十三 父が閉じた戸
水科昭三は、夕方になる前から赤飯を蒸していた。
祭りの日に赤飯を炊くことは、奥木では珍しくない。
祝いの日。
柱の立つ日。
家に客を迎える日。
そういう時、赤飯の湯気は、家の中を少しだけ明るくする。
昭三の家は古い。
玄関の戸は重く、敷居は少し歪んでいる。
雨の日には台所の隅が湿り、冬になると廊下の底から冷える。
それでも、家はまだ家だった。
人が帰ってくる場所として、形を残していた。
昭三は、蒸し器の蓋を少しだけ開けた。
白い湯気が上がる。
小豆の匂いが、台所に広がった。
味を見る必要はない。
何度も作ってきた。
妻がいた頃は、妻が作った。
妻がいなくなってからは、昭三が作るようになった。
最初はうまくいかなかった。
米が硬すぎたり、塩が足りなかったり、小豆の色が薄かったりした。
そのたびに、晴臣は文句を言わずに食べた。
まだ中学生だった晴臣が、少し困った顔をしながら言ったことがある。
「母さんのとは違うけど、これはこれでいい」
昭三は、その言い方を今でも覚えている。
褒められたわけではない。
気を遣われたのだ。
それでも、その一言で何度も作るようになった。
今日は、晴臣が美月を連れてくる。
そう約束した。
南の火があるうちに帰れ。
昭三は朝、そう言った。
晴臣は笑っていた。
昔からそうだ。
父親の言うことを聞いているようで、最後は自分で見に行く。
それは悪いことではない。
晴臣はそういう子だった。
知りたいものへ向かう。
見えないものを見ようとする。
見えたものに、すぐ意味をつけようとする。
だからこそ、昭三は守り袋を渡した。
あれに何の意味があるのか、昭三自身にも正確には分からない。
父から渡された。
父もまた、祖父から渡されたらしい。
北へ行く時は持たせろ。
夕方までに帰らせろ。
庭石を動かすな。
水の逃げを塞ぐな。
北のことを夜へ持ち越すな。
意味は、教えられなかった。
聞いても、父は答えなかった。
「そういうもんだ」
それだけだった。
昭三は若い頃、それが嫌だった。
理由を言わずに命じる年寄りが嫌いだった。
意味の分からない作法を守る集落が嫌いだった。
北宮に近づくなと言いながら、なぜ近づいてはいけないのかは誰も言わない。
水科の家は昔からそうだ、と言いながら、何がそうなのかは誰も説明しない。
だから昭三は、一度だけ庭石を動かそうとしたことがある。
妻がまだ生きていた頃だ。
玄関脇の大きな石が邪魔だった。
車を入れるにも、荷物を運ぶにも、あの石が少しだけ邪魔をする。
業者に頼めば半日で済む。
そう思って、近所の者に話した。
その夜、父が黙って庭に立っていた。
雨でもないのに、蓑を羽織っていた。
昭三が声をかけると、父は石を見たまま言った。
「動かすな」
「邪魔だ」
「邪魔だから置いてある」
昭三は笑った。
だが、父は笑わなかった。
「意味が分からん」
「分からんでいい」
「分からんものを守れってのか」
「分かる者が守るなら、言い伝えはいらん」
その言葉だけは、今でも覚えている。
分からん者が守るために、作法がある。
父はそう言いたかったのかもしれない。
昭三は結局、石を動かさなかった。
妻はその夜、何も言わずに茶を淹れた。
翌朝、庭の石の周りに細い水筋ができているのを見た。
雨も降っていないのに、土だけが少し濡れていた。
あれが何だったのか、昭三は今でも知らない。
知らないまま、石を残している。
昭三は火を弱め、蒸し器の蓋を戻した。
窓の外を見る。
庭は夕方の色に沈み始めていた。
柿の木の影が長く伸びている。
玄関脇の石も、変わらずそこにある。
石の下を通る細い水路には、まだ水が流れていた。
昔は家の裏から庭へ水を引いていたという。
今はほとんど使わない。
それでも、完全には塞いでいない。
何度も塞ごうと思った。
落ち葉が詰まる。
泥が溜まる。
掃除が面倒だ。
だが、塞ぐ気にはなれなかった。
理由は分からない。
分からないまま、残している。
時計を見る。
約束の時間には、まだ少し早い。
だが、空の色は思ったより沈んでいた。
南宮の太鼓が、遠くから聞こえた。
家から南宮までは、歩けばそれなりにかかる。
風向きによっては、祭りの音がはっきり届く。
今日は、音が少し遠かった。
昭三は皿を二枚出した。
それから一枚迷って、三枚にした。
晴臣。
美月。
自分。
並べてから、少しだけおかしくなった。
婚約祝いと言うには、あまりに質素だ。
赤飯と煮物と漬物。
それだけだ。
だが、晴臣にはこれくらいでいい。
美月にも、余計なことをしない方がいい。
奥木の人間は、祝いを大きくしすぎると、かえって本音が見えなくなる。
静かな祝いでいい。
無事に帰ってくる。
家の戸を開ける。
赤飯を食べる。
それで十分だ。
その時、玄関の方で音がした。
戸を叩く音ではない。
誰かが、敷石を踏んだ音だった。
昭三は手を止めた。
もう一度、音がする。
小さな砂利の擦れる音。
知っている足音ではなかった。
晴臣なら、玄関に着く前に声を出す。
美月なら、もっと軽い。
近所の者なら、遠慮なく戸を叩く。
これは、迷っている足音だった。
昭三は手を拭き、玄関へ向かった。
戸の前で、一度だけ立ち止まる。
外から声がした。
「水科さん」
若い男の声だった。
昭三は戸を開けた。
南宮の法被を着た若い氏子が立っていた。
顔は知っている。
名前はすぐには出てこない。
祭りの手伝いをしている家の息子だったはずだ。
男は汗をかいていた。
走ってきたのかもしれない。
けれど、息は整えようとしている。
用件をどう言うか、迷っている顔だった。
「どうした」
昭三が言うと、男は一度、頭を下げた。
「南宮の方から、少し連絡がありまして」
「晴臣か」
男の目が、一瞬だけ揺れた。
その揺れで、昭三は胸の奥が冷えるのを感じた。
「晴臣はどうした」
「いえ、水科さん……晴臣さんは、南宮の方にいらっしゃると聞いています」
「聞いています、とは何だ」
男は言葉に詰まった。
「私は直接は見ていなくて」
「じゃあ、何を伝えに来た」
昭三の声が少し低くなった。
男は、もう一度頭を下げた。
「黒沢先生が、まだ戻られていないそうです」
昭三は、しばらく黙った。
黒沢。
晴臣が連れてきた大学の教授。
北宮の出蔵へ入った男。
朝、晴臣が名前を出していた。
研究で世話になっている、と言っていた。
昭三はその男の顔を知らない。
だが、その名が晴臣と一緒に出ることは知っていた。
「戻らないとは、どこからだ」
「北宮からです」
「晴臣は」
「確認のため、南宮で話を聞かれていると」
「誰に」
「藤原先生が……」
男はそこで口を閉じた。
言いすぎた、という顔だった。
昭三は、男を見た。
問い詰めれば、もう少し出てくるかもしれない。
だが、この男は運ばされているだけだ。
何かを知っている顔ではない。
知っている者は、こんな足音では来ない。
「晴臣に、家へ戻れと伝えろ」
昭三は言った。
「はい」
「今すぐだ」
「ただ、確認が」
「確認はあとでいい」
男は困った顔をした。
「私は、伝えるだけで」
「なら、伝えろ」
昭三は戸を閉めようとした。
男が慌てて言った。
「あの、水科さんも、できれば家でお待ちくださいとのことです」
昭三の手が止まった。
「誰が言った」
「南宮の方で」
「誰だ」
男は答えなかった。
答えられないのだ。
昭三は、そこで分かった。
家で待て。
その言葉は、優しい言葉ではない。
外へ出るな、という意味だ。
戸を開けておくな、という意味だ。
中で待っていろ。
外のことは、外で決める。
そういう意味だ。
昭三は、若い男を見た。
「ご苦労だった」
「すみません」
「お前が謝ることじゃない」
男はもう一度頭を下げ、足早に戻っていった。
背中が暗い道に消える。
昭三は、しばらく戸を開けたまま立っていた。
外の空気が冷たい。
まだ夕方のはずだった。
だが、北の山の方から、夜が早く降りてきているように見えた。
遠くで太鼓が鳴った。
南宮の太鼓だ。
祭りは続いている。
晴臣は、まだ南にいる。
そう言われた。
だが、昭三はそれをそのまま信じなかった。
南にいるなら、なぜ戻らない。
戻れないなら、誰が止めている。
止めているなら、何を始めた。
昭三は戸を閉めた。
閉めてから、すぐには鍵をかけなかった。
敷居に手を置く。
古い木の冷たさが、手のひらに伝わった。
父の声が、どこかで聞こえた気がした。
北の用事を、夜へ持ち越すな。
昭三は奥へ戻った。
蒸し器の火を止める。
湯気が細く上がっている。
赤飯は、もう蒸し上がっていた。
皿は三枚並んでいる。
晴臣。
美月。
自分。
昭三は、その三枚を見た。
片づける気にはなれなかった。
そのままにして、土間へ降りた。
戸棚の奥から、古い木箱を出す。
小さな箱だ。
晴臣に渡した守り袋が入っていた箱である。
中は空だった。
それでも、昭三は蓋を開けた。
中には、古い布の匂いだけが残っている。
守り袋は、晴臣が持っている。
持っているはずだ。
外すなよ。
朝、そう言った。
晴臣は軽く受け取った。
笑っていた。
その笑い方が、今になって腹立たしいほど懐かしかった。
昭三は、空の箱を閉じた。
次に、庭へ出た。
縁側の戸を開ける。
外の空気が、家の中へ入ってくる。
柿の木が揺れている。
風は強くない。
だが、枝の先だけが細かく震えていた。
昭三は庭石の前に立った。
玄関脇の大きな石。
妻が何度も邪魔だと言った石。
晴臣が小さい頃、その上に乗って怒られた石。
昭三は石に手を置いた。
冷たい。
石の周りの土だけが、少し湿っている。
雨は降っていない。
水路を見る。
細い水が、まだ流れている。
落ち葉が少し詰まっていた。
昭三はしゃがみ、手で落ち葉を取った。
水がすっと通る。
その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなった。
理由は分からない。
分からないまま、昭三はもう一つの水筋も見た。
裏庭へ回る。
家の裏には、小さな石組みがある。
今は使っていない古い排水の跡だ。
水科の家では、そこを塞がない。
塞いではならない。
そう言われてきた。
昭三は、石組みに溜まった泥を手で掻いた。
指先が冷える。
泥の下から、水がにじんだ。
少しだけ。
本当に少しだけだ。
それでも水は出た。
昭三は、しばらくその水を見ていた。
自分が何をしているのか、説明はできない。
誰かに見られれば、ただの年寄りじみた迷信に見えるだろう。
だが、体が先に動いた。
戸を閉める。
火を落とす。
水を逃がす。
石を動かさない。
それだけは、分かっていた。
意味は知らない。
だが、手順だけは体に残っている。
昭三は家の中へ戻った。
玄関の戸を見た。
まだ鍵はかけていない。
晴臣が帰ってくるなら、開けておきたい。
美月を連れて帰ってくるなら、灯りをつけて待っていたい。
赤飯も、まだ温かい。
だが、外の気配が変わっていた。
誰かが見ている、というほどではない。
ただ、道が家の外で止まっているような感じがした。
人が来ない。
声も来ない。
祭りの音だけが遠くにある。
家の前の道が、急に別の場所へ続く道になったようだった。
昭三は、玄関の内側に立った。
鍵に手をかける。
そこで止まる。
鍵をかければ、晴臣が帰ってきた時に開けなければならない。
鍵をかけなければ、外から何かが入ってくる。
そんな馬鹿なことを考えている自分に、昭三は小さく息を吐いた。
それでも、鍵をかけた。
かちり、と音がした。
家の中が、一段暗くなったように感じた。
昭三は廊下へ戻り、仏壇の前に座った。
妻の写真がある。
若い頃のまま笑っている。
「すまんな」
何に対して謝ったのか、自分でも分からなかった。
晴臣を北へ行かせたことか。
守り袋一つで足りると思ったことか。
意味を知らないまま作法だけを守ってきたことか。
それとも、今、戸を閉じたことか。
写真は何も答えない。
昭三は立ち上がった。
茶を淹れる。
湯呑みを一つだけ出す。
それから、思い直して三つ出した。
また三つだ。
昭三は湯呑みを見て、顔をしかめた。
晴臣と美月が帰ってくれば、笑い話になる。
父さん、心配しすぎだ。
そう言われれば、それでいい。
怒鳴ってもいい。
赤飯が冷めたと文句を言ってもいい。
無事に戸を叩けば、それでいい。
玄関の外で、風が鳴った。
昭三は反射的に振り向いた。
誰もいない。
戸は閉まっている。
鍵もかかっている。
それでも、外から誰かが立っているような気がした。
昭三は、戸の向こうへ声をかけそうになった。
晴臣か。
そう言いかけて、やめた。
違う。
晴臣なら、戸を叩く。
それに、晴臣なら、こんなふうに黙って立たない。
昭三は、台所へ戻った。
赤飯の湯気は、もう弱くなっている。
蓋を開けると、小豆の匂いが立った。
祝いの匂いだ。
だが、今は少し重かった。
昭三は、三つの茶碗に赤飯をよそった。
一つは自分の前に。
一つは晴臣の席に。
一つは美月の席に。
それから、箸を置いた。
箸先をそろえる。
妻がよくそうしていた。
乱れていると、落ち着かないと言っていた。
昭三は、自分の席に座った。
食べるつもりはなかった。
ただ、座った。
待つためには、座る場所が必要だった。
外では、南宮の太鼓が鳴っている。
少し遅れて、男たちの声が上がった。
柱が立ったのかもしれない。
晴臣は、それを見る約束をしていた。
美月と一緒に。
夜になる前に、家へ戻るはずだった。
昭三は、晴臣の茶碗を見た。
まだ湯気が出ている。
今なら間に合う。
そう思った。
まだ帰れる。
まだ戸を開けられる。
まだ赤飯は温かい。
そう思いたかった。
その時、家の裏で水音がした。
小さな音だった。
ぽたり、と。
昭三は立ち上がった。
裏口へ向かう。
鍵はかけていない。
裏口の戸を開けると、庭の石組みの方から水が落ちていた。
先ほど泥を掻いたところだ。
少しだけ水が流れている。
詰まりが取れたからだ。
それだけのことだ。
昭三は、自分にそう言い聞かせた。
だが、その水音が妙に耳に残った。
水が流れる。
家の外へ。
北ではなく、南でもなく、ただ低い方へ。
昔、父が言ったことがある。
「水は、覚えている方へ流れる」
意味は分からなかった。
今も分からない。
だが、分からない言葉ほど、年を取ると残る。
昭三は裏口を閉めた。
今度は、そこにも鍵をかけた。
家の中が、さらに静かになった。
外の祭りの音が遠くなる。
戸を閉じるとは、こういうことなのかもしれない。
外から守ることではない。
内側に残るものを、外へ出さないことでもある。
昭三は、ふと胸が苦しくなった。
自分は今、晴臣を守っているのか。
それとも、晴臣の帰る場所を閉じているのか。
分からない。
分からないまま、正しいことをしているのか。
それとも、分からないまま、取り返しのつかないことをしているのか。
昭三には、判断できなかった。
ただ、戸は閉じた。
火は落とした。
水は逃がした。
石は動かしていない。
守り袋は、晴臣が持っている。
それだけだった。
電話が鳴ったのは、その直後だった。
古い固定電話の音が、家の中に響いた。
昭三は、しばらく動けなかった。
電話は鳴り続ける。
一度。
二度。
三度。
昭三は受話器を取った。
「水科です」
向こうは、少し騒がしかった。
祭りの音ではない。
人が低い声で話している場所の音だった。
「昭三さんですか」
聞き覚えのある声だった。
近所の年配の男だ。
消防でも、祭りでも顔を合わせる。
だが、声が少し固い。
「どうした」
「今、南宮の方で少し確認が続いてまして」
「晴臣か」
間があった。
その間が、答えだった。
「晴臣さんは、まだ会館にいるそうです」
「そうです、ばかりだな。誰も見てないのか」
「いや、見た者はいると思います。ただ、今は中に入れなくて」
「美月さんは」
「会館の方にいるようですが、詳しくは」
「黒沢先生は」
向こうが黙った。
昭三は受話器を握り直した。
「戻っていないのか」
「……まだ、確認中です」
「確認中、確認中と、何をそんなに確認している」
声が荒くなった。
向こうの男は何も言えなかった。
昭三は目を閉じた。
この男も、運ばされている。
誰も中心を言わない。
誰も責任を持って言わない。
それなのに、言葉だけは家へ入ってくる。
家で待て。
確認中。
戻っていない。
会館にいる。
中に入れない。
どれも、外へ出るなという言葉に聞こえた。
「分かった」
昭三は言った。
「晴臣に、帰れと伝えてくれ」
「はい」
「美月さんにも、帰れと伝えてくれ」
「はい」
「それから」
昭三は一度、言葉を止めた。
何を言えばいいのか分からなかった。
何も言わない方がいい気もした。
だが、口が先に動いた。
「晴臣は、逃げるような子じゃない」
向こうは黙った。
「誰が何を言っても、それだけは覚えておいてくれ」
「……はい」
昭三は受話器を置いた。
家の中が静かになる。
だが、さっきよりも静かではなかった。
電話の向こうにあった低い声が、まだ耳に残っている。
昭三は、玄関へ行った。
戸の前に立つ。
鍵はかかっている。
外へ出るなら、今しかない。
南宮へ行く。
会館へ行く。
晴臣を連れて帰る。
美月も連れて帰る。
そうすればいい。
そう思った。
だが、足が動かなかった。
朝、自分で言ったのだ。
南の火があるうちに帰れ。
北の用事を夜へ持ち越すな。
もう、北の用事は夜へ入りかけている。
自分が外へ出れば、何かを家の外へ持ち出すことになる。
そんな理屈にならない感覚が、昭三の足を止めていた。
臆病だ。
そう思った。
父親なのに。
息子が戻らないかもしれない時に、戸の内側で立っているだけだ。
だが、それでも戸を開けられなかった。
昭三は、戸に額を近づけた。
木の匂いがした。
古い家の匂い。
何十年も、雨と冬と人の手を受けてきた戸の匂い。
「晴臣」
小さく呼んだ。
返事はない。
「帰ってこい」
声は、戸の内側に落ちた。
外へは届かなかった。
昭三は、戸の前に座り込んだ。
畳ではない。
冷たい板の上だった。
台所には、赤飯がある。
三つの茶碗が並んでいる。
湯気は、もうほとんど消えているだろう。
それでも昭三は、立ち上がらなかった。
戸の前に座ったまま、外の気配を聞いた。
遠い太鼓。
風。
水路の細い音。
時々、鴉の声。
それらの間に、晴臣の足音が混じるのを待った。
どれほど待ったのか分からない。
南宮の音が、少しずつ低くなっていく。
祭りの昼が、夜の酒へ変わっていく。
人々の声が、明るさを失い、ざわめきに変わっていく。
昭三は目を閉じた。
戸を閉じた。
火を落とした。
水を逃がした。
石は動かしていない。
守り袋は、晴臣が持っている。
それだけを、心の中で何度も繰り返した。
それ以外に、今の昭三にできることはなかった。
やがて、家の外の道を、誰かが通った。
一人ではない。
複数の足音だった。
家の前で少しだけ止まり、すぐに離れていく。
戸は叩かれなかった。
声もかけられなかった。
ただ、足音だけが通り過ぎた。
昭三は、その時初めてはっきりと思った。
家は、閉じたのではない。
閉じさせられたのだ。
それでも、鍵をかけたのは自分だった。
その事実だけは、誰にも渡せない。
誰のせいにもできない。
昭三は、戸に手を置いた。
木は冷たかった。
外から見れば、ただ古い家の戸である。
だが、その夜、その戸は水科家と奥木の間に立った。
薄い板一枚。
古い鍵一つ。
それだけで、晴臣の帰る場所は、少し遠くなった。
赤飯は冷めていく。
茶も冷めていく。
祭りの夜は深くなる。
晴臣は、まだ帰らない。
美月も来ない。
昭三は、戸の前で待ち続けた。
戸を閉じたまま。
帰ってこいと願いながら。
その戸を、自分の手で閉じたまま。




