十八 奥木を出る荷
奥木の境を越えた時、守り袋が冷たくなった。
それは一瞬だった。
胸元に入れた古い布が、湖の底に沈めた石のように冷え、晴臣の息を止めた。だが、次の瞬間には何もなかった。熱もない。痛みもない。ただ、そこに小さな重みが残っているだけだった。
ワゴン車は山道を下っていた。
窓の外には、奥木の森が流れていく。夜の木々は一本ずつの形を失い、黒い壁のように連なっていた。ところどころ、斜面の向こうに湖が見える。だが、それもすぐに消える。南宮の火はもう見えなかった。
車内は暗い。
運転席と助手席に男が一人ずつ。
後部座席には晴臣と、黒い上着の男が座っている。男は膝の上に古い布袋を置いていた。中に何が入っているのか分からない。布袋の口は紐で固く縛られている。
斎部は乗っていない。
最後に見た斎部は、材木道の脇に立っていた。疲れた目でこちらを見ていた。車が動き出す前、何かを言いかけたようにも見えた。だが、言わなかった。
助けているわけじゃない。
斎部はそう言った。
移している。
警察の紙から、別の紙へ。
晴臣はその言葉を、車の揺れの中で何度も反芻していた。
移される。
人ではなく、名が。
名ではなく、扱いが。
水科晴臣という一人の人間ではなく、どこかの紙に載せ替えられる項目として。
それを考えると、喉の奥が乾いた。
「どこへ行くんですか」
晴臣は言った。
黒い上着の男は答えなかった。
「警察のところへ戻してください」
男は窓の外を見ている。
「聞こえていますか?」
「聞こえている」
初めて男が答えた。
低い声だった。奥木の訛りはない。言葉の端が硬く、どこの人間なのか掴めない。
「なら答えてください」
「答える役ではない」
「では何の役ですか」
男は少しだけ晴臣を見た。
「預かる役だ」
預かる。
藤原も同じ言葉を使った。
手帳を預かる。
責任をもって扱う。
その結果、手帳は晴臣の手から離れた。
「私は物ではありません」
晴臣は言った。
男は表情を変えなかった。
「物なら楽だった」
その返事の意味が、晴臣にはすぐ分からなかった。
車はさらに下る。
山道の舗装が荒くなり、車体が小刻みに揺れた。前方で枝がライトを横切るたび、車内に影が走る。運転席の男は一度も振り返らない。助手席の男は携帯電話を耳に当て、短い返事だけをしている。
「はい」
「出ました」
「ええ」
「境は越えています」
それだけだった。
誰に報告しているのか、晴臣には分からない。
だが、奥木から出たことが、誰かに伝えられている。
晴臣の身体が、今どこを通ったのか。
それが、どこかで記録されている。
「水科さん」
助手席の男が振り返らずに言った。
「携帯を出してください」
「なぜですか」
「預かります」
「なぜ預かるんですか」
「今は連絡されると困るんです」
「父に連絡します」
「困ります」
「美月にも」
「それも困ります」
男の声には、怒りも焦りもなかった。
晴臣は携帯電話を握った。
画面は暗い。
南宮会館を出てから、一度も触っていない。もし今、父に電話できれば。美月に一言でも届けば。警察に、自分は逃げていないと伝えられれば。
そう思った。
だが、同時に別の考えが浮かぶ。
電話をすれば、相手の名が残る。
父の名。
美月の名。
通話時刻。
発信場所。
逃走後の接触。
その言葉まで浮かんだ時、晴臣は自分の頭の中にまだ藤原の紙が残っていることを知った。
車の中に藤原はいない。
なのに、思考に紙が張り付いている。
晴臣は唇を噛んだ。
「出して」
黒い上着の男が手を差し出した。
その手は細かった。だが、指先に力がある。何度も人から何かを受け取ってきた手だった。
晴臣は携帯電話を渡した。
男はそれを布袋ではなく、自分の上着の内側へしまった。
「財布も」
「身分証もですか」
「必要なものだけ残す」
「何に必要なんですか」
「運ぶのに」
晴臣は男を見た。
男は、しまったという顔もしなかった。
言い間違いではない。
この男たちにとって、晴臣は運ばれるものなのだ。
運ばれる人間。
逃げる者ではなく、運ばれる荷物。
晴臣は財布を出した。
免許証、保険証、研究室の身分証、数枚の札。男はそれらを手早く確認し、小さな封筒へ入れた。封筒には何も書かれていない。だが、晴臣にはそこに自分の名が消えていくように見えた。
「身分証は返してください」
「後で」
「後とはいつですか」
「後だ」
会話はそこで切られた。
晴臣は膝の上で拳を握った。
外へ飛び出すことはできない。
走って逃げることもできない。
車は山道を走っている。夜で、土地勘も薄い。戻れば警察に見つかるかもしれない。だが、その時、自分は何と説明するのか。
斎部に連れ出された。
知らない男に車へ乗せられた。
携帯と財布を取られた。
そう言えばいい。
事実だから。
しかし、事実は並べ方で別のものになる。
警察車両から離れた。
所在を明らかにしなかった。
携帯電話を使用していない。
現金と身分証を持たず移動した。
誰かに匿われていた。
そうも書ける。
晴臣は目を閉じた。
自分はもう、自分の言葉を信じられなくなっている。
車が急に減速した。
舗装路から外れ、古い作業道へ入る。しばらく進むと、木々が途切れた。そこには、廃業した製材所のような建物があった。屋根は錆び、壁のトタンはところどころ剥がれている。門柱には、古い会社名の跡が白く残っていたが、夜目には読めなかった。
敷地の奥に、別の車が停まっていた。
箱型の白い車だった。
荷台の側面には何の文字もない。観光地の土産物を運ぶ車にも、冷凍品を運ぶ車にも見える。目立たない。何の記憶にも残らない車だった。
ワゴン車が止まる。
後部ドアが開いた。
「降りろ」
しかし、晴臣は動かなかった。
「ここはどこですか」
「中継地点だ」
「私はどこへ運ばれるんですか」
黒い上着の男は少しだけ首を傾けた。
「まだ聞いていない」
「あなたも知らない?」
「知らない方がいいこともある」
晴臣は車を降りた。
地面はぬかるんでいた。山の水が敷地の端から入り、砂利の間に黒く溜まっている。雨は降っていない。それなのに、ここにも水があった。
晴臣は足元を見た。
水はただの水だった。
だが、黒沢の岩の根元ににじんでいた水を思い出す。水のない場所にあった水。長方形の痕。黒い羽根。藤原に伝えたはずの報告。
それは、もうどこにもない。
晴臣の言葉の中にしかない。
だから、弱い。
製材所の中から、別の男が出てきた。
年齢は四十前後。短い髪に、灰色の作業服。手には小さな手帳を持っている。手帳は革表紙ではなく、安い事務用のものだった。だが、晴臣はそれを見た瞬間、嫌な感覚を覚えた。
また紙か。
また、名が書かれる。
「これか」
作業服の男が言った。
「これです」
黒い上着の男が答えた。
「水科晴臣」
作業服の男が手帳を見ながら言った。
晴臣は顔を上げた。
「私の名前を」
「名前くらいは聞いている」
男は晴臣の顔と手帳を見比べた。
「二十九。研究員。奥木出身。北宮の確認に同行。黒沢の最終同行者」
「その言い方をやめてください」
晴臣は言った。
「私は先生を殺していません」
作業服の男は、少しも驚かなかった。
むしろ、その言葉を待っていたように見えた。
「誰も殺したとは言っていない」
「そう聞こえる言い方です」
「そう聞こえる状況なんだろう」
藤原と同じ言葉だった。
晴臣は息を詰めた。
この男たちも藤原の紙を読んでいるのか。
それとも、こういう言葉はどこでも同じなのか。
作業服の男は手帳へ短く何かを書いた。
その音は、藤原の筆記音より乱暴だった。
だが、同じだった。
人を文字にする音だった。
「症状は」
作業服の男が聞いた。
黒い上着の男が答える。
「車内では異常なし。意識明瞭。会話可能。嘔吐なし。錯乱なし」
「水音は」
「訴えなし」
「泥の味は」
「不明」
晴臣は二人を見た。
「何の話ですか」
作業服の男が、初めて晴臣をまっすぐ見た。
「ないのか」
「何が?」
「耳の奥で水が鳴るとか、口の中に泥の味がするとか、息が詰まるとか」
斎部と同じことを言っている。
晴臣は背筋に冷たいものを感じた。
「ありません」
「本当に」
「ありません」
「眠気は」
「疲れています」
「それはそうだろう」
男は手帳へ書いた。
異常なし。
その四文字が見えた。
晴臣は、その文字にぞっとした。
異常がないことが、異常として記録されている。
「なぜそんなことを聞くんですか」
「上が気にしている」
「上?」
「奥木の上だ」
「北宮ですか」
作業服の男は答えなかった。
黒い上着の男が晴臣の胸元を見た。
「胸のそれは」
晴臣は反射的に守り袋を押さえた。
「触らないでください」
「中身は」
「知りません」
「水科家のものか」
まただ。
斎部も同じ反応をした。
水科。
守り袋。
見ても壊れない。
晴臣は自分の知らない自分が、他人の口から作られていくのを感じた。
作業服の男が言った。
「胸のものは触るな」
黒い上着の男が手を引いた。
晴臣は聞いた。
「指示ですか」
「指示だ」
「誰の」
作業服の男は答えなかった。
答えない。
答えないことが多すぎる。
だが、答えない者たちは、晴臣のことだけは知っている。
名前。
年齢。
職業。
出身。
黒沢との関係。
手帳を出したこと。
異常がないこと。
守り袋を持っていること。
晴臣自身が知らない意味まで。
「私は、警察へ行きます」
晴臣は言った。
声は震えていたが、言葉にはなった。
作業服の男は手帳を閉じた。
「戻れない」
「あなたたちに止める権利はない」
「権利の話は藤原先生にしろ」
その名が出た。
晴臣は顔を上げた。
「藤原さんを知っているんですか」
「…名前だけだ」
「嘘だ」
「嘘をつくほど知り合いではない」
作業服の男は面倒そうに言った。
「紙はあちら。道はこちら。俺たちは道の先だ」
紙。
道。
晴臣は、斎部の言葉を思い出した。
藤原は紙だ。
斎部は道を知っている。
では、この男たちは何なのか。
道の先。
人が、紙から紙へ移された後に現れる者たち。
晴臣は一歩退いた。
黒い上着の男が、すぐに横へ回る。
乱暴ではない。
だが、逃げ道だけを消す動きだった。
「水科さん」
作業服の男が言った。
「ここで騒いでも、あなたが困るだけだ」
「私はもう困っています」
「もっと困る」
「脅しですか」
「説明だ」
その言い方も、藤原に似ていた。
晴臣は吐き気を覚えた。
どこへ行っても、同じ構造がある。
命令ではない。
脅迫ではない。
説明。
確認。
預かる。
整理する。
運ぶ。
言葉だけが整っている。
整った言葉の奥で、人だけが失われていく。
作業服の男は白い車の後部を開けた。
中は空ではなかった。
簡易の棚と、古い毛布と、いくつかの木箱が積まれている。木箱には紙の札が貼られていた。美術品の輸送に使うような箱だった。割れ物注意、と赤い文字が見える。だが、その字は古く、何度も剥がして貼り直した跡があった。
男が木箱の一つを指で叩いた。
「これと一緒に行く」
「どこへ」
「町の外」
「その先は」
「別の者が知っている」
晴臣は笑いそうになった。
誰も全部を知らない。
誰も最後まで責任を持たない。
それなのに、晴臣だけが最初から最後まで運ばれる。
「乗れません」
晴臣は言った。
黒い上着の男が、少しだけ息を吐いた。
「乗れ」
「嫌です」
「では、形が悪くなる」
「形?」
「自分で乗った方がいい」
晴臣は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
自分で歩く。
自分で出す。
自分で乗る。
その形が必要なのだ。
藤原が手帳を奪わなかったように。
警察官が任意と言ったように。
斎部が走るな、歩けと言ったように。
この男たちも、晴臣が自分で荷台へ上がる形を欲しがっている。
晴臣は足を動かさなかった。
作業服の男の目が冷たくなる。
「時間がない」
「警察が来るからですか」
「警察は別にいい」
「では何が」
「夜が明ける」
それは、ひどく古い理由に聞こえた。
南の火があるうちに帰れ。
北の用事を夜へ持ち越すな。
父はそう言った。
晴臣は守らなかった。
もう南の火は遠い。
夜は奥木の外へまで延びている。
そして、この男たちは夜が明ける前に晴臣をさらに外へ移そうとしている。
作業服の男が、黒い上着の男へ目を向けた。
黒い上着の男が晴臣の腕を取った。
強い力だった。
「やめてください」
「形が悪くなるぞ」
「やめろ!」
晴臣は初めて大きな声を出した。
製材所の錆びた壁に声が当たり、夜へ跳ねた。
その瞬間、どこかで烏が鳴いた。
一羽だけだった。
だが、その声で男たちの動きが一瞬止まった。
晴臣も止まった。
烏は偶然だ。
そう思った。
思おうとした。
だが、もう偶然という言葉にも安心できなかった。
作業服の男が舌打ちした。
「急げ」
黒い上着の男が晴臣を押す。
晴臣は抵抗した。
足元が滑り、膝が砂利に打ちつけられる。痛みが走った。守り袋が胸元で揺れた。男がその胸元には触れないよう、腕と肩だけを押さえる。
触るなという指示を守っている。
その冷静さが、かえって恐ろしかった。
晴臣は荷台へ押し上げられた。
毛布の上に倒れ込む。
木箱の角に肩が当たり、鈍い痛みが走った。顔を上げると、作業服の男が荷台の外からこちらを見ていた。
「水科晴臣」
男は言った。
晴臣は返事をしなかった。
「あなたは今夜、警察へ向かう途中で所在が分からなくなる」
「違う」
「周りからはそう見える」
「違う!」
「あなたがそう言っても、あなたはここにいる」
男は手帳を開き、何かを書いた。
「奥木外搬出。異常なし。守り所持。自発乗車、不可」
最後の言葉だけ、晴臣にも聞こえた。
自発乗車、不可。
それでも書かれる。
それでも、運ばれる。
形が悪くても、紙には載る。
男は手帳を閉じた。
「閉めろ」
黒い上着の男が荷台に乗り込んだ。
扉が閉められる。
外の夜気が切られ、荷台の中は暗くなった。小さな通気口から、製材所の灯りが細く入っているだけだった。
車が動き出した。
最初はゆっくり。
砂利を踏む音。
門を出る音。
舗装路へ戻る音。
晴臣は毛布の上で体を起こした。
黒い上着の男は、向かいに座っている。
「どこへ」
晴臣は聞いた。
男は答えない。
「奥木へ戻してください」
答えない。
「父が待っています」
答えない。
「美月が」
そこで声が詰まった。
美月の顔が浮かぶ。
今、話して。
あの声。
あの数歩。
渡れなかった距離。
それが、最後になった。
晴臣は手で顔を覆った。
泣いているのか、自分でも分からなかった。涙は出ていない。ただ、体の奥が空洞になっていくようだった。
黒い上着の男が、少しだけ視線を逸らした。
同情ではない。
見ない方がいいものを見る時の態度だった。
しばらくして、男が言った。
「奥木には戻れない」
晴臣は顔を上げた。
「なぜ分かる」
「戻れる者は、ここに来ない」
「あなたは何人、ここから運んだんですか」
男は答えなかった。
その沈黙で十分だった。
晴臣は荷台の木箱を見た。
割れ物注意。
美術品。
祭具。
書かれている文字はそれだけだった。
だが、その奥に、もっと別のものが積まれている気がした。
人。
名前。
記録。
誰かの家から消えたもの。
誰かが戻らなかった理由。
奥木の祭りの年に消える者。
父が言った。
柱の年には、消える者もいる。
名前が残っていないから、知らん。
だから消えたんだろう。
晴臣は、初めてその言葉の意味を体で理解した。
消えるとは、死ぬことだけではない。
名簿から外されること。
記録の扱いを変えられること。
行方を自分で説明できなくなること。
生きていても、戻る場所で別の名を与えられること。
車は山道を抜けた。
揺れが少し滑らかになる。遠くで大きな道路を走る音が聞こえた。奥木の細い道ではない。外の道だ。
晴臣は通気口から外を見ようとした。
何も見えない。
ただ、夜の空が少し明るくなっていた。
東の端が、ほんのわずかに白い。
夜明けが近い。
南宮の祭りは、まだ続いているだろう。
父は家へ帰っただろうか。
赤飯はそのままだろうか。
美月は、まだ会館にいるだろうか。
警察は、私を探しているだろうか。
斎部は、何と答えるだろうか。
藤原は、何を紙に書くのだろうか。
そのどれにも、晴臣はもう触れられなかった。
荷台の中で、守り袋がまた冷たくなった。
今度は長かった。
布の奥の硬いものが、胸に食い込むようだった。痛みではない。だが、そこだけが、晴臣の体の中で奥木に繋がっているように感じられた。
黒い上着の男が、それに気づいた。
「どうした」
「何でもない」
「苦しいのか」
「違う」
「水の音は」
「聞こえない」
「泥は」
「味もしない」
男は黙った。
その沈黙には、安堵ではなく、不気味さがあった。
晴臣が壊れないこと。
それは、ここでも問題なのだ。
車の外で、大型車の音がした。
高速道路か、国道か、晴臣には分からない。ただ、奥木の外の音だった。人も物も金も、土地の事情など知らずに流れていく音。
その流れに、晴臣も乗せられている。
人としてではない。
荷として。
紙に書かれた一行として。
木箱の隣に置かれた、壊れものとして。
黒い上着の男が、膝の布袋を開いた。
中から、小さな札を取り出す。紙ではなかった。薄い金属片のようなものだった。そこに紐が通してある。
男はそれを晴臣に見せなかった。
ただ、指で撫で、また布袋へ戻した。
晴臣は、その札から目を離せなかった。
「それは何ですか」
「今は要らない」
「後で使うんですか」
男は答えなかった。
答えないまま、布袋の口を縛った。
荷台の暗がりで、その音だけが残った。
きゅっと、何かを閉じる音。
晴臣はその音を聞きながら、黒沢の手帳のことを思い出した。
黒沢の記録は消えた。
晴臣の手帳は藤原に渡った。
そして自分は、別の紙に移された。
これ以上、何を失えば人は消えるのか。
答えはすぐ近くにあった。
名前を呼ぶ者の声だ。
父の声。
美月の声。
黒沢の声。
それらが遠ざかり、届かなくなった時、人は生きたまま消える。
車が速度を上げた。
夜明け前の道を、奥木から離れていく。
晴臣は目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
だが、体は限界だった。黒沢の死、手帳、父、美月、斎部、烏、車、紙。すべてがばらばらに浮かび、重なり、やがて一つの黒い水面のようになった。
その水面に、自分の顔は映らなかった。
代わりに、柱が立っていた。
南宮の柱ではない。
北へ向かって逆さに沈む、黒い柱だった。
晴臣は目を開けようとした。
開かなかった。
最後に聞こえたのは、黒い上着の男の声だった。
「奥木の荷、一つ」
誰かが無線か電話の向こうで答えた。
その声は聞き取れなかった。
男は短く言った。
「異常なし。ただし、守り所持」
そこで、晴臣の意識は途切れた。
夜明けの前、奥木湖は後方に消えた。
水科晴臣の名は、まだ死者の名簿には載っていない。
だが、帰る者の名簿からは、もう外され始めていた。




