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鏡王〜落ちた研究者の復讐譚〜  作者: 遊太
存在消失

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16/20

十六 切り取られた言葉

 手帳は、薄かった。


 黒い表紙の、何の変哲もない手帳である。大学の売店でも、駅前の文具店でも買えるようなものだった。角は少し丸くなり、表紙の端には晴臣の指の跡がうっすら残っている。


 それが、藤原の手の中にあった。


 晴臣は机を挟んで、それを見ていた。


 先ほどまで、自分の胸元にあったものだ。黒沢の声と、北宮の空気と、逆井の湿った匂いを閉じ込めていたものだ。だが、机の向こうへ渡った瞬間、それは晴臣のものではなくなった。


 ただの手帳ではない。


 資料。


 記録。


 証拠。


 そういう名前を、これから与えられるものになった。


 藤原は、すぐには開かなかった。


 机の上に置き、両手を添えたまま、少しだけ目を伏せている。礼儀のようにも見えた。黙祷のようにも見えた。だが、晴臣には違って見えた。


 開く前に、所有者を変えている。


 そう思った。


「水科さん」


 藤原が顔を上げた。


「確認のため、こちらで必要箇所を写させていただきます」


「必要箇所?」


「北宮出蔵、逆井、黒沢先生との確認作業に関係する部分です」


「全部ではないんですね」


「現時点では、必要な範囲に限ります」


 現時点では。


 藤原の言葉には、いつも先が残っている。


 今は限る。


 後で広げる。


 今は預かる。


 後で提出する。


 今は確認する。


 後で意味を変える。


 晴臣は、それをもう少し早く分かるべきだった。


「写すなら、私も見ます」


「もちろんです」


 藤原は穏やかに答えた。


「ただし、作業はこちらで行います。あなたには、内容について確認していただく」


「私の手帳です」


「はい」


「なら、私が開きます」


 藤原は少しだけ黙った。


 部屋の隅で、土師がこちらを見ている。さっきから一言も発していない。壁際に立ち、腕を組み、顔色の悪さだけを残して表情を消していた。


 黒沢の遺体を見た後だ。


 誰でも動揺する。


 だが、土師の目は止まっていなかった。恐怖の中で、なお何かを探している。黒沢の死を、晴臣の言葉を、北宮の石函を、どう並べれば自分の中で説明がつくのか。その答えを探している。


 藤原は手帳を晴臣の方へ戻さなかった。


「原本の状態も含めて確認する必要があります」


「原本の状態?」


「どこが開かれたか。どこに書き込みがあるか。後から加筆された形跡があるか。そうした点です」


「私が書き換えたと?」


「そうは言っていません」


「そう聞こえます」


「そう聞こえる状況になっています」


 藤原は、静かに言った。


 晴臣は息を止めた。


 この男は、やはり嘘をつかない。


 嘘をつかないから、余計に逃げ場がない。


 藤原は手袋をはめた。白い、薄い手袋だった。それを見た瞬間、晴臣は胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。


 自分の手帳に、他人が手袋をはめて触れる。


 そのことが、黒沢の体に白い布がかけられた時と、どこかで重なった。


 藤原が表紙を開く。


 紙がめくられる音がした。


 最初の数ページには、南宮の祭礼についての聞き書きがある。総代の発言、柱曳きの順路、注連縄の張り方、古い役名。そこまでは何でもなかった。


 次に、北宮のことが出てくる。


 杜守文庫。


 出蔵。


 確認物。


 石函。


 藤原の指が止まった。


「ここからですね」


 晴臣は頷かなかった。


 藤原は、隣に置かれた白い紙へ見出しを書いた。


 北宮出蔵確認時の補助記録。


 その見出しを見ただけで、晴臣は違和感を覚えた。


 補助記録。


 確かにそうだ。


 自分は黒沢の横で記録を取った。黒沢の指示に従い、言われたことを書いた。自分の推測は、できるだけ分けて記した。


 だが、藤原の紙に置かれると、その言葉は別のものに見える。


 黒沢を補う記録。


 黒沢の記録がない今、黒沢の代わりになる記録。


 そう読めてしまう。


 藤原が読み上げた。


「出蔵内、黒色石函。中央底部に円形の座。内壁に刻線。光の角度により見え方が変化」


 そこまではよかった。


「水科発言。鏡面に映すためか」


「待ってください」


 晴臣は声を上げた。


「私は断定していません」


「断定とは書いていません」


「でも、その書き方だと」


「あなたの発言として写しています」


「前後があります。もし中央に嵌められていたものが鏡のようなものなら、と言ったんです」


「では、そのように加えます」


 藤原はすぐに書いた。


 仮定として、鏡様のものを想定。


 晴臣は、その文字を見た。


 違う。


 間違ってはいない。


 だが、違う。


 自分が言ったのは、見え方の話だった。構造の話だった。内壁の刻線が、底に嵌められた何かへ映るのではないかという、慎重な仮説だった。


 けれど、紙の上では、それは短くなる。


 鏡様のものを想定。


 その一行だけが、残る。


 藤原は次のページを開いた。


 逆井。


 底面。


 黒色泥。


 圧痕。


 赤褐色沈着。


 黒沢の発言。


 断定は避ける。


 晴臣の字は、ところどころ乱れていた。逆井の底を覗き込んだ時、黒沢の声を聞きながら急いで書いた字だ。


 藤原は、そこも写した。


 ただし、写し方が違う。


 黒沢の言葉は、黒沢発言として写される。


 晴臣の補足は、水科記載として写される。


 同じページにある言葉が、別々の列へ分けられていく。


 黒沢の列。


 水科の列。


 晴臣はそれを見ながら、少しずつ息が苦しくなった。


 不安な気持ちが溢れそうになるが、もう出してしまった。


 今更、写すなと言えない。


 黒沢の記録類が見つからない以上、それは不自然に見える。


 自分で説明すると言えばいいのか。


 説明すれば、その言葉もまた紙にされる。


 土師が低く言った。


「水科君、記録は整理しないと使えない」


 晴臣は土師を見た。


「今、それを言うんですか」


「今だから言う」


 土師の声は固かった。


「黒沢先生が亡くなった。先生の記録は見つからない。君の手帳だけが残っている。感情は分かるが、記録は共有されるべきだ」


「共有」


 晴臣はその言葉を繰り返した。


「便利な言葉ですね」


 土師の眉が少し動いた。


「何が言いたい」


「私が持っていれば隠している。出せば共有。写されれば整理。切り取られれば確認。全部、言い方だけが変わっていく」


「切り取っているわけじゃない」


「なら、全部読んでください。黒沢先生が、余計な解釈を入れるなと言ったことも。断定を避けると言ったことも。北宮で何かを警戒していたことも」


 土師は黙った。


 藤原は手帳へ目を落としたまま言った。


「もちろん、必要であればそうします」


「必要であれば?」


「はい」


「誰が必要か決めるんですか」


 藤原は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 晴臣は、そこで初めてはっきり分かった。


 もう、自分は記録の中身を争っているのではない。


 記録の扱い方を決める場所から、外されているのだ。


 手帳は晴臣が書いた。


 だが、どこを読むかは藤原が決める。


 どこを写すかも藤原が決める。


 どの順番で並べるかも藤原が決める。


 そして、誰がそれを見るかも、晴臣には分からない。


 襖の外で、足音がした。


 晴臣は思わず顔を向けた。


 美月かと思った。


 だが、入ってきたのは若い氏子だった。青ざめた顔で、藤原へ小さく頭を下げる。


「警察の方が、もう一度お話をと」


「分かりました」


 藤原は手帳を閉じた。


 晴臣は反射的に手を伸ばしかけた。


 だが、藤原の手の方が早かった。手帳を白い封筒の上に置き、その上に自分の紙を重ねる。


 何気ない動きだった。


 しかし、それだけで晴臣の手は止まった。


「返してください」


「確認中です」


「警察に渡すなら、私から渡します」


「すでに提出いただいたものです」


「あなたに預けただけです」


「ええ。預かっています」


 藤原は穏やかに言った。


「ですので、責任をもって扱います」


 責任。


 また、正しい言葉だった。


 晴臣はそれ以上言えなかった。


 廊下へ出ると、会館の空気が変わっていた。


 祭りの祝いの匂いはまだ残っている。酒、煮物、畳、汗、煙草を隠すような線香の匂い。けれど、その上に別のものが重なっていた。


 人が声を潜める時の匂い。


 大勢が同じことを知り、しかし口に出せずにいる時の空気。


 晴臣が廊下へ出ると、広間の奥で誰かが箸を置いた。音は小さかったが、妙にはっきり聞こえた。


 視線が集まる。


 今度は、すぐには逸らされなかった。


 さっきまでは、何かあったらしい、という目だった。


 今は違う。


 黒沢が死んだ。


 水のない場所で濡れていた。


 鞄が見つかった。


 記録がない。


 晴臣の手帳だけが残っていた。


 まだ誰も、声にはしていない。


 だが、目がそれを言っていた。


 藤原は、晴臣の少し後ろを歩いた。


 先導ではない。


 監視でもない。


 ただ、同じ方向へ歩いているだけだ。


 それなのに、晴臣には自分の背中に紙を貼られているような気がした。


 水科晴臣。


 黒沢教授と最終同行。


 補助記録保持。


 手帳提出。


 確認物を鏡様と見立て。


 黒沢記録類、未発見。


 一つ一つは事実だった。


 事実だからこそ、剥がせない。


 玄関の近くで、美月が立っていた。


 晴臣は足を止めた。


 美月もこちらを見た。


 顔が白い。唇に血の気がなく、両手を胸の前で握っている。だが、その目は逃げていなかった。


 晴臣は、声を出そうとした。


「美月」


 美月が一歩動いた。


 その前に、冬真が横へ入った。


 強く遮ったわけではない。


 ただ、自然に、心配するように、美月の少し前に立った。


「晴臣、落ち着け」


「どいてくれ」


「落ち着いてからにした方がいい」


「どいてくれ!」


 冬真の表情が、少しだけ硬くなった。


「今は状況を落ち着けることが先だ」


「だから何だ」


「北宮の奥にあるものも、石の函も、黒沢の死の意味も知らない。」


 美月が顔を上げた。


「冬真」


 小さな声だった。


 だが、冬真は振り向いた。


「美月、君も落ち着いて対応したほうがいい」


「晴臣と話す」


「後にしたほうが…」


「後じゃ駄目!」


 美月の声が震えた。


 晴臣は胸が裂けるような痛みを覚えた。


 美月は信じようとしている。


 まだ、こちらへ来ようとしている。


 それなのに、晴臣の足は止まっていた。


 自分が近づけば、美月も紙の中へ入る。


 藤原の書類に、美月の名前が乗る。


 秦美月。


 婚約予定。


 接触。


 発言。


 動揺。


 口裏合わせ。


 そこまで想像して、晴臣は吐き気を覚えた。


 藤原はまだ何も言っていない。


 冬真も、そこまでは言っていない。


 けれど晴臣は、もう自分でそこまで考えてしまう。


 紙の中へ落ちるというのは、こういうことなのだと思った。


 自分の頭の中にまで、藤原の紙が入り込んでくる。


「美月」


 晴臣は声を絞り出した。


「後で、必ず話す」


「今、話して」


 美月は言った。


 その一言で、晴臣は動きかけた。


 だが、冬真が美月の肩に手を添えた。


 強くはない。


 押さえつけてもいない。


 ただ、支えるように置いただけだった。


 その手を見た瞬間、晴臣の足は止まった。


 美月が倒れそうだから支えている。


 誰が見ても、そう見える。


 晴臣がそこへ割って入れば、どう見えるか。


 動揺した婚約者に近づこうとする男。


 事情を聞かれている最中に、関係者と接触しようとする男。


 そう見える。


 もう、晴臣はそれを無視できなかった。


 藤原の声が後ろからした。


「水科さん。こちらへ」


 晴臣は美月を見た。


 美月も晴臣を見ていた。


 数歩の距離だった。


 その数歩を、誰も渡らせなかった。


「…後で」


 晴臣はもう一度言った。


 美月の唇が動いた。


 何を言ったのかは、聞こえなかった。


 冬真の手が、美月の肩に残っている。


 晴臣は視線を逸らした。


 警察官が待つ部屋は、会館のさらに奥だった。


 畳の部屋ではなく、普段は帳簿や備品を置いている小さな事務室だった。壁際に古い棚があり、祭礼用の腕章や封筒、朱肉、予備の筆ペンが箱に入っている。


 そこに、二人の警察官がいた。


 一人は制服。


 もう一人は私服だった。


 私服の男は中年で、疲れた目をしていた。だが、物腰は荒くない。晴臣へ椅子を勧め、名前を確認し、住所を確認し、職業を確認した。


 そのどれにも、晴臣は答えた。


 答えるたびに、自分が少しずつ項目へ変わっていく気がした。


 氏名。


 住所。


 職業。


 黒沢との関係。


 北宮へ入った理由。


 石函を見た時の発言。


 逆井へ向かった経緯。


 黒沢と別れた時刻。


 最後に見た場所。


 手帳を提出した経緯。


 同じことを、何度も聞かれた。


 警察官は怒鳴らなかった。


 疑っているとも言わなかった。


 ただ、確認した。


 確認。


 今日一日で、その言葉が嫌いになった。


「黒沢先生とは、北宮で別れたんですね」


「はい」


「その後、黒沢先生がどちらへ行ったかは」


「分かりません」


「追いかけていない」


「はい」


「南宮へ戻った」


「はい」


「その後、藤原さんから手帳の提出を求められた」


「はい」


「一度は拒否した」


 晴臣は喉を動かした。


「黒沢先生の指示だったからです」


「その後、提出した」


「はい」


「理由は」


 晴臣は黙った。


 理由。


 何と言えばいいのか。


 黒沢が死んだから。


 美月を巻き込みたくなかったから。


 藤原の紙から逃げられないと思ったから。


 自分が正しいことをしているのか分からなくなったから。


 どれも本当だった。


 だが、どれも紙にすると違うものになる。


「必要だと思ったからです」


 晴臣は言った。


 私服の警察官は頷いた。


 それがどんな意味で書かれるのか、晴臣には分からなかった。


 藤原は部屋の端に立っていた。


 同席を求められたわけではないはずだ。


 だが、自然にそこにいる。


 この男は、何故か奥木のどこにでもいる。


 署名する場所に。


 確認する場所に。


 誰かの言葉が別の意味へ変わる場所に。


 私服の警察官が、紙をめくった。


「黒沢先生の鞄から、研究記録と思われるものは見つかっていません」


 晴臣は目を閉じた。


 分かっている。


 何度も聞いた。


 だが、聞くたびに自分の手帳が重くなる。


「先生が、どこかに置いた可能性はありますよね」


「その可能性もあります」


 そこで晴臣は岩の上で見た水の痕と黒い羽根を思い出した。


「誰かが持ち去った可能性もあると思います。」


「それも確認します」


「なら、私だけに聞くのはおかしい。岩の上に長方形の水の痕も見ました。」


 私服の警察官は、少しだけ顔を上げた。


「水の痕については報告はありません。そして、あなたにだけ聞いているわけではありません」


「でも、今ここにいるのは私だけです。」


「あなたが、最後に黒沢先生と確認作業を行った方の一人だからです」


 また、その言葉だった。


 最後に。


 一人。


 確認作業。


 言葉は正しい。


 正しいまま、晴臣を囲っていく。


 そして、藤原に伝えたA4用紙の水の痕については報告されたいなかった。


 その時、廊下の外が騒がしくなった。


 低い男の声がした。


 晴臣は顔を上げた。


 聞き覚えがあった。


 父の声だ。


「晴臣はどこだ」


 昭三だった。


 晴臣は椅子から立ち上がりかけた。


 藤原が、静かに視線だけを向けた。


 それだけで、晴臣は止まった。


 止まってしまった。


 廊下の声は続いた。


「晴臣に会わせてくれ」


 誰かが、落ち着いてください、と言っている。


 昭三の声は大きくない。


 怒鳴ってはいない。


 ただ、低く、押し殺している。


「息子に会うだけだ」


 晴臣は拳を握った。


 父が来た。


 戸を閉じて待っていた父が、家を出てきた。


 赤飯も、茶も、そのままにして。


 閉じた戸を、水科家の作法を、自分で開けて。


「父です」


 晴臣は言った。


「会わせてください」


 私服の警察官は藤原を見た。


 藤原は、ほんの少しだけ首を傾けた。


「今は聴取中です」


「任意でしょう」


 晴臣は言った。


「私は、任意でここにいるんでしょう」


 部屋の空気が止まった。


 藤原は表情を変えなかった。


 警察官も、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、晴臣には分かった。


 任意。


 それもまた、正しい言葉にすぎない。


 自由に見える形で、自由ではない場所に置かれている。


「短時間であれば」


 私服の警察官が言った。


 藤原が何か言いかけたが、止めた。


 襖が開いた。


 昭三が立っていた。


 祭りの法被の上に、古い上着を羽織っている。髪は少し乱れ、顔には疲れが刻まれていた。だが、目だけはまっすぐだった。


「晴臣」


「父さん」


 それだけで、晴臣は何かが崩れそうになった。


 昭三は部屋へ入ろうとした。


 だが、入口で止まった。


 部屋の中を見たのだ。


 警察官。


 藤原。


 机の上の紙。


 そして、晴臣。


 昭三は一瞬で理解したようだった。


 何が起きたかではない。


 晴臣が、どういう場所に座らされているかを。


「晴臣は、逃げるような子じゃない」


 昭三は言った。


 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


 警察へか。


 藤原へか。


 奥木へか。


 それとも、晴臣自身へか。


 藤原が静かに答えた。


「もちろんです。今は確認をしているだけです」


 昭三は藤原を見た。


「確認という言葉で、人を囲うな」


 その言葉に、藤原の目が初めてわずかに動いた。


 晴臣も息を呑んだ。


 父は、分かっていた。


 すべてではない。


 北宮の奥にあるものも、石の函も、黒沢の死の意味も知らない。


 だが、奥木で何かが動く時の形を、父は知っていた。


 知らないまま、知っていた。


「父さん」


 晴臣は立ち上がった。


「俺は」


「何も言うな」


 昭三が遮った。


 強い声ではなかった。


 だが、晴臣は止まった。


「ここで言うな」


 昭三は続けた。


「言えば、持っていかれる」


 部屋が静まり返った。


 藤原は黙っている。


 警察官も黙っている。


 土師はいつの間にか廊下の向こうに立っていた。昭三の言葉を聞いて、顔を強張らせている。


 晴臣は父を見た。


 言えば、持っていかれる。


 それは、今日一日で晴臣が学んだことそのものだった。


 昭三は一歩だけ近づき、晴臣の胸元を見た。


 守り袋のあるあたりだ。


 そして、すぐに眉を寄せた。


「手帳は?」


 晴臣は答えられなかった。


 昭三の顔から、血の気が引いた。


「渡したのか?」


「必要だと思って」


「誰に?」


 晴臣は藤原を見た。


 昭三も藤原を見た。


 藤原は静かに頭を下げた。


「お預かりしています」


 昭三は目を閉じた。


 責めなかった。


 怒鳴らなかった。


 ただ、目を閉じた。


 それが一番つらかった。


「父さん」


「帰ってこい」


 昭三は言った。


「帰ってこい、晴臣」


 晴臣は頷こうとした。


 だが、警察官が静かに言った。


「すみません。もう少しだけお話を伺います」


 昭三は警察官を見た。


 それから、晴臣を見た。


「帰ってこい」


 もう一度、同じことを言った。


 晴臣は頷いた。


「帰るよ」


 その返事が、どれほど軽いものになっているか、晴臣自身にも分かっていた。


 昭三は部屋を出た。


 襖が閉まる。


 父の足音が遠ざかる。


 晴臣は椅子へ戻った。


 戻るしかなかった。


 私服の警察官が、少し間を置いてから言った。


「続けてもよろしいですか」


 晴臣は笑いそうになった。


 よろしいか。


 断れるのか。


 断れば、何と書かれるのか。


 晴臣は頷いた。


「はい」


 声は、自分のものではないようだった。


 聴取はさらに続いた。


 黒沢の体調。


 北宮での様子。


 石函を見た時の反応。


 逆井での発言。


 晴臣が南宮へ戻った時刻。


 美月と会ったか。


 冬真と話したか。


 斎部とは何を話したか。


 同じ事実が、何度も違う角度から聞かれる。


 晴臣は答えた。


 答えるたびに、少しずつ中身が削られていくようだった。


 夜が深くなった。


 南宮の柱は、外でまだ立っている。


 だが、もう誰も太鼓を叩いていない。


 祝いの席は片付けられ、酒の匂いだけが畳に残っていた。


 美月の声は、もう聞こえなかった。


 父の足音も、もう聞こえなかった。


 手帳もない。


 黒沢もいない。


 晴臣は、ただ椅子に座っていた。


 藤原が部屋の端で、紙を揃えている。


 その所作は、最後まで乱れなかった。


 やがて、私服の警察官が言った。


「水科さん。今夜は、署の方でもう少し詳しくお話を伺いたいと思います」


 晴臣は顔を上げた。


「今からですか」


「任意です」


 警察官は言った。


「ただ、黒沢先生の件は重大です。あなたの手帳も確認する必要があります。早い方がいい」


 任意。


 その言葉は、もう自由を意味していなかった。


 藤原は何も言わない。


 土師も何も言わない。


 廊下の外で、誰かが小さく泣いている。


 美月かもしれない。


 違うかもしれない。


 確かめに行くことは、もうできなかった。


 晴臣はゆっくり立ち上がった。


 足元がふらついた。


 守り袋が胸元で小さく揺れた。


 手帳の重さは、もうそこにはない。


 ないはずなのに、失った場所だけが、石のように重かった。


 会館を出る時、晴臣は一度だけ柱を見た。


 南宮の柱は、夜空へまっすぐ立っていた。


 あれほど多くの人の手で曳かれ、声で起こされ、祝いの中に立った柱。


 その根元を、晴臣は一人で通り過ぎた。


 誰も声をかけなかった。


 誰も止めなかった。


 ただ、見ていた。


 祭りの輪から外された男は、今度は会館の外へ連れ出される。


 逃げているのではない。


 連れて行かれるのでもない。


 自分の足で歩いている。


 そう見える形で。


 南宮の火が、背中で小さく揺れた。


 湖は黒かった。


 対岸の北宮は、さらに黒かった。


 晴臣はその暗さを見ないようにして、車の方へ歩いた。


 この時、晴臣はまだ知らない。


 自分の名が、翌朝には南宮の名簿からも、研究室の連絡網からも、少しずつ違う場所へ移されていくことを。


 黒沢の死が、ただの死では済まなくなることを。


 手帳に書いた自分の文字が、自分の言葉ではなくなることを。


 そして、美月の「今、話して」という声が、しばらくのあいだ、最後に届いた声になることを。


 車の扉が閉まった。


 音は小さかった。


 だが晴臣には、水科家の戸が、もう一度閉じたように聞こえた。


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