十四 脱輪
柱は、すでに立っていた。
一度、南宮会館の奥から出された晴臣が広場へ戻った時、最初に見たのはそれだった。
夕方まで、男たちが綱を握り、声を合わせ、少しずつ起こしていた柱が、今は南宮の空へまっすぐ伸びている。根元には白い布が巻かれ、注連縄がかかっていた。濡れた木肌に夕方の火が当たり、朱と金のあいだのような色をしている。
人々は、それを見上げていた。
太鼓が鳴る。
笛が鳴る。
誰かが笑い、誰かが手を叩き、子どもたちは柱の根元へ近づこうとして母親に引き戻されている。年寄りたちは、今年の柱はよく立った、曲がりが少ない、声が揃っていた、とそれぞれに言い合っていた。
祭りは終わっていない。
むしろ、ここからが祭りだった。
柱が立ち、酒が入り、夜へ向かって人の声が濃くなっていく。南宮の火は、まだ明るい。境内の提灯にも灯が入り、湖からの風に小さく揺れている。
だが、晴臣には、その輪の外側に立っている感覚があった。
さっきまで、自分もこの祭りの中にいたはずだった。
美月と一緒に柱を見るつもりだった。
夕方を過ぎたら、父の家へ戻り、赤飯を食べるつもりだった。
黒沢も、北宮から戻ってくるはずだった。
どれも、まだ失われたわけではない。
そう思おうとした。
けれど、柱の立った広場は、晴臣を待っていなかった。
晴臣が戻らないあいだに、祭りは進んでいた。柱は立ち、声は上がり、酒の準備は始まり、人々は次の段取りへ移っている。
自分だけが、まだ北宮の暗がりに残されている。
そんな気がした。
「水科さん」
背後から声をかけられた。
若い氏子だった。さっき藤原の部屋へ晴臣を案内した男とは別の男だ。法被の襟元に汗が滲み、手には折り畳まれた紙を持っている。
「藤原先生が、もう少しだけお話を」
「先ほど伺ったばかりです」
晴臣は言った。
自分でも声が硬いのが分かった。
男は困ったように目を伏せた。
「確認だけだそうです」
確認。
また、その言葉だった。
晴臣は柱を見た。
美月は、どこにいるのか分からない。
白い帯は、人混みの中にいくつも見えた。そのどれもが一瞬、美月に見える。だが、違う。
晴臣は胸元に手を当てた。
守り袋は、まだそこにある。
熱はない。
ただ、布越しに小さく硬い結び目が触れた。
「分かりました」
晴臣は答えた。
若い氏子は少しだけ安堵した顔をした。
彼に悪意はない。
ただ、言われたことを運んでいる。
晴臣は、そう思った。
だが、そのことが余計に気味悪かった。
誰も晴臣を取り押さえていない。
誰も怒鳴っていない。
誰も道を塞いでいない。
それなのに、晴臣は同じ場所へ戻されていく。
会館の奥へ。
襖の向こうへ。
紙の並ぶ部屋へ。
南宮会館の廊下は、さっきより騒がしくなっていた。
広間では膳が並べられている。紙コップ、瓶ビール、折り詰め、漬物の皿。年配の男が声を張り、若い者が走り回り、女たちが湯呑みを運んでいる。
晴臣が通ると、何人かが顔を上げた。
挨拶をしようとして、やめる。
何かを聞こうとして、やめる。
目だけが、晴臣の胸元や手元へ落ちる。
手帳を持っているかどうか。
何かを隠しているかどうか。
そう見られている気がした。
晴臣は、手帳を上着の内側に入れていた。
黒沢が言った。
私が言ったことだけを書く。
余計な解釈は入れない。
今日見たものに、すぐ意味をつけるな。
ただし、見たものを忘れるな。
その言葉は、まだ耳に残っている。
だから手帳を渡さなかった。
それだけだった。
だが、それだけでは済まなくなっている。
奥の部屋には、藤原匡親ふじわら・まさちかがいた。
先ほどと同じように、机の向こうに座っている。書類は整えられていた。筆記具の位置も、紙の角度も、乱れていない。
その整い方が、晴臣にはひどく冷たく見えた。
部屋の隅には、土師倉之介はじ・くらのすけがいた。
座ってはいない。
壁際に立ち、腕を組んでいる。
土師は晴臣を見ると、目だけを動かした。その顔には、勝ち誇った色はなかった。むしろ、何かを確かめようとしている顔だった。
晴臣がどこまで動けなくなるのか。
それを測っている。
そんな顔だった。
「何度もすみません。お手数をおかけします」
藤原が言った。
「先ほども聞かれました」
「はい。ですが、先ほどと少し状況が変わりました」
「黒沢先生は」
「まだ所在確認中です」
「本当に探しているんですか」
「当然です」
「誰が」
藤原は一拍置いた。
「北宮の神職の方々と、南宮の若い衆が確認しています。少しずつ情報も入ってきています」
「教えてください」
「それはできません」
即答だった。
晴臣は藤原を見た。
「なぜですか」
「あなたは確認対象だからです」
藤原の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、言葉だけが硬かった。
「確認対象」
「黒沢先生と最後に北宮の奥へ入った関係者の一人です。あなたの安全のためにも、無用に動かない方がよろしい。情報を聞けば、動きたくなるかもしれません」
「安全のため?」
「そうです」
藤原は書類へ目を落とした。
「今、外へ出れば、余計な誤解を招きます」
「誤解とは何ですか」
「言葉の綾です」
「綾ではありません」
晴臣は言った。
「私が外へ出ると、何を誤解されるんですか」
藤原は、すぐには答えなかった。
代わりに、紙を一枚引き寄せた。
「水科さん。まず事実を整理しましょう」
「また事実ですか」
「事実は重要です」
「並べ方も重要です」
藤原の視線が、少しだけ上がった。
「その通りです」
嫌な返事だった。
晴臣の言葉を否定せず、藤原の紙の中へ取り込むような返事だった。
「黒沢先生は北宮から戻っていない。あなたは黒沢先生と同行していた。あなたは確認物について、鏡のようなもの、という見立てを口にした。あなたは補助記録を取っていた。そして、その記録を現時点では提出していない」
「黒沢先生の指示です」
「それも伺っています」
「なら」
「しかし、黒沢先生ご本人が戻られていない」
藤原は静かに言った。
「指示の確認ができません」
晴臣は言葉を失った。
確かにそうだ。
黒沢が戻れば済む。
黒沢が、手帳は水科君に持たせている、後で確認する、と言えば済む。
だが、黒沢は戻っていない。
その不在が、晴臣の言葉を少しずつ弱くしている。
晴臣は唇を噛んだ。
「黒沢先生は、戻ります」
「私もそう願っています」
「願っているだけですか」
「確認は進めています」
また、確認。
藤原の言葉は、同じところへ戻る。
土師が、壁際で小さく息を吐いた。
「水科君」
晴臣は土師を見た。
「君が黒沢先生の指示に従っているつもりなのは、分かる。ただ、外から見れば少し違う」
「外から?」
「非公開資料を見た若い研究者が、教授の不在後も個人的に重要な事実が書かれた手帳を保持している。そう見える」
「私は学生ではありません」
「そこは本質ではない」
「本質ではない?」
晴臣の声が荒くなった。
「先生が戻っていないんですよ」
「だからこそだ」
土師は言った。
「だからこそ、記録は共有すべきだ。君一人で抱えるべきではない」
正しい言葉だった。
正しい言葉ほど、今は危うかった。
晴臣が手帳を差し出せば、それは共有になるのか。
それとも、晴臣の手から離れた瞬間、別の紙に変わるのか。
晴臣には、もう分からなかった。
藤原が言った。
「手帳の提出を、今ここで強制するつもりはありません」
晴臣は眉を動かした。
強制しない。
その言葉は、優しく聞こえるはずだった。
だが、違う。
藤原は手帳を諦めたのではない。
別の紙を作るつもりなのだ。
「ただし、記録保持の事実は残します」
「何のために」
「後日の確認のためです」
「後日……」
「はい」
藤原は紙に筆記具を置いた。
「本日は祭礼中です。混乱もあります。黒沢先生の所在確認が最優先です。ですから、水科さんには、ひとまず南宮会館内で待機していただきたい」
「待機?」
「はい」
「私は帰る約束があります」
「どなたと」
その問いに、晴臣は一瞬だけ詰まった。
父。
美月。
赤飯。
そう答えればいい。
だが、この場でそれを言うことが、父と美月をこの紙の中に入れてしまうような気がした。
「家です」
晴臣は言った。
「父が待っています」
「お父上には、連絡が行っているはずです」
晴臣は顔を上げた。
「何を?」
「黒沢先生の件で、少し遅れる可能性があると」
「誰が連絡したんですか」
「南宮側からです」
「南宮の誰が?」
藤原は答えなかった。
晴臣の胸の奥が冷えた。
父の家へ、連絡が行った。
それがどんな言葉だったのか、晴臣には分からない。
ただ、父がその言葉をどう受け取るかは想像できた。
家で待て。
そう言われたら、父は戸を閉じる。
意味を知らないまま、正しい形だけを守る。
晴臣は立ち上がりかけた。
「父のところへ行きます」
「今は控えてください」
「藤原さんに止める権利はない」
「ありません」
藤原はあっさり言った。
「ですが、今あなたが出れば、止める理由が生まれます」
部屋が静かになった。
晴臣は藤原を見た。
その言葉は脅しではない。
脅しなら、まだよかった。
これは予告だった。
今は止めていない。
だが、動けば止める理由が生まれる。
理由が生まれれば、紙に残る。
紙に残れば、動いたことそのものが別の意味を持つ。
晴臣は、ゆっくり腰を下ろした。
土師が目を伏せた。
藤原は、筆記具を取った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「それでも、手続き上は必要です」
藤原は何かを書いた。
晴臣は、その手元を見ていた。
何を書いているのかは読めない。
だが、自分の名がそこにあることは分かった。
水科晴臣。
その四文字が、晴臣の知らない形に整えられていく。
部屋の外で、太鼓が鳴った。
柱が立った後の、祝いの太鼓だ。
人々の声が上がる。
美月は、あの中にいるのかもしれない。
父は、家で赤飯を前に待っているのかもしれない。
黒沢は、北宮のどこかにいるのかもしれない。
どれも、手を伸ばせば届く距離にあるはずだった。
だが、今はどれにも届かなかった。
藤原が顔を上げた。
「確認のため、もう一度お聞きします」
「何ですか」
「北宮出蔵で確認した石の函について、あなたは底に何かが嵌まっていたのではないか、と発言した」
「はい」
「それは、黒沢先生の見解ですか」
「違います」
「あなた自身の見立て」
「見たままの印象です」
「鏡のようなもの」
晴臣は黙った。
その言葉を、藤原の口から聞きたくなかった。
自分が言った言葉なのに、藤原が言うと、別のものになる。
「そう言いました」
「なぜ、そう思ったのですか」
「底の円形の座と、内壁の刻線です」
「専門的な判断ですか」
「判断というほどではありません」
「では、印象」
「そうです」
藤原はまた書いた。
晴臣は、もう止めなかった。
止めれば、そのことも書かれる。
訂正すれば、訂正したことが残る。
黙れば、黙ったことが残る。
この部屋では、何をしても紙になる。
土師が言った。
「水科君は、昔から北宮に関心があったんですか?」
「研究対象としてです」
「地元でもある」
「それが何ですか」
「距離が近いと、対象に引っ張られることがある」
「私は引っ張られていません」
言った瞬間、自分でも言葉が弱いと分かった。
北宮の空気。
逆井の底。
石函の赤。
守り袋の重さ。
それらが体に残っている。
引っ張られていないと言い切るには、あまりに鮮明だった。
土師は、それ以上言わなかった。
藤原が紙を揃えた。
「今日はここまでにしましょう」
「帰っていいんですか」
「会館内でお待ちください」
「それは帰っていいという意味ではない」
「安全確認が済むまでです」
「安全確認?」
「水科さん」
藤原は、初めて少しだけ声を低くした。
「あなたを責めているわけではありません。ただ、黒沢先生が戻られていない以上、関係者として不用意な行動は避けていただきたい」
責めているわけではない。
その言葉で、晴臣はかえって分かった。
自分はまだ何者でもない。
罪人ではない。
証人でもない。
ただ、そこにぎりぎりで立っている者だった。
祭りの輪から。
父の家へ帰る道から。
美月の隣から。
研究者として黒沢の横に立っていた位置から。
どこかに入れられたのではない。
どこからも少しずつ外されている。
少し深呼吸をして、晴臣は立ち上がった。
「美月に会わせてください」
「秦さんも、祭礼の役があります」
「一言でいい」
「こちらから伝えます」
「伝えないでください」
晴臣は即座に言った。
藤原の目が、わずかに細くなった。
「自分で言います」
藤原は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
部屋の外で、誰かが襖の前を通った。
若い女の声がした。
美月ではない。
晴臣は、それでも一瞬、足を動かしかけた。
藤原が何も言わずに見ている。
土師も見ている。
晴臣は、動けなかった。
動けば、また紙になる。
それが分かってしまった。
「少し、外の空気を吸います」
晴臣は言った。
「会館の前までなら」
藤原は答えた。
帰宅の許可ではない。
範囲の指定だった。
晴臣は部屋を出た。
廊下へ出ると、祭りの音が一気に戻ってきた。
笑い声。
皿の音。
酒瓶が畳に置かれる音。
誰かが晴臣の方を見た。
また、すぐに目を逸らす。
晴臣は会館の入口まで歩いた。
外へ出る。
夕方の空は、もう紫に近かった。
柱は立っている。
その根元に、人が集まっている。
美月の白い帯が、遠くに見えた気がした。
晴臣は一歩踏み出そうとした。
その時、守部冬真もりべ・とうまが視界に入った。
冬真は美月の少し近くにいた。
近すぎない。
だが、遠くもない。
誰かに説明するような顔で、美月へ何かを言っている。
美月は頷いていなかった。
ただ、聞いている。
晴臣は声を出そうとした。
美月。
そう呼ぼうとした。
だが、その前に、冬真がこちらを見た。
一瞬だけ目が合った。
冬真の顔に、驚きはなかった。
心配そうな顔になった。
正しい顔だった。
今この場で浮かべるべき顔を、少しも間違えていない。
冬真が美月に何か言った。
美月が振り向く。
白い帯が揺れた。
晴臣は、ようやく声を出した。
「美月」
同時に、会館の中から声がした。
「水科さん」
振り返る。
若い氏子が立っている。
「藤原先生が、戻ってほしいと」
晴臣は、その場に立ったまま動けなかった。
美月がこちらを見ている。
遠い。
ほんの数十歩の距離なのに、遠い。
柱の前にいる美月と、会館の入口にいる晴臣の間には、人の列も、綱も、酒の席も、何もない。
それでも、渡れないものがあった。
晴臣は美月を見た。
美月も晴臣を見ていた。
その目に、不安があった。
怒りもあった。
なぜ来ないのか、という問いもあった。
晴臣は口を開いた。
だが、声になる前に、冬真が美月の横へ一歩近づいた。
守るように。
止めるように。
正しい距離で。
晴臣は、何も言えなかった。
若い氏子が、困った顔で待っている。
晴臣は一度だけ柱を見上げた。
空へ向かって立つ柱。
その根元で、人々が笑っている。
祭りは続いている。
晴臣が抜けても、何も止まらない。
むしろ、晴臣が抜けたことで、祭りは滞りなく進んでいるようにさえ見えた。
「分かりました」
晴臣は言った。
会館の方へ戻る。
背中に、美月の視線を感じた。
振り返ればよかった。
声を張ればよかった。
走ればよかった。
そう思った。
だが、足は会館へ向かった。
藤原の部屋へ。
紙のある場所へ。
戻っていく。
その時、晴臣はまだ知らなかった。
自分がこの夜、何かを選んでいると思っていたこと。
手帳を守ること。
黒沢を待つこと。
父の家へ帰る機会をうかがうこと。
美月に自分の口で話そうとすること。
それらはすべて、自分の意思だと思っていた。
だが、奥木ではもう、晴臣の周りにあるものが先に動いていた。
紙が整い。
道が狭まり。
声が届かず。
戸が閉じる。
本人だけが、まだ自分で歩いていると思っている。
南宮の太鼓が、背後で鳴った。
柱は立っていた。
美月は遠ざかった。
父の家では、赤飯が冷め始めていた。
そして晴臣は、まだ裁かれてはいなかった。
ただ、祭りの輪から静かに落とされていた。




