で、冬真の体が震えた。
美月は石段を降りようとして、誰かに止められた。雨に濡れ、髪が頬に貼りついている。顔は白く、目だけが大きく開いていた。
冬真は立ち上がった。
今度は迷わなかった。
美月の方へ行き、肩を支えた。
「美月、見ない方がいい」
「離して!」
「救急車を呼んでる。今は近づかない方がいい」
「お母さん!」
美月は冬真の腕の中で暴れた。
冬真は強く抱きとめた。
周囲から見れば、それは支えているようにしか見えなかった。
母を見て取り乱す娘を、幼馴染の男が必死に支えている。
誰も不自然には思わない。
冬真は、そのことを理解してしまった。
理解した自分を嫌悪した。
だが、腕は緩めなかった。
救急車が来るまでの時間は長かった。
澄江は息をしていた。
死んではいなかった。
そのことに、周囲は安堵した。
冬真も安堵した。
だが、その安堵の底に、別のものが沈んでいた。
死んでいない。
ならば、話すかもしれない。
冬真はそう思い、すぐにその考えを打ち消した。
そんなことを考えるな。
そう思った。
けれど、考えは消えなかった。
病院の廊下は白かった。
祭りの匂いも、雨の匂いもない。消毒液と湿った服の匂いだけがあった。
美月は椅子に座り、両手を膝の上で握っていた。震えているのに、泣いていない。
冬真は少し離れて立っていた。
近づきすぎない。
だが、離れすぎない。
呼ばれれば届く距離。
それが今、自分に許された位置だと分かっていた。
医師が出てきた時、美月は立ち上がれなかった。
冬真が支えた。
医師は言葉を選んだ。
命は取り留めた。
だが、頭を強く打っている。
意識が戻るかは分からない。
長くかかる可能性がある。
美月は、その説明を聞いても泣かなかった。
ただ、冬真の腕の中で力を失った。
母は死んでいない。
けれど、もう美月に待ちなさいとは言えない。
その事実が、美月の中でゆっくり沈んでいく。
晴臣は戻らない。
黒沢は死んだ。
母は目を覚まさない。
待てと言った人が、もう答えてくれない。
冬真は、美月を椅子へ座らせた。
その手は丁寧だった。
誰が見ても、支えている男の手だった。
だが、雨に濡れた指先には、まだ澄江の上着の感触が残っていた。
その感触は、その後何年も消えなかった。
澄江の転落は、事故として処理された。
雨。
濡れた石段。
祭りの疲労。
足を滑らせた母。
助けようとした冬真。
そう並べれば、すべては自然だった。
ただ一つ。
背中に触れた冬真の手だけが、どの紙にも書かれなかった。
その夜、美月は水科家へ行けなかった。
行くはずだった。
母はそう言った。
晴臣を待つなら、水科昭三のところへ行こうと。
けれど、母は病院の白い部屋で眠っていた。
眠っているだけに見えた。
呼べば目を開けるのではないかと思った。
美月は何度も母の手を握った。
母は握り返さなかった。
親戚が集まり、父が戻り、警察や病院の手続きが重なった。誰もが慌ただしく動いていたが、美月だけは取り残されていた。
昨日まであったものが、一日で三つ消えた。
晴臣。
黒沢。
母の声。
そのどれにも、美月は追いつけなかった。
冬真は何も急がなかった。
晴臣の話を、冬真からはしなかった。
母の事故を利用するような言葉も言わなかった。
ただ、必要な時にそこにいた。
病院の受付。
親戚への連絡。
車の手配。
濡れた上着の替え。
美月の父が崩れそうになった時の支え。
すべて、目立たない範囲でやった。
美月が何かを探すように顔を上げるたび、冬真は少し離れたところにいた。
呼べば届く距離に。
その距離が、やがて美月の中で当たり前になっていくことを、冬真は知っていた。
知っていて、そこに立った。
夜遅く、病院の玄関を出ると、雨はまだ降っていた。
細い雨だった。
美月は傘を持っていなかった。
冬真は黒い傘を開いた。
「美月」
美月は反応しなかった。
「濡れる」
それだけ言った。
美月は少し遅れて、傘を見た。
そして、何も言わずにその下へ入った。
冬真は傘を傾けた。
美月が濡れないように。
自分の肩が濡れるように。
そうすれば、誰が見ても、冬真は優しい男に見える。
美月は前を見ていた。
その目に、もう強い抵抗はなかった。
諦めではない。
まだ信じたい気持ちは残っている。
晴臣の声も、母の言葉も、胸の奥にある。
けれど、それらを支える力が、一日で削られすぎた。
待ちなさい。
母はそう言った。
その母はもう答えない。
晴臣は戻らない。
戻ると言った人は、戻らない。
待てと言った人も、戻らない。
美月は傘の柄を見つめた。
冬真の手がそこにある。
白く、濡れて、強く握られている。
「僕がいる」
冬真は言った。
美月は答えなかった。
その沈黙を、冬真は拒絶とは受け取らなかった。
答えられないほど壊れている。
今はそれでいい。
言葉を返される必要はない。
隣に立つことを拒まれなければ、それでいい。
冬真は、美月の歩幅に合わせて歩いた。
雨は細く、長く降り続いている。
南宮の柱は、遠くで黒く立っている。
水科家では、昭三がまだ戸を開けたまま、息子を待っているだろう。
奥木の外では、晴臣がどこかへ運ばれている。
美月はそれを知らない。
冬真も知らない。
ただ、冬真だけは分かっていた。
晴臣が戻らない時間が長くなればなるほど、自分の立つ場所は固まっていく。
帰ってくることを恐れながら。
帰らないことを望みながら。
冬真は、傘をさらに美月の方へ傾けた。
美月は何も言わず、その傘の下を歩いた。
母の声は、もう雨の向こうに遠ざかっていた。
待ちなさい。
その言葉だけが、濡れた石段の上に取り残されていた。
そして、冬真の指先には、誰にも見えないまま、押した感触だけが残り続けた。




