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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
存在消失

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18/20

十八 奥木を出る荷

 奥木の境を越えた時、守り袋が冷たくなった。


 それは一瞬だった。


 胸元に入れた古い布が、湖の底に沈めた石のように冷え、晴臣の息を止めた。だが、次の瞬間には何もなかった。熱もない。痛みもない。ただ、そこに小さな重みが残っているだけだった。


 ワゴン車は山道を下っていた。


 窓の外には、奥木の森が流れていく。夜の木々は一本ずつの形を失い、黒い壁のように連なっていた。ところどころ、斜面の向こうに湖が見える。だが、それもすぐに消える。南宮の火はもう見えなかった。


 車内は暗い。


 運転席と助手席に男が一人ずつ。


 後部座席には晴臣と、黒い上着の男が座っている。男は膝の上に古い布袋を置いていた。中に何が入っているのか分からない。布袋の口は紐で固く縛られている。


 斎部は乗っていない。


 最後に見た斎部は、材木道の脇に立っていた。疲れた目でこちらを見ていた。車が動き出す前、何かを言いかけたようにも見えた。だが、言わなかった。


 助けているわけじゃない。


 斎部はそう言った。


 移している。


 警察の紙から、別の紙へ。


 晴臣はその言葉を、車の揺れの中で何度も反芻していた。


 移される。


 人ではなく、名が。


 名ではなく、扱いが。


 水科晴臣という一人の人間ではなく、どこかの紙に載せ替えられる項目として。


 それを考えると、喉の奥が乾いた。


「どこへ行くんですか」


 晴臣は言った。


 黒い上着の男は答えなかった。


「警察のところへ戻してください」


 男は窓の外を見ている。


「聞こえていますか?」


「聞こえている」


 初めて男が答えた。


 低い声だった。奥木の訛りはない。言葉の端が硬く、どこの人間なのか掴めない。


「なら答えてください」


「答える役ではない」


「では何の役ですか」


 男は少しだけ晴臣を見た。


「預かる役だ」


 預かる。


 藤原も同じ言葉を使った。


 手帳を預かる。


 責任をもって扱う。


 その結果、手帳は晴臣の手から離れた。


「私は物ではありません」


 晴臣は言った。


 男は表情を変えなかった。


「物なら楽だった」


 その返事の意味が、晴臣にはすぐ分からなかった。


 車はさらに下る。


 山道の舗装が荒くなり、車体が小刻みに揺れた。前方で枝がライトを横切るたび、車内に影が走る。運転席の男は一度も振り返らない。助手席の男は携帯電話を耳に当て、短い返事だけをしている。


「はい」


「出ました」


「ええ」


「境は越えています」


 それだけだった。


 誰に報告しているのか、晴臣には分からない。


 だが、奥木から出たことが、誰かに伝えられている。


 晴臣の身体が、今どこを通ったのか。


 それが、どこかで記録されている。


「水科さん」


 助手席の男が振り返らずに言った。


「携帯を出してください」


「なぜですか」


「預かります」


「なぜ預かるんですか」


「今は連絡されると困るんです」


「父に連絡します」


「困ります」


「美月にも」


「それも困ります」


 男の声には、怒りも焦りもなかった。


 晴臣は携帯電話を握った。


 画面は暗い。


 南宮会館を出てから、一度も触っていない。もし今、父に電話できれば。美月に一言でも届けば。警察に、自分は逃げていないと伝えられれば。


 そう思った。


 だが、同時に別の考えが浮かぶ。


 電話をすれば、相手の名が残る。


 父の名。


 美月の名。


 通話時刻。


 発信場所。


 逃走後の接触。


 その言葉まで浮かんだ時、晴臣は自分の頭の中にまだ藤原の紙が残っていることを知った。


 車の中に藤原はいない。


 なのに、思考に紙が張り付いている。


 晴臣は唇を噛んだ。


「出して」


 黒い上着の男が手を差し出した。


 その手は細かった。だが、指先に力がある。何度も人から何かを受け取ってきた手だった。


 晴臣は携帯電話を渡した。


 男はそれを布袋ではなく、自分の上着の内側へしまった。


「財布も」


「身分証もですか」


「必要なものだけ残す」


「何に必要なんですか」


「運ぶのに」


 晴臣は男を見た。


 男は、しまったという顔もしなかった。


 言い間違いではない。


 この男たちにとって、晴臣は運ばれるものなのだ。


 運ばれる人間。


 逃げる者ではなく、運ばれる荷物。


 晴臣は財布を出した。


 免許証、保険証、研究室の身分証、数枚の札。男はそれらを手早く確認し、小さな封筒へ入れた。封筒には何も書かれていない。だが、晴臣にはそこに自分の名が消えていくように見えた。


「身分証は返してください」


「後で」


「後とはいつですか」


「後だ」


 会話はそこで切られた。


 晴臣は膝の上で拳を握った。


 外へ飛び出すことはできない。


 走って逃げることもできない。


 車は山道を走っている。夜で、土地勘も薄い。戻れば警察に見つかるかもしれない。だが、その時、自分は何と説明するのか。


 斎部に連れ出された。


 知らない男に車へ乗せられた。


 携帯と財布を取られた。


 そう言えばいい。


 事実だから。


 しかし、事実は並べ方で別のものになる。


 警察車両から離れた。


 所在を明らかにしなかった。


 携帯電話を使用していない。


 現金と身分証を持たず移動した。


 誰かに匿われていた。


 そうも書ける。


 晴臣は目を閉じた。


 自分はもう、自分の言葉を信じられなくなっている。


 車が急に減速した。


 舗装路から外れ、古い作業道へ入る。しばらく進むと、木々が途切れた。そこには、廃業した製材所のような建物があった。屋根は錆び、壁のトタンはところどころ剥がれている。門柱には、古い会社名の跡が白く残っていたが、夜目には読めなかった。


 敷地の奥に、別の車が停まっていた。


 箱型の白い車だった。


 荷台の側面には何の文字もない。観光地の土産物を運ぶ車にも、冷凍品を運ぶ車にも見える。目立たない。何の記憶にも残らない車だった。


 ワゴン車が止まる。


 後部ドアが開いた。


「降りろ」


 しかし、晴臣は動かなかった。


「ここはどこですか」


「中継地点だ」


「私はどこへ運ばれるんですか」


 黒い上着の男は少しだけ首を傾けた。


「まだ聞いていない」


「あなたも知らない?」


「知らない方がいいこともある」


 晴臣は車を降りた。


 地面はぬかるんでいた。山の水が敷地の端から入り、砂利の間に黒く溜まっている。雨は降っていない。それなのに、ここにも水があった。


 晴臣は足元を見た。


 水はただの水だった。


 だが、黒沢の岩の根元ににじんでいた水を思い出す。水のない場所にあった水。長方形の痕。黒い羽根。藤原に伝えたはずの報告。


 それは、もうどこにもない。


 晴臣の言葉の中にしかない。


 だから、弱い。


 製材所の中から、別の男が出てきた。


 年齢は四十前後。短い髪に、灰色の作業服。手には小さな手帳を持っている。手帳は革表紙ではなく、安い事務用のものだった。だが、晴臣はそれを見た瞬間、嫌な感覚を覚えた。


 また紙か。


 また、名が書かれる。


「これか」


 作業服の男が言った。


「これです」


 黒い上着の男が答えた。


「水科晴臣」


 作業服の男が手帳を見ながら言った。


 晴臣は顔を上げた。


「私の名前を」


「名前くらいは聞いている」


 男は晴臣の顔と手帳を見比べた。


「二十九。研究員。奥木出身。北宮の確認に同行。黒沢の最終同行者」


「その言い方をやめてください」


 晴臣は言った。


「私は先生を殺していません」


 作業服の男は、少しも驚かなかった。


 むしろ、その言葉を待っていたように見えた。


「誰も殺したとは言っていない」


「そう聞こえる言い方です」


「そう聞こえる状況なんだろう」


 藤原と同じ言葉だった。


 晴臣は息を詰めた。


 この男たちも藤原の紙を読んでいるのか。


 それとも、こういう言葉はどこでも同じなのか。


 作業服の男は手帳へ短く何かを書いた。


 その音は、藤原の筆記音より乱暴だった。


 だが、同じだった。


 人を文字にする音だった。


「症状は」


 作業服の男が聞いた。


 黒い上着の男が答える。


「車内では異常なし。意識明瞭。会話可能。嘔吐なし。錯乱なし」


「水音は」


「訴えなし」


「泥の味は」


「不明」


 晴臣は二人を見た。


「何の話ですか」


 作業服の男が、初めて晴臣をまっすぐ見た。


「ないのか」


「何が?」


「耳の奥で水が鳴るとか、口の中に泥の味がするとか、息が詰まるとか」


 斎部と同じことを言っている。


 晴臣は背筋に冷たいものを感じた。


「ありません」


「本当に」


「ありません」


「眠気は」


「疲れています」


「それはそうだろう」


 男は手帳へ書いた。


 異常なし。


 その四文字が見えた。


 晴臣は、その文字にぞっとした。


 異常がないことが、異常として記録されている。


「なぜそんなことを聞くんですか」


「上が気にしている」


「上?」


「奥木の上だ」


「北宮ですか」


 作業服の男は答えなかった。


 黒い上着の男が晴臣の胸元を見た。


「胸のそれは」


 晴臣は反射的に守り袋を押さえた。


「触らないでください」


「中身は」


「知りません」


「水科家のものか」


 まただ。


 斎部も同じ反応をした。


 水科。


 守り袋。


 見ても壊れない。


 晴臣は自分の知らない自分が、他人の口から作られていくのを感じた。


 作業服の男が言った。


「胸のものは触るな」


 黒い上着の男が手を引いた。


 晴臣は聞いた。


「指示ですか」


「指示だ」


「誰の」


 作業服の男は答えなかった。


 答えない。


 答えないことが多すぎる。


 だが、答えない者たちは、晴臣のことだけは知っている。


 名前。


 年齢。


 職業。


 出身。


 黒沢との関係。


 手帳を出したこと。


 異常がないこと。


 守り袋を持っていること。


 晴臣自身が知らない意味まで。


「私は、警察へ行きます」


 晴臣は言った。


 声は震えていたが、言葉にはなった。


 作業服の男は手帳を閉じた。


「戻れない」


「あなたたちに止める権利はない」


「権利の話は藤原先生にしろ」


 その名が出た。


 晴臣は顔を上げた。


「藤原さんを知っているんですか」


「…名前だけだ」


「嘘だ」


「嘘をつくほど知り合いではない」


 作業服の男は面倒そうに言った。


「紙はあちら。道はこちら。俺たちは道の先だ」


 紙。


 道。


 晴臣は、斎部の言葉を思い出した。


 藤原は紙だ。


 斎部は道を知っている。


 では、この男たちは何なのか。


 道の先。


 人が、紙から紙へ移された後に現れる者たち。


 晴臣は一歩退いた。


 黒い上着の男が、すぐに横へ回る。


 乱暴ではない。


 だが、逃げ道だけを消す動きだった。


「水科さん」


 作業服の男が言った。


「ここで騒いでも、あなたが困るだけだ」


「私はもう困っています」


「もっと困る」


「脅しですか」


「説明だ」


 その言い方も、藤原に似ていた。


 晴臣は吐き気を覚えた。


 どこへ行っても、同じ構造がある。


 命令ではない。


 脅迫ではない。


 説明。


 確認。


 預かる。


 整理する。


 運ぶ。


 言葉だけが整っている。


 整った言葉の奥で、人だけが失われていく。


 作業服の男は白い車の後部を開けた。


 中は空ではなかった。


 簡易の棚と、古い毛布と、いくつかの木箱が積まれている。木箱には紙の札が貼られていた。美術品の輸送に使うような箱だった。割れ物注意、と赤い文字が見える。だが、その字は古く、何度も剥がして貼り直した跡があった。


 男が木箱の一つを指で叩いた。


「これと一緒に行く」


「どこへ」


「町の外」


「その先は」


「別の者が知っている」


 晴臣は笑いそうになった。


 誰も全部を知らない。


 誰も最後まで責任を持たない。


 それなのに、晴臣だけが最初から最後まで運ばれる。


「乗れません」


 晴臣は言った。


 黒い上着の男が、少しだけ息を吐いた。


「乗れ」


「嫌です」


「では、形が悪くなる」


「形?」


「自分で乗った方がいい」


 晴臣は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。


 自分で歩く。


 自分で出す。


 自分で乗る。


 その形が必要なのだ。


 藤原が手帳を奪わなかったように。


 警察官が任意と言ったように。


 斎部が走るな、歩けと言ったように。


 この男たちも、晴臣が自分で荷台へ上がる形を欲しがっている。


 晴臣は足を動かさなかった。


 作業服の男の目が冷たくなる。


「時間がない」


「警察が来るからですか」


「警察は別にいい」


「では何が」


「夜が明ける」


 それは、ひどく古い理由に聞こえた。


 南の火があるうちに帰れ。


 北の用事を夜へ持ち越すな。


 父はそう言った。


 晴臣は守らなかった。


 もう南の火は遠い。


 夜は奥木の外へまで延びている。


 そして、この男たちは夜が明ける前に晴臣をさらに外へ移そうとしている。


 作業服の男が、黒い上着の男へ目を向けた。


 黒い上着の男が晴臣の腕を取った。


 強い力だった。


「やめてください」


「形が悪くなるぞ」


「やめろ!」


 晴臣は初めて大きな声を出した。


 製材所の錆びた壁に声が当たり、夜へ跳ねた。


 その瞬間、どこかで烏が鳴いた。


 一羽だけだった。


 だが、その声で男たちの動きが一瞬止まった。


 晴臣も止まった。


 烏は偶然だ。


 そう思った。


 思おうとした。


 だが、もう偶然という言葉にも安心できなかった。


 作業服の男が舌打ちした。


「急げ」


 黒い上着の男が晴臣を押す。


 晴臣は抵抗した。


 足元が滑り、膝が砂利に打ちつけられる。痛みが走った。守り袋が胸元で揺れた。男がその胸元には触れないよう、腕と肩だけを押さえる。


 触るなという指示を守っている。


 その冷静さが、かえって恐ろしかった。


 晴臣は荷台へ押し上げられた。


 毛布の上に倒れ込む。


 木箱の角に肩が当たり、鈍い痛みが走った。顔を上げると、作業服の男が荷台の外からこちらを見ていた。


「水科晴臣」


 男は言った。


 晴臣は返事をしなかった。


「あなたは今夜、警察へ向かう途中で所在が分からなくなる」


「違う」


「周りからはそう見える」


「違う!」


「あなたがそう言っても、あなたはここにいる」


 男は手帳を開き、何かを書いた。


「奥木外搬出。異常なし。守り所持。自発乗車、不可」


 最後の言葉だけ、晴臣にも聞こえた。


 自発乗車、不可。


 それでも書かれる。


 それでも、運ばれる。


 形が悪くても、紙には載る。


 男は手帳を閉じた。


「閉めろ」


 黒い上着の男が荷台に乗り込んだ。


 扉が閉められる。


 外の夜気が切られ、荷台の中は暗くなった。小さな通気口から、製材所の灯りが細く入っているだけだった。


 車が動き出した。


 最初はゆっくり。


 砂利を踏む音。


 門を出る音。


 舗装路へ戻る音。


 晴臣は毛布の上で体を起こした。


 黒い上着の男は、向かいに座っている。


「どこへ」


 晴臣は聞いた。


 男は答えない。


「奥木へ戻してください」


 答えない。


「父が待っています」


 答えない。


「美月が」


 そこで声が詰まった。


 美月の顔が浮かぶ。


 今、話して。


 あの声。


 あの数歩。


 渡れなかった距離。


 それが、最後になった。


 晴臣は手で顔を覆った。


 泣いているのか、自分でも分からなかった。涙は出ていない。ただ、体の奥が空洞になっていくようだった。


 黒い上着の男が、少しだけ視線を逸らした。


 同情ではない。


 見ない方がいいものを見る時の態度だった。


 しばらくして、男が言った。


「奥木には戻れない」


 晴臣は顔を上げた。


「なぜ分かる」


「戻れる者は、ここに来ない」


「あなたは何人、ここから運んだんですか」


 男は答えなかった。


 その沈黙で十分だった。


 晴臣は荷台の木箱を見た。


 割れ物注意。


 美術品。


 祭具。


 書かれている文字はそれだけだった。


 だが、その奥に、もっと別のものが積まれている気がした。


 人。


 名前。


 記録。


 誰かの家から消えたもの。


 誰かが戻らなかった理由。


 奥木の祭りの年に消える者。


 父が言った。


 柱の年には、消える者もいる。


 名前が残っていないから、知らん。


 だから消えたんだろう。


 晴臣は、初めてその言葉の意味を体で理解した。


 消えるとは、死ぬことだけではない。


 名簿から外されること。


 記録の扱いを変えられること。


 行方を自分で説明できなくなること。


 生きていても、戻る場所で別の名を与えられること。


 車は山道を抜けた。


 揺れが少し滑らかになる。遠くで大きな道路を走る音が聞こえた。奥木の細い道ではない。外の道だ。


 晴臣は通気口から外を見ようとした。


 何も見えない。


 ただ、夜の空が少し明るくなっていた。


 東の端が、ほんのわずかに白い。


 夜明けが近い。


 南宮の祭りは、まだ続いているだろう。


 父は家へ帰っただろうか。


 赤飯はそのままだろうか。


 美月は、まだ会館にいるだろうか。


 警察は、私を探しているだろうか。


 斎部は、何と答えるだろうか。


 藤原は、何を紙に書くのだろうか。


 そのどれにも、晴臣はもう触れられなかった。


 荷台の中で、守り袋がまた冷たくなった。


 今度は長かった。


 布の奥の硬いものが、胸に食い込むようだった。痛みではない。だが、そこだけが、晴臣の体の中で奥木に繋がっているように感じられた。


 黒い上着の男が、それに気づいた。


「どうした」


「何でもない」


「苦しいのか」


「違う」


「水の音は」


「聞こえない」


「泥は」


「味もしない」


 男は黙った。


 その沈黙には、安堵ではなく、不気味さがあった。


 晴臣が壊れないこと。


 それは、ここでも問題なのだ。


 車の外で、大型車の音がした。


 高速道路か、国道か、晴臣には分からない。ただ、奥木の外の音だった。人も物も金も、土地の事情など知らずに流れていく音。


 その流れに、晴臣も乗せられている。


 人としてではない。


 荷として。


 紙に書かれた一行として。


 木箱の隣に置かれた、壊れものとして。


 黒い上着の男が、膝の布袋を開いた。


 中から、小さな札を取り出す。紙ではなかった。薄い金属片のようなものだった。そこに紐が通してある。


 男はそれを晴臣に見せなかった。


 ただ、指で撫で、また布袋へ戻した。


 晴臣は、その札から目を離せなかった。


「それは何ですか」


「今は要らない」


「後で使うんですか」


 男は答えなかった。


 答えないまま、布袋の口を縛った。


 荷台の暗がりで、その音だけが残った。


 きゅっと、何かを閉じる音。


 晴臣はその音を聞きながら、黒沢の手帳のことを思い出した。


 黒沢の記録は消えた。


 晴臣の手帳は藤原に渡った。


 そして自分は、別の紙に移された。


 これ以上、何を失えば人は消えるのか。


 答えはすぐ近くにあった。


 名前を呼ぶ者の声だ。


 父の声。


 美月の声。


 黒沢の声。


 それらが遠ざかり、届かなくなった時、人は生きたまま消える。


 車が速度を上げた。


 夜明け前の道を、奥木から離れていく。


 晴臣は目を閉じた。


 眠るつもりはなかった。


 だが、体は限界だった。黒沢の死、手帳、父、美月、斎部、烏、車、紙。すべてがばらばらに浮かび、重なり、やがて一つの黒い水面のようになった。


 その水面に、自分の顔は映らなかった。


 代わりに、柱が立っていた。


 南宮の柱ではない。


 北へ向かって逆さに沈む、黒い柱だった。


 晴臣は目を開けようとした。


 開かなかった。


 最後に聞こえたのは、黒い上着の男の声だった。


「奥木の荷、一つ」


 誰かが無線か電話の向こうで答えた。


 その声は聞き取れなかった。


 男は短く言った。


「異常なし。ただし、守り所持」 


 そこで、晴臣の意識は途切れた。


 夜明けの前、奥木湖は後方に消えた。


 水科晴臣の名は、まだ死者の名簿には載っていない。


 だが、帰る者の名簿からは、もう外され始めていた。

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