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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
存在消失

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19/20

十九 冬真の傘

 朝になっても、晴臣は戻らなかった。


 南宮会館の畳には、夜の匂いが残っていた。酒、煮物、濡れた法被、消えた火の灰。祝いの膳は片付けられていたが、柱立の余韻はどこにもなかった。柱は外に立っている。立っているのに、もう誰も見上げていない。


 美月は、会館の玄関脇に座っていた。


 眠っていない。


 泣いてもいない。


 ただ、体の奥から音が消えたようだった。


 夜のあいだに、何度も同じ説明を聞かされた。


 黒沢先生が亡くなった。


 水科晴臣は事情を聞かれるため、警察署へ向かった。


 その途中で、所在が分からなくなった。


 まだ断定はしない。


 確認中である。


 藤原匡親は、そう言った。


 逃げたとは言わなかった。


 誰も、はっきりとは言わなかった。


 だが、言わない言葉ほど早く広がる。


 朝になる頃には、南宮会館の廊下にも、境内にも、参道の端にも、その言葉は薄く敷かれていた。


 水科晴臣は、逃げたらしい。


 美月はそれを聞くたび、顔を上げた。


 違う。


 そう言いたかった。


 けれど、誰に言えばいいのか分からなかった。


 言えば、また誰かが困った顔をする。


 断定していません。


 確認中です。


 お気持ちは分かります。


 どの言葉も、美月の手を取らない。取らないまま、少しずつ離れていく。


 晴臣は、戻ると言った。


 後で必ず話す、と言った。


 その声は、まだ耳に残っている。


 美月は何度も、会館の入口を見た。玄関の引き戸が開き、晴臣が入ってくるのではないかと思った。少し疲れた顔で、悪かった、と言うのではないかと思った。


 だが、戸は開かなかった。


 開くたびに入ってくるのは、神社関係者や警察官や、事情を知りたがる近所の人だけだった。


「美月」


 母の声がした。


 秦澄江は、会館の廊下の向こうから歩いてきた。


 紺の上着を羽織り、髪を後ろで結んでいる。祭りの朝にはきちんと整えていた髪が、今は少し乱れていた。顔には疲れが出ていたが、目だけははっきりしていた。


 澄江は、美月の隣に膝をついた。


「家に帰ろう」


「晴臣が」


「分かってる」


「戻ってくるかもしれない」


「だから、ここにいちゃ駄目」


 美月は母を見た。


 澄江は、美月の手を取った。


 指先が冷えていた。


「ここにいても、あなたには何も教えてくれない。晴臣君のお父さんのところへ行こう。あの人も一人で待っている」


「でも、警察が」


「警察の話は、警察から聞けばいい。藤原さんの口からだけ聞いてはいけない」


 その言葉に、美月は小さく息を呑んだ。


 母が藤原を疑うようなことを言うのは、初めてだった。


「お母さん、何か知ってるの?」


「知らない」


 澄江はすぐに言った。


「知らないから、決めちゃいけない。晴臣君が自分の口で話すまで、あなたは何も決めなくていい」


 美月の目に、ようやく涙が浮かんだ。


「でも、みんな……」


「みんなは、あなたの代わりに待ってくれない」


 澄江は静かに言った。


「待つのは苦しいよ。けれど、苦しいからといって先に諦めると、後で自分を許せなくなる」


 美月は俯いた。


 母の手は冷たい。


 けれど、その冷たさだけが、朝の会館の中で確かなものだった。


 少し離れた場所で、守部冬真は二人を見ていた。


 声は聞こえていた。


 美月に近づく機会を、冬真は夜のうちから何度も探していた。


 会館の廊下で。


 玄関の前で。


 警察官が入れ替わる隙に。


 泣き出しそうな美月の横に立ち、肩に手を添え、落ち着いて、と言う。


 それは自然なことだった。


 誰も不自然には思わない。


 昨夜から冬真は、そういう位置にいた。


 美月を守る男。


 美月を支える男。


 晴臣がいない場所で、美月のそばにいても許される男。


 だが、澄江がいる。


 澄江は冬真を見ていた。


 昨夜、美月の肩に手を置いた時も。


 晴臣との間に入った時も。


 藤原の説明に合わせて、美月を休ませようとした時も。


 澄江は、何も言わずに見ていた。


 その目が、冬真には不快だった。


 責められているわけではない。


 問い詰められているわけでもない。


 ただ、見透かされている様に感じた。


 それが一番厄介だった。


「冬真さん」


 澄江が顔を上げた。


 冬真はすぐに表情を整えた。


「はい」


「少し、話せますか」


 美月が不安そうに母を見た。


 澄江は、美月の手を軽く握った。


「すぐ戻るから」


 冬真は頷いた。


 二人は会館の裏へ出た。


 朝の空は重かった。


 祭りの翌朝とは思えないほど雲が低く、細い雨が降り始めていた。会館裏の通路には、使い終わった長机や折り畳み椅子が壁際に寄せられている。排水路に水が流れ、泥と落ち葉を押していた。


 澄江は軒下で立ち止まった。


「あなたは、賢い人ね」


 冬真は曖昧に笑った。


「急にどうされました」


「人がどう見ているか、よく分かっている」


「そうでしょうか」


「分かっているでしょう。美月の前で、あなたがどう立てばいいかも」


 冬真の笑みが、少しだけ遅れた。


 澄江は続けた。


「昨夜から、あなたはずっと美月のそばにいる。心配してくれているのは分かる。でも、近すぎる」


「僕はただ」


「晴臣君がいない場所に、あなたが入り込もうとしているように見える」


 雨の音が、軒先で細かく鳴った。


 冬真は、ゆっくり息を吸った。


「そんなつもりはありません」


「つもりは、本人にも見えないことがある」


「僕はそんなつもりじゃ…」


「責めているわけじゃない」


 澄江の声は静かだった。


「でも、美月は今、弱っている。晴臣君を信じたいのに、周りの声に削られている。そこへ優しい言葉をかけられたら、寄りかかってしまう」


「それの何が悪いんです」


 言った後で、冬真は自分の声が少し強すぎたことに気づいた。


 澄江も気づいた。


 冬真はすぐに表情を戻した。


「すみません。僕も動揺していて」


「冬真さん」


 澄江は冬真をまっすぐ見た。


「美月には、晴臣君を待たせます」


 冬真の胸の奥で、何かが冷えた。


「晴臣は、警察車両からいなくなったと聞きました」


「聞きました」


「黒沢先生の件もあります」


「承知しています」


「それでも?」


「それでもです」


 澄江は言った。


「晴臣君が自分の口で美月に話すまで、私は美月に諦めさせない」


 冬真は、雨の向こうの排水路を見た。


 水が流れている。


 南宮の火が消えた後も、水だけは動いている。


「もし、戻らなかったら」


「その時は、その時に考える」


「美月が壊れます」


「壊れるかどうかを、あなたが決めないで」


 短い言葉だった。


 だが、冬真の中の何かを確かに刺した。


 あなたが決めないで。


 それは、冬真がずっとしたかったことだった。


 美月のそばにいる者を決めること。


 美月が誰を待つかを決めること。


 美月がどこで泣き、誰に寄りかかるかを決めること。


 晴臣が奥木から消えた今、ようやくその場所が空いたと思った。


 だが、澄江がいる。


 この女は、美月に待てと言う。


 晴臣を待てと言う。


 晴臣の父の家へ行こうと言う。


 それだけは困る。


 水科昭三と秦美月が繋がれば、美月は晴臣を待ち続ける。晴臣の不在は、逃亡ではなく、奪われた空白になる。美月は泣きながらでも、水科家の戸を叩くだろう。


 そうなれば、冬真はいつまでも晴臣の代わりになれない。


「澄江さん」


 冬真は声を落とした。


「今、水科家へ行くのはやめた方がいいと思います。警察も捜査している。余計な接触と思われるかもしれない」


「余計かどうかは、私が決めます」


「美月の名前も出る」


「だから何ですか」


「口裏合わせだと思われるかもしれない」


 澄江は冬真を見た。


「その言葉を、誰から聞いたの?」


 冬真は黙った。


 言葉が先に出た。


 藤原の言葉か。


 自分の言葉か。


 もう分からない。


 澄江は小さく息を吐いた。


「あなたまで、そんな言い方をするのね」


「美月を守るためです」


「違う」


 澄江ははっきり言った。


「あなたは、美月を守る顔で、美月を晴臣君から離そうとしている」


 冬真は、返事をしなかった。


 雨が少し強くなった。


 澄江は会館裏の通路を抜けた。


 細い雨は、さっきよりも肩に残る。屋根のない場所へ出ると、すぐに上着が湿った。南宮会館の裏から駐車場へ下りるには、古い石段を使う必要があった。


 上から下まで、三メートルほどの高低差がある。


 普段なら、何でもない階段だった。


 けれど祭りの翌朝、そこには泥が残っていた。法被姿の男たちが夜のうちに何度も行き来し、雨がその泥を薄く伸ばしていた。石段の角は濡れて黒く光り、端の排水路から溢れた水が一段目を斜めに横切っている。


 澄江は足元を見た。


 それから、会館の方を一度振り返った。


「美月を連れて、水科さんの家へ行きます。あなたは来なくていい」


 冬真は、その背中を追った。


「待ってください」


 澄江は止まらない。


「澄江さん。僕は、本当に美月を心配しているんです」


「分かっています」


「分かっていません」


 冬真の声が、少しだけ乱れた。


 澄江は石段の一番上で立ち止まった。


 雨が、二人の間に落ちる。


「冬真さん」


 澄江は振り返った。


「美月を心配しているなら、今は晴臣君から離そうとしないで」


「晴臣は、戻らないかもしれない」


「それでも、待たせます」


「待って、どうなるんですか」


 冬真は一歩近づいた。


「黒沢先生は亡くなった。晴臣は警察に向かう途中でいなくなった。みんなが疑っている。美月がどれだけ傷つくか、分かってるんですか」


「分かっています」


「分かっているなら」


「だから、あなたに決めさせない」


 澄江の声は静かだった。


 だが、その静けさが冬真の中を削った。


 あなたに決めさせない。


 その言葉が、冬真の胸の奥に残った。


 美月が誰を待つか。


 誰に寄りかかるか。


 誰の言葉を信じるか。


 それを決められない。


 晴臣がいなくなっても、まだ決められない。


 澄江がいる限り、美月は水科家へ行く。昭三の前で泣く。晴臣を待つ。晴臣の不在は、逃げた男の空白ではなく、奪われた男の空白になる。


 それだけは、困る。


 冬真はそう思った。


 思ってしまった。


「一度だけ、聞いてください」


 冬真はさらに近づいた。


 澄江は石段に背を向ける形で立っていた。後ろには濡れた階段がある。冬真には、それが見えていた。石の角が黒く濡れていることも、上から下まで一気に落ちればただでは済まないことも、分かっていた。


 分かっていたのに、足は止まらなかった。


「僕は、美月を不幸にしたくないんです」


「なら、今は美月に近づかないで」


 澄江は言った。


 その言葉で、冬真の中の何かが外れた。


 怪我でもすればいい。


 一日でも、二日でも、動けなくなればいい。


 水科家へ行かなければいい。


 晴臣を待てと言えなくなればいい。


 ここで澄江を押したことなど、後でどうとでも言える。


 冬真は自分を止めようとした。


 でも、手は前に伸びていた。


 指が上着の布を捉えた瞬間、冬真はほんの少し力を入れた。


 それは、あまりに簡単だった。


 澄江の体が傾いた。


 雨だった。


 石段が濡れていた。


 澄江の体が傾いた。


「あ」


 澄江の声が、小さく漏れた。


 足が石段の端を探した。


 見つからなかった。


 濡れた靴底が滑り、体が後ろへ落ちる。


 我に返った冬真は手を伸ばした。


 だが、遅かった。


 澄江の手が空を掴み、体が石段を転がり落ちた。


 一段。


 二段。


 雨音の中に、鈍い音が混じる。


 最後に、階段下の石畳へ落ちた音がした。


 冬真は動けなかった。


 自分の手を見ていた。


 指先に、澄江の上着の感触が残っている。


 押した。


 確かに、押した。


 殺すつもりはなかった。


 そう思った。


 だが、殺すつもりがなかったことは、押したことを消さない。


 石段の下で、澄江は動かなかった。


 雨が髪に落ちている。


 頬に落ちている。


 手が不自然な角度で投げ出されていた。


 冬真は、一歩下りようとして、足を止めた。


 早く手当をしなければ。


 そう思った。


 だが、同時に、別の声がした。


 これで、美月は水科家へ行けない。しかも、今、手当したら押したことがバレるかもしれない。


 冬真は、その声を聞いてしまった。


 聞いた自分を、否定できなかった。


「澄江さん」


 ようやく声が出た。


 小さすぎた。


 誰にも届かない。


 冬真は息を吸い直した。


「澄江さん!」


 今度は大きく叫んだ。


 会館の中から人の気配がした。


 冬真は石段を駆け下りた。


 慎重に。


 滑らないように。


 その慎重さに、自分で気づき、喉が詰まった。


「誰か! 来てください!」


 叫び声は、正しく響いた。


 氏子が走ってくる。


 婦人たちが悲鳴を上げる。


 誰かが救急車を呼べと言う。


 冬真は澄江のそばに膝をついた。


 肩に触れる。


 雨で濡れていた。


 冷たい。


「滑ったんです」


 冬真は言った。


 誰に聞かれたわけでもない。


 それでも、先に言った。


「石段で、急に。僕が止めようとしたんですが」


 半分は本当だった。


 止めようとした。


 最後には。


 ただ、その前に押した。


 その一瞬だけが、どこにも入っていない。


 入れなければ、なかったことになる。


 冬真は、そう考えている自分に気づいた。


 そして、その考え方が藤原に似ていることにも気づいた。


 美月が駆けてきた。


「お母さん!」


 その声で、冬真の体が震えた。


 美月は石段を降りようとして、誰かに止められた。雨に濡れ、髪が頬に貼りついている。顔は白く、目だけが大きく開いていた。


 冬真は立ち上がった。


 今度は迷わなかった。


 美月の方へ行き、肩を支えた。


「美月、見ない方がいい」


「離して!」


「救急車を呼んでる。今は近づかない方がいい」


「お母さん!」


 美月は冬真の腕の中で暴れた。


 冬真は強く抱きとめた。


 周囲から見れば、それは支えているようにしか見えなかった。


 母を見て取り乱す娘を、幼馴染の男が必死に支えている。


 誰も不自然には思わない。


 冬真は、そのことを理解してしまった。


 理解した自分を嫌悪した。


 だが、腕は緩めなかった。


 救急車が来るまでの時間は長かった。


 澄江は息をしていた。


 死んではいなかった。


 そのことに、周囲は安堵した。


 冬真も安堵した。


 だが、その安堵の底に、別のものが沈んでいた。


 死んでいない。


 ならば、話すかもしれない。


 冬真はそう思い、すぐにその考えを打ち消した。


 そんなことを考えるな。


 そう思った。


 けれど、考えは消えなかった。






 病院の廊下は白かった。


 祭りの匂いも、雨の匂いもない。消毒液と湿った服の匂いだけがあった。


 美月は椅子に座り、両手を膝の上で握っていた。震えているのに、泣いていない。


 冬真は少し離れて立っていた。


 近づきすぎない。


 だが、離れすぎない。


 呼ばれれば届く距離。


 それが今、自分に許された位置だと分かっていた。


 医師が出てきた時、美月は立ち上がれなかった。


 冬真が支えた。


 医師は言葉を選んだ。


 命は取り留めた。


 だが、頭を強く打っている。


 意識が戻るかは分からない。


 長くかかる可能性がある。


 美月は、その説明を聞いても泣かなかった。


 ただ、冬真の腕の中で力を失った。


 母は死んでいない。


 けれど、もう美月に待ちなさいとは言えない。


 その事実が、美月の中でゆっくり沈んでいく。


 晴臣は戻らない。


 黒沢は死んだ。


 母は目を覚まさない。


 待てと言った人が、もう答えてくれない。


 冬真は、美月を椅子へ座らせた。


 その手は丁寧だった。


 誰が見ても、支えている男の手だった。


 だが、雨に濡れた指先には、まだ澄江の上着の感触が残っていた。


 その感触は、その後何年も消えなかった。


 澄江の転落は、事故として処理された。


 雨。


 濡れた石段。


 祭りの疲労。


 足を滑らせた母。


 助けようとした冬真。


 そう並べれば、すべては自然だった。


 ただ一つ。


 背中に触れた冬真の手だけが、どの紙にも書かれなかった。


 その夜、美月は水科家へ行けなかった。


 行くはずだった。


 母はそう言った。


 晴臣を待つなら、水科昭三のところへ行こうと。


 けれど、母は病院の白い部屋で眠っていた。


 眠っているだけに見えた。


 呼べば目を開けるのではないかと思った。


 美月は何度も母の手を握った。


 母は握り返さなかった。


 親戚が集まり、父が戻り、警察や病院の手続きが重なった。誰もが慌ただしく動いていたが、美月だけは取り残されていた。


 昨日まであったものが、一日で三つ消えた。


 晴臣。


 黒沢。


 母の声。


 そのどれにも、美月は追いつけなかった。


 冬真は何も急がなかった。


 晴臣の話を、冬真からはしなかった。


 母の事故を利用するような言葉も言わなかった。


 ただ、必要な時にそこにいた。


 病院の受付。


 親戚への連絡。


 車の手配。


 濡れた上着の替え。


 美月の父が崩れそうになった時の支え。


 すべて、目立たない範囲でやった。


 美月が何かを探すように顔を上げるたび、冬真は少し離れたところにいた。


 呼べば届く距離に。


 その距離が、やがて美月の中で当たり前になっていくことを、冬真は知っていた。


 知っていて、そこに立った。


 夜遅く、病院の玄関を出ると、雨はまだ降っていた。


 細い雨だった。


 美月は傘を持っていなかった。


 冬真は黒い傘を開いた。


「美月」


 美月は反応しなかった。


「濡れる」


 それだけ言った。


 美月は少し遅れて、傘を見た。


 そして、何も言わずにその下へ入った。


 冬真は傘を傾けた。


 美月が濡れないように。


 自分の肩が濡れるように。


 そうすれば、誰が見ても、冬真は優しい男に見える。


 美月は前を見ていた。


 その目に、もう強い抵抗はなかった。


 諦めではない。


 まだ信じたい気持ちは残っている。


 晴臣の声も、母の言葉も、胸の奥にある。


 けれど、それらを支える力が、一日で削られすぎた。


 待ちなさい。


 母はそう言った。


 その母はもう答えない。


 晴臣は戻らない。


 戻ると言った人は、戻らない。


 待てと言った人も、戻らない。


 美月は傘の柄を見つめた。


 冬真の手がそこにある。


 白く、濡れて、強く握られている。


「僕がいる」


 冬真は言った。


 美月は答えなかった。


 その沈黙を、冬真は拒絶とは受け取らなかった。


 答えられないほど壊れている。


 今はそれでいい。


 言葉を返される必要はない。


 隣に立つことを拒まれなければ、それでいい。


 冬真は、美月の歩幅に合わせて歩いた。


 雨は細く、長く降り続いている。


 南宮の柱は、遠くで黒く立っている。


 水科家では、昭三がまだ戸を開けたまま、息子を待っているだろう。


 奥木の外では、晴臣がどこかへ運ばれている。


 美月はそれを知らない。


 冬真も知らない。


 ただ、冬真だけは分かっていた。


 晴臣が戻らない時間が長くなればなるほど、自分の立つ場所は固まっていく。


 帰ってくることを恐れながら。


 帰らないことを望みながら。


 冬真は、傘をさらに美月の方へ傾けた。


 美月は何も言わず、その傘の下を歩いた。


 母の声は、もう雨の向こうに遠ざかっていた。


 待ちなさい。


 その言葉だけが、濡れた石段の上に取り残されていた。


 そして、冬真の指先には、誰にも見えないまま、押した感触だけが残り続けた。

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