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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
存在消失

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17/20

十七 移される名


 車の中は、思ったより静かだった。


 晴臣は後部座席に座っていた。右側の窓の外には、夜の奥木湖が広がっている。湖面は黒く、南宮の火をところどころに映していた。祭りの明かりは遠ざかるほど小さくなり、やがて水に落ちた赤い傷のようにしか見えなくなった。


 前の席には、二人の警察官がいる。


 運転席に制服の警察官。


 助手席に私服の警察官。


 どちらも、晴臣に乱暴な態度は取らなかった。


 任意です。


 そう言われた。


 けれど、任意という言葉は、もう晴臣の中で形を失っていた。


 任意で会館にいた。


 任意で手帳を提出した。


 任意で話を聞かれた。


 任意で車に乗った。


 そのどれもが、晴臣には自分で選んだことのように見えた。見えるように整えられていた。だが、選んだ先はいつも一つしかなかった。


 車は南宮から湖沿いの道へ出て、ゆっくり北へ回り込んでいた。


 署へ向かうなら、本来は町へ下りる道を取るはずだった。けれど祭りの交通規制で南の大通りは詰まっている。警察官は、北側を抜ける道の方が早い、と説明した。


 晴臣は頷いただけだった。


 窓の外に、黒い森が近づく。


 北宮の方角だった。


 胸元で守り袋が小さく揺れる。


 手帳はない。


 その事実が、何度も胸の内側を空振りした。


 ないものを、まだ体が探している。


「気分は悪くありませんか」


 助手席の私服の警察官が振り返った。


 晴臣は少し遅れて答えた。


「大丈夫です」


「無理はしないでください。今夜は長くなります」


 親切な声だった。


 それが余計につらかった。


 晴臣は窓の外へ目を戻した。


 黒沢の顔が浮かぶ。


 岩の上で、祈るように伏せていた姿。


 濡れた襟。


 口元の泥のついた布片。


 岩の根元ににじんでいた水。


 岩の上にあったA4用紙サイズの水の痕


 晴臣は水の痕のことを言った。


 藤原に言った。


 あそこに調査内容を記した紙があったのではないか。


 晴臣はそう思った。


 だが、その言葉は消えた。


 警察官に、藤原はその話をしなかった。


 持ち去った誰かにつながる可能性があったはずなのに。


 黒沢の鞄。


 記録類の未発見。


 晴臣の手帳。


 鏡様の見立て。


 そこまでは並んでいた。


 並べなかったものは、なかったことになる。


 晴臣はそのことを、車の揺れの中で思い知っていた。


 道は細くなった。


 湖沿いから山側へ少し入り、北宮へ続く脇道の近くを通る。祭りの夜だというのに、この辺りには人影がない。南宮の火も、もう届かない。


 車の前方で、何かが動いた。


 運転席の警察官が、短く声を上げた。


「おい」


 車が減速する。


 ヘッドライトの中へ、黒いものが数羽、舞い降りた。


 烏だった。


 一羽ではない。


 三羽。


 いや、五羽。


 夜の道に、黒い影がばらばらと落ちる。羽を広げ、首を傾け、濡れたような目で車を見ている。


 運転席の警察官がブレーキを踏んだ。


 車は止まった。


「危ないな」


 制服の警察官が呟いた。


 烏は飛び立たない。


 ヘッドライトの白い光の中で、黒い羽だけが妙にはっきり浮かんでいる。一羽が嘴で路面をつついた。何もないはずのアスファルトを、何かを拾うように。


 晴臣は息を止めていた。


 どうして逃げなんだろうか。


 北宮の森一帯の杉に住む烏だった。


 あの時、沢の上流の岩に立っていた時に聞いた羽音も烏だったんだろう。


 清臣にはそう思えた。


「ちょっと見てきます」


 制服の警察官が言った。


「車で轢いたら面倒だ」


 助手席の警察官も前方を見ている。


「木の実でも落ちていますか?」


「分かりません。鳥が何かつついてる」


 運転席の扉が開いた。


 夜気が入り込む。


 湖の匂いと、湿った木の匂いがした。


 制服の警察官が外へ出る。助手席の警察官も、少し遅れて扉を開けた。完全に車を離れたわけではない。ただ、前方を確認するために一歩、二歩と出た。


 その瞬間、晴臣の左側の扉が静かに開いた。


 晴臣は振り向いた。


 斎部嘉平がいた。


 暗がりの中に、顔だけが浮かんでいる。法被は着ていない。黒い上着を羽織り、片手で扉を押さえていた。息は荒い。額には汗が滲んでいる。


「降りろ」


 斎部は囁いた。


 晴臣は動けなかった。


「なんで…」


「いいから降りろ。今しかない」


「これか警察に…」


「任意だろうが」


 斎部の声が低くなった。


「逃げるんじゃない。移るだけだ」


「移る?」


「ここで署に入ったら、お前の言葉は全部あっちの紙になる」


 晴臣は前方を見た。


 警察官二人はまだ烏の方を見ている。制服の警察官が路面に落ちた枝を足でどけていた。烏が一羽、ばさりと羽を打つ。警察官が反射的に身を引いた。


 偶然だ。


 晴臣はそう思った。


 この烏を、斎部が操ったわけではない。


 斎部にそんな力はない。


 だが、斎部は隙を待っていた。


 烏が降りた。


 車が止まった。


 その一瞬を、拾った。


「水科」


 斎部が、晴臣の腕を掴んだ。


 その手は冷たかった。


 驚くほど冷たい。


「降りろ」


 晴臣は車を降りた。


 足が地面についた瞬間、自分が決定的なことをしていると分かった。


 警察官に断らず車を降りる。


 それがどう書かれるか、もう分かっている。


 任意同行中に車外へ出た。


 同行を離れた。


 所在不明。


 逃走。


 言葉が勝手に並ぶ。


「だめです。これは」


「黙って歩け」


 斎部は晴臣を車の後方へ引いた。


 そこには、湖へ下りる細い道があった。道というより、昔の獣道のようなものだ。草が倒れ、石が露出し、湖からの湿気が上がっている。


「斎部さん」


 晴臣は腕を振りほどこうとした。


「私は逃げるつもりはない」


「分かってる」


「なら戻してください」


「戻したら終わる」


「何が」


「お前だ」


 斎部は振り返った。


 顔が近い。


 その目の下には、濃い影があった。いつもの薄笑いはない。口元は乾き、頬が少し痙攣している。


「お前、自分がまだ選べると思ってるだろ」


「思っていません」


「思ってる。だから車に乗った。だから手帳も出した。だから美月ちゃんにも何も言えなかった」


 晴臣は言葉に詰まった。


 斎部はさらに強く腕を引いた。


「今さら正しい道なんかない。あるのは、どの紙に載るかだけだ」


 後ろで声がした。


「水科さん?」


 警察官の声だった。


 斎部が晴臣の背を押す。


「走るな。音を立てるな。歩け」


 矛盾した指示だった。


 だが、その方がよかった。


 走れば、逃げているように見える。


 歩けば、まだ歩いているだけに見える。


 そういうことまで、斎部は考えているのかもしれなかった。


 二人は湖へ下る細道へ入った。


 木々がすぐに視界を塞ぐ。ヘッドライトの白い光が枝で細かく切れ、背後で揺れた。烏の声が一つ、鋭く鳴いた。


 それを合図にしたように、前方の烏が一斉に飛び立った。


 羽音が夜を叩く。


 警察官の声が大きくなる。


「水科さん!」


 晴臣は立ち止まりかけた。


 斎部が低く言った。


「振り向くな」


「戻るな、本当に逃げたことになるぞ」


「どう言うこと!?」


 斎部は言った。


「お前が戻っても、戻らなくても、そう見えるようになる」


 晴臣は呼吸を乱した。


 足元の石が滑る。斎部が腕を掴んで支えた。二人は湖畔へ向かわず、途中で横へ折れた。古い作業道があった。北宮の裏手から、昔の材木道へ抜ける道だ。


 晴臣は子どもの頃、この辺りを歩いたことがある。


 父に怒られた場所だ。


 北へ行くな。


 見えるものを信じすぎるな。


 水の逃げを塞ぐな。


 父の声が、暗い木々の間に浮かんだ。


 斎部は迷わず進む。


 その背中を見て、晴臣は初めて思った。


 この男は、道を知っている。


 人が通る道も。


 人を通さない道も。


 そして、人を消す道も。


「斎部さん」


「喋るな」


「なぜ私を連れ出したんですか」


 斎部は答えなかった。


「警察から逃がしたかったんですか?」


「違う」


「じゃあ、何ですか」


「北宮に一度来てもらう」


「北宮に?」


 斎部は足を止めた。


 木々の間から、湖が少しだけ見えた。南宮の火は遠い。対岸の北宮は、ほとんど闇そのものだった。


「お前、平気なんだな」


 斎部が言った。


「何が?」


「あの函を見た。逆井も見た。黒沢先生の死体も見た。なのに、お前はまだ立ってる」


「平気なわけがない」


「そういう話じゃない」


 斎部は自分の耳の後ろを押さえた。


「俺はさっきから、水の音がする」


 晴臣は黙った。


「耳の奥で、ずっとだ。沢の音みたいな、井戸の底みたいな音がする。口の中も泥っぽい。何度唾を吐いても消えない」


 斎部の声は掠れていた。


「あの場にいた神職の一人は、手が冷えると言ってた。火のそばにいても温まらないってな。もう一人は目の奥が痛いと。文庫の女も、声が変だった。あれは隠してたが、俺には分かる」


「疲れでは」


「疲れならいい」


 斎部は笑った。


 短く、乾いた笑いだった。


「そう思いたい奴は、みんなそう思う。祭りの疲れ。寒さ。黒沢先生の死を見た動揺。そういうことにしておけば、紙には載せやすい」


「土師さんは?」


「あいつは北宮に見られていない」


 斎部は即座に言った。


「出蔵にも、逆井にも立ってない。だから、あいつにこれは出ない。あいつは別のものでおかしくなるがな」


「別のもの?」


「欲だよ」


 斎部はまた歩き出した。


「外から奥木を欲しがる奴は、奥木に触れてないのに奥木で狂う」


 その言葉は、土師のことだけを言っているようには聞こえなかった。


 晴臣は胸元に手を当てた。


 守り袋はある。


 手帳はない。


 そこにあるものと、ないものの差が、暗い道の中でくっきり分かれた。


「私は平気じゃありません」


「黒沢先生は死んだ」


 斎部は前を向いたまま言った。


「神職も俺も、少しずつおかしい。文庫の女だって、あの顔で平気なふりをしてるだけだ。なのに、お前だけは壊れていない」


「守り袋があるからかもしれない」


 斎部が足を止めた。


「それを誰からもらった」


「父です」


「中身は」


「知りません」


「水科か」


 斎部は低く言った。


「やっぱり、水科か」


 晴臣は眉を寄せた。


「何を知っているんですか」


「知らん」


「またそれですか」


「知らんものは知らん」


 斎部は振り向いた。


「だが、知らないことと、何もないことは違う」


 その言葉は、父が言いそうな言葉だった。


 晴臣は一瞬、斎部の顔を見失った。


 この男は敵なのか。


 味方なのか。


 助けようとしているのか。


 別の場所へ渡そうとしているのか。


 分からない。


 ただ、分からないまま、晴臣はもう警察車両から離れている。


 戻れない距離に来ている。


 斎部は懐から携帯電話を出した。


 画面の光が、暗がりで斎部の顔を青く照らす。


 メールが届いていた。


 斎部は一瞬、動きを止めた。


 晴臣からは文面が見えなかった。ただ、短い文章らしいことだけは分かった。斎部の親指が画面の上で止まっている。


「誰からですか」


 斎部は答えない。


 画面を見つめたまま、息を吐いた。


 その横顔に、迷いがあった。


 初めて見る迷いだった。


 斎部嘉平という男は、いつも何かを知っているような顔をしていた。断片だけを投げ、相手の反応を測る。どこにも属していないように見せながら、どこにでも出入りする。


 その男が、今、迷っている。


 晴臣はそこに、ひどく嫌なものを感じた。


「斎部さん」


 斎部は携帯を閉じた。


「予定が変わった、奥木を出る」


「どこへ」


「人が待ってる」


「誰ですか」


「知らん」


「信用できるんですか?」


 斎部は答えなかった。


 答えなかったことが、答えだった。


 晴臣は後ずさった。


「私は行きません」


「もう戻れない」


「なら警察に戻る」


「戻れば、あいつらはお前を逃げた者として扱う」


「あなたが連れ出したと言います」


「言えばいい。誰が信じる?」


 斎部の声が低くなった。


「俺は道案内だ。どこにでもいる。どこにもいない。お前は黒沢先生と最後にいた。手帳を出した。警察車両から離れた。どっちが紙に残りやすい」


 晴臣は言葉を失った。


 斎部は一歩近づいた。


「水科。俺はお前を助けてるわけじゃない」


「分かっています」


「分かってない」


 斎部は苦い顔をした。


「助けてるなら、会館へ戻す。父親のところへ戻す。美月ちゃんに会わせる。そういうのが助けるってことだ」


「じゃあ、何をしているんですか」


「移してる」


 斎部は言った。


「警察の紙から、別の紙へ」


 晴臣は喉の奥が詰まった。


 移される。


 名が。


 場所が。


 扱いが。


 自分の体ごと。


 奥木では、名前は呼ぶ前に載せる。


 名は、呼ぶ前に沈める。


 そんな言葉を、誰かが言っていたような気がした。


 実際に聞いたわけではない。


 だが、今の晴臣には分かった。


 南宮の名簿は人を呼ぶ。


 北宮の名簿は、人を別の場所へ移す。


「誰の指示ですか?」


 晴臣は聞いた。


 斎部は答えなかった。


「北宮ですか?」


 斎部の目が、わずかに動いた。


 それで十分だった。


 晴臣は息を吸った。


「北宮は、私をどうするつもりですか」


「知らん」


「知らないのに従うんですか」


「知って従う奴の方が少ない」


 斎部は携帯を握りしめた。


「奥木は、そういう場所だ」


 遠くでサイレンが鳴った。


 小さく、しかし確かに。


 警察車両が晴臣の不在に気づき、連絡を入れたのだろう。音はまだ遠い。だが、すぐに増える。


 斎部が顔を上げた。


「時間がない」


「どこへ行くんですか」


「古い材木道の先だ」


「そこに誰が」


「待っているヤツがいる」


「それは何者ですか?」


「奥木の外の人間だ」


「外?」


「そういうことになってる」


 斎部は歩き出した。


 晴臣は動かなかった。


 斎部が振り返る。


「来い」


「行けば、戻れなくなる」


「もう戻れない」


 その言葉は、あまりに簡単だった。


 簡単だから、鋭かった。


 晴臣は南宮の方角を見た。


 ここからは、もう火も見えない。


 美月の声も聞こえない。


 父の足音も聞こえない。


 手帳もない。


 黒沢もいない。


 あるのは、胸元の守り袋と、耳の奥に残る水の音だけだった。


 いや。


 水の音は、晴臣には聞こえていなかった。


 斎部には聞こえるという音が、晴臣には聞こえない。


 それが何より不気味だった。


 自分だけが平気であること。


 それが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。


 斎部は、それを見ていた。


「お前には何かある」


「ありません」


「ある」


「ない」


「なら、なぜ壊れない?」


 晴臣は答えられなかった。


 壊れていないのか。


 それとも、壊れていることに気づいていないだけなのか。


 黒沢は、いつから壊れていたのだろう。


 石函に触れた時か。


 逆井を見た時か。


 一人で沢へ向かった時か。


 それとも、もっと前からか。


 晴臣は胸元の守り袋を握った。


 布の中の硬いものが、指に触れる。


 父が渡したもの。


 祖父から父へ、父から晴臣へ渡されたもの。


 何かを跳ね返すものではない。


 父はそう言った。


 では、これは何なのか。


 何を通しているのか。


 何を流しているのか。


 斎部が低く言った。


「水科は、見る家じゃない」


 晴臣は顔を上げた。


「今、何て」


 斎部はしまった、という顔をした。


「斎部さん」


「忘れろ」


「今、何て言ったんですか」


「忘れろと言った」


「水科は、見る家じゃない?」


 斎部は舌打ちした。


「俺だって意味は知らん。ただ、そう言う年寄りがいた」


「続きは」


「知らん」


「嘘だ」


「知らん」


 斎部は強く言った。


 その声には、本当に知らない者の苛立ちと、少しだけ知っている者の恐怖が混じっていた。


「見る家じゃない。なら何なんですか」


「だから知らん」


 斎部は歩き出した。


「ただ、お前は見た。函を見て、鏡だと言った。なのに壊れていない。だから連中は確かめたいんだ」


「連中?」


「北の中にも、いろいろいる」


 斎部は吐き捨てるように言った。


「怖がってる奴。隠したい奴。使いたい奴。何も知らないのに、知った顔で手順だけ守る奴。俺も、その端にいる」


「藤原さんは」


「紙だ」


 斎部は即答した。


「藤原先生は紙だ。北の人間じゃない顔をして、必要な時に紙になる。書いて、揃えて、渡す。嘘は書かない。だから厄介だ」


「土師さんは」


「欲しがる奴だ」


 斎部は言った。


「あいつは見てない。だから平気な顔で欲しがれる。見た奴が震えているものを、見てない奴は研究成果にできる」


 晴臣は黙った。


 土師が藤原の部屋で手帳を見ていた顔を思い出す。


 恐れていた。


 だが、欲しがってもいた。


 黒沢のいない場所で、黒沢の記録の近くに立つこと。


 晴臣から、それを奪うこと。


 本人はそう思っていないのかもしれない。


 だが、そう動いている。


 森が少し開けた。


 古い材木道へ出た。


 道幅は狭いが、車が一台なら通れる。轍が浅く残っている。昔は木を運んだ道なのだろう。今はほとんど使われていない。


 その先に、車が停まっていた。


 白でも黒でもない、灰色のワゴン車だった。ライトは消えている。運転席に人影がある。


 斎部が足を止めた。


 晴臣も止まった。


 サイレンの音が、さっきより近くなっている。


 斎部は携帯をもう一度見た。


 それから、晴臣を見た。


 一瞬だけ、何かを言いかけた。


 言わなかった。


「乗れ」


「嫌です」


「乗れ」


「斎部さん」


 晴臣は斎部を見た。


「あなたは、何を迷ったんですか」


 斎部の顔が歪んだ。


 答えはなかった。


 その沈黙の中に、答えがあった。


 このまま渡せば、晴臣は戻れない。


 斎部はそれを分かっている。


 分かっていて、渡そうとしている。


「助けてくれたわけじゃないんですね」


「最初に言っただろ」


「でも、少しは迷った」


 斎部は目を逸らした。


「水科」


 声が少し掠れた。


「俺みたいな奴の迷いに、意味を持たせるな」


 それは、懺悔のようにも聞こえた。


 同時に、拒絶でもあった。


 ワゴン車の後部ドアが内側から開いた。


 中に男が一人座っている。


 顔はよく見えない。黒い上着。細い手。膝の上に、古い布袋のようなものを置いている。


「急げ」


 男が言った。


 聞き覚えのない声だった。


 奥木の訛りがない。


 少なくとも、晴臣にはそう聞こえた。


 斎部が晴臣の背を押した。


 晴臣は抵抗した。


 だが、背後からサイレンが近づいてくる。


 警察へ戻れば、逃げた者になる。


 この車に乗れば、何になるのか分からない。


 どちらも、もう晴臣の道ではなかった。


 でも、迷っていても道があるわけでもないと思った。


 晴臣はワゴン車へ乗った。


 扉が閉まる。


 斎部は乗らなかった。


 外に立っている。


 晴臣は窓越しに斎部を見た。


「斎部さん」


 声は届いたか分からない。


 斎部は一度だけ、晴臣を見た。


 その目は、いつもの斎部ではなかった。


 笑っていない。


 茶化していない。


 逃げてもいない。


 ただ、ひどく疲れた男の目だった。


 ワゴン車が動き出す。


 斎部の姿が後ろへ流れていく。


 その背後の森で、烏が鳴いた。


 一羽。


 また一羽。


 偶然だ。


 晴臣はそう思おうとした。


 烏はただ、夜の森で鳴いただけだ。


 道に降りたのも偶然。


 車を止めたのも偶然。


 斎部がそこにいたのは、偶然ではない。


 ワゴン車は材木道を抜け、奥木の外へ向かって走り出した。


 車内は暗かった。


 隣の男は何も言わない。


 運転席の男も振り返らない。


 晴臣は胸元の守り袋を握ったまま、窓の外を見た。


 木々の隙間から、最後に湖が見えた。


 奥木湖。


 黒い水。


 南宮の火は、もう映っていない。


 北宮の森だけが、水面に沈んでいた。


 晴臣は、まだ自分がどこへ運ばれているのか知らない。


 警察の紙から外れたのか。


 北宮の紙へ移されたのか。


 それとも、もう紙にすら載らない場所へ送られるのか。


 ただ一つだけ分かった。


 これは逃走ではない。


 救出でもない。


 晴臣の名が、別の場所へ移されたのだ。


 車が山道を下る。


 奥木の境を越える少し手前で、守り袋が一度だけ冷たくなった。


 晴臣は息を止めた。


 すぐに、何も感じなくなった。


 それが守ったのか。


 通したのか。


 流したのか。


 晴臣には分からない。


 後ろの森で、サイレンが遠ざかっていく。


 前方には、知らない道が続いていた。


 その道の先で、晴臣を待っているものが何なのか。


 まだ、誰も教えてくれなかった。


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