十五 水のない岩
知らせが入ったのは、南宮の酒が三巡目に入った頃だった。
広間では、柱立の祝いが始まっていた。
畳の上に膳が並び、瓶ビールの栓が抜かれ、赤い顔をした男たちが肩を叩き合っている。柱は無事に立った。十四年に一度の大仕事を終えた安堵が、南宮会館の壁や天井にまで染み込んでいるようだった。
晴臣は、その広間には入れなかった。
会館の奥の小部屋に座らされていた。
襖一枚を隔てた向こう側では笑い声が起こる。誰かが歌い出し、すぐに別の誰かが手拍子を始める。祝いの席の熱が、廊下を伝って小部屋の前まで流れてくる。
だが、小部屋の中は冷えていた。
座卓の上には湯呑みが一つ置かれている。中の茶は、もうぬるい。晴臣はそれに手をつけなかった。
藤原は神職に至急の要件があると呼ばれ、一度席をはずしていた。
晴臣も何事かと、何度も外へ出ようとした。
そのたびに、廊下にいた若い氏子が困った顔で立ち上がる。
「水科さんはもう少しだけ、ここでお待ちください」
繰り返しそれだけ言われた。
怒鳴られたわけではない。
腕を掴まれたわけでもない。
けれど、晴臣は出られなかった。
出ようとすれば、出ようとした事実が残る。
それを、さっき藤原から教えられた。
動けば、動いたことが紙になる。
戻れば、戻ったことが紙になる。
黙れば、黙ったことさえ紙になる。
晴臣は胸元に手を当てた。
守り袋は、そこにある。
その少し下、上着の内側には、黒沢の指示で取った手帳が入っている。
手帳は薄い。
ただの紙の束だ。
それなのに、今は石のように重かった。
黒沢が戻れば済む。
晴臣は何度もそう考えた。
黒沢が戻り、手帳は水科君に持たせた、私が確認する、と言えば済む。藤原も、土師も、南宮の誰も、それ以上は言えない。
だから黒沢は戻らなければならない。
戻るはずだった。
襖の向こうで足音が止まった。
晴臣は顔を上げた。
襖が開く。
藤原匡親が立っていた。
先ほどまでと違い、手には何も持っていない。紙も、筆記具も、書類挟みもない。そのことが、かえって晴臣を不安にさせた。
「水科さん」
藤原の声は静かだった。
「来てください」
「黒沢先生ですか!?」
晴臣は立ち上がった。
「見つかったんですか!?」
藤原はすぐには答えなかった。
その沈黙で、晴臣は胸の奥が一段沈むのを感じた。
「確認が必要です」
「どこで」
「北宮の近くにある沢です」
「沢?」
晴臣は眉を寄せた。
北宮から逆井へ向かう道の脇に、小さな沢がある。雨の後だけ水が増える細い流れだ。だが、出蔵や逆井から戻るなら、沢へ行く理由はない。
「先生はそこにいるんですか」
「まだ、黒沢先生ご本人かどうかは正式には確認されていません」
「本人かどうかって」
「鞄が見つかりました」
鞄。
その言葉が、初めて部屋の中に置かれた。
晴臣は一瞬、意味が分からなかった。
「鞄?」
「黒沢先生のものと思われる鞄です」
「鞄だけですか」
藤原は答えなかった。
答えないことが、また答えだった。
晴臣は襖の方へ歩いた。
「行きます」
「同行していただきます。ただし、現場では指示に従ってください」
「現場?」
晴臣の声が掠れた。
「そういう言い方をするということは、何かあったんですね」
「まだ断定されていません」
「断定しないなら、先に状況を教えてください」
藤原は横へ一歩退いた。
廊下には、土師倉之介がいた。
土師は顔色を失っていた。いつものように整えた髪も、眼鏡の奥の目も、どこか焦点が合っていない。
「土師さんも?」
「確認に同行します」
土師はそう言ったが、その声には力がなかった。
晴臣は廊下へ出た。
会館の広間を抜ける時、人々の視線が一斉にこちらへ集まった。
ついさっきまで笑っていた男たちが、箸を止める。酒を注いでいた女が、瓶を傾けたまま動かなくなる。子どもが何かを聞こうとして、母親に口を塞がれる。
誰も声をかけなかった。
晴臣は広間の奥に、美月を探した。
いない。
美月はどこにも見えなかった。
代わりに、入口近くに守部冬真が立っていた。
冬真は晴臣を見ると、すぐに近づいてきた。
「晴臣」
「美月は?」
「今は別の部屋にいる。知らせが入って、少し動揺している」
「会わせてくれ」
「今はやめた方がいい」
「どうして」
冬真は一瞬だけ言葉を切った。
そして、低い声で言った。
「君が会えば、美月は君について行こうとする」
「それの何が悪い」
「今は北宮へ行くんだろ。そこに美月を連れて行く必要はない」
正しい。
言っていることは正しい。
だが、その正しさは、晴臣から美月を遠ざけるために使われていた。
「一言でいい」
「僕から伝える」
「それはやめろ」
晴臣は冬真を見た。
冬真の表情は崩れなかった。
心配している顔。
美月を守ろうとしている顔。
晴臣を気遣う顔。
どれも、間違っていない。
だからこそ、晴臣はそれ以上言えなかった。
藤原が横から言った。
「時間がありません」
晴臣は黙って会館を出た。
外は夜になっていた。
南宮の提灯は明るい。
柱の根元にはまだ人が集まり、火が焚かれている。太鼓の音は先ほどより弱くなっていたが、祭りは続いていた。立った柱が、夜空に黒い影となって伸びている。
その横を通り過ぎ、晴臣たちは北へ向かった。
湖沿いの道へ出ると、祝いの音は背中へ離れていった。
南宮の火が遠ざかる。
湖の水面は暗く、ところどころに提灯の赤が揺れている。対岸の北宮の森は、灯りを飲み込むように黒かった。
道の途中で、斎部嘉平が待っていた。
法被の上に古い上着を羽織り、手には懐中電灯を持っている。いつもの薄笑いはなかった。口元だけが落ち着かず、何度も舌で唇を湿らせている。
「こっちです」
斎部は短く言った。
「斎部さんが見つけたんですか?」
晴臣が聞くと、斎部は目を逸らした。
「俺じゃない。若い衆だ。俺は道を知ってるから呼ばれただけだ」
「どこです」
「沢の上流だ」
「沢の上流に先生が行くはずがない」
「俺に言われても困る」
斎部の声は苛立っていた。
だが、その苛立ちの下に怯えがあった。
晴臣たちは北宮へ続く脇道へ入った。
祭りの日のため、表の道には注連縄が張られている。そこから外れ、古い山道へ入る。木々が近づき、土の匂いが濃くなる。足元には濡れた落ち葉が積もっていた。
しばらく進むと、細い沢の音が聞こえた。
しかし、その音はすぐに途切れた。
沢は下の方では流れている。
だが、上へ行くほど水は少なくなり、やがて石だけの筋になった。
斎部が足を止めた。
「ここから少し上がる」
「沢はもう枯れてますね」
土師が呟いた。
斎部は答えなかった。
道とは呼べない斜面を上がる。
木の根を掴み、湿った土に足を取られながら進む。懐中電灯の光が幹を照らし、影が幾重にも折れた。誰かの息遣いが荒い。
晴臣は、自分の呼吸だけを聞いていた。
黒沢先生。
黒沢先生。
心の中で呼ぶ。
返事はない。
斜面を上がり切ると、小さな平場に出た。
森の中が、そこだけぽっかり開いている。
中央に大きな岩があった。
人の背丈ほどもある灰色の岩だ。上面は平らではなく、ところどころ膨らみ、古い獣の背のように見える。周囲には低い笹が生え、沢の跡はその下で消えていた。
そこに、人が集まっていた。
南宮の若い衆が三人。
北宮の神職が二人。
誰も近づこうとしていない。
懐中電灯の光が、大岩の手前で止まっている。
そして、岩の下に、鞄があった。
黒い革鞄だった。
湿った笹の上に横倒しになり、口金が少し開いている。泥が側面についていた。持ち手の片方が捩れ、金具が鈍く光っている。
晴臣は、それが黒沢のものだとすぐに分かった。
黒沢がいつも持ち歩いていた鞄だった。
古く、実用的で、少しだけ頑固な形をした鞄。
「触るな」
藤原が言った。
晴臣は、そこで初めて自分が一歩踏み出していたことに気づいた。
「中は」
「確認済みです」
「何が入っていましたか」
藤原は斎部を見た。
斎部は喉を鳴らした。
「身の回りのものだけだ。財布、名刺入れ、眼鏡の替え、手拭い……そんなものだ」
「記録は」
誰も答えなかった。
晴臣はもう一度聞いた。
「記録はあったんですか」
藤原が静かに言った。
「現時点で、黒沢先生が持っていたとされる記録類は見つかっていません」
見つかっていない。
その言葉が、森の中でやけに大きく聞こえた。
黒沢の鞄。
記録がない。
晴臣の手帳。
三つが並ぶ。
並べたのは誰でもない。
事実そのものが、勝手に並んでいく。
土師が小さく息を呑んだ。
「岩の上です」
若い氏子の一人が言った。
晴臣は大岩を見上げた。
懐中電灯の光が揺れ、岩の上を照らす。
そこに、黒沢がいた。
膝を折り、上体を前に倒している。
土下座のようにも見えた。
祈っているようにも見えた。
額は岩に擦り付けられているようで、両手は前に伸ばされている。指先は岩肌を掴もうとしていたのか、爪の間に黒い土が入っていた。
着ていた上着は濡れていた。
水がない場所なのに。
髪も濡れていた。
首筋から襟元にかけて、暗く湿っている。
顔は横を向いていた。
とても苦しそうな表情をしていた。目は見開き、口元には、泥のついた布片が貼りつくように残っている。布なのか、手拭いの切れ端なのか、暗くてよく分からない。ただ、怯えているようにも、赦しを乞うているようにも見えた。
「黒沢先生……」
声が出た。
自分の声とは思えないほど細かった。
「黒沢先生!」
晴臣は岩へ駆け寄ろうとした。
斎部が腕を掴んだ。
「触るな!」
「離してください!」
「触っちゃ駄目だ!」
「先生が!」
「もう駄目だ!」
斎部の声が裏返った。
森が静まり返った。
もう駄目だ。
その言葉を、誰も訂正しなかった。
晴臣は斎部の手を振りほどこうとした。
だが、体に力が入らない。
膝が崩れそうになる。
黒沢は動かない。
胸も上下していない。
晴臣は懐中電灯の光の中で、黒沢の肩を見ていた。
ほんの少しでも動いてほしかった。
風で服が揺れるだけでもよかった。
だが、黒沢は岩の上で、何かに許しを乞うような姿勢のまま止まっていた。
北宮の神職の一人が、小さく呟いた。
「なぜ、ここに水が」
晴臣は足元を見た。
大岩の周囲だけ、土が濡れていた。
雨は降っていない。
沢は岩の下で枯れているようだ。
ここには水の流れなどない。
それなのに、岩の根元からじわじわと水がにじんでいた。笹の葉が濡れ、落ち葉の間に小さな黒い艶がある。懐中電灯の光を受けて、水面とも呼べないほど薄い水が、ぬらりと光った。
「ここは水が出る場所じゃない」
斎部が言った。
誰に言ったのか分からない。
自分に言い聞かせるような声だった。
藤原が一歩前へ出た。
「全員、これ以上近づかないでください。救急と警察へ連絡を。発見時刻、発見者、立ち位置、触れた者を確認します」
言葉が、すぐに手続きへ変わっていく。
発見時刻。
発見者。
立ち位置。
触れた者。
黒沢はまだ岩の上にいるのに、もう紙の中へ移され始めていた。
晴臣は藤原を見た。
「藤原さん」
「何でしょう」
「先生は、こんなところに来ません」
「それはあなたの見解です」
「見解じゃない。道がおかしい」
「道を知る者でなければ来られない場所ですか?」
その問いに、晴臣は詰まった。
道を知る者。
斎部。
北宮の神職。
地元の者。
そして、晴臣。
自分も奥木の人間だ。
子どもの頃、沢の上流の森には何度か入ったことがある。細かな道は忘れていても、地形の感覚は残っている。
藤原はそれ以上言わなかった。
だが、言わないことで十分だった。
土師が低い声で言った。
「水科君」
晴臣は振り向いた。
土師の顔は青ざめていた。だが、その目の奥には別の色があった。恐怖と、混乱と、何かを組み立てようとする研究者の癖。
「君は、黒沢先生と別れた後、先生がどちらへ行ったか見ていないんだね」
「見ていません」
「本当に?」
「土師さん」
「確認です」
その言い方は、藤原と同じだった。
晴臣は怒りより先に、寒気を覚えた。
黒沢の死を前にしても、人は確認を始める。
そして確認は、誰かを助けるためだけに使われるわけではない。
「先生とは逆井で別れたわけではありません」
晴臣は言った。
「北宮で、私は南宮へ戻るよう言われた。先生は残ると言った。それだけです」
「誰に言われた」
「斎部さんです」
斎部の肩が揺れた。
「俺は、南宮へ戻れと言っただけだ」
「先生には?」
「先生は、もう少し見ると言った」
「何を」
「知らん」
斎部の声が荒くなった。
「俺は知らん。先生が何を見たかなんて、知らん」
知らん。
父も同じ言葉をよく使った。
だが、父の「知らん」と、斎部の「知らん」は違う。
父のそれは、知らないものの前で立ち止まる言葉だった。
斎部のそれは、知っている場所から逃げる言葉だった。
救急隊が来るまでの時間は、ひどく長かった。
誰も黒沢を下ろせなかった。
触っていいのか、触ってはいけないのか、誰も判断できなかった。藤原は触れるなと言い、神職は岩へ上がることを嫌がり、若い衆はただ光を当て続けていた。
晴臣は、その場に立っていた。
膝が震えていた。
寒いのか、恐ろしいのか、怒っているのか、自分でも分からなかった。
黒沢の口元の布片が、光の中で揺れたように見えた。
風のせいだ。
晴臣はそう思った。
だが、風は吹いていなかった。
その時、岩に四角い水の痕と何かの羽らしきものがあることに気づいた。
A4用紙と同じくらいの長方形の痕と黒い羽根。
烏の羽だろうか?
近くで見ようとしたその時、杉の木の上からバサバサと音を立てて何かが飛んで行った。
それが飛び去った方角が先生が向いている方角と同じだったように感じた。
やがて、下の道から人の声が近づいた。
救急隊と警察が来た。
そこからは、晴臣には断片しか残っていない。
岩へ梯子をかける音。
誰かが「心肺停止」と言う声。
水を吸っているようだ、と誰かが低く言った。
写真を撮る音。
鞄を袋に入れる音。
水がにじむ土を、誰かが懐中電灯で何度も照らしている。
警察官が晴臣の名前を聞く。
藤原が横から説明する。
最終同行者。
補助記録。
手帳提出拒否。
黒沢先生の記録類は未発見。
言葉が一つずつ置かれる。
藤原は嘘を言っていなかった。
何一つ、嘘ではない。
だが、嘘ではないものが並ぶと、晴臣の立つ場所だけが暗くなる。
黒沢が岩から下ろされた時、晴臣は目を閉じた。
見たくなかった。
けれど、見なければならない気もした。
黒沢は担架に乗せられ、白い布をかけられた。
その布の下で、黒沢の体はやけに小さく見えた。
あれほど大きく見えた人が、こんなに小さかったのか。
晴臣は、そんなことを考えていた。
南宮会館へ戻った時、祭りの音はほとんど消えていた。
広間の膳はそのままだった。
食べかけの煮物。
倒れた紙コップ。
冷えた汁椀。
柱立の祝いは、中途半端な形で止まっていた。
人々は廊下や玄関先に集まっていた。誰も大きな声を出さない。晴臣たちが戻ると、視線だけが動いた。
黒沢先生が亡くなったらしい。
水のないところで、水に沈んだみたいだったらしい。
鞄が見つかったらしい。
記録がないらしい。
最後に一緒だったのは、水科らしい。
言葉はまだ声になっていない。
だが、空気の中ではもう形を持っていた。
晴臣は美月を探した。
今度は、いた。
会館の廊下の奥に立っていた。
顔が白かった。両手を胸の前で握りしめ、こちらを見ている。
晴臣は歩き出した。
「美月」
美月も一歩動いた。
その前に、冬真が横へ入った。
強く遮ったわけではない。
ただ、自然に、心配するように、美月の前に立った。
「晴臣、今は」
「どいてくれ」
「落ち着いてからにした方がいい」
「どいてくれ」
冬真の表情が少しだけ硬くなった。
「君は今、事情を聞かれる立場だ」
「だから何だ」
「美月を巻き込むな」
その言葉に、美月が顔を上げた。
「冬真」
小さな声だった。
だが、冬真は振り向いた。
「美月、今は君も休んだ方がいい」
「晴臣と話す」
「後でいい」
「後じゃ駄目」
美月の声が震えた。
晴臣は胸が裂けるような痛みを覚えた。
美月は信じようとしている。
まだ、こちらへ来ようとしている。
それなのに、晴臣の足は止まっていた。
自分が近づけば、美月も紙の中へ入る。
藤原の書類に、美月の名前が乗る。
秦美月。
婚約者。
接触。
発言。
動揺。
晴臣は、それを想像してしまった。
そして、その想像が、足を止めた。
藤原の声が後ろからした。
「水科さん。こちらへ」
晴臣は美月を見た。
美月も晴臣を見ていた。
数歩の距離だった。
だが、その数歩を、誰も渡らせなかった。
晴臣は、声だけを絞り出した。
「美月、後で必ず話す」
美月の唇が動いた。
何を言ったのかは、聞こえなかった。
冬真が彼女の肩に手を添える。
晴臣は視線を逸らした。
小部屋へ戻る。
同じ部屋だった。
湯呑みは片付けられていた。
代わりに、机の上には紙が置かれている。
藤原は向かいに座った。
土師は壁際に立った。
さっきと同じ配置だった。
だが、もう何も同じではない。
黒沢は死んだ。
鞄が見つかった。
記録類は見つからない。
晴臣の手帳だけが残っている。
藤原が言った。
「水科さん。改めてお願いします」
晴臣は黙っていた。
「黒沢先生の記録類が現場から見つかっていません」
「先生がどこかへ置いたのかもしれません」
「その可能性もあります」
「岩の上にA4用紙くらいの水の痕がありました。」
「その報告はうけていません」
「調べてください!」
「それとは別に、あなたが補助記録を保持している事実についてですが」
藤原は紙を一枚こちらへ滑らせた。
「資料として手帳を提出してください」
晴臣は紙を見なかった。
「嫌です」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
藤原は表情を変えなかった。
「理由を伺います」
「黒沢先生の指示です」
「黒沢先生は亡くなりました」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
晴臣は息を止めた。
亡くなりました。
初めて、そう言われた。
見たのに。
分かっていたのに。
言葉にされると、体の中のどこかが崩れた。
「だからこそです」
晴臣は言った。
「だからこそ、勝手に渡せません」
「黒沢先生の死因確認にも関わる可能性があります」
「なら警察に渡します」
「それは構いません。ただし、今この場でも確認させてください」
「あなたに見せる理由がない」
「あります」
藤原は静かに言った。
「あなたは、黒沢先生と最後に確認作業を行った人物です。黒沢先生の記録類が見つからない中で、唯一、関連する記録を持っている。しかも、その提示を拒否している。何か隠していいるのではないかと思われてします状況です」
「何も隠してなどいません!」
「黒沢先生は、口元に布片を残し、衣服を濡らし、水のない場所で溺死していた」
晴臣は拳を握った。
「それと私の資料に何の関係があるんですか?」
「分かりません」
「分からないのに並べるんですか?」
「分からないから並べます」
藤原の声には迷いがなかった。
「分からないものは、並べて確認するしかありません」
晴臣は藤原を見た。
この男は、黒沢の死を恐れていないのか。
あの岩の上の姿を見て、何も感じなかったのか。
そう思った。
だが、違うのかもしれない。
藤原も恐れている。
恐れているから、紙にする。
紙にすれば、恐怖は手続きになる。
手続きになれば、人を動かせる。
晴臣は、初めて藤原という男の怖さを少し理解した。
土師が壁際から言った。
「水科君、出した方がいい」
「土師さんまで」
「君のためだ」
「その言葉は、もう聞き飽きました」
「本当に君のためだ。隠しているように見える」
「隠していません」
「先生が亡くなった今、何か隠ぺいしているとみられかねない。資料として提出するべきだ」
外から。
また、その言葉だった。
奥木の外。
研究の外。
祭りの外。
そして今度は、疑いの外側から見た晴臣。
晴臣自身の事情など、そこでは意味を持たない。
どう見えるか。
何と並ぶか。
誰が記録するか。
それだけが形になる。
そして、晴臣は力なく言った。
「……提出します。確認してください」
藤原は、すぐには手を伸ばさなかった。
その一拍の間が、晴臣にはひどく長く感じられた。
奪われたのではない。
自分で差し出す。
その形が必要なのだと、遅れて分かった。
晴臣は胸元から手帳を取り出し、机の上に置いた。
藤原は静かに受け取った。
「お預かりします」
その声は、礼儀正しかった。
だが、晴臣には、戸が閉まる音のように聞こえた。
藤原は手帳を受け取ると別の紙に何かを書いた。
その音だけが、部屋に響いた。
さらさらと。
乾いた音だった。
晴臣はその音を聞きながら、岩の周囲ににじんでいた水を思い出していた。
水のない場所にあった水。
黒沢の濡れた襟、先生の死因。
口元の泥のついた布片。
祈るような姿勢。
そして、黒沢の記録が消えていること。
何かが起きている。
晴臣には分かった。
だが、それを説明する言葉がなかった。
言葉がないものは、紙の上では弱い。
紙の上で弱いものは、簡単に別の意味を与えられる。
部屋の外で、美月の声がした気がした。
晴臣は顔を上げた。
しかし、襖は開かなかった。
代わりに、遠くで誰かが泣く声がした。
南宮の柱は、夜の空に立っている。
黒沢は、もう戻らない。
手帳も手元から離れた。
父の家では、赤飯が冷めきっているだろう。
晴臣はまだ逮捕されていない。
まだ罪人ではない。
まだ誰からも、犯人とは呼ばれていない。
だが、黒沢の死は、晴臣の周囲にあった最後の余白を押し潰した。
祭りの輪から外された男は、この夜、初めて疑いの輪の内側へ置かれた。
そして奥木湖は、南宮の火を映しながら、何も言わずに黒く沈んでいた。




