十七 移される名
車の中は、思ったより静かだった。
晴臣は後部座席に座っていた。右側の窓の外には、夜の奥木湖が広がっている。湖面は黒く、南宮の火をところどころに映していた。祭りの明かりは遠ざかるほど小さくなり、やがて水に落ちた赤い傷のようにしか見えなくなった。
前の席には、二人の警察官がいる。
運転席に制服の警察官。
助手席に私服の警察官。
どちらも、晴臣に乱暴な態度は取らなかった。
任意です。
そう言われた。
けれど、任意という言葉は、もう晴臣の中で形を失っていた。
任意で会館にいた。
任意で手帳を提出した。
任意で話を聞かれた。
任意で車に乗った。
そのどれもが、晴臣には自分で選んだことのように見えた。見えるように整えられていた。だが、選んだ先はいつも一つしかなかった。
車は南宮から湖沿いの道へ出て、ゆっくり北へ回り込んでいた。
署へ向かうなら、本来は町へ下りる道を取るはずだった。けれど祭りの交通規制で南の大通りは詰まっている。警察官は、北側を抜ける道の方が早い、と説明した。
晴臣は頷いただけだった。
窓の外に、黒い森が近づく。
北宮の方角だった。
胸元で守り袋が小さく揺れる。
手帳はない。
その事実が、何度も胸の内側を空振りした。
ないものを、まだ体が探している。
「気分は悪くありませんか」
助手席の私服の警察官が振り返った。
晴臣は少し遅れて答えた。
「大丈夫です」
「無理はしないでください。今夜は長くなります」
親切な声だった。
それが余計につらかった。
晴臣は窓の外へ目を戻した。
黒沢の顔が浮かぶ。
岩の上で、祈るように伏せていた姿。
濡れた襟。
口元の泥のついた布片。
岩の根元ににじんでいた水。
岩の上にあったA4用紙サイズの水の痕
晴臣は水の痕のことを言った。
藤原に言った。
あそこに調査内容を記した紙があったのではないか。
晴臣はそう思った。
だが、その言葉は消えた。
警察官に、藤原はその話をしなかった。
持ち去った誰かにつながる可能性があったはずなのに。
黒沢の鞄。
記録類の未発見。
晴臣の手帳。
鏡様の見立て。
そこまでは並んでいた。
並べなかったものは、なかったことになる。
晴臣はそのことを、車の揺れの中で思い知っていた。
道は細くなった。
湖沿いから山側へ少し入り、北宮へ続く脇道の近くを通る。祭りの夜だというのに、この辺りには人影がない。南宮の火も、もう届かない。
車の前方で、何かが動いた。
運転席の警察官が、短く声を上げた。
「おい」
車が減速する。
ヘッドライトの中へ、黒いものが数羽、舞い降りた。
烏だった。
一羽ではない。
三羽。
いや、五羽。
夜の道に、黒い影がばらばらと落ちる。羽を広げ、首を傾け、濡れたような目で車を見ている。
運転席の警察官がブレーキを踏んだ。
車は止まった。
「危ないな」
制服の警察官が呟いた。
烏は飛び立たない。
ヘッドライトの白い光の中で、黒い羽だけが妙にはっきり浮かんでいる。一羽が嘴で路面をつついた。何もないはずのアスファルトを、何かを拾うように。
晴臣は息を止めていた。
どうして逃げなんだろうか。
北宮の森一帯の杉に住む烏だった。
あの時、沢の上流の岩に立っていた時に聞いた羽音も烏だったんだろう。
清臣にはそう思えた。
「ちょっと見てきます」
制服の警察官が言った。
「車で轢いたら面倒だ」
助手席の警察官も前方を見ている。
「木の実でも落ちていますか?」
「分かりません。鳥が何かつついてる」
運転席の扉が開いた。
夜気が入り込む。
湖の匂いと、湿った木の匂いがした。
制服の警察官が外へ出る。助手席の警察官も、少し遅れて扉を開けた。完全に車を離れたわけではない。ただ、前方を確認するために一歩、二歩と出た。
その瞬間、晴臣の左側の扉が静かに開いた。
晴臣は振り向いた。
斎部嘉平がいた。
暗がりの中に、顔だけが浮かんでいる。法被は着ていない。黒い上着を羽織り、片手で扉を押さえていた。息は荒い。額には汗が滲んでいる。
「降りろ」
斎部は囁いた。
晴臣は動けなかった。
「なんで…」
「いいから降りろ。今しかない」
「これか警察に…」
「任意だろうが」
斎部の声が低くなった。
「逃げるんじゃない。移るだけだ」
「移る?」
「ここで署に入ったら、お前の言葉は全部あっちの紙になる」
晴臣は前方を見た。
警察官二人はまだ烏の方を見ている。制服の警察官が路面に落ちた枝を足でどけていた。烏が一羽、ばさりと羽を打つ。警察官が反射的に身を引いた。
偶然だ。
晴臣はそう思った。
この烏を、斎部が操ったわけではない。
斎部にそんな力はない。
だが、斎部は隙を待っていた。
烏が降りた。
車が止まった。
その一瞬を、拾った。
「水科」
斎部が、晴臣の腕を掴んだ。
その手は冷たかった。
驚くほど冷たい。
「降りろ」
晴臣は車を降りた。
足が地面についた瞬間、自分が決定的なことをしていると分かった。
警察官に断らず車を降りる。
それがどう書かれるか、もう分かっている。
任意同行中に車外へ出た。
同行を離れた。
所在不明。
逃走。
言葉が勝手に並ぶ。
「だめです。これは」
「黙って歩け」
斎部は晴臣を車の後方へ引いた。
そこには、湖へ下りる細い道があった。道というより、昔の獣道のようなものだ。草が倒れ、石が露出し、湖からの湿気が上がっている。
「斎部さん」
晴臣は腕を振りほどこうとした。
「私は逃げるつもりはない」
「分かってる」
「なら戻してください」
「戻したら終わる」
「何が」
「お前だ」
斎部は振り返った。
顔が近い。
その目の下には、濃い影があった。いつもの薄笑いはない。口元は乾き、頬が少し痙攣している。
「お前、自分がまだ選べると思ってるだろ」
「思っていません」
「思ってる。だから車に乗った。だから手帳も出した。だから美月ちゃんにも何も言えなかった」
晴臣は言葉に詰まった。
斎部はさらに強く腕を引いた。
「今さら正しい道なんかない。あるのは、どの紙に載るかだけだ」
後ろで声がした。
「水科さん?」
警察官の声だった。
斎部が晴臣の背を押す。
「走るな。音を立てるな。歩け」
矛盾した指示だった。
だが、その方がよかった。
走れば、逃げているように見える。
歩けば、まだ歩いているだけに見える。
そういうことまで、斎部は考えているのかもしれなかった。
二人は湖へ下る細道へ入った。
木々がすぐに視界を塞ぐ。ヘッドライトの白い光が枝で細かく切れ、背後で揺れた。烏の声が一つ、鋭く鳴いた。
それを合図にしたように、前方の烏が一斉に飛び立った。
羽音が夜を叩く。
警察官の声が大きくなる。
「水科さん!」
晴臣は立ち止まりかけた。
斎部が低く言った。
「振り向くな」
「戻るな、本当に逃げたことになるぞ」
「どう言うこと!?」
斎部は言った。
「お前が戻っても、戻らなくても、そう見えるようになる」
晴臣は呼吸を乱した。
足元の石が滑る。斎部が腕を掴んで支えた。二人は湖畔へ向かわず、途中で横へ折れた。古い作業道があった。北宮の裏手から、昔の材木道へ抜ける道だ。
晴臣は子どもの頃、この辺りを歩いたことがある。
父に怒られた場所だ。
北へ行くな。
見えるものを信じすぎるな。
水の逃げを塞ぐな。
父の声が、暗い木々の間に浮かんだ。
斎部は迷わず進む。
その背中を見て、晴臣は初めて思った。
この男は、道を知っている。
人が通る道も。
人を通さない道も。
そして、人を消す道も。
「斎部さん」
「喋るな」
「なぜ私を連れ出したんですか」
斎部は答えなかった。
「警察から逃がしたかったんですか?」
「違う」
「じゃあ、何ですか」
「北宮に一度来てもらう」
「北宮に?」
斎部は足を止めた。
木々の間から、湖が少しだけ見えた。南宮の火は遠い。対岸の北宮は、ほとんど闇そのものだった。
「お前、平気なんだな」
斎部が言った。
「何が?」
「あの函を見た。逆井も見た。黒沢先生の死体も見た。なのに、お前はまだ立ってる」
「平気なわけがない」
「そういう話じゃない」
斎部は自分の耳の後ろを押さえた。
「俺はさっきから、水の音がする」
晴臣は黙った。
「耳の奥で、ずっとだ。沢の音みたいな、井戸の底みたいな音がする。口の中も泥っぽい。何度唾を吐いても消えない」
斎部の声は掠れていた。
「あの場にいた神職の一人は、手が冷えると言ってた。火のそばにいても温まらないってな。もう一人は目の奥が痛いと。文庫の女も、声が変だった。あれは隠してたが、俺には分かる」
「疲れでは」
「疲れならいい」
斎部は笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「そう思いたい奴は、みんなそう思う。祭りの疲れ。寒さ。黒沢先生の死を見た動揺。そういうことにしておけば、紙には載せやすい」
「土師さんは?」
「あいつは北宮に見られていない」
斎部は即座に言った。
「出蔵にも、逆井にも立ってない。だから、あいつにこれは出ない。あいつは別のものでおかしくなるがな」
「別のもの?」
「欲だよ」
斎部はまた歩き出した。
「外から奥木を欲しがる奴は、奥木に触れてないのに奥木で狂う」
その言葉は、土師のことだけを言っているようには聞こえなかった。
晴臣は胸元に手を当てた。
守り袋はある。
手帳はない。
そこにあるものと、ないものの差が、暗い道の中でくっきり分かれた。
「私は平気じゃありません」
「黒沢先生は死んだ」
斎部は前を向いたまま言った。
「神職も俺も、少しずつおかしい。文庫の女だって、あの顔で平気なふりをしてるだけだ。なのに、お前だけは壊れていない」
「守り袋があるからかもしれない」
斎部が足を止めた。
「それを誰からもらった」
「父です」
「中身は」
「知りません」
「水科か」
斎部は低く言った。
「やっぱり、水科か」
晴臣は眉を寄せた。
「何を知っているんですか」
「知らん」
「またそれですか」
「知らんものは知らん」
斎部は振り向いた。
「だが、知らないことと、何もないことは違う」
その言葉は、父が言いそうな言葉だった。
晴臣は一瞬、斎部の顔を見失った。
この男は敵なのか。
味方なのか。
助けようとしているのか。
別の場所へ渡そうとしているのか。
分からない。
ただ、分からないまま、晴臣はもう警察車両から離れている。
戻れない距離に来ている。
斎部は懐から携帯電話を出した。
画面の光が、暗がりで斎部の顔を青く照らす。
メールが届いていた。
斎部は一瞬、動きを止めた。
晴臣からは文面が見えなかった。ただ、短い文章らしいことだけは分かった。斎部の親指が画面の上で止まっている。
「誰からですか」
斎部は答えない。
画面を見つめたまま、息を吐いた。
その横顔に、迷いがあった。
初めて見る迷いだった。
斎部嘉平という男は、いつも何かを知っているような顔をしていた。断片だけを投げ、相手の反応を測る。どこにも属していないように見せながら、どこにでも出入りする。
その男が、今、迷っている。
晴臣はそこに、ひどく嫌なものを感じた。
「斎部さん」
斎部は携帯を閉じた。
「予定が変わった、奥木を出る」
「どこへ」
「人が待ってる」
「誰ですか」
「知らん」
「信用できるんですか?」
斎部は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
晴臣は後ずさった。
「私は行きません」
「もう戻れない」
「なら警察に戻る」
「戻れば、あいつらはお前を逃げた者として扱う」
「あなたが連れ出したと言います」
「言えばいい。誰が信じる?」
斎部の声が低くなった。
「俺は道案内だ。どこにでもいる。どこにもいない。お前は黒沢先生と最後にいた。手帳を出した。警察車両から離れた。どっちが紙に残りやすい」
晴臣は言葉を失った。
斎部は一歩近づいた。
「水科。俺はお前を助けてるわけじゃない」
「分かっています」
「分かってない」
斎部は苦い顔をした。
「助けてるなら、会館へ戻す。父親のところへ戻す。美月ちゃんに会わせる。そういうのが助けるってことだ」
「じゃあ、何をしているんですか」
「移してる」
斎部は言った。
「警察の紙から、別の紙へ」
晴臣は喉の奥が詰まった。
移される。
名が。
場所が。
扱いが。
自分の体ごと。
奥木では、名前は呼ぶ前に載せる。
名は、呼ぶ前に沈める。
そんな言葉を、誰かが言っていたような気がした。
実際に聞いたわけではない。
だが、今の晴臣には分かった。
南宮の名簿は人を呼ぶ。
北宮の名簿は、人を別の場所へ移す。
「誰の指示ですか?」
晴臣は聞いた。
斎部は答えなかった。
「北宮ですか?」
斎部の目が、わずかに動いた。
それで十分だった。
晴臣は息を吸った。
「北宮は、私をどうするつもりですか」
「知らん」
「知らないのに従うんですか」
「知って従う奴の方が少ない」
斎部は携帯を握りしめた。
「奥木は、そういう場所だ」
遠くでサイレンが鳴った。
小さく、しかし確かに。
警察車両が晴臣の不在に気づき、連絡を入れたのだろう。音はまだ遠い。だが、すぐに増える。
斎部が顔を上げた。
「時間がない」
「どこへ行くんですか」
「古い材木道の先だ」
「そこに誰が」
「待っているヤツがいる」
「それは何者ですか?」
「奥木の外の人間だ」
「外?」
「そういうことになってる」
斎部は歩き出した。
晴臣は動かなかった。
斎部が振り返る。
「来い」
「行けば、戻れなくなる」
「もう戻れない」
その言葉は、あまりに簡単だった。
簡単だから、鋭かった。
晴臣は南宮の方角を見た。
ここからは、もう火も見えない。
美月の声も聞こえない。
父の足音も聞こえない。
手帳もない。
黒沢もいない。
あるのは、胸元の守り袋と、耳の奥に残る水の音だけだった。
いや。
水の音は、晴臣には聞こえていなかった。
斎部には聞こえるという音が、晴臣には聞こえない。
それが何より不気味だった。
自分だけが平気であること。
それが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。
斎部は、それを見ていた。
「お前には何かある」
「ありません」
「ある」
「ない」
「なら、なぜ壊れない?」
晴臣は答えられなかった。
壊れていないのか。
それとも、壊れていることに気づいていないだけなのか。
黒沢は、いつから壊れていたのだろう。
石函に触れた時か。
逆井を見た時か。
一人で沢へ向かった時か。
それとも、もっと前からか。
晴臣は胸元の守り袋を握った。
布の中の硬いものが、指に触れる。
父が渡したもの。
祖父から父へ、父から晴臣へ渡されたもの。
何かを跳ね返すものではない。
父はそう言った。
では、これは何なのか。
何を通しているのか。
何を流しているのか。
斎部が低く言った。
「水科は、見る家じゃない」
晴臣は顔を上げた。
「今、何て」
斎部はしまった、という顔をした。
「斎部さん」
「忘れろ」
「今、何て言ったんですか」
「忘れろと言った」
「水科は、見る家じゃない?」
斎部は舌打ちした。
「俺だって意味は知らん。ただ、そう言う年寄りがいた」
「続きは」
「知らん」
「嘘だ」
「知らん」
斎部は強く言った。
その声には、本当に知らない者の苛立ちと、少しだけ知っている者の恐怖が混じっていた。
「見る家じゃない。なら何なんですか」
「だから知らん」
斎部は歩き出した。
「ただ、お前は見た。函を見て、鏡だと言った。なのに壊れていない。だから連中は確かめたいんだ」
「連中?」
「北の中にも、いろいろいる」
斎部は吐き捨てるように言った。
「怖がってる奴。隠したい奴。使いたい奴。何も知らないのに、知った顔で手順だけ守る奴。俺も、その端にいる」
「藤原さんは」
「紙だ」
斎部は即答した。
「藤原先生は紙だ。北の人間じゃない顔をして、必要な時に紙になる。書いて、揃えて、渡す。嘘は書かない。だから厄介だ」
「土師さんは」
「欲しがる奴だ」
斎部は言った。
「あいつは見てない。だから平気な顔で欲しがれる。見た奴が震えているものを、見てない奴は研究成果にできる」
晴臣は黙った。
土師が藤原の部屋で手帳を見ていた顔を思い出す。
恐れていた。
だが、欲しがってもいた。
黒沢のいない場所で、黒沢の記録の近くに立つこと。
晴臣から、それを奪うこと。
本人はそう思っていないのかもしれない。
だが、そう動いている。
森が少し開けた。
古い材木道へ出た。
道幅は狭いが、車が一台なら通れる。轍が浅く残っている。昔は木を運んだ道なのだろう。今はほとんど使われていない。
その先に、車が停まっていた。
白でも黒でもない、灰色のワゴン車だった。ライトは消えている。運転席に人影がある。
斎部が足を止めた。
晴臣も止まった。
サイレンの音が、さっきより近くなっている。
斎部は携帯をもう一度見た。
それから、晴臣を見た。
一瞬だけ、何かを言いかけた。
言わなかった。
「乗れ」
「嫌です」
「乗れ」
「斎部さん」
晴臣は斎部を見た。
「あなたは、何を迷ったんですか」
斎部の顔が歪んだ。
答えはなかった。
その沈黙の中に、答えがあった。
このまま渡せば、晴臣は戻れない。
斎部はそれを分かっている。
分かっていて、渡そうとしている。
「助けてくれたわけじゃないんですね」
「最初に言っただろ」
「でも、少しは迷った」
斎部は目を逸らした。
「水科」
声が少し掠れた。
「俺みたいな奴の迷いに、意味を持たせるな」
それは、懺悔のようにも聞こえた。
同時に、拒絶でもあった。
ワゴン車の後部ドアが内側から開いた。
中に男が一人座っている。
顔はよく見えない。黒い上着。細い手。膝の上に、古い布袋のようなものを置いている。
「急げ」
男が言った。
聞き覚えのない声だった。
奥木の訛りがない。
少なくとも、晴臣にはそう聞こえた。
斎部が晴臣の背を押した。
晴臣は抵抗した。
だが、背後からサイレンが近づいてくる。
警察へ戻れば、逃げた者になる。
この車に乗れば、何になるのか分からない。
どちらも、もう晴臣の道ではなかった。
でも、迷っていても道があるわけでもないと思った。
晴臣はワゴン車へ乗った。
扉が閉まる。
斎部は乗らなかった。
外に立っている。
晴臣は窓越しに斎部を見た。
「斎部さん」
声は届いたか分からない。
斎部は一度だけ、晴臣を見た。
その目は、いつもの斎部ではなかった。
笑っていない。
茶化していない。
逃げてもいない。
ただ、ひどく疲れた男の目だった。
ワゴン車が動き出す。
斎部の姿が後ろへ流れていく。
その背後の森で、烏が鳴いた。
一羽。
また一羽。
偶然だ。
晴臣はそう思おうとした。
烏はただ、夜の森で鳴いただけだ。
道に降りたのも偶然。
車を止めたのも偶然。
斎部がそこにいたのは、偶然ではない。
ワゴン車は材木道を抜け、奥木の外へ向かって走り出した。
車内は暗かった。
隣の男は何も言わない。
運転席の男も振り返らない。
晴臣は胸元の守り袋を握ったまま、窓の外を見た。
木々の隙間から、最後に湖が見えた。
奥木湖。
黒い水。
南宮の火は、もう映っていない。
北宮の森だけが、水面に沈んでいた。
晴臣は、まだ自分がどこへ運ばれているのか知らない。
警察の紙から外れたのか。
北宮の紙へ移されたのか。
それとも、もう紙にすら載らない場所へ送られるのか。
ただ一つだけ分かった。
これは逃走ではない。
救出でもない。
晴臣の名が、別の場所へ移されたのだ。
車が山道を下る。
奥木の境を越える少し手前で、守り袋が一度だけ冷たくなった。
晴臣は息を止めた。
すぐに、何も感じなくなった。
それが守ったのか。
通したのか。
流したのか。
晴臣には分からない。
後ろの森で、サイレンが遠ざかっていく。
前方には、知らない道が続いていた。
その道の先で、晴臣を待っているものが何なのか。
まだ、誰も教えてくれなかった。




