十六 切り取られた言葉
手帳は、薄かった。
黒い表紙の、何の変哲もない手帳である。大学の売店でも、駅前の文具店でも買えるようなものだった。角は少し丸くなり、表紙の端には晴臣の指の跡がうっすら残っている。
それが、藤原の手の中にあった。
晴臣は机を挟んで、それを見ていた。
先ほどまで、自分の胸元にあったものだ。黒沢の声と、北宮の空気と、逆井の湿った匂いを閉じ込めていたものだ。だが、机の向こうへ渡った瞬間、それは晴臣のものではなくなった。
ただの手帳ではない。
資料。
記録。
証拠。
そういう名前を、これから与えられるものになった。
藤原は、すぐには開かなかった。
机の上に置き、両手を添えたまま、少しだけ目を伏せている。礼儀のようにも見えた。黙祷のようにも見えた。だが、晴臣には違って見えた。
開く前に、所有者を変えている。
そう思った。
「水科さん」
藤原が顔を上げた。
「確認のため、こちらで必要箇所を写させていただきます」
「必要箇所?」
「北宮出蔵、逆井、黒沢先生との確認作業に関係する部分です」
「全部ではないんですね」
「現時点では、必要な範囲に限ります」
現時点では。
藤原の言葉には、いつも先が残っている。
今は限る。
後で広げる。
今は預かる。
後で提出する。
今は確認する。
後で意味を変える。
晴臣は、それをもう少し早く分かるべきだった。
「写すなら、私も見ます」
「もちろんです」
藤原は穏やかに答えた。
「ただし、作業はこちらで行います。あなたには、内容について確認していただく」
「私の手帳です」
「はい」
「なら、私が開きます」
藤原は少しだけ黙った。
部屋の隅で、土師がこちらを見ている。さっきから一言も発していない。壁際に立ち、腕を組み、顔色の悪さだけを残して表情を消していた。
黒沢の遺体を見た後だ。
誰でも動揺する。
だが、土師の目は止まっていなかった。恐怖の中で、なお何かを探している。黒沢の死を、晴臣の言葉を、北宮の石函を、どう並べれば自分の中で説明がつくのか。その答えを探している。
藤原は手帳を晴臣の方へ戻さなかった。
「原本の状態も含めて確認する必要があります」
「原本の状態?」
「どこが開かれたか。どこに書き込みがあるか。後から加筆された形跡があるか。そうした点です」
「私が書き換えたと?」
「そうは言っていません」
「そう聞こえます」
「そう聞こえる状況になっています」
藤原は、静かに言った。
晴臣は息を止めた。
この男は、やはり嘘をつかない。
嘘をつかないから、余計に逃げ場がない。
藤原は手袋をはめた。白い、薄い手袋だった。それを見た瞬間、晴臣は胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
自分の手帳に、他人が手袋をはめて触れる。
そのことが、黒沢の体に白い布がかけられた時と、どこかで重なった。
藤原が表紙を開く。
紙がめくられる音がした。
最初の数ページには、南宮の祭礼についての聞き書きがある。総代の発言、柱曳きの順路、注連縄の張り方、古い役名。そこまでは何でもなかった。
次に、北宮のことが出てくる。
杜守文庫。
出蔵。
確認物。
石函。
藤原の指が止まった。
「ここからですね」
晴臣は頷かなかった。
藤原は、隣に置かれた白い紙へ見出しを書いた。
北宮出蔵確認時の補助記録。
その見出しを見ただけで、晴臣は違和感を覚えた。
補助記録。
確かにそうだ。
自分は黒沢の横で記録を取った。黒沢の指示に従い、言われたことを書いた。自分の推測は、できるだけ分けて記した。
だが、藤原の紙に置かれると、その言葉は別のものに見える。
黒沢を補う記録。
黒沢の記録がない今、黒沢の代わりになる記録。
そう読めてしまう。
藤原が読み上げた。
「出蔵内、黒色石函。中央底部に円形の座。内壁に刻線。光の角度により見え方が変化」
そこまではよかった。
「水科発言。鏡面に映すためか」
「待ってください」
晴臣は声を上げた。
「私は断定していません」
「断定とは書いていません」
「でも、その書き方だと」
「あなたの発言として写しています」
「前後があります。もし中央に嵌められていたものが鏡のようなものなら、と言ったんです」
「では、そのように加えます」
藤原はすぐに書いた。
仮定として、鏡様のものを想定。
晴臣は、その文字を見た。
違う。
間違ってはいない。
だが、違う。
自分が言ったのは、見え方の話だった。構造の話だった。内壁の刻線が、底に嵌められた何かへ映るのではないかという、慎重な仮説だった。
けれど、紙の上では、それは短くなる。
鏡様のものを想定。
その一行だけが、残る。
藤原は次のページを開いた。
逆井。
底面。
黒色泥。
圧痕。
赤褐色沈着。
黒沢の発言。
断定は避ける。
晴臣の字は、ところどころ乱れていた。逆井の底を覗き込んだ時、黒沢の声を聞きながら急いで書いた字だ。
藤原は、そこも写した。
ただし、写し方が違う。
黒沢の言葉は、黒沢発言として写される。
晴臣の補足は、水科記載として写される。
同じページにある言葉が、別々の列へ分けられていく。
黒沢の列。
水科の列。
晴臣はそれを見ながら、少しずつ息が苦しくなった。
不安な気持ちが溢れそうになるが、もう出してしまった。
今更、写すなと言えない。
黒沢の記録類が見つからない以上、それは不自然に見える。
自分で説明すると言えばいいのか。
説明すれば、その言葉もまた紙にされる。
土師が低く言った。
「水科君、記録は整理しないと使えない」
晴臣は土師を見た。
「今、それを言うんですか」
「今だから言う」
土師の声は固かった。
「黒沢先生が亡くなった。先生の記録は見つからない。君の手帳だけが残っている。感情は分かるが、記録は共有されるべきだ」
「共有」
晴臣はその言葉を繰り返した。
「便利な言葉ですね」
土師の眉が少し動いた。
「何が言いたい」
「私が持っていれば隠している。出せば共有。写されれば整理。切り取られれば確認。全部、言い方だけが変わっていく」
「切り取っているわけじゃない」
「なら、全部読んでください。黒沢先生が、余計な解釈を入れるなと言ったことも。断定を避けると言ったことも。北宮で何かを警戒していたことも」
土師は黙った。
藤原は手帳へ目を落としたまま言った。
「もちろん、必要であればそうします」
「必要であれば?」
「はい」
「誰が必要か決めるんですか」
藤原は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
晴臣は、そこで初めてはっきり分かった。
もう、自分は記録の中身を争っているのではない。
記録の扱い方を決める場所から、外されているのだ。
手帳は晴臣が書いた。
だが、どこを読むかは藤原が決める。
どこを写すかも藤原が決める。
どの順番で並べるかも藤原が決める。
そして、誰がそれを見るかも、晴臣には分からない。
襖の外で、足音がした。
晴臣は思わず顔を向けた。
美月かと思った。
だが、入ってきたのは若い氏子だった。青ざめた顔で、藤原へ小さく頭を下げる。
「警察の方が、もう一度お話をと」
「分かりました」
藤原は手帳を閉じた。
晴臣は反射的に手を伸ばしかけた。
だが、藤原の手の方が早かった。手帳を白い封筒の上に置き、その上に自分の紙を重ねる。
何気ない動きだった。
しかし、それだけで晴臣の手は止まった。
「返してください」
「確認中です」
「警察に渡すなら、私から渡します」
「すでに提出いただいたものです」
「あなたに預けただけです」
「ええ。預かっています」
藤原は穏やかに言った。
「ですので、責任をもって扱います」
責任。
また、正しい言葉だった。
晴臣はそれ以上言えなかった。
廊下へ出ると、会館の空気が変わっていた。
祭りの祝いの匂いはまだ残っている。酒、煮物、畳、汗、煙草を隠すような線香の匂い。けれど、その上に別のものが重なっていた。
人が声を潜める時の匂い。
大勢が同じことを知り、しかし口に出せずにいる時の空気。
晴臣が廊下へ出ると、広間の奥で誰かが箸を置いた。音は小さかったが、妙にはっきり聞こえた。
視線が集まる。
今度は、すぐには逸らされなかった。
さっきまでは、何かあったらしい、という目だった。
今は違う。
黒沢が死んだ。
水のない場所で濡れていた。
鞄が見つかった。
記録がない。
晴臣の手帳だけが残っていた。
まだ誰も、声にはしていない。
だが、目がそれを言っていた。
藤原は、晴臣の少し後ろを歩いた。
先導ではない。
監視でもない。
ただ、同じ方向へ歩いているだけだ。
それなのに、晴臣には自分の背中に紙を貼られているような気がした。
水科晴臣。
黒沢教授と最終同行。
補助記録保持。
手帳提出。
確認物を鏡様と見立て。
黒沢記録類、未発見。
一つ一つは事実だった。
事実だからこそ、剥がせない。
玄関の近くで、美月が立っていた。
晴臣は足を止めた。
美月もこちらを見た。
顔が白い。唇に血の気がなく、両手を胸の前で握っている。だが、その目は逃げていなかった。
晴臣は、声を出そうとした。
「美月」
美月が一歩動いた。
その前に、冬真が横へ入った。
強く遮ったわけではない。
ただ、自然に、心配するように、美月の少し前に立った。
「晴臣、落ち着け」
「どいてくれ」
「落ち着いてからにした方がいい」
「どいてくれ!」
冬真の表情が、少しだけ硬くなった。
「今は状況を落ち着けることが先だ」
「だから何だ」
「北宮の奥にあるものも、石の函も、黒沢の死の意味も知らない。」
美月が顔を上げた。
「冬真」
小さな声だった。
だが、冬真は振り向いた。
「美月、君も落ち着いて対応したほうがいい」
「晴臣と話す」
「後にしたほうが…」
「後じゃ駄目!」
美月の声が震えた。
晴臣は胸が裂けるような痛みを覚えた。
美月は信じようとしている。
まだ、こちらへ来ようとしている。
それなのに、晴臣の足は止まっていた。
自分が近づけば、美月も紙の中へ入る。
藤原の書類に、美月の名前が乗る。
秦美月。
婚約予定。
接触。
発言。
動揺。
口裏合わせ。
そこまで想像して、晴臣は吐き気を覚えた。
藤原はまだ何も言っていない。
冬真も、そこまでは言っていない。
けれど晴臣は、もう自分でそこまで考えてしまう。
紙の中へ落ちるというのは、こういうことなのだと思った。
自分の頭の中にまで、藤原の紙が入り込んでくる。
「美月」
晴臣は声を絞り出した。
「後で、必ず話す」
「今、話して」
美月は言った。
その一言で、晴臣は動きかけた。
だが、冬真が美月の肩に手を添えた。
強くはない。
押さえつけてもいない。
ただ、支えるように置いただけだった。
その手を見た瞬間、晴臣の足は止まった。
美月が倒れそうだから支えている。
誰が見ても、そう見える。
晴臣がそこへ割って入れば、どう見えるか。
動揺した婚約者に近づこうとする男。
事情を聞かれている最中に、関係者と接触しようとする男。
そう見える。
もう、晴臣はそれを無視できなかった。
藤原の声が後ろからした。
「水科さん。こちらへ」
晴臣は美月を見た。
美月も晴臣を見ていた。
数歩の距離だった。
その数歩を、誰も渡らせなかった。
「…後で」
晴臣はもう一度言った。
美月の唇が動いた。
何を言ったのかは、聞こえなかった。
冬真の手が、美月の肩に残っている。
晴臣は視線を逸らした。
警察官が待つ部屋は、会館のさらに奥だった。
畳の部屋ではなく、普段は帳簿や備品を置いている小さな事務室だった。壁際に古い棚があり、祭礼用の腕章や封筒、朱肉、予備の筆ペンが箱に入っている。
そこに、二人の警察官がいた。
一人は制服。
もう一人は私服だった。
私服の男は中年で、疲れた目をしていた。だが、物腰は荒くない。晴臣へ椅子を勧め、名前を確認し、住所を確認し、職業を確認した。
そのどれにも、晴臣は答えた。
答えるたびに、自分が少しずつ項目へ変わっていく気がした。
氏名。
住所。
職業。
黒沢との関係。
北宮へ入った理由。
石函を見た時の発言。
逆井へ向かった経緯。
黒沢と別れた時刻。
最後に見た場所。
手帳を提出した経緯。
同じことを、何度も聞かれた。
警察官は怒鳴らなかった。
疑っているとも言わなかった。
ただ、確認した。
確認。
今日一日で、その言葉が嫌いになった。
「黒沢先生とは、北宮で別れたんですね」
「はい」
「その後、黒沢先生がどちらへ行ったかは」
「分かりません」
「追いかけていない」
「はい」
「南宮へ戻った」
「はい」
「その後、藤原さんから手帳の提出を求められた」
「はい」
「一度は拒否した」
晴臣は喉を動かした。
「黒沢先生の指示だったからです」
「その後、提出した」
「はい」
「理由は」
晴臣は黙った。
理由。
何と言えばいいのか。
黒沢が死んだから。
美月を巻き込みたくなかったから。
藤原の紙から逃げられないと思ったから。
自分が正しいことをしているのか分からなくなったから。
どれも本当だった。
だが、どれも紙にすると違うものになる。
「必要だと思ったからです」
晴臣は言った。
私服の警察官は頷いた。
それがどんな意味で書かれるのか、晴臣には分からなかった。
藤原は部屋の端に立っていた。
同席を求められたわけではないはずだ。
だが、自然にそこにいる。
この男は、何故か奥木のどこにでもいる。
署名する場所に。
確認する場所に。
誰かの言葉が別の意味へ変わる場所に。
私服の警察官が、紙をめくった。
「黒沢先生の鞄から、研究記録と思われるものは見つかっていません」
晴臣は目を閉じた。
分かっている。
何度も聞いた。
だが、聞くたびに自分の手帳が重くなる。
「先生が、どこかに置いた可能性はありますよね」
「その可能性もあります」
そこで晴臣は岩の上で見た水の痕と黒い羽根を思い出した。
「誰かが持ち去った可能性もあると思います。」
「それも確認します」
「なら、私だけに聞くのはおかしい。岩の上に長方形の水の痕も見ました。」
私服の警察官は、少しだけ顔を上げた。
「水の痕については報告はありません。そして、あなたにだけ聞いているわけではありません」
「でも、今ここにいるのは私だけです。」
「あなたが、最後に黒沢先生と確認作業を行った方の一人だからです」
また、その言葉だった。
最後に。
一人。
確認作業。
言葉は正しい。
正しいまま、晴臣を囲っていく。
そして、藤原に伝えたA4用紙の水の痕については報告されたいなかった。
その時、廊下の外が騒がしくなった。
低い男の声がした。
晴臣は顔を上げた。
聞き覚えがあった。
父の声だ。
「晴臣はどこだ」
昭三だった。
晴臣は椅子から立ち上がりかけた。
藤原が、静かに視線だけを向けた。
それだけで、晴臣は止まった。
止まってしまった。
廊下の声は続いた。
「晴臣に会わせてくれ」
誰かが、落ち着いてください、と言っている。
昭三の声は大きくない。
怒鳴ってはいない。
ただ、低く、押し殺している。
「息子に会うだけだ」
晴臣は拳を握った。
父が来た。
戸を閉じて待っていた父が、家を出てきた。
赤飯も、茶も、そのままにして。
閉じた戸を、水科家の作法を、自分で開けて。
「父です」
晴臣は言った。
「会わせてください」
私服の警察官は藤原を見た。
藤原は、ほんの少しだけ首を傾けた。
「今は聴取中です」
「任意でしょう」
晴臣は言った。
「私は、任意でここにいるんでしょう」
部屋の空気が止まった。
藤原は表情を変えなかった。
警察官も、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、晴臣には分かった。
任意。
それもまた、正しい言葉にすぎない。
自由に見える形で、自由ではない場所に置かれている。
「短時間であれば」
私服の警察官が言った。
藤原が何か言いかけたが、止めた。
襖が開いた。
昭三が立っていた。
祭りの法被の上に、古い上着を羽織っている。髪は少し乱れ、顔には疲れが刻まれていた。だが、目だけはまっすぐだった。
「晴臣」
「父さん」
それだけで、晴臣は何かが崩れそうになった。
昭三は部屋へ入ろうとした。
だが、入口で止まった。
部屋の中を見たのだ。
警察官。
藤原。
机の上の紙。
そして、晴臣。
昭三は一瞬で理解したようだった。
何が起きたかではない。
晴臣が、どういう場所に座らされているかを。
「晴臣は、逃げるような子じゃない」
昭三は言った。
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
警察へか。
藤原へか。
奥木へか。
それとも、晴臣自身へか。
藤原が静かに答えた。
「もちろんです。今は確認をしているだけです」
昭三は藤原を見た。
「確認という言葉で、人を囲うな」
その言葉に、藤原の目が初めてわずかに動いた。
晴臣も息を呑んだ。
父は、分かっていた。
すべてではない。
北宮の奥にあるものも、石の函も、黒沢の死の意味も知らない。
だが、奥木で何かが動く時の形を、父は知っていた。
知らないまま、知っていた。
「父さん」
晴臣は立ち上がった。
「俺は」
「何も言うな」
昭三が遮った。
強い声ではなかった。
だが、晴臣は止まった。
「ここで言うな」
昭三は続けた。
「言えば、持っていかれる」
部屋が静まり返った。
藤原は黙っている。
警察官も黙っている。
土師はいつの間にか廊下の向こうに立っていた。昭三の言葉を聞いて、顔を強張らせている。
晴臣は父を見た。
言えば、持っていかれる。
それは、今日一日で晴臣が学んだことそのものだった。
昭三は一歩だけ近づき、晴臣の胸元を見た。
守り袋のあるあたりだ。
そして、すぐに眉を寄せた。
「手帳は?」
晴臣は答えられなかった。
昭三の顔から、血の気が引いた。
「渡したのか?」
「必要だと思って」
「誰に?」
晴臣は藤原を見た。
昭三も藤原を見た。
藤原は静かに頭を下げた。
「お預かりしています」
昭三は目を閉じた。
責めなかった。
怒鳴らなかった。
ただ、目を閉じた。
それが一番つらかった。
「父さん」
「帰ってこい」
昭三は言った。
「帰ってこい、晴臣」
晴臣は頷こうとした。
だが、警察官が静かに言った。
「すみません。もう少しだけお話を伺います」
昭三は警察官を見た。
それから、晴臣を見た。
「帰ってこい」
もう一度、同じことを言った。
晴臣は頷いた。
「帰るよ」
その返事が、どれほど軽いものになっているか、晴臣自身にも分かっていた。
昭三は部屋を出た。
襖が閉まる。
父の足音が遠ざかる。
晴臣は椅子へ戻った。
戻るしかなかった。
私服の警察官が、少し間を置いてから言った。
「続けてもよろしいですか」
晴臣は笑いそうになった。
よろしいか。
断れるのか。
断れば、何と書かれるのか。
晴臣は頷いた。
「はい」
声は、自分のものではないようだった。
聴取はさらに続いた。
黒沢の体調。
北宮での様子。
石函を見た時の反応。
逆井での発言。
晴臣が南宮へ戻った時刻。
美月と会ったか。
冬真と話したか。
斎部とは何を話したか。
同じ事実が、何度も違う角度から聞かれる。
晴臣は答えた。
答えるたびに、少しずつ中身が削られていくようだった。
夜が深くなった。
南宮の柱は、外でまだ立っている。
だが、もう誰も太鼓を叩いていない。
祝いの席は片付けられ、酒の匂いだけが畳に残っていた。
美月の声は、もう聞こえなかった。
父の足音も、もう聞こえなかった。
手帳もない。
黒沢もいない。
晴臣は、ただ椅子に座っていた。
藤原が部屋の端で、紙を揃えている。
その所作は、最後まで乱れなかった。
やがて、私服の警察官が言った。
「水科さん。今夜は、署の方でもう少し詳しくお話を伺いたいと思います」
晴臣は顔を上げた。
「今からですか」
「任意です」
警察官は言った。
「ただ、黒沢先生の件は重大です。あなたの手帳も確認する必要があります。早い方がいい」
任意。
その言葉は、もう自由を意味していなかった。
藤原は何も言わない。
土師も何も言わない。
廊下の外で、誰かが小さく泣いている。
美月かもしれない。
違うかもしれない。
確かめに行くことは、もうできなかった。
晴臣はゆっくり立ち上がった。
足元がふらついた。
守り袋が胸元で小さく揺れた。
手帳の重さは、もうそこにはない。
ないはずなのに、失った場所だけが、石のように重かった。
会館を出る時、晴臣は一度だけ柱を見た。
南宮の柱は、夜空へまっすぐ立っていた。
あれほど多くの人の手で曳かれ、声で起こされ、祝いの中に立った柱。
その根元を、晴臣は一人で通り過ぎた。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
ただ、見ていた。
祭りの輪から外された男は、今度は会館の外へ連れ出される。
逃げているのではない。
連れて行かれるのでもない。
自分の足で歩いている。
そう見える形で。
南宮の火が、背中で小さく揺れた。
湖は黒かった。
対岸の北宮は、さらに黒かった。
晴臣はその暗さを見ないようにして、車の方へ歩いた。
この時、晴臣はまだ知らない。
自分の名が、翌朝には南宮の名簿からも、研究室の連絡網からも、少しずつ違う場所へ移されていくことを。
黒沢の死が、ただの死では済まなくなることを。
手帳に書いた自分の文字が、自分の言葉ではなくなることを。
そして、美月の「今、話して」という声が、しばらくのあいだ、最後に届いた声になることを。
車の扉が閉まった。
音は小さかった。
だが晴臣には、水科家の戸が、もう一度閉じたように聞こえた。




