二十 水科家の葬り方
夜が明けても。
朝飯の支度をしても。
近所の者が、もう少し休んだ方がいいと言っても。
昭三は玄関の戸を、半分だけ開けたままにしていた。
そこから、細い雨の匂いが入ってくる。祭りの翌朝の湿った風だった。南宮の方角からは、もう太鼓の音も人の声も聞こえない。柱は立った。祭りは終わった。だが、終わったはずのものが、まだ水科家の中に居座っている。
座敷の座卓には、赤飯が残っていた。
晴臣が帰ってきたら食わせるつもりで、昭三が炊いたものだった。小さな重箱に詰め、蓋をして置いてある。昨夜から何度も開けようとして、結局開けなかった。
冷めている。
もう、固くなっているだろう。
それでも昭三は片付けなかった。
帰る者の飯を片付けてはいけない。
誰に教わったわけでもない。水科家では、昔からそうしてきた。山へ出た者、湖へ出た者、祭りへ出た者。戻ると決めて出た者の飯は、戸口に風が入るうちは下げない。
昭三は座敷に座り、開いた戸の方を見ていた。
晴臣は戻る。
そう思おうとしていた。
だが、思うだけでは足りなくなっていた。
警察と会館を出た。
途中で所在が分からなくなった。
その知らせを聞いた時、昭三は何も言わなかった。言えば、言葉が別の形で持っていかれると分かっていたからだ。
逃げたのではない。
晴臣は逃げる子ではない。
それだけは分かる。
だが、分かることと、守れることは違った。
昭三は、膝の上で拳を握った。
妻の遺影が、仏壇の横にある。
小さく笑っている写真だった。晴臣が産まれた頃に家の庭で撮ったものだ。妻は写真が嫌いで、ほとんど残っていない。だから、少し目を細め、困ったように笑っているその一枚を、昭三はずっと置いていた。
「すまんな」
昭三は低く言った。
遺影は何も答えない。
「守れんかった」
声が、思ったより掠れていた。
晴臣を北へ近づけない。
妻が生きていた頃から、昭三はそう決めていた。祖父から言われ、父から言われ、自分でもそう思った。晴臣には研究をさせてもいい。祭りを見せてもいい。
だが、北へは行かせない。
北は、人を選ぶ。
人が北を選ぶのではない。
そういう場所だ。
それなのに、晴臣は北へ行った。
教授に呼ばれ、調査に入り、石の函を見て、鏡だと言った。
昭三はその言葉を、昨日、会館の端で聞いた。
鏡。
その一語で、腹の底が冷えた。
晴臣は、知らずに言ったのだろう。
知らずに、近づいた。
知らずに、触れた。
知らずに、残ってしまった。
守り袋を持たせた。
それで足りると思ったのか。
足りるはずがない。
あれは、晴臣を北から遠ざけるためのものではなかった。水科の者が、水を塞がずに済むように、手元に残してきたものだ。昭三自身、その意味をすべて知っていたわけではない。
知らない。
だが、知らないまま守る。
水科家はずっとそうだった。
「お前に言われた通りに、もっと早く出せばよかったのかもしれんな」
昭三は妻の写真に言った。
「この家から。奥木から。もっと遠くへ」
晴臣が大学へ進む時考えていたことだ。
あの子は奥木へ戻さない方がいい。
好きなことをさせて、遠くで暮らさせた方がいい。
生前の妻が幼い晴臣を見ながら言っていたことだ。
昭三は、それを聞かなかった。
戻る場所がない男は弱い。
そう思った。
水科家の戸を閉めなければ、晴臣はどこへ出ても戻ってこられる。そう信じていた。
だが、戻る場所があることが、逆に晴臣を奥木へ引き戻したのかもしれない。
昭三は畳に手をついた。
悔しさが、腹の奥から上がってくる。
怒りではない。
怒る相手が多すぎた。
北宮。
藤原。
斎部。
黒沢。
晴臣自身。
そして、自分。
一番許せないのは、自分だった。
知っていた。
北へ近づくなと、何度も言った。
だが、なぜ近づいてはいけないのかを、言えなかった。
言葉にすれば、持っていかれる。
そう恐れて、黙っていた。
黙って守れるものなど、本当は少ない。
「すまん」
昭三はもう一度言った。
「俺が、弱かった」
遺影の妻は、やはり何も答えなかった。
その時、庭先で砂利を踏む音がした。
昭三は顔を上げた。
晴臣ではない。
足音で分かった。
軽すぎる。
迷いがない。
道を知っている者の足音だった。
玄関の戸口に、斎部嘉平が立っていた。
法被は着ていない。古い上着を羽織り、濡れた髪を手で払っている。昨夜、材木道で晴臣を見送った時の疲れは、まだ顔に残っていた。だが、口元にはいつもの薄い歪みが戻っている。
「開いてましたよ」
斎部は言った。
「閉めとらん」
昭三は座敷から答えた。
「帰る者がいる」
斎部は靴を脱がず、玄関の框に片足だけ乗せた。
「帰りますかね」
「帰る」
「どこから」
「知らん」
斎部は小さく笑った。
「水科の人は、すぐそれだ。知らん、知らん」
「知らんものは知らん」
「知ってるものも、知らんと言う」
昭三は斎部を見た。
「北の使いか」
「使いじゃない」
「では何だ」
「道の途中です」
斎部は家の中を見回した。
古い柱。
小さな神棚。
仏壇。
座卓の赤飯。
壁に掛けられた晴臣の子どもの頃の写真。
部屋の隅に置かれた古い木箱。
金目のものなど、ほとんどない家だった。だが、斎部の目は物ではなく、物の間を探っていた。何かが隠れているはずだと、そう信じている目だった。
「上がるな」
昭三は言った。
「まだ何も言ってませんよ」
「上がる顔をしている」
斎部は肩をすくめた。
「少し聞きたいだけです」
「晴臣のことか」
「晴臣君だけじゃない」
斎部は戸口に立ったまま、声を低くした。
「水科家のことです」
昭三は黙った。
「晴臣君は壊れなかった」
斎部は言った。
「黒沢先生は死んだ。神職も俺も、文庫の女も、少しずつおかしくなってる。耳の奥で水が鳴る。口に泥の味がする。目の奥が重い。なのに、晴臣君には何も出ない」
「それが何だ」
「あの子だけ、抜けてる」
「晴臣は晴臣だ」
「違う」
斎部の声が少し荒くなった。
「違うんですよ、昭三さん。あの子だけじゃない。水科そのものが、北の記録と合わない」
昭三の顔は動かなかった。
「古い帳面には、水科の名が出る。けれど、今の手順にはない。役名にも残っていない。南にも北にも、正式には置かれていない。なのに、肝心なところにだけ、水科がいる」
「知らん」
「またそれだ」
「知らん」
「見る家じゃないんでしょう」
その言葉に、昭三の目がわずかに細くなった。
斎部はそれを見逃さなかった。
「やっぱり、反応する」
「誰から聞いた」
「年寄りからですよ。死にかけの年寄りは、余計なことを言う」
「忘れろ」
「そう言うと思った」
斎部は靴を脱いだ。
昭三が立ち上がる。
「上がるなと言った」
「守り袋の中身は何です」
斎部は一歩、座敷へ入った。
「晴臣君が持っているあれ。水科のものなんでしょう」
「知らん」
「知らないわけがない」
「知らん」
「水科は何を流していた」
斎部の声が、湿った家の中で低く響いた。
「鏡に足りないものは何だ。函は見つかった。鏡はまだある。見る役は壊れ続けている。じゃあ、水科は何をしていた。おまえらは、何を隠してる」
「知ってどうする」
昭三が言った。
斎部は一瞬だけ黙った。
「使えるなら、使う」
「使えんものなら」
「危ないなら、片付ける」
昭三は笑った。
乾いた笑いだった。
「お前らは昔から変わらんな。分からんものを恐れて、恐れたものを使いたがる。使えんと分かると、今度は消したがる」
「水科だって隠した」
「隠したんじゃない」
「じゃあ何です」
「流した」
斎部の目が動いた。
「今、何て」
昭三は口を閉じた。
言いすぎた。
そう思った。
だが、もう遅かった。
斎部はゆっくり座敷へ入った。
「流した?」
「忘れろ」
「水科は、見る意味じゃない。流す家か」
「知らん」
「今さら知らんは無理でしょう」
斎部の声に、興奮が混じった。
見つけたと思っている。
昭三には分かった。
だが、斎部はまだ何も見つけていない。言葉の端を掴んだだけだ。その端を引けば、奥に何かがあると信じているだけだ。
昭三は首を振った。
「お前に分かることじゃない」
「昭三さんには分かってるんですか」
「分からん」
「ならなぜ守る」
「分からんものを、分からんまま残すためだ」
斎部は顔を歪めた。
「それが危ないと言ってるんです」
「知って使う者より、知らずに流す者の方がましだ」
昭三は静かに言った。
「北は、知ったつもりで塞ぐ。塞げば、水は腐る。腐った水を鏡に映せば、人が壊れる」
「黒沢先生のことを言ってるんですか」
「知らん」
「晴臣君のことは」
「晴臣は帰る」
「帰れませんよ」
斎部は言った。
その一言で、家の中の空気が変わった。
昭三は斎部を見た。
「どこへやった」
「知らん」
「斎部」
「俺は道を変えただけです」
「どこへやった」
昭三の声は低かった。
斎部は視線を逸らした。
その瞬間、昭三はすべてではないにしても、分かった。
晴臣は警察から逃げたのではない。
逃がされたのでもない。
移された。
斎部が関わった。
昭三は一歩、斎部へ近づいた。
「晴臣を返せ」
「返せるなら、返してますよ」
「返せ」
「無理です」
「なぜだ」
「もう、奥木の外です」
昭三の胸の奥で、何かが折れた。
怒りが来ると思った。
だが、来たのは、ひどく冷たい絶望だった。
奥木の外。
それは遠いという意味ではない。
水科家の戸では届かない場所、という意味だった。
昭三は戸口を見た。
半分開いた戸。
雨。
庭の石。
その向こうの道。
晴臣は、そこから帰ってくるはずだった。
帰ってくると信じるために、戸を閉めなかった。
だが、晴臣はもう、この戸へ向かう道の上にはいない。
「……すまん」
昭三は呟いた。
斎部には、それが誰に向けた言葉か分からなかった。
昭三自身にも、少し分からなかった。
晴臣へか。
妻へか。
水科家の先祖へか。
それとも、この家の戸へか。
「すまん」
もう一度、昭三は言った。
「お前を、戻れる場所に置いてやれんかった」
斎部は眉を寄せた。
「昭三さん」
「晴臣は、帰る子だ」
「……」
「帰る子なんだ」
その声には、もう怒りはなかった。
悔しさだけがあった。
斎部は一瞬、目を逸らした。
殺すなら、今しかない。
そんな言葉が、斎部の頭にあったわけではない。
ただ、前に渡された指示があった。
使えるか確認する。
使えないなら残すな。
水科家の中に、北が知らないものがあるなら、持ち出す。
持ち出せないなら、家ごと閉じる。
晴臣には不調が出ない。
昭三は何かを知っているかもしれない。
だが、言わない。
言わせる時間もない。
水科家は、北の記録と合わない。
合わないものは、手順を狂わせる。
斎部は、そういう言葉を借りていた。
借りた言葉は便利だった。
自分の手を、自分のものではないように見せてくれる。
「最後に聞きます」
斎部は言った。
「晴臣君は、何ですか」
昭三は答えなかった。
答えないまま、戸の方を見た。
開け放たれた戸の向こうに、朝の光が残っている。雨に濡れた庭石が、黒く光っていた。晴臣が子どもの頃、その石の上に乗って転び、膝を切ったことがある。妻が怒り、昭三が笑い、晴臣が泣きながら石を蹴った。
あの時の晴臣の泣き声を、昭三は突然思い出した。
生きている声だった。
腹の底から泣く声。
帰ってくる声。
「帰る者の戸は、閉めん」
昭三は言った。
それが、昭三の最後の言葉になった。
その後のことを、家は何も語らなかった。
雨が降っていた。
戸は開いていた。
赤飯は冷めていた。
妻の遺影は、座敷の端で小さく笑っていた。
斎部嘉平は、水科家を出るまでに、少しだけ家の中を探した。
探すつもりはなかった。
そう自分には言い訳した。
だが、来た以上は見る。
見るだけならいい。
何かあれば持ち出す。
そういう順番で、斎部は自分を納得させた。
まず、仏壇の下。
古い引き出し。
木箱。
神棚の裏。
押し入れ。
箪笥。
晴臣の古い学習机。
どこにも、北宮の手順を変えるようなものはなかった。
鏡の名もない。
函の図もない。
特別な役の書付もない。
ただ、生活の残骸があった。
晴臣の小学校の賞状。
大学の入学式の写真。
妻の診察券。
古い通帳の切れ端。
銀行の封筒。
その中に、数万円だけ入っていた。
斎部はそれを見つめた。
少し迷った。
迷った時間は短かった。
札を抜き、上着の内側へ入れる。
封筒は元の場所へ戻した。
「何だよ」
斎部は小さく言った。
「大層な家みたいな顔して、これだけか」
声は、誰にも聞こえなかった。
もう一度、家の中を見回す。
何もない。
何もないはずがない。
そう思って探した。
だが、見つからない。
水科家は、何も残していないのか。
それとも、残すべきものを、残さない家なのか。
斎部には分からなかった。
分からないことが、苛立たしかった。
「気にかけてやったのに」
斎部は吐き捨てた。
「使えねえ一族だ」
言ってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。
後悔はあった。
少しだけ。
昭三の最後の目が残っていた。
晴臣を返せ、と言った声も残っていた。
帰る者の戸は閉めん。
その言葉も残っていた。
だが、残っているからといって、戻せるものはない。
斎部は玄関へ向かった。
戸口で、一度だけ振り返る。
座敷には、まだ赤飯がある。
遺影がある。
開いた戸から雨の匂いが入っている。
人が一人消えただけで、家はまだ家の形をしていた。
それが、斎部には少し嫌だった。
「仕方ねえだろ」
斎部は誰にともなく言った。
「仕方ねえんだよ」
それから、戸を閉めた。
完全には閉めなかった。
半分だけ、開けたままにした。
翌日の朝、昭三の死体は見つかった。
最初に見つけたのは、近所の老人だった。
晴臣が戻ったかどうかを見に来ただけだった。戸が開いているのに声がしない。赤飯がそのまま。座敷に入って、老人は腰を抜かした。
警察が来た。
救急が来た。
近所の者が集まった。
美月は病院にいた。
澄江は目を覚まさなかった。
晴臣はいなかった。
藤原匡親は、少し遅れて現れた。
喪服ではない。
昨日と同じように、整った上着を着ていた。雨に濡れないよう、黒い傘を畳んで玄関脇に置き、家へ上がる前に丁寧に頭を下げた。
藤原は昭三を見ても、声を荒げなかった。
驚かなかったわけではない。
悲しまなかったわけでもないのかもしれない。
ただ、それを表に出す必要がないと判断している顔だった。
警察官が状況を説明する。
藤原は頷きながら聞いた。
高齢の父親。
息子の所在不明。
黒沢教授の死亡。
祭りの混乱。
家族関係の動揺。
近所付き合い。
持病の有無。
遺書の有無。
家屋内の乱れ。
金品の状況。
一つ一つを聞き、藤原は言葉を選んだ。
「地域としては、これ以上の憶測を広げるべきではありません」
藤原は言った。
「黒沢先生の件と、水科さんの件と、昭三さんの件を、安易に結びつけることは避けるべきです」
正しい言葉だった。
誰も反論できなかった。
「奥木も混乱しています。晴臣さんの所在も分かっていない。今は、事件性を断定する段階ではありません」
断定するな。
確認中。
憶測を避ける。
地域を守る。
遺族に配慮する。
藤原の言葉は、どれも正しかった。
正しい言葉が並ぶと、昭三の死は少しずつ角を失った。
誰かが来た可能性。
誰かが家を探した可能性。
銀行の封筒から金が抜かれている可能性。
晴臣の失踪と繋がっている可能性。
そうした角が、紙の上で丸くされていく。
事故。
急変。
心労。
家の事情。
事件性は低い。
そういう言葉の方へ、ゆっくり押されていく。
藤原は嘘をつかなかった。
斎部が来たとは言わなかった。
斎部が来なかったとも言わなかった。
ただ、必要な順番で必要な事実だけを並べた。
それで十分だった。
昼過ぎ、斎部嘉平は南宮の境内にいた。
何食わぬ顔で、雨に濡れたロープを片付けている。若い氏子に指示を出し、倉庫の鍵を開け、祭りの後始末をしていた。
誰かが、水科さんの親父さんが、と言った。
斎部は顔を曇らせた。
「気の毒にな」
そう言った。
声は自然だった。
表情も自然だった。
自然すぎて、自分でも嫌になるほどだった。
だが、仕事は進めた。
濡れたターフを畳む。
泥のついた長靴を洗う。
残った酒瓶を箱へ戻す。
祭りは、誰かが死んでも片付けなければならない。
斎部は、そのことをよく知っていた。
夕方近く、斎部は一人で北宮の方角を見た。
耳の奥では、まだ水の音がしている。
昨夜より小さくなった気もする。
だが、消えてはいない。
黒沢の死の後から続く音。
昭三の家を出た後から、少し濁った音。
斎部は耳の後ろを押さえた。
「うるせえな」
誰にも聞こえないように呟いた。
水の音は止まらなかった。
斎部は舌打ちし、煙草を一本取り出した。火をつけようとして、やめた。南宮の境内では、まだ人目があった。
代わりに、上着の内側へ手を入れる。
銀行の封筒から抜いた札がそこにある。
数万円。
命一つと、家一つと、奥木の古い名一つの値段としては、あまりに少ない。
「ほんと、使えねえ」
斎部は低く言った。
その声には、悔しさも、後悔も、苛立ちも、少しずつ混じっていた。
だが、どれも長くは続かなかった。
続けていれば、仕事にならない。
斎部は顔を上げ、若い氏子を呼んだ。
「それ、倉庫の奥へ入れとけ。濡れたまま積むなよ」
いつもの声だった。
いつもの斎部だった。
その頃、水科家の戸は、ようやく閉められていた。
誰が閉めたのかは分からない。
近所の者か。
警察か。
藤原か。
それとも、風か。
ただ、戸は閉まっていた。
帰る者のために開けていた戸は、晴臣が帰る前に閉まった。
赤飯は下げられた。
遺影には白い布がかけられた。
家の中に残っていた生活の匂いは、少しずつ他人の手で薄められていった。
数日後、水科家について別の話が出た。
古い家であること。
相続人の所在が分からないこと。
中に何が残っているか分からないこと。
人が入れば危ないこと。
不用意に残せば、また人が集まること。
分からないものを調べるより、分からないまま片付けた方がいい。
誰がそう言い出したのかは、はっきりしない。
ただ、その話は驚くほど早く通った。
水科家は、もうそこに無かった。
柱も、戸も、座敷も、神棚も、晴臣の古い写真も、妻の遺影も。
家はもう無い。
扱いが変われば、ものは消え始める。
人が死ぬより先に名が消えるように。
家もまた、壊される前に家でなくなる。
奥木の雨は、何日も細く降り続いた。
残された庭の石だけが、濡れたまま動かなかった。
晴臣はまだ、父の死を知ることは出来ない。




